任務報告

三月の夕方、ユイが「卵焼き作っていい?」と言った。

台所でパスタを茹でていた私は、振り返った。

十八歳になったユイが、エプロンを手に持って立っていた。

春から調理の専門学校に進む。

入学式は来週だった。

今夜は出発前最後の夜だった。

「ハルカさんとミオさんの分も作る」
私は「作って」と言った。

それだけ言えた。

ミオがちょうど帰ってきた。

玄関で「いい匂い」と言いながら荷物を置いて、台所を覗いた。

三十二歳の女が、エプロン姿のユイを見て、一瞬動きを止めた。

それから何事もなかったように「手洗ってくる」と言って、洗面所に向かった。

私はソファに座って、台所を見ていた。

ユイが卵を割った。

三つ。

ボウルに落として、菜箸でよく溶いた。

砂糖を入れた。

だしを加えた。

少し考えてから、砂糖をもう少し足した。

その仕草が、十二年前のミオに似ていた。

フライパンを火にかけた。

油を引いた。

じゅわりという音がした。

甘い匂いが広がった。

私は目を閉じた。

この匂いを、何百回嗅いだだろう。

二十七歳だった私が、三十三歳になるまでの六年間。

試作を重ねたあの夏の朝も、ユイが初めて「おいしかった」と言ったあの朝も、全部この匂いの中にあった。

ユイが卵液を流した。

菜箸で端を持ち上げて、ゆっくり巻いた。

二巻き目に差しかかったとき、端がフライパンに当たる音がした。

じゅっ。

ユイが「あ」と言った。

私は目を開けた。

ミオも台所の入口に立っていた。

二人で見ていた。

ユイはそのまま巻き続けた。

焦げた端を、わざと残したような手つきで。

皿に乗せて、三つに切った。

「どうぞ」
三人でテーブルを囲んだ。

LGBTの同性愛カップルとして里親になった日から、六年が経っていた。

二十七歳と二十六歳だった私たちは、いつの間にか三十代になっていた。

ユイは六歳から十八歳になっていた。

テーブルの上に、三枚の皿があった。

私は箸を取った。

一口、食べた。

甘かった。

だしが入っていた。

端が少し焦げていた。

何も言えなかった。

言葉が見つからなかった。

三十三歳の女が、十八歳の作った卵焼きを前に、黙って箸を持っていた。

ミオが「うまい」と言った。

ユイが箸を持ちながら、静かに言った。

「前のおうちの味に似てるかな」
誰も答えなかった。

ミオも私も、答えを持っていなかった。

ユイの前の家庭の台所を、私たちは知らない。

あの卵焼きを作っていた手を、見たことがない。

似ているかどうか、永遠にわからない。

でも三人とも、最後まで食べた。

夜、ユイが寝てから日記を開いた。

今夜は長い時間をかけて書こうと思っていた。

でもペンを持ったまま、しばらく何も書けなかった。

書きたいことが多すぎると、言葉が出てこない。

窓の外で、春の風が鳴った。

LGBTの同性愛カップルとして里親になることを決めたあの夜、私は自分たちに足りないものを数えていた。

でも今夜、ユイが台所に立って、三人分の卵焼きを作った。

端を少し焦げさせながら、丁寧に巻いた。

それを三人で食べた。

完璧な家族ではなかった。

あの味に完全に近づけたかどうかも、わからない。

でもこの台所で、この子は何かを作れるようになった。

誰かのために、台所に立てるようになった。

それが今夜の、最後の一行になった。

ユイが、私たちのために卵焼きを作った。

端が少し焦げていた。

それで十分だった。

任務報告

試作を始めてから、二ヶ月が経った。

その間、ミオは何度も卵焼きを作った。

週に二回、三回のときもあった。

砂糖の量、だしの濃さ、火加減、巻くタイミング。

少しずつ変えながら、少しずつ近づこうとした。

ユイはそのたびに食べた。

「ちがう」とは言わなかった。

でも「おいしい」とも言わなかった。

ただ、食べた。

私はその背中を、毎朝見ていた。

八月の朝だった。

ミオが早番で、六時前に起きた。

私も一緒に起きて、台所でコーヒーを入れた。

夏の朝の空気は湿っていて、窓の外がまだ暗かった。

ミオがエプロンをつけて、卵を三つ割った。

砂糖、だし、醤油を少し。

いつもの順番だった。

フライパンを温めながら、ミオが「今日は弱火でゆっくりやってみる」と言った。

私は「うん」と言ってコーヒーを飲んだ。

卵液を流すと、じわりと広がった。

甘い匂いが立ちのぼった。

ミオが菜箸で端を持ち上げて、ゆっくり巻いた。

二巻き目に差しかかったとき、端がフライパンに当たった。

じゅっという音がした。

「あ、焦げた」
ミオが言いかけた。

私は台所の入口から見ていた。

そのとき、ユイが起きてきた。

寝癖のついた六歳の女の子が、目を細めながら台所を覗いた。

甘い匂いが漂っていた。

ミオがフライパンを傾けて、焦げた端を見せながら「焦げちゃったな」と言った。

ユイが卵焼きを見た。

「それでいい」
静かな声だった。

眠そうな、でも確かな声だった。

ミオが振り返ってユイを見た。

私も見た。

ユイはもう台所に背を向けて、洗面所に向かっていた。

水道の音がした。

朝食の間、誰もその話をしなかった。

ユイは焦げた端の卵焼きを、最初に食べた。

それから真ん中を食べた。

最後の一切れを食べ終えてから「おいしかった」と言った。

ミオが「よかった」と言った。

私は何も言えなかった。

喉の奥で何かが詰まっていた。

二十七歳の女が、六歳の子どもの「おいしかった」という一言で、言葉を失った。

LGBT、同性愛カップルとして里親になってから、うまくいかないことを数えてきた。

書類のこと、周囲の視線のこと、自分たちに足りないもののこと。

でも今朝の「おいしかった」は、そういうものを全部、静かに脇に置いた。

ユイが登校してから、日記を開いた。

今日書きたいことは、「それでいい」という言葉のことだった。

あの卵焼きは、前の家庭の味に完全に近づいたわけじゃないと思う。

私たちにはわからないけれど、たぶんまだちがうところがある。

でもユイは「それでいい」と言った。

諦めじゃないと思いたい。

この家の卵焼きを、この家の味として受け取り始めたということだと、思いたい。

LGBTの同性愛カップルが里親として完璧な家族を作ることは、たぶんできない。

でも「それでいい」と言ってもらえる場所には、なれるかもしれない。

今朝の台所が、そう教えてくれた気がした。

夕方、ミオから短いメッセージが届いた。

「今日、仕事中もずっとユイちゃんの顔が浮かんだ」
私は「私も」とだけ返した。

窓の外で、蝉が鳴いていた。

夏の午後の光が、台所の床に細長く伸びていた。

フライパンはもう洗われて、水切りかごに立てかけてあった。

端が少し黒くなっていた。

私はしばらくそれを見ていた。

任務報告

木曜日の夕方、ソファで横になっていた。

特別なことがあったわけじゃない。

ただ疲れていた。

朝から仕事で、帰りにスーパーに寄って、夕食の準備をして、それだけで力が尽きた。

パートナーは今夜も帰りが遅い。

彼女は自分の部屋で、たぶん宿題をしている。

リビングは静かで、窓の外がゆっくり暗くなっていくのが見えた。

目を閉じた。

委託から半年が経った。

この半年間に何があったか、思い返すと疲れる。

夜中の看病、残ったお弁当、口論、床に座ったまま迎えた朝。

里親としての正解が何なのか、今もわからない。

LGBTのカップルがこの子の家族になれるのか、という問いも、きれいに消えたわけじゃない。

同性愛者である私たちのもとで、この子が「ここでよかった」と思える日が来るのかどうか、まだわからない。

ただ今日は、考える体力が残っていなかった。

うとうとしかけた頃、廊下に足音がした。

彼女の足音だった。

ぺたぺたとした、小さなスリッパの音。

リビングに入ってくる気配がした。

私は目を閉じたまま、息をひそめた。

テーブルの上に、何かを置く音がした。

コとん、という音だった。

それだけだった。

また足音がして、廊下に遠ざかって、部屋のドアが閉まった。

目を開けた。

テーブルの上に、コップが一つ置いてあった。

麦茶が入っていた。

氷も入っていた。

氷がコップの縁に当たって、かすかな音を立てた。

私はしばらく、そのコップを見ていた。

それから起き上がって、コップを両手で持った。

冷たかった。

ひんやりとした温度が手のひらに広がった。

一口飲んだ。

麦茶の、少し苦くて甘い味がした。

廊下のほうを見た。

「ありがとう」
声に出して言った。

部屋のドアは閉まっていた。

聞こえたかどうか、わからなかった。

返事はなかった。

この半年間、ずっと待っていた言葉を、今日は私が先に言っていた。

それがどういう意味なのか、うまく言葉にできない。

里親として何かが変わったのか、それとも私が変わったのか、たぶん両方で、たぶんどちらでもない。

不満がなくなったわけじゃない。

ありがとうをもらえなかった日々の積み重ねは、消えない。

夜中に床で座っていた背中の痛さも、残ったお弁当を流しで洗ったときの気持ちも、まだ体のどこかに残っている。

LGBTのカップルが里親になるとはどういうことか、同性愛者である私たちがこの子に何を渡せるのか、答えはまだ出ていない。

たぶんこれからも、きれいな答えは出ない。

ただ今日、私はコップを受け取った。

彼女は何も言わなかった。

ありがとうも、どういたしましても、なかった。

それでも、あのコとんという音は確かに聞こえた。

テーブルの上に置かれた、あの小さな音は。

窓の外が完全に暗くなっていた。

コップの中の氷がまた鳴った。

私は日記を開いて、今日のことを書いた。

きれいにまとめるつもりはない。

答えが出たふりもしない。

ただ今日の麦茶は、少しだけおいしかった。

それだけを書いて、ペンを置いた。

任務報告

ユイが「ちがう」と言ってから、一週間が経った。

その間、卵焼きの話は誰もしなかった。

ミオは毎朝違うものを作った。

スクランブルエッグ、目玉焼き、ふわふわのオムレツ。

どれもおいしかった。

ユイは毎朝きれいに食べた。

でも、あの遠い目をするときが、まだあった。

土曜の午後、ミオが仕事に出かけた。

家にユイと二人になった。

私はデスクで作業をしていたが、画面に集中できなかった。

リビングでユイが絵本を読んでいた。

ページをめくる音が、静かに聞こえた。

一時間くらい経ったころ、私はデスクを離れた。

リビングに行って、ユイの隣にそっと座った。

ユイが絵本から顔を上げた。

私を見た。

私は少し間をおいてから言った。

「前のおうちの卵焼き、どんな味だったか教えてくれる?」
ユイはすぐには答えなかった。

絵本を閉じて、膝の上に置いた。

窓の外を見た。

六歳の女の子が、何かを思い出そうとするときの顔をした。

「あまかった」
「甘かったんだね」
「うん。

それと、なんか、だしみたいなのも入ってた」
「だし巻き卵みたいな感じ?」
ユイが少し考えた。

「わかんない。

でもおいしかった」と言った。

それから小さく続けた。

「はしっこが、ちょっと焦げてた」
私は全部、日記帳に書き留めた。

甘い。

だしが入っている。

端が少し焦げている。

毎朝作っていた。

それだけだった。

でもユイが話してくれたことが、今日の私には十分すぎるほどだった。

「ありがとう、教えてくれて」と私は言った。

ユイはまた絵本を開いた。

それだけだった。

夜、ミオが帰ってきてから、書き留めたことを見せた。

ミオは読みながら「よし」と言って、スマートフォンでレシピを調べ始めた。

二十六歳の女が、カフェの仕事で疲れて帰ってきたのに、台所に立った。

私も隣に立った。

一回目は甘さが足りなかった。

二回目はだしが強すぎた。

三回目、ミオが卵液に砂糖をもう少し足して、火加減を少し弱めた。

焼き始めると、甘い匂いが台所に広がった。

巻き終わりの端が、少し焦げた。

ミオが「あ」と言いかけた。

私は「そのままにして」と言った。

皿に乗せて、二人で一口ずつ食べた。

「近いかも」とミオが言った。

私はまだ足りない気がした。

でも何が足りないのか、言葉にできなかった。

ユイの前の家庭の台所の温度も、その朝の光も、卵焼きを作っていた手の大きさも、私たちには永遠にわからない。

LGBTの同性愛カップルである私たちが里親としてこの子にできることと、できないことの境界線が、今夜の台所にはっきりと見えた。

でも近づこうとすることを、やめたくなかった。

日記を開いて、今夜のことを書いた。

最後にユイが話してくれた言葉を、もう一度書き写した。

あまかった。

だしみたいなのも入ってた。

はしっこが、ちょっと焦げてた。

この三行が、今夜の私たちの地図だと思った。

任務報告

三週間が経った。

ユイは少しずつ部屋に慣れてきた。

朝、自分でカーテンを開けるようになった。

夕食のあと、食器を台所に運んでくるようになった。

言葉は少なかったが、私たちの動きを目で追うことが増えた。

それだけで、今月は十分だとミオが言った。

私は日記にそれを書いた。

ある土曜の昼過ぎ、ミオが台所でボウルを出した。

「ユイちゃん、卵焼き一緒に作らない?」
リビングでクレヨンを動かしていたユイが顔を上げた。

首を横に振った。

ミオは「そっか」と言って、一人で卵を割り始めた。

私はソファから見ていた。

十分くらい経ったころ、ユイがクレヨンを置いた。

音もなく立ち上がって、台所に向かった。

ミオの隣に、黙って立った。

ミオは何も言わなかった。

砂糖とだしを混ぜながら、ユイが覗き込める角度にボウルを傾けた。

六歳の女の子が、二十六歳の女の隣で、泡立つ卵液を見ていた。

フライパンに油を引くと、じゅわりという音がした。

ユイの肩が少し動いた。

卵液を流すと、甘い匂いが台所に広がった。

ミオが菜箸で端を折りながら、丁寧に巻いた。

皿に乗せて、三つに切った。

「食べてみて」
ユイは箸を持った。

一切れを口に入れた。

よく噛んだ。

飲み込んだ。

「ちがう」
泣かなかった。

叫ばなかった。

ただ、静かに言った。

箸を皿の横に置いた。

ミオは「そっか、ちがうか」と言って、自分の箸を取った。

残りの二切れを、ゆっくり食べた。

おいしそうに食べた。

傷ついた顔を、しなかった。

私はそれを、台所の入口から見ていた。

夜、ユイが寝てから日記を開いた。

今日書きたいことは、ミオのことだった。

「ちがう」と言われたとき、ミオは一秒も顔を曇らせなかった。

LGBT、同性愛カップルとして里親になることを決めたとき、私は自分たちに足りないものを数え続けた。

経験も、実績も、世間が想像する「ふつうの家族」の形も。

でも今日台所で足りなかったのは、そういうことじゃなかった。

あの味だけは、再現できない。

ユイの前の家庭で、毎朝作られていた卵焼き。

その味を作った手を、私たちは知らない。

その台所の匂いを、私たちは嗅いだことがない。

どれだけ近づこうとしても、同じにはなれない。

でも今日、ミオは「そっか、ちがうか」と言った。

それだけだった。

責めなかった。

謝らなかった。

ただ、受け取った。

私はミオのその強さを、まだ持っていない。

ペンを置いて、台所を見た。

洗い終わったフライパンが、水切りかごに立てかけてあった。

油の匂いが、まだ少し残っていた。

任務報告

六月の夜は、蒸し暑かった。

ユイが玄関に立ったとき、私は靴を揃えることしかできなかった。

六歳の女の子は、花柄のボストンバッグを両手で抱えて、部屋の中を見ていた。

見ているというより、測っていた。

この場所が安全かどうかを、小さな目で静かに確かめていた。

「入って入って、靴脱いでいいよ」

ミオが膝をついて目線を合わせた。

二十六歳の女が、初めて会う子どもにそうやって笑えることを、私は七年間隣で見てきた。

私にはできない。

二十七歳になった今も、できない。

ユイはゆっくり靴を脱いで、部屋に入った。

夕食はミオが作った。

鶏の照り焼き、きゅうりの浅漬け、豆腐の味噌汁。

ミオはカフェの店長をしながら料理の腕を磨いてきた。

今夜は特別に力が入っていた。

醤油とみりんの匂いが部屋に満ちて、私はその匂いを嗅ぎながら、テーブルを拭いた。

三人で食卓を囲んだ。

ミオがよくしゃべった。

好きな食べ物のこと、近くに川があること、週末に一緒に行けたらいいねということ。

ユイは短くうなずいた。

箸はほとんど動かなかった。

照り焼きを一口、味噌汁を二口。

それだけだった。

食後、ミオが皿を重ねていると、ユイが言った。

「前のおうちのごはん、食べたい」
台所の水音が止まった。

ミオがユイを見た。

「どんなごはん?」と聞いた。

ユイはしばらく黙っていた。

それから小さく言った。

「……卵焼き」
それだけだった。

ユイはそれ以上話さなかった。

ミオは「そっか」と言って、また皿を洗い始めた。

水の音が戻った。

私はテーブルの前に座ったまま、動けなかった。

ユイが寝てから、日記を開いた。

同性愛カップルとしてLGBTの里親になることを決めたのは、二年前だった。

申請のたびに書類を書き直して、面談のたびに自分たちの関係を説明した。

二十代の女性同士が里親になれるのかと、何度も不安になった。

それでも進んできたのは、ミオが「やってみよう」と言い続けたからだ。

今夜、私が一番重く感じたのは、そのことではなかった。

ユイが「卵焼き」と言ったときの顔を、何度も思い返した。

泣いていなかった。

怒っていなかった。

ただ、遠くを見ていた。

六歳の子どもが、遠くを見るときの顔を、私は今夜初めて正面から見た。

この子には、帰りたい場所の味がある。

LGBTの同性愛カップルである私たちが里親として何をすべきか、今夜はまだわからない。

ただ、あの卵焼きの味だけは、消してはいけないと思った。

消すことも、できないと思った。

窓の外で、雨が降り始めた。

ユイの部屋の電気は、まだついていた。

任務報告

三月の朝は、光が薄かった。

ショウの部屋から荷物が出ていくのを、私は一週間かけて少しずつ見ていた。

段ボールが一箱、二箱と廊下に並んで、部屋の中が白くなっていった。

八年間この家で暮らした男の子が、四月から県外の大学に進む。

十八歳になったショウは、私の肩を少し超えた。

いつの間にか、という言葉の意味を、今週は何度も思った。

出発の朝、私は六時に起きた。

台所に立って、卵焼きを焼いた。

ショウが小学校の低学年のころから好きだった味付けで、少し甘めにした。

味噌汁は豆腐と油揚げ。

白いご飯を三人分よそって、テーブルに並べた。

五十四歳の男が、十八年間誰かのために作ることのなかった朝食を、この子のために八年間作り続けた。

今朝が最後だと思うと、卵を溶く手が少しだけ遅くなった。

ノブが起きてきたのは六時半だった。

五十二歳の男は台所を覗いて「卵焼きか」と言った。

私は「ショウの好きなやつ」と言った。

ノブは「そうだな」と言って、冷蔵庫から牛乳を出した。

それだけだった。

それだけで、今朝の台所は十分だった。

ショウが起きてきたのは七時前だった。

寝癖がついたまま椅子に座って、味噌汁を両手で持った。

湯気が顔にかかって、ショウが少し目を細めた。

ノブがすぐに話しかけた。

大学の近くにいい定食屋があるらしいとか、引っ越し先の最寄り駅に銭湯があるとか、会いに行くときは連絡しろとか。

五十二歳の男は今朝もよくしゃべった。

ショウはよく笑った。

私は黙って卵焼きを食べた。

朝食が終わって、三人で片付けた。

ショウが自分の皿を洗った。

家に来た最初の夜、誰に言われるでもなく皿を台所に運んできた八歳を思い出した。

あの子がこんなに大きくなった。

その事実が、今朝は胸の奥に静かに落ちた。

玄関でショウがリュックを背負った。

段ボールは昨日、業者が運んでいった。

今朝のショウの荷物は、高校入学のときより少なかった。

それだけ向こうに根が張ったということだと、私は思った。

ノブが「元気でな」と言って、ショウの肩を一度叩いた。

ショウが「うん」と言った。

私はショウの前に立った。

何を言うべきか、昨夜からずっと考えていた。

気をつけろとか、困ったら連絡しろとか、体に気をつけろとか。

全部、正しかった。

全部、足りなかった。

「元気でな」と私は言った。

ノブと同じ言葉になった。

でもそれでよかった。

ショウは「うん」と言った。

それから少し間をおいて、私を見たまま言った。

「タカシさんも」
続けて「ノブさんも」と言った。

扉が開いて、冷たい三月の空気が入ってきた。

ショウが外に出た。

階段を降りる足音が聞こえた。

軽かった。

迷いのない足音だった。

扉が閉まって、足音が遠ざかって、やがて聞こえなくなった。

ノブが「行ったな」と言った。

私は答えなかった。

台所に戻って、三枚の皿を洗った。

お湯が手に当たって、白い湯気が上がった。

最後の一枚を拭きながら、今夜の日記に何を書くか考えた。

運動会のこと、熱の夜のこと、名前を呼ばれた朝のこと。

八年分のことが、今朝の台所に静かに重なっていた。

でも今夜書くことは、たぶん一行だけだ。

窓の外で、三月の風が鳴った。

この子は自分の足で出ていった。

それだけで、八年間は十分だった。

任務報告

九月になると、また運動会のプリントが届いた。

去年と同じ書式で、同じゴシック体で「保護者席:お二人まで」と書いてあった。

私はそれをテーブルに置いた。

去年はこの一行を二度読んだ。

今年は一度だけ読んで、ペンを取った。

ショウが自分から言ったのは、その翌朝の朝食の席だった。

トーストを食べながら、ショウが私の方を見た。

ノブではなく、私を。

「タカシさん、来てほしい」
それだけだった。

九歳の男の子が、こちらを見たまま、ひと言だけ言った。

私は「わかった」と言って、プリントに名前を書いた。

タカシ。

ノブ。

去年と同じ二つの名前。

でも今年は、ペンを持つ手が震えなかった。

当日の朝は曇りだった。

運動場の砂が、去年より湿って暗く見えた。

保護者席に向かいながら、ノブが「去年と同じ場所に座るか」と言った。

私は「どこでもいい」と言った。

本当にどこでもよかった。

去年は席を探しながら周囲の視線を数えていた。

今年はそれをしていない自分に、歩きながら気づいた。

五十四歳と五十二歳の男が並んで保護者席に座った。

同性愛者である私たちを、じろじろ見る人もいた。

見ないふりをする人もいた。

去年と変わらない景色だった。

でも去年と違ったのは、私がそれをほとんど気にしていなかったことだ。

プログラムを膝に置いて、校庭を見ていた。

徒競走が始まった。

スタートラインにショウが並んだ。

白い帽子、去年と同じ。

でも背が少し伸びていた。

ピストルが鳴る前、ショウが保護者席を見た。

私たちを探していた。

目が合うと、ショウは小さくうなずいた。

私もうなずいた。

ピストルが鳴った。

ショウはまた速かった。

最初の数歩で前に出て、そのまま誰にも抜かせなかった。

ゴールテープを切った瞬間、ショウが振り返った。

去年は一瞬だけ保護者席を見てすぐに視線を外した。

今年は違った。

真っ直ぐこちらを見て、小さく手を振った。

私は手を振り返した。

五十四歳の男が、大勢の保護者の前で、九歳の男の子に向かって手を振った。

LGBTの里親として、この場所に座っていることへの迷いは、あの瞬間どこかへ消えていた。

ノブが隣で「よし」と短く言った。

それだけだった。

それで十分だった。

帰り道、三人で並んで歩いた。

去年は言葉が見つからなくて黙って歩いた。

今年は何を話せばいいか、少しだけわかった。

「速かったな」と私は言った。

ショウは「うん」と言った。

それから少し間をおいて「来年も来て」と言った。

私は「来るよ」と言った。

ノブが「俺も来るぞ、当然」と割り込んだ。

ショウが笑った。

口を開けて、声を出して笑った。

九歳の顔が、秋の曇り空の下で明るかった。

私はその笑顔を、正面から見た。

去年の運動会から一年かけて、ようやく正面から見られた気がした。

家に帰ってから、日記を開いた。

去年の同じ日のページを探した。

「来てよかったのかどうか、まだわからなかった」と書いてあった。

五十四歳の自分の字が、今夜は少し遠く見えた。

今年は短く書いた。

手を振り返した。

それだけで、今年は十分だ。

任務報告

冬になった。

ショウが「タカシさん」と呼んだのは、十二月の平日の朝だった。

特別な日ではなかった。

私が台所で味噌汁を温めていると、背中から声がした。

「タカシさん、これどこに置けばいい?」
振り返ると、ショウが昨夜の洗い物を両手で持って立っていた。

コップが二つ。

自分から片付けようとしたらしかった。

私は「そこの棚」と言いながら、声が少し低くなったのを自分で気づいた。

気づかれなかったと思う。

ショウは「うん」と言ってコップを棚にしまい、ランドセルを取りに自分の部屋へ戻っていった。

それだけだった。

味噌汁をよそいながら、私はしばらく動けなかった。

五十四年間、自分の名前を呼ばれることに、これほど重さを感じたことはなかった。

この子に名前を呼ばれることを、知らないうちに待っていた。

そのことに、呼ばれてから初めて気づいた。

その月の終わり、ショウが熱を出した。

夕方から顔が赤く、夕食をほとんど食べなかった。

体温計を持ってくると、三十八度七分。

ノブはその夜、学校の会議で遅かった。

私一人で、ショウの看病をした。

濡れたタオルを額に当てると、ショウの眉がわずかに緩んだ。

布団の中で小さくなっている八歳を見ながら、私はこの子が家に来てから初めて、自分がこの子の「誰か」になりつつあると思った。

建築の図面を引くような確かさではない。

もっと頼りない、でも確かな感覚だった。

夜中に二度、体温を測った。

三十九度を超えたとき、私は冷却シートを取り替えながら、ショウの寝顔を見た。

苦しそうに眉を寄せて、それでも静かに呼吸していた。

この子はいつも、苦しいときに声を出さない。

運動会の朝も、熱の夜も。

朝方、体温が三十七度台に下がった。

ショウが薄く目を開けた。

天井を見て、それから私を見た。

「タカシさん、ありがとう」
かすれた声だった。

私は「うん」と言って、額のシートを取り替えた。

それ以上何も言わなかった。

言えなかった。

ありがとうと言われることへの返し方を、この子の前では、まだ練習中だ。

ノブが帰ってきたのは、それから一時間後だった。

五十二歳の男は玄関で靴を脱ぎながら「どうだった」と聞いた。

私は「熱、下がった」とだけ言った。

その夜、ショウが寝てから日記を開いた。

今夜書きたいことは一つだけだった。

名前を呼ばれることの意味を、五十四歳になって、八歳の子どもに教わっている。

それだけだ。

それだけのことが、今夜の台所を、少し温かくした。

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保護者席は、校庭の端に白いパイプ椅子が並んでいた。

ノブと二人、真ん中あたりに座った。

左隣は母親が一人でビデオカメラを構えていた。

右隣は祖父母らしき老夫婦が、お茶を回し飲みしていた。

誰も私たちを見なかった。

見ないことで、見ていた。

五十四歳の男は、その種類の視線の避け方を、長い年月をかけて覚えてきた。

競技が始まった。

アナウンスが響くたびに、保護者席がざわついた。

子どもの名前を呼ぶ声、手を叩く音、スマートフォンを構える腕。

秋の空気は乾いていて、運動場の砂埃が風に乗った。

私はプログラムを膝の上に置いて、校庭を見ていた。

徒競走は午前の最後だった。

三年生の列にショウがいた。

白い帽子をかぶって、スタートラインに並んでいた。

遠くて表情は読めなかった。

ピストルが鳴った。

ショウは速かった。

最初の十メートルで前に出て、そのまま誰にも追いつかせなかった。

ゴールテープを切った瞬間、ノブが「おお」と短く言った。

私は何も言わなかった。

言葉が出てくる前に、ショウが保護者席を見た。

目が合った。

一秒か、二秒か。

ショウはすぐに視線を外して、列に戻っていった。

それだけだった。

その一瞬に何があったのか、午後の競技の間もずっと考えていた。

確認だったのか。

来ているかどうか、確かめたかっただけなのか。

それとも、もっと別の何かだったのか。

答えを持たないまま、閉会式を聞いた。

帰り道、三人で並んで歩いた。

ノブが「速かったな、一番だったぞ」と言った。

ショウは「うん」と言った。

私は黙って歩いた。

言葉が見つからなかった。

運動会の帰り道に、五十四歳の男が八歳の子どもにかける言葉を、私は持っていなかった。

家に帰って、ショウが部屋に戻った。

私は台所でお茶を入れた。

湯呑みを両手で持って、廊下に出たとき、ショウの部屋の前を通った。

ドアが少し開いていた。

隙間から声が聞こえた。

「一番だった」
誰かに話しかけているわけではなかった。

ただ、自分に言い聞かせるように。

あるいは、誰かに報告するように。

小さく、確かめるように。

私はその場に立ったまま、お茶が冷めていくのを感じていた。

言いたかったのだ、あの子は。

誰かに。

一番だったと。

その誰かに、私はまだなれていない。

なれているのかどうか、今夜はまだわからない。

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九月の終わり、ショウが学校から持ち帰ったプリントの束の中に、運動会の案内が混じっていた。

私はそれをダイニングテーブルで広げた。

「保護者席:お二人まで」という文字が、太いゴシック体で印刷されていた。

五十四歳の男が、その一行を二度読んだ。

夕食の片付けをしていたノブに見せると、五十二歳の男は「行くでしょ、当然」と言って、また皿を拭き始めた。

私たちが同性愛者であることを、ノブはいつもこうやって、問題の外に置く。

それが頼もしいときと、少し羨ましいときがある。

今夜は両方だった。

ショウに「運動会、行くよ」と伝えたのはノブだった。

八歳の男の子は、テレビを見たまま「来なくていいよ」と言った。

声に棘はなかった。

ただ、平らだった。

私はその平らさの底に何があるのか、夜の間ずっと考えた。

遠慮なのか。

恥ずかしいのか。

それとも、LGBTの里親二人が保護者席に並ぶことで、何か傷つくことが起きると、八歳がすでに計算しているのか。

答えは出なかった。

出ないまま、プリントに名前を書いた。

タカシ。

ノブ。

ペンを走らせながら、来てよかったのかどうか、まだわからないと思っていた。

当日の朝、ショウは七時前に家を出た。

私たちより一時間早かった。

玄関で靴を履きながら、こちらを一度も見なかった。

扉が閉まって、足音が階段を降りていく音を、私はダイニングで聞いていた。

会場に着くと、校庭はもう家族連れで埋まっていた。

秋の日差しが白く、運動場の砂が光っていた。

どこかで焼きそばを作る匂いがした。

母親と父親のペアが、シートを広げてお茶を注いでいた。

入口で受付の係員に声をかけられた。

「お子さんのお名前は?」

「篠原ショウです」

係員はリストを指で辿った。

私は息を止めていた。

「篠原ショウくんですね、どうぞ」

それだけだった。

係員は次の家族に向き直った。

私は五十四年生きてきて、他人にそう言ってもらうことを、こんなに待っていたのかと思った。

同性愛者である私たちが、誰かの保護者として受け付けに名前を呼ばれる。

それだけのことに、足が少し震えた。

ノブが隣で「いい天気だな」と言った。

空を見上げていた。

私たちは並んで保護者席に向かった。

五十四歳と五十二歳の男が、秋の校庭を歩いた。

周囲からいくつかの視線を感じた。

感じながら、歩いた。

来てよかったのかどうか、まだわからなかった。

でも今日、ここに席がある。

それだけは確かだった。

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朝、カイが登校前にランドセルを背負いながら言いかけた。

「あの……」

止まった。私はコートのボタンを留めながら、続きを待った。カイは一度口を閉じて、それからもう一度開いた。

「サチさん、今日お弁当いる?」

遠足は来週だった。だからお弁当はいらない。

「いらないよ」と答えると、カイは「そっか」と言って玄関を出た。

扉が閉まって、足音が階段を降りていった。私はしばらくそこに立っていた。

「あの」から「サチさん」に、言い直した。その数秒を、ずっと見ていた。

夜、ユキが寝たあとで日記を開いた。今日こそ、ちゃんと書こうと思った。

カイがこの家に来てから、私は「あの」という言葉を何十回聞いただろう。

最初は空白だと思っていた。名前がない場所、呼び方が決まらない空白。

だからその言葉が聞こえるたびに、どこかで息を詰めていた。

でも今日、カイが「あの」と言いかけて止まった瞬間を見て、初めてわかった気がした。

あの言葉は、空白じゃなかった。

カイはずっと、誰かを呼ぼうとしていた。

名前がわからないまま、呼び方が見つからないまま、それでも「あの」と言って、こちらに手を伸ばしていた。

牛乳パックを持って振り返ったときも、膝から血を流しながら処置が終わったあとも、ずっと。

私はその手に、気づくのが遅かった。

元教員として、三百人以上の子どもと関わってきた。

子どもの言葉を読むのは得意だと思っていた。でもこの七歳の男の子の「あの」に、三ヶ月かかった。

ペンを持ったまま、窓の外を見た。夜の住宅街が静かだった。カイの部屋の電気は、もう消えていた。

最後に一行だけ書いた。

この子が「あの」と言うたびに、私はちゃんと呼ばれていたんだと思う。

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夕食が終わって、ユキが先に風呂に入った。

カイとリビングに二人で残った。特に話すこともなく、テレビがついていた。

刑事ドラマの再放送で、私は半分も見ていなかった。カイはソファの端に座って、膝を抱えていた。

委託から三ヶ月が経って、リュックはもうクローゼットにしまわれていた。

それだけのことが、今夜は少し嬉しかった。

CMになった。画面が明るくなって、音が変わった。

そのときカイが言った。

「サチさん、このドラマ好きなの?」

私は一瞬、聞き間違いだと思った。カイを見た。カイは画面を見たまま、何事もなかった顔をしていた。

七歳の横顔が、ブラウン管の光を受けて白く見えた。

「まあね」と私は言った。

声が少し低くなった。気づかれなかったと思う。カイは「ふうん」と言って、また画面に戻った。

ドラマが再開して、刑事が誰かを追いかけ始めた。

私はその画面を見ながら、さっきの三文字を、頭の中で何度か繰り返した。

サチさん。

サチさん。

風呂からユキの鼻歌が聞こえた。カイが小さくあくびをした。

時計が九時を回った。何も起きていない夜だった。

カイを寝かしつけてから、寝室で日記を開いた。ペンを持って、今日のことを書こうとした。

朝のこと、夕食のこと、ドラマのこと。でも全部、どうでもよかった。

一行だけ書いた。

今日、カイが私の名前を呼んだ。

それ以上書こうとすると、何か大切なものが崩れそうな気がした。

ペンを置いて、電気を消した。暗い天井を見ながら、もう一度だけ思った。

サチさん、と。

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朝食の途中だった。

カイがコップに手を伸ばしかけて、止まった。それからユキの方を見て、言った。

「ユキさん、これ取ってもらえる?」

ユキが「え、呼んだ?」と振り返った。一秒くらい、テーブルが静止した。

それからユキは「はいはい」と醤油を手渡して、また自分の味噌汁に戻った。それだけだった。

私は台所に立っていた。卵焼きを皿に移すところだった。手は動いていた。

夕方、ユキが洗濯物を畳みながら「カイ、今朝名前で呼んでくれたね」と言った。嬉しそうだった。

嬉しそうに言えるユキが、今日は少し遠かった。「そうだね」と私は言った。それ以上、何も言わなかった。

夜、日記を開いた。

今日、カイがユキさんと呼んだ。私はまだ、あの、だ。

それしか書けなかった。嫉妬じゃない、と思う。

でもそれが嫉妬じゃないなら、この胸のざらつきは何なのか。ユキが呼ばれたことは嬉しい。

本当に嬉しい。

ただ、嬉しいという気持ちの隣に、もう一つ別の気持ちが座っていて、それに名前をつけるのが怖い。

七年間、ユキと二人で暮らしてきた。里親になることを最初に言い出したのはユキだった。

私は半年悩んで、ユキの隣でようやく頷いた。あのときから、私はずっと半歩遅れている気がする。

ペンを置いて、天井を見た。

隣の部屋で、カイが寝返りを打つ音がした。

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今日も「あの」だった。

朝、カイが起きてきて、テーブルに座った。

トーストを焼いていた私の背中に向かって「あの……」と言った。

振り返ると、カイは牛乳パックを両手で持って、私を見ていた。

「開けてほしいの?」と聞くと、小さくうなずいた。それだけだった。

名前は、出てこなかった。

ユキは今朝も早番で、六時前に家を出た。

四十一歳の女が毎朝あの速さで支度を終えることを、七年間見てきてもまだ少し驚く。

玄関が閉まる音がするたびに、この家が少し静かになる。

今朝はその静けさの中に、カイがいた。

委託から三週間が経った。

今日、カイが転んだ。近所の公園で、砂利に足を取られて膝を擦りむいた。

じわりと血が滲んで、カイは泣かなかった。泣かないように、唇をきつく結んでいた。

七歳の子どもが、泣くのをこらえる顔を、私は正面から見た。

家に戻って、救急箱を出した。

消毒液を染み込ませたコットンを当てると、カイの肩がびくりと跳ねた。それでも声を出さなかった。

絆創膏を貼り終えたとき、カイが言った。

「あの……お願いします」

もう終わったあとだった。だから「お願いします」は、たぶん処置のことじゃなかった。
何に対して言ったのか、私にはわからなかった。わからないまま「うん」と言った。

夜、日記を開いた。

今日の「あの」は、今までと少し違う重さがあった。うまく説明できない。

ただ、あの声が耳に残っている。助けを求めることに、どこかで慣れていない子どもの声が。

消毒液の匂いが、まだ指先に残っていた。

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今日、カイが来た。

七歳の男の子は、玄関に立ったまま動かなかった。

紺色のリュックを両手で抱えて、床を見ていた。

ユキが「待ってたよ、入って入って」と言いながら膝をついて目線を合わせた。

四十一歳の女が、迷わずそうできることを、私は少し羨ましいと思った。

私は突っ立ったまま、何も言えなかった。

夕食はユキが作ったカレーだった。甘口にしてあった。

カイはスプーンを小さく動かしながら、ほとんど顔を上げなかった。ユキがしゃべり続けた。

好きな食べ物のこと、近くに公園があること、明日は一緒に散歩しようか、ということ。

カイは短くうなずいた。私は味噌汁を飲んだ。口の中がやけに乾いていた。

食後、ユキが洗い物をしている間、カイとリビングに二人になった。

カイはソファの端に座って、膝の上にリュックを乗せたままだった。

まだ、置く場所が決まっていないのだと思った。私も、何をすればいいか決まっていなかった。
しばらくして、カイが顔を上げた。
「あの……」
私を見ていた。続きを待った。でも続きは来なかった。カイは一度口を閉じて、また床を見た。

「うん」と私は言った。それしか出てこなかった。

寝室に戻ってから、日記を開いた。ペンを持ったまま、しばらく何も書けなかった。

三百人以上の子どもと向き合ってきた四十三年間が、今夜だけ、何の役にも立たなかった。

窓の外で風が鳴った。カイの部屋の電気は、まだついていた。

やっと一行だけ書いた。

今日、この子は私を「あの」と呼んだ。私にはまだ、名前がない。

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数日後の夕方、私は台所に立っていた。

玉ねぎを炒めていると、玄関が開く音がした。

ランドセルが壁に当たる音、靴を脱ぐ音。

それからハナの声が聞こえた。

「ただいま」

いつもより少し、大きかった。

私はフライパンを持ったまま「おかえり」と返した。

リビングに入ってきたハナは、ランドセルをソファに下ろして、そのまま私の背中に向かって言った。

「今日ね、ミサちゃんにうちのこと話した」

私は火を少し弱めた。

「そっか」と言った。

「お父さんとお母さんはいないけど、帰ったら『おかえり』って言ってくれる人が二人いるって。

男の人どうしだけどって」

「ミサちゃん、なんて言ってた」

「へえ、いいじゃんって」

それだけだった。

ハナは手を洗いに洗面所へ行って、戻ってきてソファに座った。

私は鍋に出汁を注ぎながら、その「いいじゃん」という言葉を、しばらく頭の中で転がした。

九歳の子どもの友達が、何気なく言った三文字。

それがなぜか、今夜の台所をすこし温かくした。

七時過ぎに玄関が開いて、ソウが帰ってきた。

鞄を廊下に放り投げる音がして、私は「また」と思った。

いつも通りだった。

「ただいまー。あ、いい匂い」

「おかえり」と私が言った。

「おかえり」とハナが言った。

ソウが一瞬、動きを止めた。

それからいつもより少し柔らかい顔で「ただいま」ともう一度言って、リビングに入ってきた。

三人で食卓を囲んだ。

ハナはじゃがいもまで、きれいに食べた。

食事が終わって皿を洗いながら、私は特別なことは何も起きていないと思った。

何かが解決したわけでも、何かが変わったわけでもない。

ただ、この子が「ただいま」と言える場所に、自分たちはなれているかもしれない。

それだけで、今夜の出汁は、少しだけ丁寧にとった。

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夕食が終わって、ソウがリビングでハナに話しかけていた。

私は一人で皿を洗っていた。

水の音を聞きながら、私は今夜こそ何か言うべきかと考えていた。

でも何をどう切り出せばいいか、昨日も今日も、言葉は出てこないままだった。

フライパンをすすいで、スポンジを絞って、皿を拭く。

その繰り返しの中に、気配がした。

ハナが台所に入ってきて、私の隣に立った。

何も言わなかった。

私も何も言わなかった。

水の音だけが続いた。

三十秒か、一分か、それくらい経ったころ、ハナがぽつりと言った。

「ねえ。
うちってふつうの家族じゃないの?」

私は手を止めなかった。

グラスの内側をスポンジで丁寧に回しながら、少し間をおいた。

「どうしてそう思った?」

ハナが話した。

学校からの帰り道、ミサちゃんに聞かれたこと。

ふつうだよと答えたこと。

でもそれが本当かどうか、ずっとわからなかったこと。

私は水を流したまま、全部聞いた。

話し終わったとき、私は水を止めた。

タオルで手を拭いて、ハナの隣にしゃがんだ。

九歳の目と、三十二歳の目が、同じ高さになった。

「ふつうじゃないかもしれない」と私は言った。

「俺とソウさんは、男どうしで一緒に暮らしてる。

それは、世間でいうふつうとは違う」

ハナは黙って聞いていた。

「でも」と私は続けた。

「ふつうって、誰が決めるんだろうな」

答えにならないとわかっていた。

もっとうまい言葉があるのかもしれない。

でもこれが、今夜自分の言える正直だった。

ハナはしばらく黙っていた。

それから小さくうなずいた。

何かが解決したわけじゃない。

でもその小さなうなずきが、私の胸の奥に、静かに落ちた。

リビングからソウの「どうしたの二人とも」という声がした。

私は立ち上がって「なんでもない」と言った。

ハナも、少しだけ口の端を動かした。

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翌朝、私が卵を割ったとき、ソウが台所に入ってきた。

「昨日、ハナちゃんと少し話した」

声が低かった。

私はフライパンから目を離さずに「そうか」と言った。

「学校で聞かれたみたい。

お父さんとお母さんはどんな人って」

卵が油の上に広がった。

白身の端がゆっくりと固まっていく。

私は火を弱めた。

「それで?」

「ふつうだよって答えたって。

でも帰ってきてからずっと、そのことが頭に残ってたみたい」

ソウは冷蔵庫を開けて、牛乳を出した。

三十一歳の男が、朝からそわそわしている。

普段と同じ動作なのに、今朝は少し落ち着きがなかった。

「ちゃんと話してあげたほうがいいよね。

俺たちのこと、説明するというか……」

「説明って、何を」

私は皿に卵を移しながら言った。

責めているわけじゃなかった。

ただ、本当にわからなかった。

自分たちが男どうしで暮らしていること、それが世間の言う「ふつう」とは違うこと、でもだからといってハナに何を伝えればいいのか。

謝るわけでもない。

誇るわけでもない。

「……うまく言えないけど」とソウが言った。

「ハナちゃんが困ってるなら、何か言ってあげたい」

「そうだな」と私は言った。

それだけだった。

二人で朝食を食べた。

ハナはその間、自分の部屋から出てこなかった。

八時になってドアが開いて、ランドセルを背負った小さな背中が「いってきます」と言った。

私は「いってらっしゃい」と返した。

玄関が閉まる音がして、家の中が静かになった。

シンクに重ねた三人分の皿から、湯気がゆっくりと上がっていた。

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その日のハナは、玄関を開けた瞬間からちがった。

私は台所に立っていたから、顔は見えなかった。

ただ、ランドセルを下ろす音がいつもより重く、廊下を歩く足音が短かった。

ソウはまだ帰っていない。

家の中に、私とハナの二人だけの静けさがあった。

「おかえり」と私は言った。

「……うん」とハナは言った。

それだけだった。

リビングに来たハナは、ソファに座ってランドセルを膝の上に抱えたまま、テレビもつけずにいた。

私はちらりと横目で見て、それから野菜を切る作業に戻った。

包丁がまな板を叩く音が、妙に大きく響いた。

「手、洗ってきな」と私は言った。

ハナは黙って立ち上がった。

夕食の間、ソウが場を持たせようとした。

今日あった仕事の話、駅前に新しくできたパン屋の話。

ハナは短く相槌を打つだけで、箸があまり進まなかった。

肉と玉ねぎだけ食べて、じゃがいもを残した。

いつもは残さないのに、と私は思ったが、何も言わなかった。

食事が終わると、ハナは「ごちそうさまでした」と言って自分の部屋に戻った。

足音が廊下を遠ざかっていって、ドアが静かに閉まった。

ソウが小声で「どうしたんだろう」と私を見た。

私は首を振った。

皿を洗いながら、私はハナの残したじゃがいもを思い出していた。

ラップをかけて冷蔵庫にしまうとき、何か声をかけるべきだったか、と一度だけ考えた。

でも言葉が出てこなかった。

出てこないまま、冷蔵庫のドアを閉めた。

水道を止めると、家の中がしんとした。

ハナの部屋の電気だけが、廊下の隙間から細く漏れていた。