任務報告
- LGBTの同性愛カップルとして里親になった日から、六年が経っていた。
- 二十七歳の女が、六歳の子どもの「おいしかった」という一言で、言葉を失った。
- LGBTのカップルがこの子の家族になれるのか、という問いも、きれいに消えたわけじゃない。
- LGBTの同性愛カップルである私たちが里親としてこの子にできることと、できないことの境界線
- ユイの前の家庭で、毎朝作られていた卵焼き。 その味を作った手を、私たちは知らない
- 同性愛カップルとしてLGBTの里親になることを決めたのは、二年前だった。
- 五十四歳の男が、十八年間誰かのために作ることのなかった朝食を、この子のために八年間作り続けた。
- LGBTの里親として、この場所に座っていることへの迷いは、あの瞬間どこかへ消えていた。
- 名前を呼ばれることの意味を、五十四歳になって、八歳の子どもに教わっている。
- 運動会の帰り道に、五十四歳の男が八歳の子どもにかける言葉を、私は持っていなかった。
- LGBTの里親二人が保護者席に並ぶことで、何か傷つくことが起きると、八歳がすでに計算しているのか
- この七歳の男の子の「あの」に、三ヶ月かかった。
- 朝のこと、夕食のこと、ドラマのこと。でも全部、どうでもよかった
- 七年間、ユキと二人で暮らしてきた。里親になることを最初に言い出したのはユキだった
- 四十一歳の女が毎朝あの速さで支度を終えることを、七年間見てきてもまだ少し驚く
- 寝室に戻ってから、日記を開いた。ペンを持ったまま、しばらく何も書けなかった
- この子が「ただいま」と言える場所に、自分たちはなれているかもしれない
- ねえ。 うちってふつうの家族じゃないの?
- 自分たちが男どうしで暮らしていること、それが世間の言う「ふつう」とは違うこと
- ランドセルを下ろす音がいつもより重く、廊下を歩く足音が短かった
- 男どうしで十年、このソファに座ってきた。今夜はその間に、九歳の子どもの気配がまだ残っていた。
- 不妊治療の6年間が、思わぬ形で役に立った。 来たのは6歳の女の子だった。
- 委託が終わってから、あの子は今どこで何をしているだろうという問いが、定期的に浮かんだ。
- 短期委託の難しさは、「終わりがある」という前提で関係を始めることだ。
- 自分は「サポートしている」つもりでいたが、妻の目には「いるだけ」に映っていたのかもしれない。
- 同性愛者である私たちのもとに来てくれたこの子が、暗闇の中で私の腕を選んでくれた、と思った。
- 最初に気になったのは、単純な疑問だった。シングルでも里親になれるのか。
- LGBTのカップルが里親になるとき、支援員さんに「役割を決めすぎないように」と言われた言葉を、今さら思い出した。
- 里親をしていると、子どもが少しずつ変わっていく姿を目にする。それは劇的な変化ではない。
- 20代で里親になることへの迷いは、実際にやってみると杞憂だった部分も多かった。
- 食事のときも、日常の声かけをするときも、子どもはどこか遠慮しているようだった。
- 里親は特別な人だけができるものではないということだ。
- 一番しんどかったのは、感情を読み取れないまま「何をしていけばいいのか」が分からなくなったときだった。
- 叱るべきなのか、見守るべきなのか、その判断ができないまま、毎日が緊張の連続だった。
- 学校関係や自治会など関わりが出る場面では「里親として子どもを預かっています」とだけ伝えた
- 子どもなんて残す。 わかってる。 でも正直に書く。 傷ついた。
- 男性として見るのか、本人の自然な様子を女性的なものとして受け入れるのか
- 母親は施設への入所に同意したが、面会には一度も来なかった。
- 里親として子どもに向き合いながら、同時に自分自身のメンタルが揺らいでいく。
- 大切なものを壊し、泣き叫んで暴れたあの数ヶ月。追い詰められて夫婦で泣いた夜もあった。
- 学校や遊びでの出来事を楽しそうに話してくれるようになり、一緒に笑える瞬間が少しずつ増えてきた
- ただ、愛することと、育てることは、必ずしも同じではない。
- 一時保護所から児童養護施設へ。みなとはそこで約一年を過ごした。
- 外国にルーツを持つ子どもの里親養育については、文化的背景、言語、アイデンティティの形成など
- 最もきつかったのは、子どもの「試し行動」が始まった時期だった。
- 別に、感謝してほしいわけじゃない。 そう思おうとした。 でも手の中のスポンジが、なんとなく重かった
- 子どもを愛そうと気負わなくていい。ただの同居人から始めてもいいんだよ
- 里親制度を知ってからも、すぐに動き出せたわけではない。
- こちらは「家族として迎えた」という気持ちでいても、子どもにとっては知らない大人の家に来ただけだ