任務報告

里親という制度を知ったのは、数年前に見たテレビの特集だった。

児童養護施設の子どもたちを取り上げた番組で、「里親」という言葉が画面に出たとき、名前だけは知っていても、実際に家庭で子どもを育てる制度だとは理解していなかった。

番組のあと、なんとなく気になってインターネットで調べた。それが始まりだった。

調べながらも、すぐに動き出せたわけではない。

子育て経験もなく、事情を抱えた子どもを受け入れることの責任の重さを考えると、軽い気持ちでは踏み出せなかった。

いつか子どもが家を離れる可能性があることも、正直怖かった。

夫婦で何度も話し合ったが、「中途半端な気持ちではできないよね」という結論になり、しばらくは調べるだけで終わっていた。

背中を押してくれたのは、自治体の説明会だった。

実際に里親をしている人の話を聞く機会があり、「最初から完璧にできる人はいない」という言葉が印象に残った。

特別な人だけがやるものではなく、悩みながら続けているという話を聞いて、少し気持ちが楽になった。まずは研修だけでも受けてみようと思ったのが、動き出したきっかけだ。

子どもが来た最初の頃、距離の遠さを感じた。

こちらは「家族として迎えた」という気持ちでいても、子どもにとっては知らない大人の家に来ただけだ。会話は少なく、目もあまり合わせてくれなかった。

どう接していいのか分からず、必要以上に気を遣ってしまい、家の中にはどこかぎこちない空気が漂っていた。

一番しんどかったのは、夜の時間だった。寝る前になると急に不安定になり、布団に入ってもなかなか寝付けず、何度も起きてしまう。

理由を聞いても答えてくれないことも多く、「どうしてあげればいいんだろう」と途方に暮れた夜もあった。

疲れが積み重なって、夫婦で小さな言い合いになったこともある。

転機は、ある日の夕方に訪れた。学校であった出来事を、子どもが自分から話してくれた。

特別な内容ではなかった。「今日こんなことがあった」という、ごく普通の話だ。

それまでほとんど自分から話すことがなかっただけに、そのとき感じたうれしさは今でも覚えている。

少しずつだけど、距離が縮んでいるのかもしれないと感じた瞬間だった。

子どもが家を出た日のことは、よく覚えている。ドラマのように泣くことはできなかった。

寂しさはもちろんあった。でも同時に、「無事にここまで来られてよかった」というほっとした気持ちもあった。

静かになった家に帰ってきたとき、実感がじわじわとわいてきた。

今振り返ったとき、「やってよかった」と言い切れるかといえば、正直そう単純ではない。

大変なことも多かったし、正解が分からないまま続けていた部分も多かった。

ただ、あの時間は自分たちにとって大事な経験だったと思っている。「やらなければよかった」と思ったことは、一度もない。

里親を考えている人に伝えたいのは、最初からうまくできる人はいないということだ。

子どもとの関係も、すぐに家族のようになるわけではない。時間がかかるし、戸惑うことも多い。

それでも、少しずつ積み重なっていく時間がある。それだけは確かだと思う。

任務報告

「これ以上のステップアップは難しい」と医師から告げられたのは、不妊治療を始めて5年が経った頃のことだった。

夫婦でそれぞれの気持ちを話し合う中で、「血縁にこだわらず、子どもを育てるという経験を一緒にしたい」という思いが少しずつ言葉になっていった。

そのタイミングで手にした自治体の広報誌に、里親募集の記事が載っていた。

それが、里親という選択肢を現実として意識した最初の瞬間だった。

不妊治療と里親制度。一見別々のように見えるこの二つの選択肢は、子どもを持ちたいと願う多くの夫婦の間で、実は深く結びついている。

まず、里親制度の基本を整理しておきたい。

里親制度とは、何らかの事情により家庭で暮らすことができない子どもを、一定期間または長期にわたって家庭に迎え入れ、養育する制度だ。

日本では児童福祉法に基づき、国と都道府県が制度を運営している。

里親にはいくつかの種類がある。養育里親は、一時的または中長期的に子どもを預かる最も一般的な形態だ。

専門里親は、虐待を受けた経験のある子どもや非行傾向のある子どもなど、専門的なケアを必要とする子どもを対象とする。

養子縁組里親は、将来的な特別養子縁組を前提として子どもを迎える形で、法的な親子関係の成立を目指す。

親族里親は、両親が死亡や行方不明などの場合に祖父母や叔父叔母などの親族が子どもを育てる形態だ。

里親になるには、自治体への申請・審査・研修・登録というステップが必要で、委託後も児童相談所によるフォローアップが定期的に行われる。

制度を知ってからも、すぐに動き出すことはできなかった。夫は比較的前向きだったが、自分自身の中に大きな壁があった。

「血の繋がらない子どもを、本当に心から愛せるのか」

この問いは、単純な不安ではなかった。それは、自分自身の冷酷さや器の小ささを突きつけられるような怖さだった。

愛せなかったとき、自分はどうなるのか。子どもを傷つけてしまうのではないか。そう考えるたびに、研修に申し込むことすらためらってしまった。

もう一つの不安は、実家の両親のことだった。

保守的な考えを持つ両親が、里親という選択を理解してくれるかどうか分からなかった。

「絶縁状態になるかもしれない」という恐れは、決して大げさではなかった。

里親を検討する人が「動き出せない」背景には、このような内面的な葛藤が複雑に絡み合っていることが多い。制度の情報を集めるだけでは解決できない部分だ。

転機になったのは、地域で開かれた里親の体験発表会への参加だった。現役の里親が壇上でこう言った。

「子どもを愛そうと気負わなくていい。ただの同居人から始めてもいいんだよ」

この言葉を聞いたとき、長い間肩にのしかかっていた何かが、すっと下りていった。

里親になるためには、最初から立派な親でなければならないと思い込んでいた。

聖人君子でなければできないことだと。しかしその言葉は、そうした思い込みをそっと解いてくれた。

翌週、研修への申し込みを決めた。

里親体験発表会や里親説明会は、各都道府県・政令市の児童相談所や里親支援機関が定期的に開催している。

神奈川県内でも横浜市・川崎市・相模原市などで案内がされており、参加に際して特別な条件は必要ない。

「まず話を聞くだけ」という気持ちで参加できる場として、検討の第一歩として活用できる。

子どもが来た最初の数ヶ月は、正直に言えば、可愛いと感じる余裕などまったくなかった。

家の中には常に緊張感があった。他人が同じ空間にいる、あの張り詰めた空気。

子どもがこちらの顔色をうかがいながらニコニコしているのを見るたびに、その不自然さに胸が痛んだ。

どう接していいか分からず、笑顔を返すことしかできない自分にも戸惑った。

夜、子どもが眠ったあとに寝顔を眺めながら、何度もこう自問した。

「この子を預かったのは、私のエゴだったのではないか」。その問いに、答えを出せないまま朝を迎えた日も多かった。

こうした感覚は、里親を始めた多くの人が経験することだという。

子どもも大人も、お互いに「どんな人なのか」を探っている時期であり、関係性がまだ根を張る前の、不安定な時間だ。

最もきつかったのは、子どもの「試し行動」が始まった時期だった。

試し行動とは、子どもが「この人は本当に自分を受け入れてくれるのか」を確かめるために、わざと問題行動を起こすことだ。

心理的に安全な環境に慣れてきた頃に現れることが多く、むしろ関係が深まっているサインとも言われる。

しかしその渦中にいるときは、そのような解釈をする余裕はなかった。

わざとコップをひっくり返す。突然叩いてくる。それが何日も続いた、ある日の夜、ついに限界が来た。泣き崩れてしまった。

そのとき夫に相談すると、「子どもなんだから仕方ないだろう」と一蹴された。悪意のない言葉だったかもしれない。

しかし、自分が追い詰められているときに受け取るには、あまりにも遠い言葉だった。

育児に対する温度差を夫婦間で強く感じた、あの夜が、精神的に最も苦しい時間だった。

里親家庭において、こうしたパートナーとの温度差や孤立感は珍しくない。

里親支援機関や里親会への相談、あるいは同じ経験を持つ里親同士のつながりが、こうした局面では特に重要になってくる。

委託からおよそ1年が経った頃、子どもが外で派手に転んで怪我をした。泣きながら、真っ直ぐにこちらの胸に飛び込んできた。

それまでも泣くことはあった。しかし、いつもどこかに遠慮があった。泣きながらも少し距離を置くような、そういう泣き方だった。

あの日は違った。迷わず、真っ直ぐに来た。

「この子は私を、安全な場所だと認識してくれた」

そのとき初めて、肌でそれを感じた。ようやく親子になれた気がした、と後にこう振り返る。

関係性というものは、劇的な出来事によって変わるのではない。

毎日の食事を一緒に食べること、眠れない夜を隣で過ごすこと、そういう時間の積み重ねの先に、ある日突然、何かが変わる瞬間がある。

周囲への説明については、慎重にアプローチした。

近所の人には「親戚の子どもを預かることになりました」と最初は濁して伝えた。

子ども自身に余計な関心や詮索が向くことを避けたかったからだ。

職場には、急な呼び出しや学校行事での早退などを想定し、上司にだけ詳細を話した。同僚にはあえて詳しく伝えなかった。

「周囲の反応にこちらが疲弊しないよう、情報の出し方をコントロールしていた」という言葉は、多くの里親家庭に共通する実感だろう。

里親であることを開示するかどうかは、非常に個人的な判断であり、どちらが正解ということはない。大切なのは、自分と子どもの生活を守ることだ。

里親を検討している人に、最も伝えたいことはこれだ。

「立派な親にならなくていい」

理想の親子像を追い求めると、自分も子どもも苦しくなる。

まずは同じ屋根の下で、一緒にご飯を食べて、安全に眠れる場所を提供する。

それだけで十分に価値があることだ。自分に厳しくなりすぎず、まず「それだけ」から始めていいと、自分を許してほしい。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、こう伝えたい。

「想像以上にしんどいけれど、想像もできなかったほど深い感情を、その子から教えてもらえる」と。

「里親制度は、制度の整備も大切だけれど、私たち当事者がしんどいと言える場所がもっと増えてほしい」

里親支援は近年少しずつ充実してきているが、里親家庭が孤立しやすい構造はまだ残っている。

支援者だけでなく、同じ経験を持つ里親同士がつながり、「しんどい」と言い合える場があること。

それが里親制度の継続性を支える上で、これからさらに重要になると思う。

5年間の不妊治療の末に里親という道を選んだこの経験は、「血の繋がり」や「理想の親子像」への問いを何度も更新させてくれるものだった。

答えはまだ出ていないかもしれない。それでも、一緒にご飯を食べ、泣きながら胸に飛び込んできたあの日を、忘れることはないだろう。

里親制度に関心を持った方は、まず地域の児童相談所または里親支援機関に問い合わせることから始めてほしい。

説明会への参加だけなら、登録や申請の義務は一切ない。「話を聞くだけ」でいい。それが、最初の一歩になる。

任務報告

数年間続けた不妊治療が、結果を出せないまま終わりを迎えようとしていた。

夫婦で今後の人生をどう歩むかを話し合っていたある日、インターネットで養子縁組や里親制度に関する記事を偶然目にした。

それまで里親という言葉を知ってはいたが、自分たちの現実的な選択肢として考えたことは一度もなかった。その記事が、扉を開く最初のきっかけになった。

不妊治療と里親制度。この二つを結びつけて考える夫婦は、実は少なくない。

治療に区切りをつけた後、「子どもを育てるという経験を諦めたくない」という思いが里親という道へと向かわせることがある。

制度を知ってからも、すぐに行動に移すことはできなかった。ためらいの理由は一つではなかった。

まず、「血の繋がらない子どもを、本当の我が子のように愛せるのか」という根本的な問いが頭から離れなかった。

愛情というものは、育てる中で生まれるとも言われる。しかしそれが本当かどうかは、やってみるまで分からない。

もし愛せなかったとき、子どもを傷つけることになるのではないか。その恐れは、軽くあしらえるものではなかった。

もう一つは、思春期を迎えたときの接し方への不安だった。

乳幼児期や小学生の頃とは異なり、思春期には自我が強く出る。

里親と子どもという関係性の中で、その時期をどう乗り越えられるのか、想像するだけで不安になった。

そして三つ目が、親族からの目線という問題だ。

里親制度はまだ社会的な認知が十分に広まっているとは言えず、「なぜ他人の子を育てるのか」「何か事情があるのか」という反応が親族から返ってくることを恐れていた。

世間体というものは、決して軽視できる問題ではない。

動き出すきっかけになったのは、自治体が主催する里親制度の説明会への参加だった。

実際に里親として活動している人の話を直接聞く機会があり、その言葉がこれまでの視点を大きく変えた。

「完璧な親である必要はない。今、助けを必要としている子の居場所になるということだ」

この考え方に、救われたという。

それまでは「里親として立派な親にならなければならない」という重圧の中にいた。

しかし里親とは、完成された親子関係を最初から提供することではない。

居場所を作ること、一緒に時間を重ねること、それが出発点なのだということを、説明会で初めて実感として受け取れた。

夫婦で話し合い、一歩踏み出す決意をしたのはその直後だった。

里親説明会は、各都道府県・政令市の児童相談所や里親支援機関が定期的に開催している。

愛知県・名古屋市でも複数の窓口が案内を行っており、参加に際して申請や登録の義務は一切ない。

「話を聞くだけ」という気持ちで参加できる場として、検討の入り口として活用できる。

子どもが家に来た最初の頃、家の中は常に張り詰めた空気だった。お互いが緊張していた。

しかし最も戸惑わせたのは、子ども自身の行動だった。

子どもは非常に「良い子」を演じようとしていた。

わがままを一切言わず、自分の感情をまったく外に出さなかった。

一見すると問題がないように見えるが、それは逆に不自然だった。

子どもらしい自己主張がない、感情の揺れがない、その静けさが、心の距離の遠さを示していた。

どうすれば心の距離を縮められるのか分からず、暗中模索の状態が続いた。

「良い子」を演じる背景には、これまでの環境の中で「感情を出すことが危険だった」という経験が潜んでいることもある。

それを理解できたのは、後になってからだった。

最もきつかったのは、子どもの「試し行動」が始まった時期だった。

試し行動とは、子どもが「この人たちは本当に自分を受け入れてくれるのか」を確かめるために起こす問題行動のことだ。

大切なものをわざと壊す、激しく泣き叫んで暴れる。そういった行動が数ヶ月にわたって続いた。

精神的にも肉体的にも限界に近い状態で迎えたある夜中、夫婦でリビングに座り、泣きながら話し合った。

「私たちの選択は、間違っていたのではないか」。

その言葉を二人で交わした夜が、この経験を通じて最も過酷な場面だったという。

試し行動は、心理的に安全な環境に慣れてきたことのサインだとも言われる。

しかし渦中にいるときに、そうした知識は気持ちを楽にはしてくれない。

こうした局面を一人で抱え込まないためにも、里親支援機関や里親会への相談窓口を事前に把握しておくことが重要だ。

関係が変わったと感じた瞬間は、特別な出来事ではなかった。

ある朝の食卓で、子どもが何気なくこう言った。「明日のおやつは何がいいかな」。

ただそれだけの言葉だ。しかしその言葉の意味は、軽くなかった。

この家での生活を「一時的なもの」ではなく、続いていく日常として認識し始めているということ。

明日もここにいる、という感覚が子どもの中に芽生えていることを、その言葉は示していた。

張り詰めていた心の糸が、少しだけ解けた瞬間だった。

関係性というのは、ある日突然変わるのではない。

一緒に食事をする、眠れない夜を隣で過ごす、何気ない会話を積み重ねる。

そういう時間の蓄積の先に、ある朝ふと気づいたら景色が変わっている、そういうものだ。

周囲への説明は、慎重に進めた。

近所の人には「親戚の子を預かることになった」とだけ伝え、詳しい説明はしなかった。

子ども自身に余計な関心や詮索が向くことを避けるためだ。

職場には、急な体調不良などで早退や欠勤が発生する可能性があることを考慮し、上司にだけ里親制度を利用していることを伝え、理解と協力を求めた。同僚には特に話さなかった。

里親であることをどこまで開示するかは、非常に個人的な判断であり、正解はない。大切なのは、周囲の反応に自分が疲弊しないよう、情報の出し方を自分でコントロールすることだ。

子どもが実親のもとへ戻る日が決まったとき、心にぽっかりと大きな穴が空いたような喪失感があった。

玄関で見送り、空になった子ども部屋を見たとき、涙が止まらなかった。

しかし同時に、もう一つの感情も確かにあった。「この子が幸せに暮らせますように」という、祈るような清々しい気持ちだ。

悲しさと清々しさが、矛盾しながら共存していた。それが里親という経験の、正直な終わり方だったという。

子どもが家を出た後の喪失感は、里親経験者の多くが語る。

この感情は「里親としての失敗」ではなく、深く関わった証だ。

こうした感情を安心して話せる場として、里親経験者同士のコミュニティや、里親支援機関のカウンセリング窓口を活用することが助けになることがある。

正直に言えば、非常に複雑な経験だった。しかし、やってよかったと確信しているという。

子育ての大変さを通じて、自分自身の未熟さを知った。

血縁を超えた深い愛情の形があることを学んだ。それは人生において、何物にも代えがたい財産になったと感じている。

里親制度は、決して美談ばかりではない。

しかし、一人の子どもの人生に寄り添い、共に過ごした時間は、たとえ短い期間であっても、その子の心に確かな温もりを残せる。そう信じている。

里親を検討している人に最も伝えたいことは、「覚悟」よりも「一人で抱え込まないこと」だという。

自治体の担当者、里親支援機関のスタッフ、里親仲間、頼れる場所をあらかじめ見つけておくこと。

自分自身が心身ともに健康でいられる余裕を持つことが、子どもを支える力になる。

里親をしながら自分が壊れてしまっては、子どもを守ることはできない。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、こう言いたいという。

「そんなに肩肘を張らなくて大丈夫。子どもと一緒に、少しずつ親になっていけばいいんだから」

不妊治療の末に里親という道を選んだこの経験は、「血縁」や「理想の親」という概念を何度も問い直させてくれた。

完璧な親でなくていい。ただの同居人から始めてもいい。

子どもと一緒に、少しずつ親になっていく。その時間の積み重ねの中にこそ、里親という経験の本質があるのかもしれない。

里親制度に関心を持った方は、まず地域の児童相談所または里親支援機関に問い合わせることから始めてほしい。

説明会への参加だけなら、登録や申請の義務は一切ない。「話を聞くだけ」でいい。

任務報告

不妊治療がうまくいかず、落ち込んでいた私に夫が言った。「養子縁組、調べてみたんだけど」と。

インターネットで調べた夫が里親制度のことを教えてくれたのが、最初のきっかけだった。

里親の体験談というと、温かい再生の物語として語られることが多い。

しかし、そういうまとまりのいい話ではない。

ADHD、学校への行き渋り、家庭内暴力、万引き、あらゆるトラブルを経験し、里親自身が神経症になって病院に通い続け、それでも「結論が出ない」。

里親制度の内容を調べていくうちに、登録までの過程の長さが目についた。

研修に何度も通わなければならない。面接もある。「少し面倒だな」というのが正直な感想だった。

それでも動き出せたのは、インターネットで読んだ里親経験者の体験談がきっかけだった。

「迷わずに手を挙げてほしい」というその言葉が、背中を押してくれた。

完璧な準備が整ってからではなく、迷いがあっても一歩踏み出すことに意味がある、ということを、その言葉は伝えてくれた。

委託の前には、施設での交流期間がある。

この家庭でやっていけるかどうかを双方が確認する、およそ3ヶ月の期間だ。しかしその時期に、早くも「試し行動」が始まった。

試し行動とは、子どもが「この人たちは本当に自分を受け入れてくれるのか」を確かめるために起こす行動のことだ。

施設での交流中、子どもは面会に来た別の家庭のお母さんに近づき、膝の上に乗ったり、遊んでもらったりした。こちらを試すような行動だった。

その様子を見ていた別の家庭の夫から、こんな言葉をかけられた。「少し怒り過ぎじゃないですか」。
昭和に育った感覚では、悪いことをしたら「コラ」と言って当然だった。しかしそれが今の子育てとは違うと言われた。

確かに言うことを聞かないその都度注意はしていたが、他人からそう指摘されて相当落ち込んだ。

自信をなくしかけながらも、交流期間を終えて委託に進んだ。

子どもが家に来てからの最初の頃は、とにかく夜泣きが激しかった。

夜9時頃から延々と3時間以上泣き叫ぶ。近所から「虐待ではないか」と疑われるほどの声だった。

朝目が覚めた瞬間に「お散歩」と言い出し、「あとでね」と言っただけで癇癪を起こした。

木のおもちゃが飛んでくる。ふすまに穴が開く。体に当たって痛い。

「猛獣を育てているみたい」と感じるほどの恐怖感があったと、当時を振り返る。

一番しんどかったのは、外出先でのことだった。

遊びに連れて行けば帰りたがらない。自転車の後ろに乗せると左右に暴れて転びそうになる。

スーパーに連れて行くとひっくり返って泣き叫ぶ。

実の子どもの「イヤイヤ期」であれば、ある程度は割り切れる。

しかし里親と子どもの間では、まだ親子関係が十分に築かれていない時期がある。

その状態でどう注意するか、叱ってはいけないのか、どの程度まで許容すべきなのか。判断の基準が分からず、途方に暮れた。

里親家庭における「しつけ」の難しさは、多くの里親が直面する問題だ。

実の親子でも難しい子どもへの関わり方が、関係性が築かれる前の段階ではさらに難しくなる。

こうした局面では、担当の児童福祉司や里親支援専門相談員(里親支援ソーシャルワーカー)に相談することが助けになる場合が多い。

近所への説明については、他の里親家庭とは少し異なる状況があった。

この子どもは外国にルーツを持つハーフだった。顔を見れば分かる。

隠してもしょうがないと判断し、家に来てすぐに近所の人に正直に伝えた。

外国にルーツを持つ子どもの里親養育については、文化的背景、言語、アイデンティティの形成など、特有の課題が生じることがある。

ルーツへの理解や、必要に応じた文化的サポートも里親の役割の一部になる場合がある。

職場については、急な欠勤や呼び出しの可能性があることを考慮し、上司には状況を説明した。

関係が変わったと感じた瞬間は、地味なものだった。

悪いことをしたとき、子どもがぽつりと「ごめんなさい」と言った。ただそれだけだ。

しかしそれまでは、謝るという行動がなかった。その一言が出たとき、「あ、変わったな」と感じた。

関係性の変化は、大きな出来事ではなく小さな言動の中に現れる。

それを見逃さないためにも、日々の細かな変化に目を向け続けることが里親には求められる。

やがて、子どもの行動がエスカレートしていった。言うことを聞かない、トラブルが続く。

専門機関に相談し調べてもらったところ、ADHDの診断が下りた。

ADHDとは注意欠如・多動症のことで、注意力の持続が難しかったり衝動的な行動が出やすかったりする発達障害の一つだ。

適切な支援と環境の調整によって生活のしやすさは変わるが、それには時間と継続的な関わりが必要になる。

学校への行き渋りが始まった。家庭内での暴力があった。万引きなど、社会的なトラブルも起きた。

里親である自分自身が神経症になり、病院に通うようになった。

高校で寮に入るために家を出た日、別れ際にじんとした。

「このまま高校を卒業して一人暮らしを始めてお別れになるのかな」と思った。

しかし4ヶ月で中退して戻ってきた。

20歳になった今も、色々なことが続いている。

今振り返って、里親をやってよかったかと問われれば、「フクザツ」としか言いようがない。

大変だったことは間違いない。自分が病院に通うほど追い詰められた。それでも、楽しかった思い出もある。結論は出ない。

この「結論が出ない」という正直さは、里親という経験の複雑さをそのまま表している。

温かい再生の物語として完結しない経験を、それでも続けてきた。それ自体が、一つの事実だ。

里親を考えている人に最も伝えたいことは、「真実告知」の問題ではないという。

真実告知とは、里子や養子に対して自分の出自や里親家庭であることを伝えることだ。

多くの里親がその伝え方やタイミングに悩む。しかし、それよりも大切なことがある。

「ありのままの子どもを受け入れられるか」ということだ。

里子がみんな親孝行してくれるわけではない。期待した関係にならないこともある。

それでも受け入れる覚悟を持てるかどうか。そこが問われるのだと、この20年近い経験を経て言い切る。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら「大変だよ」。それが、この経験を通じて出てくる正直な言葉だ。

里親体験談の多くは、困難を乗り越えた後の温かい結末を描く。しかし現実には、結末のない話も、「フクザツ」としか言えない経験も存在する。

ADHD、家庭内暴力、里親自身のメンタルヘルスの悪化。

こうした現実を正直に語ることは、これから里親を考える人にとっても、今まさに困難の中にいる里親にとっても、重要な情報になる。

「自分だけが大変なわけではない」という感覚が、孤立を防ぐからだ。

里親制度に関心を持った方は、まず地域の児童相談所または里親支援機関に問い合わせることから始めてほしい。

説明会への参加だけなら、登録や申請の義務は一切ない。「話を聞くだけ」でいい。

また、現在里親として困難な状況にある方は、里親支援専門相談員(里親支援ソーシャルワーカー)や里親会への相談も選択肢の一つだ。

一人で抱え込まないことが、子どもを支え続けるための基盤になる。

任務報告

市役所に別の用事で立ち寄ったとき、壁に貼られた一枚のポスターが目に入った。

「里親相談会」と書かれていた。それが、里親という選択肢を意識した最初の瞬間だった。

用事を済ませながらも、そのポスターのことが頭から離れなかった。

制度を知ってからも、すぐに動き出せたわけではなかった。

血の繋がらない子どもを我が子と同じ愛情で迎え入れられるのか。

その問いは、簡単には答えが出なかった。さらに重くのしかかったのは、責任の重さだった。

一時的に迎え入れることと、長い時間をともに過ごすことは違う。

生涯にわたって責任を持てるのか、正直自信がなかった。

「できる」と言い切れる自分がいない限り、踏み出してはいけないのではないかという思いが、しばらく足を止めさせていた。

動き出すきっかけになったのは、里親制度の研修への参加だった。

そこで聞いたさまざまな体験談が、頭で考えていた「里親像」を大きく変えた。

里親を必要としている子どもたちが実際にいること、その子たちにとって家庭という場所がどれほど大切なのかを、体験者の言葉を通じて初めて実感として受け取れた。

「力になれたら」という気持ちが、理屈ではなく素直に湧き上がってきた。

もう一つ大きかったのは、身内が納得してくれたことだ。自分一人の気持ちだけでは決められない。

家族が同じ方向を向いてくれたことが、最後の後押しになった。

子どもが来た最初の頃、家の中はどこかよそよそしかった。こちらも他人行儀になってしまい、変に気を遣いすぎた。

するとその緊張が子どもにも伝わって、今度は子どもの方がこちらに気を使うような状態になった。

気を使わせまいとして、かえって気を使わせてしまう。その悪循環から抜け出せないまま、しばらくの時間が過ぎた。

知らない家庭に入る子どもの気持ちを考えれば、すぐに打ち解けられないのは当然だと頭では分かっていた。

しかし実際にその状況に置かれると、どうすれば自然な雰囲気を作れるのかが分からず、考えていたよりずっと困難だと感じた。

最もしんどかったのは、コミュニケーションが続かない時期が長く続いたことだった。

夕方、休日、晩ご飯の時間。会話が生まれそうな場面をつくろうと、話題を考えて話しかけた。

しかし返ってくるのは一言か二言で、そこで会話が終わった。また話しかける。また一言で終わる。

それが何日も、何週間も続いた。

次第に「受け入れてもらえていないのかもしれない」という考えが頭を占めるようになった。

自分で自分を責め、気持ちが沈んでいく。半ば自暴自棄のような状態になった時期が、この経験を通じて最も精神的にきつかった。

里親として子どもに向き合いながら、同時に自分自身のメンタルが揺らいでいく。

そのことを誰かに話せる場所があれば、あの時期は少し違ったかもしれないと、今になって思う。

変化は、ある日突然やってきた。

こちらから話しかけたのではなく、子どもの方から話しかけてきた。些細な内容だった。

しかしそれまでの日々を思えば、その一言の重さは全然違った。

さらに少し経って、「何をしたい」「何を食べたい」と自分の意見を言ってくれるようになった。

それまでずっと他人行儀だった分、その変化がうれしかった。距離が縮まっているのだと、はっきりと感じた瞬間だった。

職場には、以前から里親について相談していたこともあり、迎え入れることを決めたと伝えると快く受け入れてもらえた。

事前に話していたことで、急な対応が必要になったときも動きやすかった。

近所については、こちらから改めて説明する必要はないと考えた。自分たちが納得していればそれでいい。

聞かれたときには「里親制度を利用した」とストレートに答えた。

説明の仕方に正解はないが、自分たちの軸がしっかりしていれば、周囲への説明は後からついてくるものだと感じた。

里親になってから気づいたことがある。子どもだけでなく、自分自身も成長しているということだ。

人が持つ愛情の強さを実感し、自分の存在価値を改めて感じる場面が増えた。それが今、生き甲斐になっている。

里親を考えている人に伝えたいのは、利用する前に思っていたほどハードルは高くないということだ。

事前に制度の仕組みをきちんと理解することは大切だが、完璧な準備が整うのを待つ必要はない。

難しく考えすぎず、自分に何ができるかだけを純粋に考えてみることが、最初の一歩になる。

任務報告

不妊治療を続けるかどうか、夫婦でまだ答えを出せずにいたある日、自治体の広報誌に里親制度の記事が載っていた。

それまで「里親」という言葉は知っていたが、実際に調べてみると、養育里親や将来の養子縁組を前提とした里親など、いくつかの種類があることを初めて知った。

そのとき初めて、里親という選択肢が現実のものとして見えてきた。

里親制度を知ってからも、すぐに動き出せたわけではない。

最大のためらいは「自分たちに本当にできるのか」という不安だった。

実の子どもでも子育ては大変だと聞く。

ましてや何らかの事情を抱えた子どもを受け入れるには、相応の覚悟が必要ではないかと思うと、簡単には踏み出せなかった。

周囲に里親経験者がいなかったことも大きかった。生活がどう変わるのか、具体的に想像できる手がかりがなかった。

転機になったのは、自治体が開いた里親説明会への参加だった。

そこで実際に里親をしている人の話を聞く機会があり、理想だけではなく、悩みながら続けている様子を率直に語ってくれた。

「完璧な家庭でなくても関われる形はある」という言葉を聞いたとき、肩の力が少し抜けた。

里親を検討している段階でまず参加できる説明会は、各都道府県・市区町村の児童相談所や里親支援機関が定期的に開催している。

大阪府内でも複数の窓口が案内を行っており、参加に際して特別な条件はない。

最初に委託されたのは小学校低学年の子どもだった。

思っていたよりずっと静かで、家の中でも遠慮している様子が強く、話しかけても短い返事しか返ってこなかった。

テレビを見ていても落ち着かない様子で、この家でどう過ごしていいか分からないように見えた。

食事のときも量を少ししか取らず、好き嫌いなのか遠慮しているのか判断できず戸惑った。

「何をしてあげるのが正しいのか」が分からないまま、毎日が手探りだった。

最もきつかったのは夜の時間だ。布団に入ってもなかなか眠れない日が続き、夜中に何度も起きることがあった。

理由を聞いても「大丈夫」としか言わない。どう声をかければいいのか分からないまま、ただ隣に座って様子を見ていることも多かった。

自分自身にも余裕がなく、夫婦で対応方針が合わないこともあった。

里親家庭において夜間の不安定さはよく見られることだと後から支援者に聞いたが、その渦中にいるときは、そうした知識があっても気持ちが楽になるわけではなかった。

変化は、ある夕食のときに訪れた。その日、子どもが学校であった出来事を自分から話してくれた。

「休み時間に友達と遊んだ」という、それだけの話だ。

でも、それまでこちらが聞いても「普通だった」と短く返すだけだったから、思わず驚いた。うれしかった。

その日を境に、学校のことや好きな遊びの話を少しずつしてくれるようになった。関係が変わったと実感できた瞬間だった。

近所には「親戚の子をしばらく預かっている」と伝える程度にとどめた。

子ども自身に余計な関心が向くのを避けたかったからだ。

職場には、急な学校行事などで休む可能性があるため上司にだけ事情を説明した。

同僚には特にこちらから話すことはせず、必要な範囲だけ伝えるようにした。
どこまで話すかの正解はなく、それぞれの状況に応じた判断になる。

子どもによって事情はまったく異なり、思うように関係が築けない時期も当然ある。

自分の対応がこれでよかったのか、迷う場面は何度もあった。

それでも、特別なことをしなくても、誰かと一緒に生活する時間が子どもにとって意味を持つことがある、と感じている。

里親になる前の自分に言えるとしたら、「最初から完璧にできなくて大丈夫」ということだ。

分からないことはそのたびに里親会や児童相談所に相談すればいい。もっと早い段階から頼っていれば、気持ちが楽だった場面もあったと思う。

制度の内容や受けられる支援をよく知ったうえで、自分たちの生活の中で無理なく続けられるかを考えること。

それが、里親を検討する際の最初の一歩になると思う。

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木曜日の夕方、ソファで横になっていた。

特別なことがあったわけじゃない。

ただ疲れていた。

朝から仕事で、帰りにスーパーに寄って、夕食の準備をして、それだけで力が尽きた。

パートナーは今夜も帰りが遅い。

彼女は自分の部屋で、たぶん宿題をしている。

リビングは静かで、窓の外がゆっくり暗くなっていくのが見えた。

目を閉じた。

委託から半年が経った。

この半年間に何があったか、思い返すと疲れる。

夜中の看病、残ったお弁当、口論、床に座ったまま迎えた朝。

里親としての正解が何なのか、今もわからない。

LGBTのカップルがこの子の家族になれるのか、という問いも、きれいに消えたわけじゃない。

同性愛者である私たちのもとで、この子が「ここでよかった」と思える日が来るのかどうか、まだわからない。

ただ今日は、考える体力が残っていなかった。

うとうとしかけた頃、廊下に足音がした。

彼女の足音だった。

ぺたぺたとした、小さなスリッパの音。

リビングに入ってくる気配がした。

私は目を閉じたまま、息をひそめた。

テーブルの上に、何かを置く音がした。

コとん、という音だった。

それだけだった。

また足音がして、廊下に遠ざかって、部屋のドアが閉まった。

目を開けた。

テーブルの上に、コップが一つ置いてあった。

麦茶が入っていた。

氷も入っていた。

氷がコップの縁に当たって、かすかな音を立てた。

私はしばらく、そのコップを見ていた。

それから起き上がって、コップを両手で持った。

冷たかった。

ひんやりとした温度が手のひらに広がった。

一口飲んだ。

麦茶の、少し苦くて甘い味がした。

廊下のほうを見た。

「ありがとう」
声に出して言った。

部屋のドアは閉まっていた。

聞こえたかどうか、わからなかった。

返事はなかった。

この半年間、ずっと待っていた言葉を、今日は私が先に言っていた。

それがどういう意味なのか、うまく言葉にできない。

里親として何かが変わったのか、それとも私が変わったのか、たぶん両方で、たぶんどちらでもない。

不満がなくなったわけじゃない。

ありがとうをもらえなかった日々の積み重ねは、消えない。

夜中に床で座っていた背中の痛さも、残ったお弁当を流しで洗ったときの気持ちも、まだ体のどこかに残っている。

LGBTのカップルが里親になるとはどういうことか、同性愛者である私たちがこの子に何を渡せるのか、答えはまだ出ていない。

たぶんこれからも、きれいな答えは出ない。

ただ今日、私はコップを受け取った。

彼女は何も言わなかった。

ありがとうも、どういたしましても、なかった。

それでも、あのコとんという音は確かに聞こえた。

テーブルの上に置かれた、あの小さな音は。

窓の外が完全に暗くなっていた。

コップの中の氷がまた鳴った。

私は日記を開いて、今日のことを書いた。

きれいにまとめるつもりはない。

答えが出たふりもしない。

ただ今日の麦茶は、少しだけおいしかった。

それだけを書いて、ペンを置いた。

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きっかけは、テレビのドキュメンタリー番組だった。

家庭の事情で親と一緒に暮らせない子どもたちがいること、そしてそうした子どもたちを家庭で育てる里親という制度があることを、そこで初めて知った。

制度を知ってからも、すぐには動けなかった。

子どもの人生に関わることだから、中途半端な気持ちで踏み込んではいけないという思いが強かった。

実際の生活の中でどこまで受け入れられるのか、家族の理解と協力が得られるのか。自分一人では決められないことばかりだった。

家族と何度も話し合いを重ねながら、少しずつ気持ちを整理していった。

背中を押したのは、説明会で聞いた現役里親の言葉だった。悩みながらも子どもと向き合い続けているその姿に共感した。

「すべてを完璧にしてあげる必要はなく、安心できる居場所をつくることが大切」

この言葉が、それまで感じていた「自分に務まるのだろうか」という重さを、少し軽くしてくれた。

子どもが来た最初の頃、こちらが声をかけても小さくうなずく程度で、表情はどこか固かった。

食事のときも遠慮しているようで、「本当に食べていいの?」といった様子が見えた。

夜もなかなか寝付けない日があり、家の中では静かに過ごしながらこちらの顔色をうかがっているように感じる場面も多かった。

新しい環境への不安と戸惑いが、子どもの全身から伝わってきた。

最もきつかったのは、突然泣き出したり怒りをぶつけてきたりする場面への対応だった。

「自分の対応は正しいのか」「子どもを傷つけてしまうのではないか」

そのたびに不安が押し寄せ、精神的に疲弊する瞬間があった。

夜中に泣いて呼ばれることが続き、寝不足が重なって体力的にも限界に近い日もあった。

変化は、日常の小さなやり取りの中に現れた。

学校や遊びでの出来事を楽しそうに話してくれるようになり、一緒に笑える瞬間が少しずつ増えてきた。

最初の頃の緊張と距離感が解けていくのを、日々のやり取りの中で感じた。

信頼関係というものは、特別な出来事によって生まれるのではなく、何でもない日常の積み重ねの先にあるのだと実感した。

職場では、直属の上司とチームメンバーにだけ事前に相談した。

「家庭で新しい子どもを受け入れるので、最初のうちは時間に変動があるかもしれない」と率直に伝えたことで、勤務時間の調整や休暇取得に柔軟に対応してもらえた。

子どもに安心できる環境を保ちながら、自分たちの生活も守るために、職場への事前の相談は欠かせない準備だったと感じている。

里親を考えている人へ伝えたいのは、最初の緊張や戸惑いは誰にでもあるということだ。

完璧を目指す必要はなく、子どものそばにいて寄り添うことが出発点になる。

少しずつ信頼関係が築けたときの喜び、日常の中でふと見せてくれる笑顔。それは、どんな言葉でも言い表せないものだ。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、「迷わずまず一歩を踏み出してみなさい」と言いたい。

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今日も「ありがとう」は、なかった。

夕方、玉ねぎを炒める音がキッチンに広がっていた。

油の弾ける音、醤油を入れた瞬間の甘い煙。

私はそれを聞きながら、リビングのほうを何度か確認した。

彼女はソファに座って、ランドセルも下ろさないまま、窓の外をぼんやり見ていた。

8歳の背中は小さくて、でも妙に遠かった。

「ごはん、できたよ」

返事はなかった。

少しして、ランドセルをどさっと床に置く音だけが聞こえた。

テーブルに並べた皿を、彼女はひとつひとつ確認するように見た。

嫌いなものが入っていないか、確かめるみたいに。

「いただきます」を言って、箸を持って、黙って食べ始めた。

パートナーが「おいしいね」と言うと、彼女は小さくうなずいた。

私のほうは見なかった。

食器を洗いながら、泡の立つ音を聞いていた。

別に、感謝してほしいわけじゃない。

そう思おうとした。

でも手の中のスポンジが、なんとなく重かった。

委託されて3ヶ月が経つ。

LGBTのカップルが里親になることへの周囲の視線は、想像していたよりずっとやわらかかった。

担当の支援員さんは丁寧だったし、児童相談所の対応も思っていたより温かかった。

同性愛のカップルだからといって、特別に冷たくされた記憶はない。

それでも私たちは、どこかで「ちゃんとしなければ」と思い続けていた。

里親として、LGBTとして、この子に何かを証明しなければならないような気がして。

だから余計に、頑張ってしまっているのかもしれない。

お風呂の準備をして「入れるよ」と声をかけると、彼女は無言で立ち上がってドアを閉めた。

シャワーの音が壁越しに聞こえてきた。

水音はしばらく続いて、それからぴたりと止まった。

廊下に、シャンプーの甘い匂いが漂ってきた。

「慣れてないだけだよ」
パートナーはそう言って、私の肩に手を置いた。

温かかった。

でもその温かさが、少しだけ的外れに感じた。

慣れの話じゃない、たぶん。

うまく言葉にできないまま、私は「そうだね」と返した。

夜、彼女が眠ったあと、リビングに一人で座った。

テーブルの上に、彼女が使ったコップが残っていた。

麦茶の輪染みが、白いテーブルクロスにうっすらついていた。

私はそれをじっと見ていた。

拭こうとして、やめた。

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夕食が終わって、ソウがリビングでハナに話しかけていた。

私は一人で皿を洗っていた。

水の音を聞きながら、私は今夜こそ何か言うべきかと考えていた。

でも何をどう切り出せばいいか、昨日も今日も、言葉は出てこないままだった。

フライパンをすすいで、スポンジを絞って、皿を拭く。

その繰り返しの中に、気配がした。

ハナが台所に入ってきて、私の隣に立った。

何も言わなかった。

私も何も言わなかった。

水の音だけが続いた。

三十秒か、一分か、それくらい経ったころ、ハナがぽつりと言った。

「ねえ。
うちってふつうの家族じゃないの?」

私は手を止めなかった。

グラスの内側をスポンジで丁寧に回しながら、少し間をおいた。

「どうしてそう思った?」

ハナが話した。

学校からの帰り道、ミサちゃんに聞かれたこと。

ふつうだよと答えたこと。

でもそれが本当かどうか、ずっとわからなかったこと。

私は水を流したまま、全部聞いた。

話し終わったとき、私は水を止めた。

タオルで手を拭いて、ハナの隣にしゃがんだ。

九歳の目と、三十二歳の目が、同じ高さになった。

「ふつうじゃないかもしれない」と私は言った。

「俺とソウさんは、男どうしで一緒に暮らしてる。

それは、世間でいうふつうとは違う」

ハナは黙って聞いていた。

「でも」と私は続けた。

「ふつうって、誰が決めるんだろうな」

答えにならないとわかっていた。

もっとうまい言葉があるのかもしれない。

でもこれが、今夜自分の言える正直だった。

ハナはしばらく黙っていた。

それから小さくうなずいた。

何かが解決したわけじゃない。

でもその小さなうなずきが、私の胸の奥に、静かに落ちた。

リビングからソウの「どうしたの二人とも」という声がした。

私は立ち上がって「なんでもない」と言った。

ハナも、少しだけ口の端を動かした。

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ニュースやテレビの特集で、親と一緒に暮らせない子どもたちの現状を取り上げているのを見たことがきっかけだった。

それまで「里親」という言葉はなんとなく聞いたことがある程度だったが、実際には家庭的な環境を必要としている子どもが多くいることを初めて知った。

インターネットで調べ、自治体の情報を読むうちに、里親にはさまざまな形があり、子どもの生活と成長を支える制度なのだと理解するようになった。

関心を持ってからも、すぐには動けなかった。子どもの背景やこれまでの経験をしっかり受け止められるのか、責任の重さを感じていた。

家族の理解が得られるか、仕事との両立ができるか、現実的な不安もあった。

情報を集め、話を聞くうちに、少しずつ具体的に考えられるようになった。

家族とも話し合いを重ね、「できる範囲で子どもの成長を支えたい」という気持ちが言葉になっていった。

そして思い切って、一歩を踏み出した。

子どもが来た最初の頃、お互いに緊張していた。

子どもは環境の変化に戸惑っているようで、あまり言葉を発さず、距離を取っている様子があった。

こちらもどう接すれば安心してもらえるのか分からないまま、気を遣いながら様子を見る日々だった。

まずは安心して過ごせる場所だと感じてもらうことを意識した。生活のリズムやルールも少しずつ伝えながら、焦らずに時間をかけた。

時間が経つにつれて、少しずつ表情が出てきて、会話も増えていった。

最もしんどかったのは、子どもがなかなか気持ちを言葉にできず、どう接すればいいか分からなくなったときだった。

ある日、学校から帰ってきた後、急に機嫌が悪くなった。声をかけても部屋にこもってしまった。

何かあったのだとは分かる。しかし無理に聞くのがいいのか、そっとしておくべきなのか、判断できなかった。

子どものこれまでの経験を思うと、気持ちを簡単に話せないことも理解できる。

それでも、どう支えればいいのか分からないまま時間が過ぎていくことは、想像以上にこたえた。

答えは出なかった。ただ、焦らず待つことが、そのときできる唯一のことだった。

変化は静かにやってきた。

ある日、子どもの方から学校での出来事を話してくれた。今日あったことや、感じたことをぽつぽつと。

それまでは必要なこと以外あまり話さず、どこか距離があるように感じていただけに、その言葉が嬉しかった。

特別な出来事ではなかった。日常の中で自然に会話が生まれた、それだけのことだ。

しかしその瞬間に、少しずつ信頼関係ができてきたのだと実感した。

周囲への説明は、特にしなかった。それぞれの家庭の判断があっていい。

どこまで話すかは、子どものプライバシーを守ることを軸に考えることが一つの基準になると思う。

里親を考えている人に伝えたいのは、「完璧でなくても大丈夫」ということだ。

最初は不安や迷いが多く、本当に自分たちにできるのか悩んだ。

子どもの気持ちを理解することも、信頼関係を築くことも、簡単ではなかった。

それでも、特別なことをするというより、日々の生活の中で安心できる場所をつくり、少しずつ関係を育てていくことが大切だと感じている。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、「考えすぎなくて大丈夫!」と言いたい。

20代で里親になることへの迷いは、実際にやってみると杞憂だった部分も多かった。

年齢よりも、目の前の子どもと向き合う気持ちの方がずっと大事だと、今は思っている。

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最初から長く関わるつもりは、なかった。

短期の委託という形で、2週間だけ子どもを預かる。実親が入院中で、他に頼れる親族がいない。

その間だけ、家庭的な環境を提供してほしいという依頼だった。夫婦で話し合い、「2週間なら」と引き受けた。子どもはその時、4歳だった。

2週間が終わっても、実親の退院は延びた。延びた先にまた事情が重なった。

気づけば委託は続いており、4歳だった子どもが小学校に上がり、やがて9歳になっていた。

人生には、始める前に全貌が見えない縁というものがある。

あのとき「2週間だけ」と思わなければ、引き受けていなかった。引き受けなければ、この5年間はなかった。

短期委託の難しさは、「終わりがある」という前提で関係を始めることだ。

最初の数日、子どもに対して適切な距離を保とうとしていた。

深く関わりすぎると、終わったときに子どもが混乱する。そう考えて、必要以上に情を移さないよう、どこかで自分にブレーキをかけていた。

しかしそのブレーキは、子どもには関係がない。4歳の子どもは、目の前の大人を「一時的な保護者」として認識しない。

ただそこにいる大人として、少しずつ近づいてくる。朝起きると隣に来て座る。手を繋いで歩く。名前ではなく「ねえ」と呼んで袖を引っ張る。

2週間が経つ頃には、こちらのブレーキなど意味をなしていなかった。

最初の延長連絡が来たのは、委託13日目だった。「もう少し待ってほしい」という内容だった。

夫婦で顔を見合わせた。断る理由は特になかった。「もう少しなら」と答えた。そのやり取りが、その後何度繰り返されたか分からない。

短期委託が長期に移行するとき、制度上の手続きが変わる。

書類が増え、面談が増え、関わる人間も増えた。気づけば自分たちは「短期里親」ではなく、気持ちの上でも制度の上でも「この子の養育者」になっていた。

誰かに強制されたわけではない。気づいたらそうなっていた、という感覚だった。それが不思議と、重くはなかった。

委託から1年ほど経った頃、実親が回復して面会に来た。

子どもはその日、朝から落ち着かなかった。何かを察していたのだと思う。

面会の場には自分たちは同席しなかったが、終わった後の子どもの様子を見た。泣いていた。

どんな気持ちで泣いていたのか、聞けなかった。

その夜、子どもはなかなか眠れなかった。布団の中で何度も寝返りを打ち、夜中に起きて水を飲みに来た。

隣に座ってただ背中に手を当てていた。何も言わなかった。言葉では届かないものが、その夜の子どもの中にあった。

実親との面会が定期的に続くようになってからも、委託は継続された。

二つの「家」の間で、子どもは少しずつ自分の感情を整理していったのだと思う。

その整理を手伝うことが、自分たちの役割だと理解するようになった。

転機は、子どもが9歳になった夏だった。

実親のもとに週末を過ごしに行って戻ってきた日の夜、子どもがぽつりと言った。「帰りたくなかった」と。

その言葉の意味を、すぐには整理できなかった。実親のところから、ここに帰りたくなかったのか。

それともここから、どこかへ帰りたくなかったのか。どちらの意味かを確認する前に、子どもは布団に潜ってしまった。

翌朝、何事もなかったように朝食を食べた。こちらも何も聞かなかった。

ただその言葉は、5年間の中で最も重く、最も温かく、胸に残っている言葉になった。

短期委託という入り口は、里親への最もハードルの低い形の一つだ。

「長く関わる自信はないけれど、一時的なら」という気持ちで始められる。それは正直な出発点だと思う。

ただ、短期であっても子どもとの関係は始まる。始まった関係には、予想外の続きがあることがある。それを怖れる必要はないが、覚悟しておいてもいいと思う。

「2週間だけのつもりだった」という言葉は、後悔ではない。あの軽い入り口がなければ、この5年間は存在しなかった。

軽い気持ちで始めたことが、気づけば人生の一部になっていた。そういうことが、里親という経験には起きる。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、「2週間で終わらないかもしれないけど、それでいい」と伝えたい。

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三月の夕方、ユイが「卵焼き作っていい?」と言った。

台所でパスタを茹でていた私は、振り返った。

十八歳になったユイが、エプロンを手に持って立っていた。

春から調理の専門学校に進む。

入学式は来週だった。

今夜は出発前最後の夜だった。

「ハルカさんとミオさんの分も作る」
私は「作って」と言った。

それだけ言えた。

ミオがちょうど帰ってきた。

玄関で「いい匂い」と言いながら荷物を置いて、台所を覗いた。

三十二歳の女が、エプロン姿のユイを見て、一瞬動きを止めた。

それから何事もなかったように「手洗ってくる」と言って、洗面所に向かった。

私はソファに座って、台所を見ていた。

ユイが卵を割った。

三つ。

ボウルに落として、菜箸でよく溶いた。

砂糖を入れた。

だしを加えた。

少し考えてから、砂糖をもう少し足した。

その仕草が、十二年前のミオに似ていた。

フライパンを火にかけた。

油を引いた。

じゅわりという音がした。

甘い匂いが広がった。

私は目を閉じた。

この匂いを、何百回嗅いだだろう。

二十七歳だった私が、三十三歳になるまでの六年間。

試作を重ねたあの夏の朝も、ユイが初めて「おいしかった」と言ったあの朝も、全部この匂いの中にあった。

ユイが卵液を流した。

菜箸で端を持ち上げて、ゆっくり巻いた。

二巻き目に差しかかったとき、端がフライパンに当たる音がした。

じゅっ。

ユイが「あ」と言った。

私は目を開けた。

ミオも台所の入口に立っていた。

二人で見ていた。

ユイはそのまま巻き続けた。

焦げた端を、わざと残したような手つきで。

皿に乗せて、三つに切った。

「どうぞ」
三人でテーブルを囲んだ。

LGBTの同性愛カップルとして里親になった日から、六年が経っていた。

二十七歳と二十六歳だった私たちは、いつの間にか三十代になっていた。

ユイは六歳から十八歳になっていた。

テーブルの上に、三枚の皿があった。

私は箸を取った。

一口、食べた。

甘かった。

だしが入っていた。

端が少し焦げていた。

何も言えなかった。

言葉が見つからなかった。

三十三歳の女が、十八歳の作った卵焼きを前に、黙って箸を持っていた。

ミオが「うまい」と言った。

ユイが箸を持ちながら、静かに言った。

「前のおうちの味に似てるかな」
誰も答えなかった。

ミオも私も、答えを持っていなかった。

ユイの前の家庭の台所を、私たちは知らない。

あの卵焼きを作っていた手を、見たことがない。

似ているかどうか、永遠にわからない。

でも三人とも、最後まで食べた。

夜、ユイが寝てから日記を開いた。

今夜は長い時間をかけて書こうと思っていた。

でもペンを持ったまま、しばらく何も書けなかった。

書きたいことが多すぎると、言葉が出てこない。

窓の外で、春の風が鳴った。

LGBTの同性愛カップルとして里親になることを決めたあの夜、私は自分たちに足りないものを数えていた。

でも今夜、ユイが台所に立って、三人分の卵焼きを作った。

端を少し焦げさせながら、丁寧に巻いた。

それを三人で食べた。

完璧な家族ではなかった。

あの味に完全に近づけたかどうかも、わからない。

でもこの台所で、この子は何かを作れるようになった。

誰かのために、台所に立てるようになった。

それが今夜の、最後の一行になった。

ユイが、私たちのために卵焼きを作った。

端が少し焦げていた。

それで十分だった。

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朝、カイが登校前にランドセルを背負いながら言いかけた。

「あの……」

止まった。私はコートのボタンを留めながら、続きを待った。カイは一度口を閉じて、それからもう一度開いた。

「サチさん、今日お弁当いる?」

遠足は来週だった。だからお弁当はいらない。

「いらないよ」と答えると、カイは「そっか」と言って玄関を出た。

扉が閉まって、足音が階段を降りていった。私はしばらくそこに立っていた。

「あの」から「サチさん」に、言い直した。その数秒を、ずっと見ていた。

夜、ユキが寝たあとで日記を開いた。今日こそ、ちゃんと書こうと思った。

カイがこの家に来てから、私は「あの」という言葉を何十回聞いただろう。

最初は空白だと思っていた。名前がない場所、呼び方が決まらない空白。

だからその言葉が聞こえるたびに、どこかで息を詰めていた。

でも今日、カイが「あの」と言いかけて止まった瞬間を見て、初めてわかった気がした。

あの言葉は、空白じゃなかった。

カイはずっと、誰かを呼ぼうとしていた。

名前がわからないまま、呼び方が見つからないまま、それでも「あの」と言って、こちらに手を伸ばしていた。

牛乳パックを持って振り返ったときも、膝から血を流しながら処置が終わったあとも、ずっと。

私はその手に、気づくのが遅かった。

元教員として、三百人以上の子どもと関わってきた。

子どもの言葉を読むのは得意だと思っていた。でもこの七歳の男の子の「あの」に、三ヶ月かかった。

ペンを持ったまま、窓の外を見た。夜の住宅街が静かだった。カイの部屋の電気は、もう消えていた。

最後に一行だけ書いた。

この子が「あの」と言うたびに、私はちゃんと呼ばれていたんだと思う。

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不妊治療をやめると決めた日の夜、夫婦でテーブルを挟んで座っていた。

泣くわけでも、言い合うわけでもなかった。ただ静かだった。

窓の外から車の音が聞こえて、冷蔵庫がかすかに鳴っていた。

6年間通い続けたクリニックに、翌日電話をかけた。

担当の看護師さんが「お疲れさまでした」と言った。その言葉が、予想外に長く胸に残った。

治療をやめた後、しばらくの間、自分たちが何者なのか分からなかった。

「子どもを望んでいる夫婦」という役割が、6年間の自分たちを定義していた。

それがなくなったとき、代わりに何があるのかが見えなかった。

喪失の中で、里親という言葉に出会った。

治療をやめてから3ヶ月ほど経った頃、夫がある夜こう言った。

「里親って、調べたことある?」

自分は調べたことがなかった。その言葉を聞いたとき、正直な反応は「まだそういう話をする気持ちになれない」だった。

治療の疲れが、まだ体に残っていた。子どもに関わることすべてが、しばらくは遠く感じた。

それでも夫が調べてきた内容を、黙って聞いた。制度の仕組み、委託の流れ、登録までのステップ。

聞きながら、「これは私たちの話だ」という感覚と、「まだ私たちの話にしたくない」という感覚が、同時にあった。

その夜は結論を出さなかった。ただ、夫が調べてきてくれたことを、悪くないと思った。

「代替案」ではないと、はっきり思った瞬間。

里親について調べていく中で、一つのことが気になっていた。

自分たちは、子どもを持てなかったから里親を選ぼうとしているのか。

それは「本当に子どもを望んでいる」のではなく、「子どもがいる生活の代替を求めている」だけではないのか。その問いが、しばらく離れなかった。

答えが出たのは、説明会に参加した日だった。

担当者が「今、家庭を必要としている子どもが、この地域だけで何十人もいます」と言った。

数字として聞いていたはずが、そのとき急に、その子どもたちが具体的な重さを持って迫ってきた。

自分たちが子どもを必要としているのではなく、子どもが家庭を必要としている。

その順番の違いに気づいたとき、「代替案かどうか」という問いが、急に小さく見えた。

どういう動機で始めても、目の前の子どもにとっての現実は変わらない。

ならば、動機の純粋さにこだわって立ち止まっている場合ではないと思えた。

不妊治療の6年間が、思わぬ形で役に立った。

来たのは6歳の女の子だった。人懐っこいが、突然泣き出すことがあった。

理由が分からないまま泣いている子どもを前にして、最初は戸惑った。

しかしある日、気づいたことがあった。自分たちは6年間、「なぜうまくいかないのか分からない」という状況の中にいた。

説明のつかない結果を受け入れ続けた。答えが出ない問いと共存することに、どこかで慣れていた。

理由の分からない子どもの涙を、「解決しなければならない問題」として見なくなったのは、その経験があったからかもしれない。

ただそこにいて、泣き止むまで待つ。それでいいと思えた。

不妊治療の6年間が、こういう形で役に立つとは思っていなかった。

夫婦の間で起きた、静かな変化。

治療中、夫婦の会話はいつも治療のことが中心だった。

次の周期はどうするか、結果をどう受け止めるか、次のステップに進むか。それが6年間続いた。

里親になってからの会話は、違った。

「今日あの子がこんなことを言った」「昨日の夕食、よく食べてた」「最近、笑うことが増えた気がする」。

子どもの話ではあるが、治療中の会話とは質が違った。未来への不安ではなく、今日の出来事を話していた。

夫婦関係が、治療中より柔らかくなったと感じたのは、委託から半年ほど経った頃だった。

治療中は同じ目標に向かっていたが、どこか切迫していた。今は同じ日常を生きている、という感覚があった。

「お父さんのご飯、好き」。

関係の変化を感じたのは、夫への言葉だった。

ある夕食のとき、子どもが何気なく「お父さんのご飯、好き」と言った。

夫は料理が得意で、週末によく台所に立っていた。その一言を聞いたとき、夫が少し目を細めた。

その顔を見て、自分も胸が熱くなった。

6年間の治療中、夫がつらそうにしている場面を何度も見た。

男性は治療の当事者でありながら、周囲からは「奥さんを支える立場」として見られることが多い。

夫自身の悲しみや焦りは、どこかに置いておかなければならないような空気があった。

「お父さんのご飯、好き」という一言が、その6年間を少し癒したような気がした。

大げさかもしれない。しかしあの夜の夫の顔を、自分はずっと覚えていると思う。

治療を経て里親になろうとしている人へ。

不妊治療を経て里親を考えている人に、一つだけ伝えたいことがある。

治療中の自分と、里親になってからの自分は、違う人間になっている。

治療中に感じた「子どもが欲しい」という気持ちと、里親として目の前の子どもと向き合うときの気持ちは、似ているようで違う。

どちらが正しいとか、どちらが深いとかではない。ただ、違う。

その違いを怖れなくていいと思う。

治療をやめた日に「何者でもなくなった」と感じた自分たちが、今は「あの子の里親」という場所に立っている。

場所は、探しているうちに見つかるものではなく、気づいたらそこにいた、というものかもしれない。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、「治療をやめた日の静けさを、覚えておいて」と伝えたい。

あの静けさが、その後の出発点になったから。

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保護者席は、校庭の端に白いパイプ椅子が並んでいた。

ノブと二人、真ん中あたりに座った。

左隣は母親が一人でビデオカメラを構えていた。

右隣は祖父母らしき老夫婦が、お茶を回し飲みしていた。

誰も私たちを見なかった。

見ないことで、見ていた。

五十四歳の男は、その種類の視線の避け方を、長い年月をかけて覚えてきた。

競技が始まった。

アナウンスが響くたびに、保護者席がざわついた。

子どもの名前を呼ぶ声、手を叩く音、スマートフォンを構える腕。

秋の空気は乾いていて、運動場の砂埃が風に乗った。

私はプログラムを膝の上に置いて、校庭を見ていた。

徒競走は午前の最後だった。

三年生の列にショウがいた。

白い帽子をかぶって、スタートラインに並んでいた。

遠くて表情は読めなかった。

ピストルが鳴った。

ショウは速かった。

最初の十メートルで前に出て、そのまま誰にも追いつかせなかった。

ゴールテープを切った瞬間、ノブが「おお」と短く言った。

私は何も言わなかった。

言葉が出てくる前に、ショウが保護者席を見た。

目が合った。

一秒か、二秒か。

ショウはすぐに視線を外して、列に戻っていった。

それだけだった。

その一瞬に何があったのか、午後の競技の間もずっと考えていた。

確認だったのか。

来ているかどうか、確かめたかっただけなのか。

それとも、もっと別の何かだったのか。

答えを持たないまま、閉会式を聞いた。

帰り道、三人で並んで歩いた。

ノブが「速かったな、一番だったぞ」と言った。

ショウは「うん」と言った。

私は黙って歩いた。

言葉が見つからなかった。

運動会の帰り道に、五十四歳の男が八歳の子どもにかける言葉を、私は持っていなかった。

家に帰って、ショウが部屋に戻った。

私は台所でお茶を入れた。

湯呑みを両手で持って、廊下に出たとき、ショウの部屋の前を通った。

ドアが少し開いていた。

隙間から声が聞こえた。

「一番だった」
誰かに話しかけているわけではなかった。

ただ、自分に言い聞かせるように。

あるいは、誰かに報告するように。

小さく、確かめるように。

私はその場に立ったまま、お茶が冷めていくのを感じていた。

言いたかったのだ、あの子は。

誰かに。

一番だったと。

その誰かに、私はまだなれていない。

なれているのかどうか、今夜はまだわからない。

任務報告

翌朝、私が卵を割ったとき、ソウが台所に入ってきた。

「昨日、ハナちゃんと少し話した」

声が低かった。

私はフライパンから目を離さずに「そうか」と言った。

「学校で聞かれたみたい。

お父さんとお母さんはどんな人って」

卵が油の上に広がった。

白身の端がゆっくりと固まっていく。

私は火を弱めた。

「それで?」

「ふつうだよって答えたって。

でも帰ってきてからずっと、そのことが頭に残ってたみたい」

ソウは冷蔵庫を開けて、牛乳を出した。

三十一歳の男が、朝からそわそわしている。

普段と同じ動作なのに、今朝は少し落ち着きがなかった。

「ちゃんと話してあげたほうがいいよね。

俺たちのこと、説明するというか……」

「説明って、何を」

私は皿に卵を移しながら言った。

責めているわけじゃなかった。

ただ、本当にわからなかった。

自分たちが男どうしで暮らしていること、それが世間の言う「ふつう」とは違うこと、でもだからといってハナに何を伝えればいいのか。

謝るわけでもない。

誇るわけでもない。

「……うまく言えないけど」とソウが言った。

「ハナちゃんが困ってるなら、何か言ってあげたい」

「そうだな」と私は言った。

それだけだった。

二人で朝食を食べた。

ハナはその間、自分の部屋から出てこなかった。

八時になってドアが開いて、ランドセルを背負った小さな背中が「いってきます」と言った。

私は「いってらっしゃい」と返した。

玄関が閉まる音がして、家の中が静かになった。

シンクに重ねた三人分の皿から、湯気がゆっくりと上がっていた。

任務報告

30代後半の頃、自治体の広報や福祉関係の情報を見ている中で、里親制度という言葉が目に入った。最初は自分には縁のない話だと思った。

しかし読み進めるうちに、家庭で暮らせない子どもがいるという事実が、どこか頭に残り続けた。

子どもの居場所について、初めて真剣に考えるきっかけになった。

子どもの人生に関わるということの重さを考えると、軽い気持ちで決めてはいけないという思いが強かった。

自分に本当に務まるのか。その問いに答えが出ないまま、なかなか一歩が出なかった。

責任感が強いほど、足が止まりやすい。里親を検討する多くの人が経験する、その矛盾した状態がしばらく続いた。

動き出せたのは、視点が変わったことがきっかけだった。

「完璧な親でなくても、安心できる場所を作ることはできるかもしれない」と思えた瞬間があった。

必要としている子どもがいるなら、まず向き合ってみようと思えた。

完璧な準備が揃うのを待つより、できることから始めることへと、気持ちが切り替わった。

子どもが来た最初の頃、想像以上に距離があった。大人しくて感情をあまり表に出さない子だったので、こちらもどう接するのが正解か分からなかった。

無理に距離を縮めようとすると、逆に負担になる気がした。話しかけすぎても空気が重くなる。

かといって何もしなければ、この家に安心できていないのではないかと不安になる。

その加減がつかめないまま、日々が過ぎていった。打ち解けるまでにかかった時間は、当初の予想よりずっと長かった。

最もしんどかったのは、こちらが話しかけても反応が薄く、何を考えているのか分からない時期だった。

食事のときも、日常の声かけをするときも、子どもはどこか遠慮しているようだった。

この家で本当に安心できているのだろうか、という不安が頭から離れなかった。焦るほど言葉が空回りした。

反応が薄いと、次にどう声をかければいいかも分からなくなった。

何かしなければという焦りと、何をしても届いていないような無力感が、交互にやってくる時期だった。

正解を探そうとすればするほど、その正解が遠ざかっていくような感覚があった。

変化が訪れたのは、ある日のことだった。

こちらから聞いたわけでもないのに、子どもが自分から学校のことを少し話してくれた。本当に短い会話だった。

内容も特別なものではなかった。ただ、それまで必要なこと以外ほとんど言葉を発しなかった子が、自分から口を開いた。

うれしかった。

そしてその日を境に、少しずつ表情がやわらかくなっていった気がした。関係は劇的に変わったわけではない。

しかしあの日の短い会話が、その後の積み重ねの始まりになった。

近所には深く詮索されないよう、自然に接することを心がけた。

「家庭の事情で子どもを受け入れている」とだけ伝え、それ以上の説明はしなかった。

職場にも最低限の説明にとどめた。子どものプライバシーを守ることを、周囲への説明よりも優先した。

どこまで話すかの正解はない。ただ、「子どもが余計な目線にさらされないこと」を基準に判断することが、一つの軸になると思っている。

里親をやってみて一番感じたのは、特別なことをするより、毎日の小さな積み重ねの方が大切だということだった。

朝の挨拶、一緒に食べる食事、安心して過ごせる家の空気。大きな変化はすぐには見えない。

しかし気づいたときには、少しずつ何かが変わっていた。

関係というのは、劇的な瞬間によって生まれるのではなく、何でもない日々の連なりの先に自然と育っていくものなのだと、この経験を通じて実感した。

里親を考えている人に伝えたいのは、すぐに家族のようになれるとは限らないということだ。

良かれと思って距離を縮めようとしても、子どもによっては時間が必要だ。

焦らず、安心できる日常を積み重ねることが、遠回りに見えて一番の近道だと思う。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、「早く分かり合おうとしなくて大丈夫」と伝えたい。

関係づくりには時間がかかって当然だ。焦らず、目の前の子どもを見ていけばいい。

任務報告

数日後の夕方、私は台所に立っていた。

玉ねぎを炒めていると、玄関が開く音がした。

ランドセルが壁に当たる音、靴を脱ぐ音。

それからハナの声が聞こえた。

「ただいま」

いつもより少し、大きかった。

私はフライパンを持ったまま「おかえり」と返した。

リビングに入ってきたハナは、ランドセルをソファに下ろして、そのまま私の背中に向かって言った。

「今日ね、ミサちゃんにうちのこと話した」

私は火を少し弱めた。

「そっか」と言った。

「お父さんとお母さんはいないけど、帰ったら『おかえり』って言ってくれる人が二人いるって。

男の人どうしだけどって」

「ミサちゃん、なんて言ってた」

「へえ、いいじゃんって」

それだけだった。

ハナは手を洗いに洗面所へ行って、戻ってきてソファに座った。

私は鍋に出汁を注ぎながら、その「いいじゃん」という言葉を、しばらく頭の中で転がした。

九歳の子どもの友達が、何気なく言った三文字。

それがなぜか、今夜の台所をすこし温かくした。

七時過ぎに玄関が開いて、ソウが帰ってきた。

鞄を廊下に放り投げる音がして、私は「また」と思った。

いつも通りだった。

「ただいまー。あ、いい匂い」

「おかえり」と私が言った。

「おかえり」とハナが言った。

ソウが一瞬、動きを止めた。

それからいつもより少し柔らかい顔で「ただいま」ともう一度言って、リビングに入ってきた。

三人で食卓を囲んだ。

ハナはじゃがいもまで、きれいに食べた。

食事が終わって皿を洗いながら、私は特別なことは何も起きていないと思った。

何かが解決したわけでも、何かが変わったわけでもない。

ただ、この子が「ただいま」と言える場所に、自分たちはなれているかもしれない。

それだけで、今夜の出汁は、少しだけ丁寧にとった。

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今日、カイが来た。

七歳の男の子は、玄関に立ったまま動かなかった。

紺色のリュックを両手で抱えて、床を見ていた。

ユキが「待ってたよ、入って入って」と言いながら膝をついて目線を合わせた。

四十一歳の女が、迷わずそうできることを、私は少し羨ましいと思った。

私は突っ立ったまま、何も言えなかった。

夕食はユキが作ったカレーだった。甘口にしてあった。

カイはスプーンを小さく動かしながら、ほとんど顔を上げなかった。ユキがしゃべり続けた。

好きな食べ物のこと、近くに公園があること、明日は一緒に散歩しようか、ということ。

カイは短くうなずいた。私は味噌汁を飲んだ。口の中がやけに乾いていた。

食後、ユキが洗い物をしている間、カイとリビングに二人になった。

カイはソファの端に座って、膝の上にリュックを乗せたままだった。

まだ、置く場所が決まっていないのだと思った。私も、何をすればいいか決まっていなかった。
しばらくして、カイが顔を上げた。
「あの……」
私を見ていた。続きを待った。でも続きは来なかった。カイは一度口を閉じて、また床を見た。

「うん」と私は言った。それしか出てこなかった。

寝室に戻ってから、日記を開いた。ペンを持ったまま、しばらく何も書けなかった。

三百人以上の子どもと向き合ってきた四十三年間が、今夜だけ、何の役にも立たなかった。

窓の外で風が鳴った。カイの部屋の電気は、まだついていた。

やっと一行だけ書いた。

今日、この子は私を「あの」と呼んだ。私にはまだ、名前がない。