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合言葉を失った

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障害児を里子へ2 この子を手放す話をするなら、泣きながら話してほしかった。

話し合いは、陽が眠ってから始まった。

リビングのテーブルを挟んで、さおりと光一が向かい合った。
ケーキの皿は片付けていた。
テーブルの上には何もなかった。
何もないテーブルが、二人の間にあった。

光一が話し始めた。

順番があった。
まず現状の整理。
次に課題の列挙。
最後に結論。
光一はいつもそういう話し方をした。
会議のような話し方だと、さおりは結婚して最初の年に思った。
今はもう慣れていた。
慣れたことが、良いことなのかどうか、考えないようにしてきた。

「陽には、専門的なケアが必要だ」と光一は言った。

「わかってる」とさおりは言った。

「俺たちにできることの、限界がある」
「わかってる」
「陽の将来を、長い目で見たとき——」
「わかってる」とさおりはまた言った。

光一が止まった。
さおりを見た。
さおりは光一の目を見た。

乾いていた。

泣いていない目だった。
充血もしていなかった。
陽の委託を提案しながら、光一の目は乾いていた。
論理的に、正確に、言葉を並べながら、その目は何も濡れていなかった。

さおりは光一の目から、視線を逸らせなかった。

なぜ泣かないのか。
この子を手放す話をしながら、なぜその目が乾いているのか。
泣けないのか。
泣かないのか。
その違いが、さおりには今夜、決定的だった。
どちらにしても、この人の愛情の形は、私とは違う。
その確信が、テーブルを挟んで、静かに固まった。

「里親委託を、考えてほしい」と光一は言った。

さおりは光一の目を見たまま、「私は」と言った。
「まだ、手放せない」
光一は少し黙った。
「わかった」と言った。

その夜、さおりは陽の部屋で眠った。

陽の横に布団を敷いた。
陽の寝息が聞こえた。
規則正しい、深い音だった。
さおりはその音を聞きながら、天井を見た。

光一の言葉は、正しかった。

全部、正しかった。
専門的なケアが必要なことも、限界があることも、陽の将来のことも。
一つも間違っていなかった。
だからこそ、さおりには光一の言葉が届かなかった。
正しい言葉が、届かない夜があった。

欲しかったのは、正しさではなかった。

この子を手放す話をするなら、泣きながら話してほしかった。
声が震えてほしかった。
言葉が途切れてほしかった。
それがさおりの求めるものだった。
でも光一はそういう人ではなかった。
結婚して七年、ずっとそういう人だった。

陽が寝返りを打とうとして、できなかった。
体が少し動いた。
さおりは手を伸ばして、陽の背中に触れた。
温かかった。
薄いパジャマの下に、体の熱があった。

手放せない、と思った。

でも手放せない理由が、陽のためなのか、自分のためなのか、今夜はまだわからなかった。
わからないまま、陽の寝息を聞いていた。

翌朝、光一はいつもと同じ時間に起きた。

いつもと同じように、コーヒーを淹れた。
いつもと同じように、「行ってくる」と言った。
さおりは陽の部屋から出て、「うん」と言った。

ドアが閉まった。

足音が遠ざかった。
さおりは台所に立った。
コーヒーの香りが残っていた。
光一が淹れたコーヒーの、温かい匂いだった。
カップが一つ、シンクに伏せてあった。
自分の分だけ淹れて、洗って、伏せて、出かけた。

さおりはそのカップを見た。

責める気持ちと、責めてはいけないという気持ちが、また同時に来た。
この二年間、ずっとこの繰り返しだった。
どちらかに決まらないまま、朝が来て、陽が声を上げて、また一日が始まった。

「陽」とさおりは呼んだ。

リビングから、声が来た。
あ、という声だった。
さおりはそちらへ向かった。
陽がいた。
天井を見て、声を上げていた。
さおりの顔を見て、また声を上げた。
体が動いた。
手が、少し持ち上がった。

さおりはその手を、両手で包んだ。

温かかった。
柔らかかった。
この手を、まだ知っていたかった。


登場人物

  • 村上 さおり(むらかみ さおり)
    女性・36歳 主人公。元幼稚園教諭。現在は専業主婦。感情を言葉にする力を持っているが、夫との間ではその力を使えなくなっている。
  • 村上 光一(むらかみ こういち)
    男性・39歳 夫。システムエンジニア。論理的に物事を処理する人。愛情がないわけではない。ただ、愛情の形が、さおりとは根本的に違う。
  • 村上 陽(むらかみ はる)
    3歳。生後8ヶ月のときに重度の脳性麻痺と診断された。よく笑う。さおりの声を聞くと、体が動く。

隊士 お館様管理者

藤の里における鬼倒隊を統率している者。私が初めて鬼の存在を知ったのは、ボランティアの場でした。 里親制度への無知と誤解という鬼が、日本中に蔓延していること。そのせいで、家庭で暮らせずにいる子どもたちがいること。里親になりたくても、なれずにいる人たちがいること。 その現実が、忘れられませんでした。 それからも何度もボランティアを重ねるたびに、鬼の大きさを思い知らされました。 私自身は里親経験者ではありません。 剣を持って戦える立場にはない。 だからこそ、実際に戦ってきた方々の記録を集め、次の誰かへ届ける場所を作ることが、私にできる戦いだと思いました。 藤の里は、その使命のために生まれました。 あなたの戦いの記録を、ここに刻んでください。 その呼吸を、次の世代へつないでいきましょう。

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