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合言葉を失った

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障害児を里子へ4 愛しているなら、安堵するな。悲しめ。泣け。声を震わせろ。

西村さんが帰り際に言ったのは、三月の終わりだった。

リハビリを終えて、道具を片付けながら、西村さんが言った。
特別な場面ではなかった。
バッグのチャックを閉めながら、立ったまま、言った。

「さおりさん、陽ちゃんってね、専門的な環境に入ったら、もっと伸びる可能性があると思うんですよ」
さおりは陽を抱いたまま、西村さんを見た。

「どういう意味ですか」と言った。
声が、少し固くなった。

西村さんは立ったまま、さおりを見た。
目が、真剣だった。
「手放してほしいって言いたいんじゃないんです」と言った。
「ただ、陽ちゃんには可能性がある。
その可能性を、最大限に引き出せる場所がある、ってこと、知っていてほしくて」
さおりは何も言えなかった。

陽が声を上げた。
さおりは陽の背中を、手のひらで叩いた。
規則正しく、やわらかく叩いた。

西村さんが帰った後、さおりはリビングに座った。

陽をマットに寝かせた。
陽が天井を見ていた。
さおりは陽の隣に座って、膝を抱えた。

西村さんの言葉が、頭の中で光一の言葉と重なった。

専門的なケアが必要だ。
俺たちには限界がある。
光一の言葉だった。
専門的な環境に入ったら、もっと伸びる可能性がある。
西村さんの言葉だった。
意味は同じだった。
同じことを、二人が言った。

悔しかった。

光一と同じことを、西村さんが言った。
光一の論理が、西村さんの言葉で裏打ちされた。
それが悔しかった。
光一が正しかったことが悔しいのではなかった。
光一の言葉には届かなかったものが、西村さんの言葉には届いた。
その違いが、さおりには悔しかった。

陽が声を上げた。

さおりは「なに」と言った。
陽がまた声を上げた。
さおりは陽の顔を見た。
笑っていた。
さおりにはわかった。
この子は今日も笑っている。
何も知らずに、笑っている。

何も知らなくていい、とさおりは思った。

ただ笑っていてくれれば、それでいい。
どこにいても、笑っていてくれれば。
その気持ちが浮かんだとき、さおりは自分が少し動いたことを知った。

その夜、光一が帰ってきてから、さおりは言った。

「同意する」
夕飯の後だった。
陽が眠ってから言った。
光一がテーブルの向かいに座っていた。
さおりは光一の目を見ずに言った。
テーブルの木目を見ながら言った。

光一が少し黙った。

「ありがとう」と言った。

さおりはその言葉が嫌だった。

ありがとう、という言葉の中に、安堵があった。
さおりにはわかった。
光一が安堵している。
陽を手放すことに、安堵している。
その安堵が、さおりには許せなかった。
愛しているなら、安堵するな。
悲しめ。
泣け。
声を震わせろ。

でも言えなかった。

言葉が、また喉の手前で止まった。
この二年間、何度も止まってきた場所だった。
さおりはテーブルの木目を見たまま、「陽のためだから」と言った。
光一のためでも、自分のためでもなく、陽のために同意する。
そう言いたかった。
でも声に出すと、少し違った。
陽のため、という言葉が、言い訳に聞こえた。

誰に対する言い訳なのか、さおりにはわからなかった。

その夜も、さおりは陽の部屋で眠った。

陽の寝息が聞こえた。
規則正しい、深い音だった。
さおりはその音を聞きながら、同意した夜のことを確かめた。
後悔しているか。
していなかった。
許せているか。
していなかった。

許せないまま、従った。

それだけだった。
それだけのことだった。
人生にはそういう夜がある。
正しいかどうかより、動かなければならない夜が。
さおりには今夜がそうだった。

陽の手が、マットの上にあった。

小さな手だった。
昼間、さおりの指を握った手だった。
眠っている今は、力が抜けていた。
開いたまま、静かにあった。
さおりはその手に、自分の指を置いた。
今度は握らなかった。
ただ、置いた。

温かかった。

窓の外で、風が鳴った。
三月の終わりの風だった。
春の匂いが、微かに届いた。
さおりは目を閉じた。
陽の寝息が続いていた。
その音だけが、今夜のさおりには十分だった。


登場人物

  • 村上 さおり(むらかみ さおり)
    女性・36歳 主人公。元幼稚園教諭。現在は専業主婦。感情を言葉にする力を持っているが、夫との間ではその力を使えなくなっている。
  • 村上 光一(むらかみ こういち)
    男性・39歳 夫。システムエンジニア。論理的に物事を処理する人。愛情がないわけではない。ただ、愛情の形が、さおりとは根本的に違う。
  • 村上 陽(むらかみ はる)
    3歳。生後8ヶ月のときに重度の脳性麻痺と診断された。よく笑う。さおりの声を聞くと、体が動く。


隊士 お館様管理者

藤の里における鬼倒隊を統率している者。私が初めて鬼の存在を知ったのは、ボランティアの場でした。 里親制度への無知と誤解という鬼が、日本中に蔓延していること。そのせいで、家庭で暮らせずにいる子どもたちがいること。里親になりたくても、なれずにいる人たちがいること。 その現実が、忘れられませんでした。 それからも何度もボランティアを重ねるたびに、鬼の大きさを思い知らされました。 私自身は里親経験者ではありません。 剣を持って戦える立場にはない。 だからこそ、実際に戦ってきた方々の記録を集め、次の誰かへ届ける場所を作ることが、私にできる戦いだと思いました。 藤の里は、その使命のために生まれました。 あなたの戦いの記録を、ここに刻んでください。 その呼吸を、次の世代へつないでいきましょう。

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