子どもが里親家庭を離れた日の気持ちの記録。泣けなかった、空虚だった、ほっとした、後悔した——どんな感情も正直に書いていい。里親特有の「送り出す側の喪失感」を語れる場所はほぼ存在しない。
LGBTの同性愛カップルとして里親になった日から、六年が経っていた。
三月の夕方、ユイが「卵焼き作っていい?」と言った。
台所でパスタを茹でていた私は、振り返った。
十八歳になったユイが、エプロンを手に持って立っていた。
春から調理の専門学校に進む。
入学式は来週だった。
今夜は出発前最後の夜だった。
「ハルカさんとミオさんの分も作る」
私は「作って」と言った。
それだけ言えた。
ミオがちょうど帰ってきた。
玄関で「いい匂い」と言いながら荷物を置いて、台所を覗いた。
三十二歳の女が、エプロン姿のユイを見て、一瞬動きを止めた。
それから何事もなかったように「手洗ってくる」と言って、洗面所に向かった。
私はソファに座って、台所を見ていた。
ユイが卵を割った。
三つ。
ボウルに落として、菜箸でよく溶いた。
砂糖を入れた。
だしを加えた。
少し考えてから、砂糖をもう少し足した。
その仕草が、十二年前のミオに似ていた。
フライパンを火にかけた。
油を引いた。
じゅわりという音がした。
甘い匂いが広がった。
私は目を閉じた。
この匂いを、何百回嗅いだだろう。
二十七歳だった私が、三十三歳になるまでの六年間。
試作を重ねたあの夏の朝も、ユイが初めて「おいしかった」と言ったあの朝も、全部この匂いの中にあった。
ユイが卵液を流した。
菜箸で端を持ち上げて、ゆっくり巻いた。
二巻き目に差しかかったとき、端がフライパンに当たる音がした。
じゅっ。
ユイが「あ」と言った。
私は目を開けた。
ミオも台所の入口に立っていた。
二人で見ていた。
ユイはそのまま巻き続けた。
焦げた端を、わざと残したような手つきで。
皿に乗せて、三つに切った。
「どうぞ」
三人でテーブルを囲んだ。
LGBTの同性愛カップルとして里親になった日から、六年が経っていた。
二十七歳と二十六歳だった私たちは、いつの間にか三十代になっていた。
ユイは六歳から十八歳になっていた。
テーブルの上に、三枚の皿があった。
私は箸を取った。
一口、食べた。
甘かった。
だしが入っていた。
端が少し焦げていた。
何も言えなかった。
言葉が見つからなかった。
三十三歳の女が、十八歳の作った卵焼きを前に、黙って箸を持っていた。
ミオが「うまい」と言った。
ユイが箸を持ちながら、静かに言った。
「前のおうちの味に似てるかな」
誰も答えなかった。
ミオも私も、答えを持っていなかった。
ユイの前の家庭の台所を、私たちは知らない。
あの卵焼きを作っていた手を、見たことがない。
似ているかどうか、永遠にわからない。
でも三人とも、最後まで食べた。
夜、ユイが寝てから日記を開いた。
今夜は長い時間をかけて書こうと思っていた。
でもペンを持ったまま、しばらく何も書けなかった。
書きたいことが多すぎると、言葉が出てこない。
窓の外で、春の風が鳴った。
LGBTの同性愛カップルとして里親になることを決めたあの夜、私は自分たちに足りないものを数えていた。
でも今夜、ユイが台所に立って、三人分の卵焼きを作った。
端を少し焦げさせながら、丁寧に巻いた。
それを三人で食べた。
完璧な家族ではなかった。
あの味に完全に近づけたかどうかも、わからない。
でもこの台所で、この子は何かを作れるようになった。
誰かのために、台所に立てるようになった。
それが今夜の、最後の一行になった。
ユイが、私たちのために卵焼きを作った。
端が少し焦げていた。
それで十分だった。
五十四歳の男が、十八年間誰かのために作ることのなかった朝食を、この子のために八年間作り続けた。
三月の朝は、光が薄かった。
ショウの部屋から荷物が出ていくのを、私は一週間かけて少しずつ見ていた。
段ボールが一箱、二箱と廊下に並んで、部屋の中が白くなっていった。
八年間この家で暮らした男の子が、四月から県外の大学に進む。
十八歳になったショウは、私の肩を少し超えた。
いつの間にか、という言葉の意味を、今週は何度も思った。
出発の朝、私は六時に起きた。
台所に立って、卵焼きを焼いた。
ショウが小学校の低学年のころから好きだった味付けで、少し甘めにした。
味噌汁は豆腐と油揚げ。
白いご飯を三人分よそって、テーブルに並べた。
五十四歳の男が、十八年間誰かのために作ることのなかった朝食を、この子のために八年間作り続けた。
今朝が最後だと思うと、卵を溶く手が少しだけ遅くなった。
ノブが起きてきたのは六時半だった。
五十二歳の男は台所を覗いて「卵焼きか」と言った。
私は「ショウの好きなやつ」と言った。
ノブは「そうだな」と言って、冷蔵庫から牛乳を出した。
それだけだった。
それだけで、今朝の台所は十分だった。
ショウが起きてきたのは七時前だった。
寝癖がついたまま椅子に座って、味噌汁を両手で持った。
湯気が顔にかかって、ショウが少し目を細めた。
ノブがすぐに話しかけた。
大学の近くにいい定食屋があるらしいとか、引っ越し先の最寄り駅に銭湯があるとか、会いに行くときは連絡しろとか。
五十二歳の男は今朝もよくしゃべった。
ショウはよく笑った。
私は黙って卵焼きを食べた。
朝食が終わって、三人で片付けた。
ショウが自分の皿を洗った。
家に来た最初の夜、誰に言われるでもなく皿を台所に運んできた八歳を思い出した。
あの子がこんなに大きくなった。
その事実が、今朝は胸の奥に静かに落ちた。
玄関でショウがリュックを背負った。
段ボールは昨日、業者が運んでいった。
今朝のショウの荷物は、高校入学のときより少なかった。
それだけ向こうに根が張ったということだと、私は思った。
ノブが「元気でな」と言って、ショウの肩を一度叩いた。
ショウが「うん」と言った。
私はショウの前に立った。
何を言うべきか、昨夜からずっと考えていた。
気をつけろとか、困ったら連絡しろとか、体に気をつけろとか。
全部、正しかった。
全部、足りなかった。
「元気でな」と私は言った。
ノブと同じ言葉になった。
でもそれでよかった。
ショウは「うん」と言った。
それから少し間をおいて、私を見たまま言った。
「タカシさんも」
続けて「ノブさんも」と言った。
扉が開いて、冷たい三月の空気が入ってきた。
ショウが外に出た。
階段を降りる足音が聞こえた。
軽かった。
迷いのない足音だった。
扉が閉まって、足音が遠ざかって、やがて聞こえなくなった。
ノブが「行ったな」と言った。
私は答えなかった。
台所に戻って、三枚の皿を洗った。
お湯が手に当たって、白い湯気が上がった。
最後の一枚を拭きながら、今夜の日記に何を書くか考えた。
運動会のこと、熱の夜のこと、名前を呼ばれた朝のこと。
八年分のことが、今朝の台所に静かに重なっていた。
でも今夜書くことは、たぶん一行だけだ。
窓の外で、三月の風が鳴った。
この子は自分の足で出ていった。
それだけで、八年間は十分だった。
委託が終わってから、あの子は今どこで何をしているだろうという問いが、定期的に浮かんだ。
成人した里子から連絡が来たのは、委託が終わって11年後のことだった。
SNSのメッセージだった。「元気ですか。あのときのことを、最近よく思い出します」。
それだけだった。返信を打ちながら、手が少し震えた。70文字にも満たないメッセージを読み返すのに、何分かかったか分からない。
里親をしていた頃のことを、夫婦でほとんど話さなくなっていた時期だった。
話さないのは忘れたからではなく、話すと何かが溢れてきそうで、そっとしておいた。そういう11年だった。
委託が始まったのは、自分たちが50代の頃だった。実の子どもは既に独立していて、夫婦二人の生活になっていた。
「まだ何かできることがあるかもしれない」という、定年前の静かな焦りのようなものがあった。
8歳の男の子が来た。小柄で、目が大きく、何かを確かめるようにこちらをよく見る子だった。
口数は少なかったが、観察眼が鋭かった。こちらが機嫌の悪い日は、遠くからそれを察して静かにしていた。
こちらが笑っていると、少し安心したような顔をした。
子どもが大人の感情を読むことに長けているとき、それはたいてい、読まなければならない環境にいたということだ。
その子がそういう子だと分かったとき、胸の奥で何かが動いた。
若い頃の子育てとは、明らかに違った。
小学校の運動会で一日外にいると、翌日は体が重かった。夜中に子どもが起きても、すぐに体が動かない。
気力はあっても、体がついてこない場面が想定より多かった。
それを子どもに悟られたくないと思っていた。しかし子どもはとっくに気づいていた。
ある日、重い買い物袋を黙って持ってくれた。「重そうだったから」と言った。8歳が言う言葉ではなかった。
その気遣いが、うれしいよりも切なかった。子どもに気を遣わせている、という事実が、しばらく頭から離れなかった。
年齢を重ねてから里親をすることの難しさは、体力だけではない。
自分たちが先に老いていくという現実が、子どもの将来と交差する場面がある。
「この子が成人する頃、自分たちはどうなっているのか」という問いを、50代の里親は若い里親より早く突きつけられる。
3年間の委託は、実親の状況が安定したことで終わった。
終わりが近づいてきたとき、子どもに何を伝えるべきか分からなかった。「また会えるよ」と言うべきか。
「元気でいてね」と言うべきか。何を言っても嘘になるような気がして、最後の日、結局「ご飯、ちゃんと食べるんだよ」とだけ言った。
子どもは「うん」と言った。それだけだった。
車で送り届けて、帰り道、夫婦どちらも口を開かなかった。家に帰って、子どもが使っていた部屋を見た。
布団だけが残っていた。片付ける気になれなくて、その日は閉めておいた。翌日も、その次の日も、しばらくそのままにしていた。
委託が終わってから、あの子は今どこで何をしているだろうという問いが、定期的に浮かんだ。
誕生日が近づくと思い出した。進学の時期になると思い出した。ニュースで子どもに関わる話題が出ると思い出した。
夢に出てきたこともあった。夢の中では、いつも8歳のままだった。
里親と里子の関係は、委託が終われば法的には何もない。連絡先を交換していたわけでもなく、会いに行く手段もなかった。
ただ祈るように、どこかで元気にしていることを願い続けた。それが11年間だった。
メッセージが来た日の夜、夫婦で長い時間話した。久しぶりに、あの3年間のことを声に出して話した。
あの子が今、19歳になっていること。自分たちのことを思い出してくれていたこと。
それだけで、11年間の問いが少し報われた気がした。「会いたいね」と夫が言った。自分も、そう思った。
その後、数回メッセージのやり取りをした。会うことはまだできていない。それでも、つながっていることが分かっただけで十分だと思っている。
年齢を重ねてから里親をすることには、若い頃とは違う困難がある。
体力の問題、将来の問題、子どもに気を遣わせてしまうかもしれないという問題。それは正直に認めた方がいい。
ただ、50代・60代にしか提供できないものもある。焦らない関わり方、人生経験から来る落ち着き、すでに子育てを経験した安心感。
若い里親家庭では難しい、「おじいちゃんおばあちゃんのような存在」として子どもの居場所になれることもある。
里親になる前の自分に一言かけるとしたら、「終わっても、終わらない」と伝えたい。
委託が終われば関係も終わると思っていた。しかし実際には、終わってからも子どものことを思い続ける時間が続く。
それは喪失ではなく、続いている何かだと、今は思っている。
11年後にメッセージが来た日、それが証明された。
叱るべきなのか、見守るべきなのか、その判断ができないまま、毎日が緊張の連続だった。
友人の知人が養子縁組をしたという話を聞いたのは、不妊治療の辞め時を考え始めていた頃だった。
その話をきっかけに養子縁組や里親制度を詳しく調べ始め、制度の輪郭が見えてくるにつれて、自分たちにもできるかもしれないという気持ちが芽生えていった。
前向きになっていく自分とは対照的に、夫はなかなか踏み出せなかった。
血の繋がらない子どもを本当に愛せるのか、確信が持てないのだという。
家庭の平穏が崩れることへの恐れも正直に話してくれた。その気持ちは理解できた。
ただ、二人の気持ちが揃わない限り先に進めないという現実が、しばらく重くのしかかった。
夫婦間の温度差は、里親を検討する多くの家庭が経験するものだ。どちらかが引っ張り、どちらかが慎重になる。
そのバランスをどうとるか、どこで一致点を見つけるか。この時期の夫婦の対話が、その後の土台になる。
転機になったのは、児童相談所が開催した里親サロンへの参加だった。
そこで実際に子育てをしている里親から話を聞いた。
うまくいった話だけではなく、大変だったこと、思い通りにならなかったこと、それでも続けてきたこと、そういった率直な声が、不思議なほど心に届いた。
きれいな話だけを聞いていたら、逆に現実との落差に苦しんだかもしれない。
大変さを含めて聞いたからこそ、「それでもやろう」という覚悟が固まった。夫もその場にいた。
二人で同じ話を聞いたことで、ようやく気持ちが一致した。
子どもが家に来てから最初の頃、私たちは必死だった。気に入ってもらおうと、できる限りのことをしようとした。
しかし子どもの警戒心はなかなか解けなかった。目線がまったく合わない状態が続いた。
家の中の物が隠されることもあった。わざと壊されることもあった。どう対応すべきか分からなかった。
叱るべきなのか、見守るべきなのか、その判断ができないまま、毎日が緊張の連続だった。
子どもが物を隠したり壊したりするのは、不安や試し行動の表れであることが多い。
しかしその渦中にいるときは、そうした知識があっても気持ちが楽になるわけではない。
ただ一日一日をやり過ごすことで精一杯だった。
最もしんどかったのは、夜泣きが数時間続いた時期だ。
抱っこしようとしても、子どもは仰け反って拒絶した。何もできないまま、泣き声だけが続く。
寝不足と精神的な疲労が蓄積していき、夫とのあいだで「もう無理かもしれない」という言葉が何度も出た。
暗いリビングで二人で立ち尽くした夜があった。自分たちの無力さに打ちひしがれて、何も言えなかった。
今思い出しても、胸が締め付けられる。
あの夜を乗り越えられたのは、どちらかが強かったからではない。
二人とも限界に近かったが、それでもそこに一緒にいたことが、何とかつなぎとめてくれた気がする。
委託から半年ほど経ったある日、子どもが転んで膝を擦りむいた。
それまで、この子は痛みさえ我慢していた。弱みを見せることが、どこかで許されないと感じていたのかもしれない。
しかしその日は違った。泣きながら、自分から私の胸に飛び込んできて、「痛い」と言った。
壁が一つ崩れた、という手応えを確かに感じた。
言葉にするとそれだけのことだが、それまでの半年間を思えば、その一言と、真っ直ぐに向かってきたその体の重さは、何にも代えがたいものだった。
子どもがアパートへ引っ越した日、寂しさよりも「無事に送り出せた」という安堵感と誇らしい気持ちのほうが大きかった。
あの夜泣きの夜から、暗いリビングで立ち尽くした夜から、ここまで来た。それだけのことが、二人の間にあった。
血が繋がっていなくても、共に過ごした時間の積み重ねが、本当の絆を作る。その子が巣立っていく姿を見ながら、それを改めて実感した。
今振り返って、やってよかったと思う。きれいごとだけではない日々だった。
葛藤もあったし、限界を感じた夜もあった。自分自身の欠点と、何度も向き合わされた。
それでも、一人の人間の成長を間近で見守り、本当の意味での家族になれた経験は、自分の人生を豊かにしてくれた。
その過程で自分が変わったことも、確かだと思う。
里親を考えている人に伝えたいのは、完璧を目指さないでほしいということだ。
自分の心の余裕を保つことが、結果として子どもを守ることに繋がる。一人で抱え込まず、支援や仲間を頼ってほしい。
里親になる前の自分に一言かけるとしたら、こう言いたい。
「不安で震えているかもしれないけれど、信じて進めばいい。想像もできないような強さと深い愛を、その子が教えてくれるから」と。
こちらは「家族として迎えた」という気持ちでいても、子どもにとっては知らない大人の家に来ただけだ
里親という制度を知ったのは、数年前に見たテレビの特集だった。
児童養護施設の子どもたちを取り上げた番組で、「里親」という言葉が画面に出たとき、名前だけは知っていても、実際に家庭で子どもを育てる制度だとは理解していなかった。
番組のあと、なんとなく気になってインターネットで調べた。それが始まりだった。
調べながらも、すぐに動き出せたわけではない。
子育て経験もなく、事情を抱えた子どもを受け入れることの責任の重さを考えると、軽い気持ちでは踏み出せなかった。
いつか子どもが家を離れる可能性があることも、正直怖かった。
夫婦で何度も話し合ったが、「中途半端な気持ちではできないよね」という結論になり、しばらくは調べるだけで終わっていた。
背中を押してくれたのは、自治体の説明会だった。
実際に里親をしている人の話を聞く機会があり、「最初から完璧にできる人はいない」という言葉が印象に残った。
特別な人だけがやるものではなく、悩みながら続けているという話を聞いて、少し気持ちが楽になった。まずは研修だけでも受けてみようと思ったのが、動き出したきっかけだ。
子どもが来た最初の頃、距離の遠さを感じた。
こちらは「家族として迎えた」という気持ちでいても、子どもにとっては知らない大人の家に来ただけだ。会話は少なく、目もあまり合わせてくれなかった。
どう接していいのか分からず、必要以上に気を遣ってしまい、家の中にはどこかぎこちない空気が漂っていた。
一番しんどかったのは、夜の時間だった。寝る前になると急に不安定になり、布団に入ってもなかなか寝付けず、何度も起きてしまう。
理由を聞いても答えてくれないことも多く、「どうしてあげればいいんだろう」と途方に暮れた夜もあった。
疲れが積み重なって、夫婦で小さな言い合いになったこともある。
転機は、ある日の夕方に訪れた。学校であった出来事を、子どもが自分から話してくれた。
特別な内容ではなかった。「今日こんなことがあった」という、ごく普通の話だ。
それまでほとんど自分から話すことがなかっただけに、そのとき感じたうれしさは今でも覚えている。
少しずつだけど、距離が縮んでいるのかもしれないと感じた瞬間だった。
子どもが家を出た日のことは、よく覚えている。ドラマのように泣くことはできなかった。
寂しさはもちろんあった。でも同時に、「無事にここまで来られてよかった」というほっとした気持ちもあった。
静かになった家に帰ってきたとき、実感がじわじわとわいてきた。
今振り返ったとき、「やってよかった」と言い切れるかといえば、正直そう単純ではない。
大変なことも多かったし、正解が分からないまま続けていた部分も多かった。
ただ、あの時間は自分たちにとって大事な経験だったと思っている。「やらなければよかった」と思ったことは、一度もない。
里親を考えている人に伝えたいのは、最初からうまくできる人はいないということだ。
子どもとの関係も、すぐに家族のようになるわけではない。時間がかかるし、戸惑うことも多い。
それでも、少しずつ積み重なっていく時間がある。それだけは確かだと思う。