里親家庭に行くことが決まってから実際に行くまでの不安と葛藤の記録。「知らない大人の家に行く」という恐れ、施設への愛着と離れる寂しさ。子どもの側から見た「里親家庭に行く前の気持ち」は里親を考えている大人が知るべき重要な記録。
里子として育てられた私には、実母に関する情報がほとんどなかった
電車に乗って、スマートフォンを開いた。
帰宅ラッシュの車内は混んでいた。
吊り革につかまりながら、SNSのアプリを立ち上げた。
昨夜の検索履歴が残っていた。
「山下恵」という文字が、そのままそこにあった。
もう一度、検索した。
三つのアカウントが、昨夜と同じ順番で並んだ。
変わっていなかった。
当たり前だった。
一日経ったからといって、何かが変わるわけではなかった。
プロフィール写真のない鍵アカウント、「yuki_m_1980」に、目が止まった。
昨夜と同じだった。
でも今日は、少し違う見方をしていた。
「yuki」という名前と、「m」というイニシャルと、「1980」という数字。
それだけが手がかりだった。
実母の名前は「山下恵」で、「恵」は「yuki」とも読める。
苗字の頭文字は「y」で、「m」は何のイニシャルかわからない。
でも、1980年生まれとすれば、今年で四十五歳か四十六歳になる。
実母が何年生まれかを、私は知らなかった。
知らないことが、これほど多いとは思っていなかった。
名前しか知らない人を、名前で検索して、それ以上何もわからない。
里子として育てられた私には、実母に関する情報がほとんどなかった。
児童相談所の記録には何かがあるかもしれないが、調べようとしたことはなかった。
フォローボタンを見た。
押せば、フォローリクエストが届く。
相手が承認すれば、鍵の中が見える。
承認しなければ、何も変わらない。
ただ、リクエストを送ったという事実だけが残る。
指が、ボタンの上で止まった。
押せなかった。
車内のアナウンスが聞こえた。
次の駅の名前だった。
乗り換えの駅ではなかった。
私はスマートフォンをポケットにしまって、窓の外を見た。
夜の景色が流れていった。
最寄り駅で降りて、アパートまでの道を歩いた。
歩きながら、長谷川照子さんのことを思い出した。
照子さんは現在六十一歳で、元保健師だ。
私が0歳から7歳まで、里親として育ててくれた。
今は電車で二時間ほどの町に住んでいて、年に数回会う。
最後に会ったのは、一年前の春だった。
里子だった七年間の記憶は、断片的だった。
0歳からの記憶は当然ない。
物心がついてからの記憶もまだらで、照子さんの台所の明るさとか、武志さんが庭で土を掘っている後ろ姿とか、そういうものだけが残っていた。
でも、安心していたことだけは覚えていた。
あの家が安全な場所だということを、子どもながらに知っていた。
照子さんのことを思い出したのは、なぜだろう。
実母のアカウントかもしれないものを見ながら、照子さんの顔が浮かんだ。
それが何を意味するのか、うまく考えられなかった。
里親への後ろめたさ、という言葉が頭に浮かんだ。
実母を検索することが、照子さんへの裏切りではないとわかっていた。
照子さんが「探してはいけない」と言ったことは一度もない。
実母について、肯定も否定も、照子さんはしなかった。
ただ、一度だけ「あなたはあなただから」と言ったことがある。
小学校に上がる前の、夕食のときだった。
なぜその話になったのか、覚えていない。
ただ、その言葉だけが残っていた。
あなたはあなただから。
その言葉が、今夜も頭に来た。
実母を検索した私は、あなたはあなただから、という言葉の内側にいるのか、外側にいるのか。
考えてもわからなかった。
アパートの前に着いた。
郵便受けを開けると、通販の封筒が入っていた。
さおりが注文したものだろう。
それを取り出しながら、私は今夜も検索するかもしれないと思った。
検索することをやめられないでいる、という感覚が、少し怖かった。
やめようと思えばやめられる。
でも今夜もスマートフォンを開く気がした。
それが意志なのか、衝動なのか、自分でも判断できなかった。
玄関のドアを開けると、さおりが「おかえり」と言った。
「ただいま」と私は言って、封筒を渡した。
「ありがとう」とさおりは言って、封筒を開け始めた。
私は部屋着に着替えながら、今夜照子さんに電話しようかと思った。
でも何を話すのか、まだ整理がついていなかった。
整理がつかないまま電話して、何かが変わるとも思えなかった。
今夜はもう少し、自分の中で抱えておこうと思った。
その判断が正しいのかどうかも、わからなかった。
里親として康夫さんが私にしてくれたことを、言葉で数えようとすると、うまくいかない。
週末は、木工をして過ごすことが多い。
道具は康夫さんのものを幸子さんからもらった。
康夫さんが三年前に亡くなったあと、幸子さんが「誠司が使ってくれるなら一番いい」と言って、工具箱ごと譲ってくれた。
鑿も鉋も、長年使い込まれて手に馴染んだ道具だった。
私の手には少し大きかったが、今はもう慣れた。
その日の午後、私は六畳の部屋の隅に作業スペースを作って、木を削り始めた。
作るものは決まっていなかった。
ただ、手を動かしたかった。
こういうときがある。
何かを考えたくないわけではないのに、頭より先に手を動かしたい夜が。
昨日の松田の言葉が、まだどこかに引っかかっていた。
鉋を握ると、康夫さんの手を思い出す。
大きくて、節くれだって、傷だらけの手だった。
長年大工をしていた手で、指の関節が太く、爪の際にいつも木くずが残っていた。
私の手とは全然違う。
私の手は細くて、営業職らしく荒れてもいない。
並べたら、誰も同じ人間から受け継いだとは思わないだろう。
実際、受け継いでいない。
血はつながっていない。
でも、鉋の角度だけは同じになっていた。
いつからそうなったのか、わからない。
気がついたら、康夫さんと同じ角度で鉋を持っていた。
教わった記憶はない。
ただ、隣で見ていた。
見ているうちに、体が覚えた。
二年ほど前、幸子さんに電話したとき「誠司、康夫さんに似てきたね」と言われたことがある。
「どこがですか」と聞いたら、「なんとなく」と笑われた。
なんとなく、という答えが、妙に腑に落ちた。
似ているというのは、そういうものなのかもしれない。
説明できるものではなく、なんとなく、という感覚の中にあるものなのかもしれない。
康夫さんは、私を一度も「息子」と呼ばなかった。
私も「お父さん」と呼んだことはなかった。
康夫さん、と呼んでいた。
それが自然だった。
距離があったわけではない。
ただ、私たちの間にはずっと、言葉より先に物があった。
木片、道具、削りかす。
言葉の代わりに、何かを手渡し合っていた。
里親として康夫さんが私にしてくれたことを、言葉で数えようとすると、うまくいかない。
食事をくれた、学校に行かせてくれた、そういうことは確かだ。
でも私が覚えているのは、縁側での沈黙とか、工具箱を開けるときの音とか、木のにおいとか、そういうことばかりだった。
康夫さんへの気持ちを、私は一度も「親への感情」と整理したことがなかった。
感謝はある。
尊敬もある。
康夫さんが亡くなったとき、私は葬儀で泣いた。
自分でも驚くくらい、泣いた。
でも「父親を亡くした」という感覚だったかといえば、わからない。
もっと別の何かを失った感覚だった。
言葉にならない何かを。
なぜ「父親だった」と言い切ることを避けてきたのか、自分でもよくわからない。
血がつながっていないからか。
制度の上では里親と里子だからか。
それとも、康夫さん自身が「父親」という役割を前に出さない人だったからか。
たぶんそのどれもが少しずつ、正しい気がする。
鉋を止めて、削りかすを払った。
手のひらを見た。
細くて、傷のない、私の手だった。
でも鉋の持ち方だけは、康夫さんと同じだった。
それがおかしくて、少し笑った。
声には出なかったが、笑った。
似ているとはどういうことか。
血ではなく、時間が作るものが、確かにある気がした。
そう思うことが正しいのかどうか、わからなかった。
でも少なくとも、その日の午後の私には、そう思えた。
知らない家の、知らない食卓で、何かを食べるということが、うまくできなかった
あの夜のことを、私はずっと思い出さないようにしていた。
八歳の春。
児童相談所の担当者に連れられて、初めて村上家を訪れた夜のことだ。
里親制度という言葉を、私はそのころまだ知らなかった。
ただ、「しばらくここで暮らす」と説明されて、よく意味がわからないまま玄関に立っていた。
実母に置いていかれたのは、その少し前だった。
ある朝、起きたら家に誰もいなかった。
それだけだった。
泣いた記憶もない。
ただ、お腹が空いていたことだけを覚えている。
児童相談所の待合室は、明るかった。
明るすぎて、居心地が悪かった。
担当者の女性は、私に何度も話しかけてくれたが、私はほとんど答えなかった。
答える言葉が見つからなかったというより、答えることで何かが決まってしまう気がして、黙っていた。
村上家に着いたのは、夕方だった。
玄関のドアを開けた清子さんは、私の顔を見て、しゃがんだ。
目線を合わせるためだったと思う。
今の私と同じ年齢だったのか、とアルバムを見ながら初めて気がついた。
あのころの清子さんは、私には大人としか見えなかった。
「さやかちゃんね。
私は清子。
よろしくね」
それだけ言った。
「よろしく」の意味が、八歳の私にはよくわからなかった。
夕食は肉じゃがだった。
里親である清子さんが、私のために作ってくれたのだと、担当者の人が教えてくれた。
でも私は、一口も食べられなかった。
食べたくないわけではなかった。
箸を持つと、手が少し震えた。
知らない家の、知らない食卓で、何かを食べるということが、うまくできなかった。
清子さんは、何も言わなかった。
怒るかと思った。
せっかく作ったのに、と責められるかと思った。
でも清子さんはただ、私の茶碗を見て、静かに言った。
「冷めたら温め直すね」
それだけだった。
その言葉の意味を、八歳の私は正確には理解できなかった。
でも、責められなかったということだけはわかった。
それが怖かった。
責められたほうが、楽だったかもしれない。
責められることには慣れていた。
責められないことに、私は慣れていなかった。
アルバムの中に、その夜の写真はなかった。
当然だと思う。
あの夜を写真に残そうとする人間は、普通はいない。
でも私の中には、あの夜の台所の蛍光灯の白さと、肉じゃがの湯気と、清子さんの横顔が、じわりと滲むように残っていた。
思い出すのに、三十四年かかった。
正確には、思い出さないようにしていたのだと思う。
あの夜を思い出すことは、あの夜に感じたものを引き受けることだった。
怖さと、安堵と、自分でも名前のつけられない何かを。
八歳の私には重すぎた。
四十二歳の私には、ようやく、少しだけ受け取れる気がした。
段ボール箱を膝の上に置いたまま、私はしばらく動けなかった。