#3 同じ天井なのに、光がなければ何もわからなかった。 里親委託、という言葉が浮かんだ。
その夜は、夕食のあとだった。
共用スペースに、子どもが三人いた。
湊と、小学生くらいの女の子と、湊より少し小さい男の子。
三人でおもちゃ箱を囲んでいた。
私は壁際の椅子に座って、湊を見ていた。
はじめは穏やかだった。
ブロックを並べて、何かを作っていた。
湊が赤いブロックを取った。
小さい男の子も、同じ赤いブロックに手を伸ばした。
二人の手が、同時にそれを掴んだ。
湊が引いた。
男の子も引いた。
湊が、押した。
強くはなかった。
でも男の子は体勢を崩して、尻もちをついた。
それから泣き出した。
私は立っていた。
気づいたら、湊の腕を掴んでいた。
右手で、湊の左腕を。
湊の体が、ぐらりと傾いた。
掴みすぎた、と気づいたのは、湊の顔を見てからだった。
湊は泣かなかった。
ただ、私を見た。
黙って、真っ直ぐ、私を見た。
その目が、どこか遠かった。
怯えとも違った。
諦めとも違った。
ただ、待っていた。
次に何が来るかを、待っていた。
私は手を離した。
湊の腕に、私の指の跡が残っていた。
赤くはなかった。
でも確かに、そこに四本の指の形があった。
私はそれを見た。
見て、目を逸らせなかった。
湊の目が、拓也に怒鳴られていたときの自分の目に見えた。
次に何が来るかを知っている目。
備えている目。
四歳が、その目をしていた。
男の子のお母さんが来て、泣いている子を抱き上げた。
湊に「ごめんなさいは?」と言った。
湊は「ごめんなさい」と言った。
私の方を一度も見ずに、まっすぐ男の子に向かって言った。
私は何も言えなかった。
湊の「ごめんなさい」が、耳に残った。
きれいな「ごめんなさい」だった。
躊躇いがなかった。
反射的に、正確に、出てきた言葉だった。
それがこの子の中に、いつから入っていたのか。
その夜、湊が眠ってから、私は布団の中で天井を見た。
腕を掴んだ手の感触が、まだ右手に残っていた。
強く掴みすぎた。
湊は泣かなかった。
泣かなかったことの意味を、私は知っていた。
泣いてはいけないと、体が判断したから泣かなかった。
その判断を、四歳がしている。
誰が教えたか。
拓也が教えた部分はある。
でも私が逃げられなかった時間が、教えた部分もある。
私がそこにいたから、湊はあの家で、泣いてはいけないことを覚えた。
それは拓也のせいにできなかった。
私が、そこにいたのだから。
天井のシミを、暗い中で探した。
昼間は見えているシミが、夜は見えなかった。
同じ天井なのに、光がなければ何もわからなかった。
里親委託、という言葉が浮かんだ。
これまでも浮かんだことはあった。
でもそれは、私が限界だから、という場所から浮かんでいた。
今夜は違った。
湊の腕に残った指の跡。
泣かなかった目。
反射的な「ごめんなさい」。
それらが、全部湊のことだった。
私のことではなかった。
この子にとって、私は安全な親でいられるか。
いられない日が、今夜あった。
それだけは確かだった。
確かなことが一つあれば、次が見えることもある。
私はそう思うことにした。
思うことにして、目を閉じた。
湊の寝息が、暗い部屋に聞こえていた。
規則正しい、深い音だった。
その音を聞きながら、私はようやく眠った。
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