五十四歳の男が、十八年間誰かのために作ることのなかった朝食を、この子のために八年間作り続けた。
三月の朝は、光が薄かった。
ショウの部屋から荷物が出ていくのを、私は一週間かけて少しずつ見ていた。
段ボールが一箱、二箱と廊下に並んで、部屋の中が白くなっていった。
八年間この家で暮らした男の子が、四月から県外の大学に進む。
十八歳になったショウは、私の肩を少し超えた。
いつの間にか、という言葉の意味を、今週は何度も思った。
出発の朝、私は六時に起きた。
台所に立って、卵焼きを焼いた。
ショウが小学校の低学年のころから好きだった味付けで、少し甘めにした。
味噌汁は豆腐と油揚げ。
白いご飯を三人分よそって、テーブルに並べた。
五十四歳の男が、十八年間誰かのために作ることのなかった朝食を、この子のために八年間作り続けた。
今朝が最後だと思うと、卵を溶く手が少しだけ遅くなった。
ノブが起きてきたのは六時半だった。
五十二歳の男は台所を覗いて「卵焼きか」と言った。
私は「ショウの好きなやつ」と言った。
ノブは「そうだな」と言って、冷蔵庫から牛乳を出した。
それだけだった。
それだけで、今朝の台所は十分だった。
ショウが起きてきたのは七時前だった。
寝癖がついたまま椅子に座って、味噌汁を両手で持った。
湯気が顔にかかって、ショウが少し目を細めた。
ノブがすぐに話しかけた。
大学の近くにいい定食屋があるらしいとか、引っ越し先の最寄り駅に銭湯があるとか、会いに行くときは連絡しろとか。
五十二歳の男は今朝もよくしゃべった。
ショウはよく笑った。
私は黙って卵焼きを食べた。
朝食が終わって、三人で片付けた。
ショウが自分の皿を洗った。
家に来た最初の夜、誰に言われるでもなく皿を台所に運んできた八歳を思い出した。
あの子がこんなに大きくなった。
その事実が、今朝は胸の奥に静かに落ちた。
玄関でショウがリュックを背負った。
段ボールは昨日、業者が運んでいった。
今朝のショウの荷物は、高校入学のときより少なかった。
それだけ向こうに根が張ったということだと、私は思った。
ノブが「元気でな」と言って、ショウの肩を一度叩いた。
ショウが「うん」と言った。
私はショウの前に立った。
何を言うべきか、昨夜からずっと考えていた。
気をつけろとか、困ったら連絡しろとか、体に気をつけろとか。
全部、正しかった。
全部、足りなかった。
「元気でな」と私は言った。
ノブと同じ言葉になった。
でもそれでよかった。
ショウは「うん」と言った。
それから少し間をおいて、私を見たまま言った。
「タカシさんも」
続けて「ノブさんも」と言った。
扉が開いて、冷たい三月の空気が入ってきた。
ショウが外に出た。
階段を降りる足音が聞こえた。
軽かった。
迷いのない足音だった。
扉が閉まって、足音が遠ざかって、やがて聞こえなくなった。
ノブが「行ったな」と言った。
私は答えなかった。
台所に戻って、三枚の皿を洗った。
お湯が手に当たって、白い湯気が上がった。
最後の一枚を拭きながら、今夜の日記に何を書くか考えた。
運動会のこと、熱の夜のこと、名前を呼ばれた朝のこと。
八年分のことが、今朝の台所に静かに重なっていた。
でも今夜書くことは、たぶん一行だけだ。
窓の外で、三月の風が鳴った。
この子は自分の足で出ていった。
それだけで、八年間は十分だった。
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