任務報告

里親という制度を知ったのは、数年前に見たテレビの特集だった。

児童養護施設の子どもたちを取り上げた番組で、「里親」という言葉が画面に出たとき、名前だけは知っていても、実際に家庭で子どもを育てる制度だとは理解していなかった。

番組のあと、なんとなく気になってインターネットで調べた。それが始まりだった。

調べながらも、すぐに動き出せたわけではない。

子育て経験もなく、事情を抱えた子どもを受け入れることの責任の重さを考えると、軽い気持ちでは踏み出せなかった。

いつか子どもが家を離れる可能性があることも、正直怖かった。

夫婦で何度も話し合ったが、「中途半端な気持ちではできないよね」という結論になり、しばらくは調べるだけで終わっていた。

背中を押してくれたのは、自治体の説明会だった。

実際に里親をしている人の話を聞く機会があり、「最初から完璧にできる人はいない」という言葉が印象に残った。

特別な人だけがやるものではなく、悩みながら続けているという話を聞いて、少し気持ちが楽になった。まずは研修だけでも受けてみようと思ったのが、動き出したきっかけだ。

子どもが来た最初の頃、距離の遠さを感じた。

こちらは「家族として迎えた」という気持ちでいても、子どもにとっては知らない大人の家に来ただけだ。会話は少なく、目もあまり合わせてくれなかった。

どう接していいのか分からず、必要以上に気を遣ってしまい、家の中にはどこかぎこちない空気が漂っていた。

一番しんどかったのは、夜の時間だった。寝る前になると急に不安定になり、布団に入ってもなかなか寝付けず、何度も起きてしまう。

理由を聞いても答えてくれないことも多く、「どうしてあげればいいんだろう」と途方に暮れた夜もあった。

疲れが積み重なって、夫婦で小さな言い合いになったこともある。

転機は、ある日の夕方に訪れた。学校であった出来事を、子どもが自分から話してくれた。

特別な内容ではなかった。「今日こんなことがあった」という、ごく普通の話だ。

それまでほとんど自分から話すことがなかっただけに、そのとき感じたうれしさは今でも覚えている。

少しずつだけど、距離が縮んでいるのかもしれないと感じた瞬間だった。

子どもが家を出た日のことは、よく覚えている。ドラマのように泣くことはできなかった。

寂しさはもちろんあった。でも同時に、「無事にここまで来られてよかった」というほっとした気持ちもあった。

静かになった家に帰ってきたとき、実感がじわじわとわいてきた。

今振り返ったとき、「やってよかった」と言い切れるかといえば、正直そう単純ではない。

大変なことも多かったし、正解が分からないまま続けていた部分も多かった。

ただ、あの時間は自分たちにとって大事な経験だったと思っている。「やらなければよかった」と思ったことは、一度もない。

里親を考えている人に伝えたいのは、最初からうまくできる人はいないということだ。

子どもとの関係も、すぐに家族のようになるわけではない。時間がかかるし、戸惑うことも多い。

それでも、少しずつ積み重なっていく時間がある。それだけは確かだと思う。

任務報告

「これ以上のステップアップは難しい」と医師から告げられたのは、不妊治療を始めて5年が経った頃のことだった。

夫婦でそれぞれの気持ちを話し合う中で、「血縁にこだわらず、子どもを育てるという経験を一緒にしたい」という思いが少しずつ言葉になっていった。

そのタイミングで手にした自治体の広報誌に、里親募集の記事が載っていた。

それが、里親という選択肢を現実として意識した最初の瞬間だった。

不妊治療と里親制度。一見別々のように見えるこの二つの選択肢は、子どもを持ちたいと願う多くの夫婦の間で、実は深く結びついている。

まず、里親制度の基本を整理しておきたい。

里親制度とは、何らかの事情により家庭で暮らすことができない子どもを、一定期間または長期にわたって家庭に迎え入れ、養育する制度だ。

日本では児童福祉法に基づき、国と都道府県が制度を運営している。

里親にはいくつかの種類がある。養育里親は、一時的または中長期的に子どもを預かる最も一般的な形態だ。

専門里親は、虐待を受けた経験のある子どもや非行傾向のある子どもなど、専門的なケアを必要とする子どもを対象とする。

養子縁組里親は、将来的な特別養子縁組を前提として子どもを迎える形で、法的な親子関係の成立を目指す。

親族里親は、両親が死亡や行方不明などの場合に祖父母や叔父叔母などの親族が子どもを育てる形態だ。

里親になるには、自治体への申請・審査・研修・登録というステップが必要で、委託後も児童相談所によるフォローアップが定期的に行われる。

制度を知ってからも、すぐに動き出すことはできなかった。夫は比較的前向きだったが、自分自身の中に大きな壁があった。

「血の繋がらない子どもを、本当に心から愛せるのか」

この問いは、単純な不安ではなかった。それは、自分自身の冷酷さや器の小ささを突きつけられるような怖さだった。

愛せなかったとき、自分はどうなるのか。子どもを傷つけてしまうのではないか。そう考えるたびに、研修に申し込むことすらためらってしまった。

もう一つの不安は、実家の両親のことだった。

保守的な考えを持つ両親が、里親という選択を理解してくれるかどうか分からなかった。

「絶縁状態になるかもしれない」という恐れは、決して大げさではなかった。

里親を検討する人が「動き出せない」背景には、このような内面的な葛藤が複雑に絡み合っていることが多い。制度の情報を集めるだけでは解決できない部分だ。

転機になったのは、地域で開かれた里親の体験発表会への参加だった。現役の里親が壇上でこう言った。

「子どもを愛そうと気負わなくていい。ただの同居人から始めてもいいんだよ」

この言葉を聞いたとき、長い間肩にのしかかっていた何かが、すっと下りていった。

里親になるためには、最初から立派な親でなければならないと思い込んでいた。

聖人君子でなければできないことだと。しかしその言葉は、そうした思い込みをそっと解いてくれた。

翌週、研修への申し込みを決めた。

里親体験発表会や里親説明会は、各都道府県・政令市の児童相談所や里親支援機関が定期的に開催している。

神奈川県内でも横浜市・川崎市・相模原市などで案内がされており、参加に際して特別な条件は必要ない。

「まず話を聞くだけ」という気持ちで参加できる場として、検討の第一歩として活用できる。

子どもが来た最初の数ヶ月は、正直に言えば、可愛いと感じる余裕などまったくなかった。

家の中には常に緊張感があった。他人が同じ空間にいる、あの張り詰めた空気。

子どもがこちらの顔色をうかがいながらニコニコしているのを見るたびに、その不自然さに胸が痛んだ。

どう接していいか分からず、笑顔を返すことしかできない自分にも戸惑った。

夜、子どもが眠ったあとに寝顔を眺めながら、何度もこう自問した。

「この子を預かったのは、私のエゴだったのではないか」。その問いに、答えを出せないまま朝を迎えた日も多かった。

こうした感覚は、里親を始めた多くの人が経験することだという。

子どもも大人も、お互いに「どんな人なのか」を探っている時期であり、関係性がまだ根を張る前の、不安定な時間だ。

最もきつかったのは、子どもの「試し行動」が始まった時期だった。

試し行動とは、子どもが「この人は本当に自分を受け入れてくれるのか」を確かめるために、わざと問題行動を起こすことだ。

心理的に安全な環境に慣れてきた頃に現れることが多く、むしろ関係が深まっているサインとも言われる。

しかしその渦中にいるときは、そのような解釈をする余裕はなかった。

わざとコップをひっくり返す。突然叩いてくる。それが何日も続いた、ある日の夜、ついに限界が来た。泣き崩れてしまった。

そのとき夫に相談すると、「子どもなんだから仕方ないだろう」と一蹴された。悪意のない言葉だったかもしれない。

しかし、自分が追い詰められているときに受け取るには、あまりにも遠い言葉だった。

育児に対する温度差を夫婦間で強く感じた、あの夜が、精神的に最も苦しい時間だった。

里親家庭において、こうしたパートナーとの温度差や孤立感は珍しくない。

里親支援機関や里親会への相談、あるいは同じ経験を持つ里親同士のつながりが、こうした局面では特に重要になってくる。

委託からおよそ1年が経った頃、子どもが外で派手に転んで怪我をした。泣きながら、真っ直ぐにこちらの胸に飛び込んできた。

それまでも泣くことはあった。しかし、いつもどこかに遠慮があった。泣きながらも少し距離を置くような、そういう泣き方だった。

あの日は違った。迷わず、真っ直ぐに来た。

「この子は私を、安全な場所だと認識してくれた」

そのとき初めて、肌でそれを感じた。ようやく親子になれた気がした、と後にこう振り返る。

関係性というものは、劇的な出来事によって変わるのではない。

毎日の食事を一緒に食べること、眠れない夜を隣で過ごすこと、そういう時間の積み重ねの先に、ある日突然、何かが変わる瞬間がある。

周囲への説明については、慎重にアプローチした。

近所の人には「親戚の子どもを預かることになりました」と最初は濁して伝えた。

子ども自身に余計な関心や詮索が向くことを避けたかったからだ。

職場には、急な呼び出しや学校行事での早退などを想定し、上司にだけ詳細を話した。同僚にはあえて詳しく伝えなかった。

「周囲の反応にこちらが疲弊しないよう、情報の出し方をコントロールしていた」という言葉は、多くの里親家庭に共通する実感だろう。

里親であることを開示するかどうかは、非常に個人的な判断であり、どちらが正解ということはない。大切なのは、自分と子どもの生活を守ることだ。

里親を検討している人に、最も伝えたいことはこれだ。

「立派な親にならなくていい」

理想の親子像を追い求めると、自分も子どもも苦しくなる。

まずは同じ屋根の下で、一緒にご飯を食べて、安全に眠れる場所を提供する。

それだけで十分に価値があることだ。自分に厳しくなりすぎず、まず「それだけ」から始めていいと、自分を許してほしい。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、こう伝えたい。

「想像以上にしんどいけれど、想像もできなかったほど深い感情を、その子から教えてもらえる」と。

「里親制度は、制度の整備も大切だけれど、私たち当事者がしんどいと言える場所がもっと増えてほしい」

里親支援は近年少しずつ充実してきているが、里親家庭が孤立しやすい構造はまだ残っている。

支援者だけでなく、同じ経験を持つ里親同士がつながり、「しんどい」と言い合える場があること。

それが里親制度の継続性を支える上で、これからさらに重要になると思う。

5年間の不妊治療の末に里親という道を選んだこの経験は、「血の繋がり」や「理想の親子像」への問いを何度も更新させてくれるものだった。

答えはまだ出ていないかもしれない。それでも、一緒にご飯を食べ、泣きながら胸に飛び込んできたあの日を、忘れることはないだろう。

里親制度に関心を持った方は、まず地域の児童相談所または里親支援機関に問い合わせることから始めてほしい。

説明会への参加だけなら、登録や申請の義務は一切ない。「話を聞くだけ」でいい。それが、最初の一歩になる。

任務報告

カーテンの隙間から、光が入った。

白い天井に、細い線が伸びた。

私はそれをしばらく見ていた。

ここに来て三週間、毎朝同じ天井を見ている。

見慣れてきた、とは少し違う。

ただ、知っている天井になった。

知っている天井があることが、今の私には必要だった。

湊が動いた。

隣の布団で、ごろりと寝返りを打った。

まだ眠っていた。

四歳の寝顔は、どこにいても同じだった。

口が少し開いていた。

頬が枕に押されて、片方だけ膨らんでいた。

私は先に起きて、共用の台所へ行った。

シェルターの台所は、六人分の道具が並んでいた。

鍋、フライパン、まな板。

それぞれに名前のシールが貼ってあった。

私のシールは水色だった。

入居したとき、支援員が「好きな色を選んでください」と言った。

水色を選んだ理由は、特になかった。

ただ、選べることが、そのとき少し嬉しかった。

冷蔵庫から卵を出して、湊の分の目玉焼きを焼いた。

バターが溶けて、卵の白身が広がった。

縁がぷつぷつと泡立って、香ばしい匂いが台所に広がった。

窓の外で、雀が鳴いていた。

湊が台所に来た。

髪が寝癖でぐしゃぐしゃだった。

目を細めて、フライパンを覗いた。

「たまごやき」と言った。

「目玉焼きね」と私は言った。

湊は「めだまやき」と繰り返して、椅子に座った。

牛乳をこぼしたのは、食事の途中だった。

湊がコップに手を伸ばして、肘が当たった。

白い液体が、テーブルの端から床に落ちた。

ぱしゃ、と音がした。

私の体が、固まった。

肩に力が入った。

喉の奥が、締まった。

怒鳴り声を待つように、体が先に動いた。

でも声は来なかった。

来ないとわかっていた。

ここには拓也がいない。

三週間、毎日わかっていた。

それでも体は、まだあの台所にいた。

湊が椅子から降りた。

流しの下を開けて、雑巾を取り出した。

床にしゃがんで、こぼれた牛乳を拭き始めた。

「ごめんなさい」と言った。

私の顔を見ずに、床を見たまま言った。

私は動けなかった。

四歳が、こぼしたら謝ることを知っている。

雑巾がどこにあるかを知っている。

自分で取りに行く。

誰かに言われる前に。

それがこの子の中に、いつの間にか入っていた。

私はしゃがんで、湊の手から雑巾を取った。

「いいよ、お母さんがやる」と言った。

湊は少しだけ私を見て、椅子に戻った。

私は床を拭いた。

冷たかった。

牛乳の甘い匂いが、鼻に届いた。

拭きながら、思った。

この子が「ごめんなさい」を反射的に言えるのは、誰のせいか。

拓也のせいか。

逃げられなかった時間のせいか。

それとも私のせいか。

答えを探し始めると、どこにも辿り着かない問いだった。

だから答えを出す前に、雑巾を絞った。

流しで雑巾を洗った。

水が冷たかった。

「お母さん」と湊が言った。

「なに」
「たまご、まだある?」
目玉焼きを、もう一枚食べたかったらしい。

私はフライパンを火にかけた。

バターを落とした。

また溶けて、また香ばしい匂いがした。

湊が椅子の上で、少し背伸びをしてフライパンを見ていた。

怒鳴り声は来なかった。

来ない朝が、また一日始まった。

それだけで、今日はよかった。

今日は、それだけでよかった。

任務報告

数年間続けた不妊治療が、結果を出せないまま終わりを迎えようとしていた。

夫婦で今後の人生をどう歩むかを話し合っていたある日、インターネットで養子縁組や里親制度に関する記事を偶然目にした。

それまで里親という言葉を知ってはいたが、自分たちの現実的な選択肢として考えたことは一度もなかった。その記事が、扉を開く最初のきっかけになった。

不妊治療と里親制度。この二つを結びつけて考える夫婦は、実は少なくない。

治療に区切りをつけた後、「子どもを育てるという経験を諦めたくない」という思いが里親という道へと向かわせることがある。

制度を知ってからも、すぐに行動に移すことはできなかった。ためらいの理由は一つではなかった。

まず、「血の繋がらない子どもを、本当の我が子のように愛せるのか」という根本的な問いが頭から離れなかった。

愛情というものは、育てる中で生まれるとも言われる。しかしそれが本当かどうかは、やってみるまで分からない。

もし愛せなかったとき、子どもを傷つけることになるのではないか。その恐れは、軽くあしらえるものではなかった。

もう一つは、思春期を迎えたときの接し方への不安だった。

乳幼児期や小学生の頃とは異なり、思春期には自我が強く出る。

里親と子どもという関係性の中で、その時期をどう乗り越えられるのか、想像するだけで不安になった。

そして三つ目が、親族からの目線という問題だ。

里親制度はまだ社会的な認知が十分に広まっているとは言えず、「なぜ他人の子を育てるのか」「何か事情があるのか」という反応が親族から返ってくることを恐れていた。

世間体というものは、決して軽視できる問題ではない。

動き出すきっかけになったのは、自治体が主催する里親制度の説明会への参加だった。

実際に里親として活動している人の話を直接聞く機会があり、その言葉がこれまでの視点を大きく変えた。

「完璧な親である必要はない。今、助けを必要としている子の居場所になるということだ」

この考え方に、救われたという。

それまでは「里親として立派な親にならなければならない」という重圧の中にいた。

しかし里親とは、完成された親子関係を最初から提供することではない。

居場所を作ること、一緒に時間を重ねること、それが出発点なのだということを、説明会で初めて実感として受け取れた。

夫婦で話し合い、一歩踏み出す決意をしたのはその直後だった。

里親説明会は、各都道府県・政令市の児童相談所や里親支援機関が定期的に開催している。

愛知県・名古屋市でも複数の窓口が案内を行っており、参加に際して申請や登録の義務は一切ない。

「話を聞くだけ」という気持ちで参加できる場として、検討の入り口として活用できる。

子どもが家に来た最初の頃、家の中は常に張り詰めた空気だった。お互いが緊張していた。

しかし最も戸惑わせたのは、子ども自身の行動だった。

子どもは非常に「良い子」を演じようとしていた。

わがままを一切言わず、自分の感情をまったく外に出さなかった。

一見すると問題がないように見えるが、それは逆に不自然だった。

子どもらしい自己主張がない、感情の揺れがない、その静けさが、心の距離の遠さを示していた。

どうすれば心の距離を縮められるのか分からず、暗中模索の状態が続いた。

「良い子」を演じる背景には、これまでの環境の中で「感情を出すことが危険だった」という経験が潜んでいることもある。

それを理解できたのは、後になってからだった。

最もきつかったのは、子どもの「試し行動」が始まった時期だった。

試し行動とは、子どもが「この人たちは本当に自分を受け入れてくれるのか」を確かめるために起こす問題行動のことだ。

大切なものをわざと壊す、激しく泣き叫んで暴れる。そういった行動が数ヶ月にわたって続いた。

精神的にも肉体的にも限界に近い状態で迎えたある夜中、夫婦でリビングに座り、泣きながら話し合った。

「私たちの選択は、間違っていたのではないか」。

その言葉を二人で交わした夜が、この経験を通じて最も過酷な場面だったという。

試し行動は、心理的に安全な環境に慣れてきたことのサインだとも言われる。

しかし渦中にいるときに、そうした知識は気持ちを楽にはしてくれない。

こうした局面を一人で抱え込まないためにも、里親支援機関や里親会への相談窓口を事前に把握しておくことが重要だ。

関係が変わったと感じた瞬間は、特別な出来事ではなかった。

ある朝の食卓で、子どもが何気なくこう言った。「明日のおやつは何がいいかな」。

ただそれだけの言葉だ。しかしその言葉の意味は、軽くなかった。

この家での生活を「一時的なもの」ではなく、続いていく日常として認識し始めているということ。

明日もここにいる、という感覚が子どもの中に芽生えていることを、その言葉は示していた。

張り詰めていた心の糸が、少しだけ解けた瞬間だった。

関係性というのは、ある日突然変わるのではない。

一緒に食事をする、眠れない夜を隣で過ごす、何気ない会話を積み重ねる。

そういう時間の蓄積の先に、ある朝ふと気づいたら景色が変わっている、そういうものだ。

周囲への説明は、慎重に進めた。

近所の人には「親戚の子を預かることになった」とだけ伝え、詳しい説明はしなかった。

子ども自身に余計な関心や詮索が向くことを避けるためだ。

職場には、急な体調不良などで早退や欠勤が発生する可能性があることを考慮し、上司にだけ里親制度を利用していることを伝え、理解と協力を求めた。同僚には特に話さなかった。

里親であることをどこまで開示するかは、非常に個人的な判断であり、正解はない。大切なのは、周囲の反応に自分が疲弊しないよう、情報の出し方を自分でコントロールすることだ。

子どもが実親のもとへ戻る日が決まったとき、心にぽっかりと大きな穴が空いたような喪失感があった。

玄関で見送り、空になった子ども部屋を見たとき、涙が止まらなかった。

しかし同時に、もう一つの感情も確かにあった。「この子が幸せに暮らせますように」という、祈るような清々しい気持ちだ。

悲しさと清々しさが、矛盾しながら共存していた。それが里親という経験の、正直な終わり方だったという。

子どもが家を出た後の喪失感は、里親経験者の多くが語る。

この感情は「里親としての失敗」ではなく、深く関わった証だ。

こうした感情を安心して話せる場として、里親経験者同士のコミュニティや、里親支援機関のカウンセリング窓口を活用することが助けになることがある。

正直に言えば、非常に複雑な経験だった。しかし、やってよかったと確信しているという。

子育ての大変さを通じて、自分自身の未熟さを知った。

血縁を超えた深い愛情の形があることを学んだ。それは人生において、何物にも代えがたい財産になったと感じている。

里親制度は、決して美談ばかりではない。

しかし、一人の子どもの人生に寄り添い、共に過ごした時間は、たとえ短い期間であっても、その子の心に確かな温もりを残せる。そう信じている。

里親を検討している人に最も伝えたいことは、「覚悟」よりも「一人で抱え込まないこと」だという。

自治体の担当者、里親支援機関のスタッフ、里親仲間、頼れる場所をあらかじめ見つけておくこと。

自分自身が心身ともに健康でいられる余裕を持つことが、子どもを支える力になる。

里親をしながら自分が壊れてしまっては、子どもを守ることはできない。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、こう言いたいという。

「そんなに肩肘を張らなくて大丈夫。子どもと一緒に、少しずつ親になっていけばいいんだから」

不妊治療の末に里親という道を選んだこの経験は、「血縁」や「理想の親」という概念を何度も問い直させてくれた。

完璧な親でなくていい。ただの同居人から始めてもいい。

子どもと一緒に、少しずつ親になっていく。その時間の積み重ねの中にこそ、里親という経験の本質があるのかもしれない。

里親制度に関心を持った方は、まず地域の児童相談所または里親支援機関に問い合わせることから始めてほしい。

説明会への参加だけなら、登録や申請の義務は一切ない。「話を聞くだけ」でいい。

任務報告

不妊治療がうまくいかず、落ち込んでいた私に夫が言った。「養子縁組、調べてみたんだけど」と。

インターネットで調べた夫が里親制度のことを教えてくれたのが、最初のきっかけだった。

里親の体験談というと、温かい再生の物語として語られることが多い。

しかし、そういうまとまりのいい話ではない。

ADHD、学校への行き渋り、家庭内暴力、万引き、あらゆるトラブルを経験し、里親自身が神経症になって病院に通い続け、それでも「結論が出ない」。

里親制度の内容を調べていくうちに、登録までの過程の長さが目についた。

研修に何度も通わなければならない。面接もある。「少し面倒だな」というのが正直な感想だった。

それでも動き出せたのは、インターネットで読んだ里親経験者の体験談がきっかけだった。

「迷わずに手を挙げてほしい」というその言葉が、背中を押してくれた。

完璧な準備が整ってからではなく、迷いがあっても一歩踏み出すことに意味がある、ということを、その言葉は伝えてくれた。

委託の前には、施設での交流期間がある。

この家庭でやっていけるかどうかを双方が確認する、およそ3ヶ月の期間だ。しかしその時期に、早くも「試し行動」が始まった。

試し行動とは、子どもが「この人たちは本当に自分を受け入れてくれるのか」を確かめるために起こす行動のことだ。

施設での交流中、子どもは面会に来た別の家庭のお母さんに近づき、膝の上に乗ったり、遊んでもらったりした。こちらを試すような行動だった。

その様子を見ていた別の家庭の夫から、こんな言葉をかけられた。「少し怒り過ぎじゃないですか」。
昭和に育った感覚では、悪いことをしたら「コラ」と言って当然だった。しかしそれが今の子育てとは違うと言われた。

確かに言うことを聞かないその都度注意はしていたが、他人からそう指摘されて相当落ち込んだ。

自信をなくしかけながらも、交流期間を終えて委託に進んだ。

子どもが家に来てからの最初の頃は、とにかく夜泣きが激しかった。

夜9時頃から延々と3時間以上泣き叫ぶ。近所から「虐待ではないか」と疑われるほどの声だった。

朝目が覚めた瞬間に「お散歩」と言い出し、「あとでね」と言っただけで癇癪を起こした。

木のおもちゃが飛んでくる。ふすまに穴が開く。体に当たって痛い。

「猛獣を育てているみたい」と感じるほどの恐怖感があったと、当時を振り返る。

一番しんどかったのは、外出先でのことだった。

遊びに連れて行けば帰りたがらない。自転車の後ろに乗せると左右に暴れて転びそうになる。

スーパーに連れて行くとひっくり返って泣き叫ぶ。

実の子どもの「イヤイヤ期」であれば、ある程度は割り切れる。

しかし里親と子どもの間では、まだ親子関係が十分に築かれていない時期がある。

その状態でどう注意するか、叱ってはいけないのか、どの程度まで許容すべきなのか。判断の基準が分からず、途方に暮れた。

里親家庭における「しつけ」の難しさは、多くの里親が直面する問題だ。

実の親子でも難しい子どもへの関わり方が、関係性が築かれる前の段階ではさらに難しくなる。

こうした局面では、担当の児童福祉司や里親支援専門相談員(里親支援ソーシャルワーカー)に相談することが助けになる場合が多い。

近所への説明については、他の里親家庭とは少し異なる状況があった。

この子どもは外国にルーツを持つハーフだった。顔を見れば分かる。

隠してもしょうがないと判断し、家に来てすぐに近所の人に正直に伝えた。

外国にルーツを持つ子どもの里親養育については、文化的背景、言語、アイデンティティの形成など、特有の課題が生じることがある。

ルーツへの理解や、必要に応じた文化的サポートも里親の役割の一部になる場合がある。

職場については、急な欠勤や呼び出しの可能性があることを考慮し、上司には状況を説明した。

関係が変わったと感じた瞬間は、地味なものだった。

悪いことをしたとき、子どもがぽつりと「ごめんなさい」と言った。ただそれだけだ。

しかしそれまでは、謝るという行動がなかった。その一言が出たとき、「あ、変わったな」と感じた。

関係性の変化は、大きな出来事ではなく小さな言動の中に現れる。

それを見逃さないためにも、日々の細かな変化に目を向け続けることが里親には求められる。

やがて、子どもの行動がエスカレートしていった。言うことを聞かない、トラブルが続く。

専門機関に相談し調べてもらったところ、ADHDの診断が下りた。

ADHDとは注意欠如・多動症のことで、注意力の持続が難しかったり衝動的な行動が出やすかったりする発達障害の一つだ。

適切な支援と環境の調整によって生活のしやすさは変わるが、それには時間と継続的な関わりが必要になる。

学校への行き渋りが始まった。家庭内での暴力があった。万引きなど、社会的なトラブルも起きた。

里親である自分自身が神経症になり、病院に通うようになった。

高校で寮に入るために家を出た日、別れ際にじんとした。

「このまま高校を卒業して一人暮らしを始めてお別れになるのかな」と思った。

しかし4ヶ月で中退して戻ってきた。

20歳になった今も、色々なことが続いている。

今振り返って、里親をやってよかったかと問われれば、「フクザツ」としか言いようがない。

大変だったことは間違いない。自分が病院に通うほど追い詰められた。それでも、楽しかった思い出もある。結論は出ない。

この「結論が出ない」という正直さは、里親という経験の複雑さをそのまま表している。

温かい再生の物語として完結しない経験を、それでも続けてきた。それ自体が、一つの事実だ。

里親を考えている人に最も伝えたいことは、「真実告知」の問題ではないという。

真実告知とは、里子や養子に対して自分の出自や里親家庭であることを伝えることだ。

多くの里親がその伝え方やタイミングに悩む。しかし、それよりも大切なことがある。

「ありのままの子どもを受け入れられるか」ということだ。

里子がみんな親孝行してくれるわけではない。期待した関係にならないこともある。

それでも受け入れる覚悟を持てるかどうか。そこが問われるのだと、この20年近い経験を経て言い切る。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら「大変だよ」。それが、この経験を通じて出てくる正直な言葉だ。

里親体験談の多くは、困難を乗り越えた後の温かい結末を描く。しかし現実には、結末のない話も、「フクザツ」としか言えない経験も存在する。

ADHD、家庭内暴力、里親自身のメンタルヘルスの悪化。

こうした現実を正直に語ることは、これから里親を考える人にとっても、今まさに困難の中にいる里親にとっても、重要な情報になる。

「自分だけが大変なわけではない」という感覚が、孤立を防ぐからだ。

里親制度に関心を持った方は、まず地域の児童相談所または里親支援機関に問い合わせることから始めてほしい。

説明会への参加だけなら、登録や申請の義務は一切ない。「話を聞くだけ」でいい。

また、現在里親として困難な状況にある方は、里親支援専門相談員(里親支援ソーシャルワーカー)や里親会への相談も選択肢の一つだ。

一人で抱え込まないことが、子どもを支え続けるための基盤になる。

任務報告

不妊治療を続けるかどうか、夫婦でまだ答えを出せずにいたある日、自治体の広報誌に里親制度の記事が載っていた。

それまで「里親」という言葉は知っていたが、実際に調べてみると、養育里親や将来の養子縁組を前提とした里親など、いくつかの種類があることを初めて知った。

そのとき初めて、里親という選択肢が現実のものとして見えてきた。

里親制度を知ってからも、すぐに動き出せたわけではない。

最大のためらいは「自分たちに本当にできるのか」という不安だった。

実の子どもでも子育ては大変だと聞く。

ましてや何らかの事情を抱えた子どもを受け入れるには、相応の覚悟が必要ではないかと思うと、簡単には踏み出せなかった。

周囲に里親経験者がいなかったことも大きかった。生活がどう変わるのか、具体的に想像できる手がかりがなかった。

転機になったのは、自治体が開いた里親説明会への参加だった。

そこで実際に里親をしている人の話を聞く機会があり、理想だけではなく、悩みながら続けている様子を率直に語ってくれた。

「完璧な家庭でなくても関われる形はある」という言葉を聞いたとき、肩の力が少し抜けた。

里親を検討している段階でまず参加できる説明会は、各都道府県・市区町村の児童相談所や里親支援機関が定期的に開催している。

大阪府内でも複数の窓口が案内を行っており、参加に際して特別な条件はない。

最初に委託されたのは小学校低学年の子どもだった。

思っていたよりずっと静かで、家の中でも遠慮している様子が強く、話しかけても短い返事しか返ってこなかった。

テレビを見ていても落ち着かない様子で、この家でどう過ごしていいか分からないように見えた。

食事のときも量を少ししか取らず、好き嫌いなのか遠慮しているのか判断できず戸惑った。

「何をしてあげるのが正しいのか」が分からないまま、毎日が手探りだった。

最もきつかったのは夜の時間だ。布団に入ってもなかなか眠れない日が続き、夜中に何度も起きることがあった。

理由を聞いても「大丈夫」としか言わない。どう声をかければいいのか分からないまま、ただ隣に座って様子を見ていることも多かった。

自分自身にも余裕がなく、夫婦で対応方針が合わないこともあった。

里親家庭において夜間の不安定さはよく見られることだと後から支援者に聞いたが、その渦中にいるときは、そうした知識があっても気持ちが楽になるわけではなかった。

変化は、ある夕食のときに訪れた。その日、子どもが学校であった出来事を自分から話してくれた。

「休み時間に友達と遊んだ」という、それだけの話だ。

でも、それまでこちらが聞いても「普通だった」と短く返すだけだったから、思わず驚いた。うれしかった。

その日を境に、学校のことや好きな遊びの話を少しずつしてくれるようになった。関係が変わったと実感できた瞬間だった。

近所には「親戚の子をしばらく預かっている」と伝える程度にとどめた。

子ども自身に余計な関心が向くのを避けたかったからだ。

職場には、急な学校行事などで休む可能性があるため上司にだけ事情を説明した。

同僚には特にこちらから話すことはせず、必要な範囲だけ伝えるようにした。
どこまで話すかの正解はなく、それぞれの状況に応じた判断になる。

子どもによって事情はまったく異なり、思うように関係が築けない時期も当然ある。

自分の対応がこれでよかったのか、迷う場面は何度もあった。

それでも、特別なことをしなくても、誰かと一緒に生活する時間が子どもにとって意味を持つことがある、と感じている。

里親になる前の自分に言えるとしたら、「最初から完璧にできなくて大丈夫」ということだ。

分からないことはそのたびに里親会や児童相談所に相談すればいい。もっと早い段階から頼っていれば、気持ちが楽だった場面もあったと思う。

制度の内容や受けられる支援をよく知ったうえで、自分たちの生活の中で無理なく続けられるかを考えること。

それが、里親を検討する際の最初の一歩になると思う。

任務報告

市役所に別の用事で立ち寄ったとき、壁に貼られた一枚のポスターが目に入った。

「里親相談会」と書かれていた。それが、里親という選択肢を意識した最初の瞬間だった。

用事を済ませながらも、そのポスターのことが頭から離れなかった。

制度を知ってからも、すぐに動き出せたわけではなかった。

血の繋がらない子どもを我が子と同じ愛情で迎え入れられるのか。

その問いは、簡単には答えが出なかった。さらに重くのしかかったのは、責任の重さだった。

一時的に迎え入れることと、長い時間をともに過ごすことは違う。

生涯にわたって責任を持てるのか、正直自信がなかった。

「できる」と言い切れる自分がいない限り、踏み出してはいけないのではないかという思いが、しばらく足を止めさせていた。

動き出すきっかけになったのは、里親制度の研修への参加だった。

そこで聞いたさまざまな体験談が、頭で考えていた「里親像」を大きく変えた。

里親を必要としている子どもたちが実際にいること、その子たちにとって家庭という場所がどれほど大切なのかを、体験者の言葉を通じて初めて実感として受け取れた。

「力になれたら」という気持ちが、理屈ではなく素直に湧き上がってきた。

もう一つ大きかったのは、身内が納得してくれたことだ。自分一人の気持ちだけでは決められない。

家族が同じ方向を向いてくれたことが、最後の後押しになった。

子どもが来た最初の頃、家の中はどこかよそよそしかった。こちらも他人行儀になってしまい、変に気を遣いすぎた。

するとその緊張が子どもにも伝わって、今度は子どもの方がこちらに気を使うような状態になった。

気を使わせまいとして、かえって気を使わせてしまう。その悪循環から抜け出せないまま、しばらくの時間が過ぎた。

知らない家庭に入る子どもの気持ちを考えれば、すぐに打ち解けられないのは当然だと頭では分かっていた。

しかし実際にその状況に置かれると、どうすれば自然な雰囲気を作れるのかが分からず、考えていたよりずっと困難だと感じた。

最もしんどかったのは、コミュニケーションが続かない時期が長く続いたことだった。

夕方、休日、晩ご飯の時間。会話が生まれそうな場面をつくろうと、話題を考えて話しかけた。

しかし返ってくるのは一言か二言で、そこで会話が終わった。また話しかける。また一言で終わる。

それが何日も、何週間も続いた。

次第に「受け入れてもらえていないのかもしれない」という考えが頭を占めるようになった。

自分で自分を責め、気持ちが沈んでいく。半ば自暴自棄のような状態になった時期が、この経験を通じて最も精神的にきつかった。

里親として子どもに向き合いながら、同時に自分自身のメンタルが揺らいでいく。

そのことを誰かに話せる場所があれば、あの時期は少し違ったかもしれないと、今になって思う。

変化は、ある日突然やってきた。

こちらから話しかけたのではなく、子どもの方から話しかけてきた。些細な内容だった。

しかしそれまでの日々を思えば、その一言の重さは全然違った。

さらに少し経って、「何をしたい」「何を食べたい」と自分の意見を言ってくれるようになった。

それまでずっと他人行儀だった分、その変化がうれしかった。距離が縮まっているのだと、はっきりと感じた瞬間だった。

職場には、以前から里親について相談していたこともあり、迎え入れることを決めたと伝えると快く受け入れてもらえた。

事前に話していたことで、急な対応が必要になったときも動きやすかった。

近所については、こちらから改めて説明する必要はないと考えた。自分たちが納得していればそれでいい。

聞かれたときには「里親制度を利用した」とストレートに答えた。

説明の仕方に正解はないが、自分たちの軸がしっかりしていれば、周囲への説明は後からついてくるものだと感じた。

里親になってから気づいたことがある。子どもだけでなく、自分自身も成長しているということだ。

人が持つ愛情の強さを実感し、自分の存在価値を改めて感じる場面が増えた。それが今、生き甲斐になっている。

里親を考えている人に伝えたいのは、利用する前に思っていたほどハードルは高くないということだ。

事前に制度の仕組みをきちんと理解することは大切だが、完璧な準備が整うのを待つ必要はない。

難しく考えすぎず、自分に何ができるかだけを純粋に考えてみることが、最初の一歩になる。

任務報告

木曜日の夕方、ソファで横になっていた。

特別なことがあったわけじゃない。

ただ疲れていた。

朝から仕事で、帰りにスーパーに寄って、夕食の準備をして、それだけで力が尽きた。

パートナーは今夜も帰りが遅い。

彼女は自分の部屋で、たぶん宿題をしている。

リビングは静かで、窓の外がゆっくり暗くなっていくのが見えた。

目を閉じた。

委託から半年が経った。

この半年間に何があったか、思い返すと疲れる。

夜中の看病、残ったお弁当、口論、床に座ったまま迎えた朝。

里親としての正解が何なのか、今もわからない。

LGBTのカップルがこの子の家族になれるのか、という問いも、きれいに消えたわけじゃない。

同性愛者である私たちのもとで、この子が「ここでよかった」と思える日が来るのかどうか、まだわからない。

ただ今日は、考える体力が残っていなかった。

うとうとしかけた頃、廊下に足音がした。

彼女の足音だった。

ぺたぺたとした、小さなスリッパの音。

リビングに入ってくる気配がした。

私は目を閉じたまま、息をひそめた。

テーブルの上に、何かを置く音がした。

コとん、という音だった。

それだけだった。

また足音がして、廊下に遠ざかって、部屋のドアが閉まった。

目を開けた。

テーブルの上に、コップが一つ置いてあった。

麦茶が入っていた。

氷も入っていた。

氷がコップの縁に当たって、かすかな音を立てた。

私はしばらく、そのコップを見ていた。

それから起き上がって、コップを両手で持った。

冷たかった。

ひんやりとした温度が手のひらに広がった。

一口飲んだ。

麦茶の、少し苦くて甘い味がした。

廊下のほうを見た。

「ありがとう」
声に出して言った。

部屋のドアは閉まっていた。

聞こえたかどうか、わからなかった。

返事はなかった。

この半年間、ずっと待っていた言葉を、今日は私が先に言っていた。

それがどういう意味なのか、うまく言葉にできない。

里親として何かが変わったのか、それとも私が変わったのか、たぶん両方で、たぶんどちらでもない。

不満がなくなったわけじゃない。

ありがとうをもらえなかった日々の積み重ねは、消えない。

夜中に床で座っていた背中の痛さも、残ったお弁当を流しで洗ったときの気持ちも、まだ体のどこかに残っている。

LGBTのカップルが里親になるとはどういうことか、同性愛者である私たちがこの子に何を渡せるのか、答えはまだ出ていない。

たぶんこれからも、きれいな答えは出ない。

ただ今日、私はコップを受け取った。

彼女は何も言わなかった。

ありがとうも、どういたしましても、なかった。

それでも、あのコとんという音は確かに聞こえた。

テーブルの上に置かれた、あの小さな音は。

窓の外が完全に暗くなっていた。

コップの中の氷がまた鳴った。

私は日記を開いて、今日のことを書いた。

きれいにまとめるつもりはない。

答えが出たふりもしない。

ただ今日の麦茶は、少しだけおいしかった。

それだけを書いて、ペンを置いた。

任務報告

委託の朝、私は湊より先に起きた。

布団の中で目を開けると、カーテンの隙間から光が入っていた。

細い線が、白い天井に伸びていた。

三週間前と同じ光だった。

同じ天井だった。

でも今日で、この部屋の朝は最後だった。

湊にとっては。

湊はまだ眠っていた。

口が少し開いていた。

頬が枕に押されて、片方だけ膨らんでいた。

いつもと同じ寝顔だった。

私はしばらく、それを見ていた。

見ながら、昨夜のうちに荷物をまとめたことを確認した。

着替え、好きな恐竜の図鑑、シェルターで一緒に買った小さなぬいぐるみ。

くたびれた白い犬のぬいぐるみだった。

ホームセンターで三百円だった。

湊が「これがいい」と言って選んだ。

朝食は、卵焼きにした。

甘めに焼いた。

湊の好きな味だった。

湊が起きてきて、椅子に座って、「いいにおい」と言った。

フライパンを覗いて、「たまごやき」と言った。

「そう」と私は言った。

湊は全部食べた。

私は半分しか食べられなかった。

卵焼きを口に入れると、甘かった。

甘すぎるくらいだった。

飲み込むのに、時間がかかった。

湊が「お母さん食べないの」と言った。

「後で食べる」と私は言った。

湊は「ふーん」と言って、麦茶を飲んだ。

麦茶を飲む湊の喉が、こくりと動いた。

私はそれを見ていた。

この子の喉が動くのを、毎朝見てきた。

あの家でも、ここでも。

こくり、こくりと、規則正しく動いた。

どこにいても、この子は水を飲む。

ご飯を食べる。

眠る。

それだけは変わらなかった。

変えさせなかった、と言えるかどうか、私にはわからなかった。

でも変わらなかった。

担当者の車で、三十分走った。

湊は後部座席で、白い犬のぬいぐるみを膝に乗せていた。

窓の外をずっと見ていた。

信号、電柱、川沿いの道。

湊が何を見ているのか、私にはわからなかった。

聞けなかった。

聞いたら、何かが崩れる気がした。

車が止まった。

静かな住宅街だった。

塀に沿って、細い木が並んでいた。

葉が落ちて、枝だけになっていた。

でもその枝の先に、小さな芽が出ていた。

冬の終わりの、固い芽だった。

里親の夫婦が、玄関の前に立っていた。

六十代くらいの、背の低い夫と、白髪の妻だった。

二人とも、穏やかな顔をしていた。

妻がしゃがんで、湊の目線に合わせた。

「来てくれてありがとう」と言った。

湊は少し照れて、ぬいぐるみを胸に押しつけた。

担当者が湊の隣に立って、玄関を示した。

湊がぬいぐるみを抱えたまま、玄関に向かって歩き出した。

二歩、三歩。

敷石の上を、湊の靴が踏んだ。

ぺた、ぺた、と音がした。

玄関の前で、湊が振り返った。

私を見た。

私は動けなかった。

何か言わなければと思った。

でも言葉が、どこにもなかった。

湊は私を見て、それから玄関のドアを向いた。

「いってきます」と湊が言った。

私の喉が、動いた。

「いってらっしゃい」と私は言った。

それだけだった。

湊がドアを開けた。

中に入った。

里親の妻が続いて入った。

ドアが閉まった。

枝の先の芽が、風に揺れた。

固い、小さな芽だった。

帰り道は、一人で歩いた。

担当者に駅まで送ると言われたが、断った。

歩きたかった。

どこをどう歩いているのか、よくわからないまま歩いた。

住宅街を抜けて、大きな道に出た。

車が通った。

自転車が追い抜いた。

風が吹いて、コートの中まで冷えた。

道の端で、立ち止まった。

塀の前だった。

誰かの家の、白い塀。

寄りかかって、声を殺して泣いた。

声は出なかった。

ただ涙が出た。

止まらなかった。

しばらくそのまま立っていた。

風が吹くたびに、目が冷えた。

涙が乾いた。

また出た。

また乾いた。

それが終わると、歩き出した。

歩きながら、「いってきます」という声を思った。

湊の声だった。

躊躇いがなかった。

まっすぐ、外に向かって出た言葉だった。

行ってくる場所があって、その言葉が言えた。

あの家では、「いってきます」を言える朝があったか。

私には思い出せなかった。

でも今日、湊は言えた。

逃げたのではない、と初めて思えた。

逃げたから、湊はあの家を出られた。

それは本当だった。

でも今日気づいたのは、そこではなかった。

私が逃げた日から、湊が「いってきます」と言える朝に向かって、歩いてきた。

遠回りだった。

傷だらけだった。

安全な親かどうか、今もわからなかった。

でも今日、湊を安全な場所に届けた。

それだけが、今日の私にできたことだった。

それだけで、よかった。

駅が見えた。

私は歩き続けた。

風がまた吹いた。

今度は、少しだけ温かかった。

任務報告

六月の土曜日、奈緒さんが夕飯を持ってきた。

チキンのトマト煮込みだった。
鍋ごと持ってきた。
玄関で受け取ったとき、鍋が温かかった。
作りたてだった。
「遥ちゃんが食べられるか、わからなくて」と奈緒さんが言った。
「大丈夫です」と私は言った。

遥は自分の部屋にいた。

「遥、奈緒さん来たぞ」と廊下に向かって言った。
しばらくして、遥が出てきた。
「こんにちは」と言った。
奈緒さんが「こんにちは、遥ちゃん」と言った。
笑顔だった。
遥も笑った。
笑ったが、目が笑っていなかった。
私は気づいた。
気づいて、台所に向かった。

三人でテーブルに座った。

奈緒さんが持ってきたトマト煮込みと、私が作った味噌汁が並んだ。
奈緒さんが「いただきます」と言った。
三人で手を合わせた。

奈緒さんが遥に話しかけた。

「最近、学校どう?」
「普通です」と遥が言った。

「好きな授業ある?」
「国語です」と遥が言った。

「本が好きなんだね」
「はい」と遥が言った。

それだけだった。
遥は間違っていなかった。
質問に答えていた。
でも何かが続かなかった。
奈緒さんが話しかけるたびに、遥が短く答えて、止まった。
止まるたびに、奈緒さんが次の言葉を探した。
その繰り返しだった。

私は黙って食べた。

間に入れなかった。
入ろうとするたびに、何を言えばいいかわからなかった。
体育教師を十五年やってきた。
生徒の気持ちを読むのは、得意なはずだった。
でも今夜の遥と奈緒さんの間に、私は入れなかった。

食事が終わった。

遥が「ごちそうさまでした」と言って、自分の皿を台所に持っていった。
「部屋に戻ってていいか」と私に言った。
「ああ」と私は言った。
遥が廊下に消えた。

奈緒さんが片付けを手伝った。

「トマト煮込み、食べてくれてよかった」と奈緒さんが言った。
「ありがとう、うまかった」と私は言った。
奈緒さんが笑った。
でも少しだけ、疲れた笑顔だった。
気づかないふりをした。
気づいてしまったら、何か言わなければならない気がした。

奈緒さんが帰った。

玄関でドアが閉まった。
廊下が静かになった。
私は台所に戻って、残った皿を洗い始めた。

奈緒さんが持ってきた鍋を洗った。

丸い、赤い鍋だった。
奈緒さんの家の鍋だった。
スポンジで内側を洗った。
トマトの赤が、泡と混ざって流れた。
温かい水が、手に当たった。

うまくいかなかった、と思った。

誰が悪いわけではなかった。
奈緒さんは優しかった。
遥も失礼ではなかった。
料理も、会話も、全部正しかった。
でも温度がなかった。
三人のテーブルに、温度がなかった。

遥が奈緒さんを見るとき、何かを測るような目をしていた。

何を測っていたのか、私には読めなかった。
この人は信用できるか。
この人はここにいていい人か。
それとも別の何かを。
読めないまま、鍋を洗い続けた。

誰かが、この三人の中で場所を譲らなければならない。

その感覚が、温かい水の中で、静かに浮かんだ。
誰が譲るのか。
譲った人は、どこへ行くのか。
答えが出ないまま、鍋がきれいになった。
私は鍋を伏せて、水を止めた。

台所が静かになった。

遥の部屋から、物音がした。
本をめくる音か、椅子を引く音か、わからなかった。
ただ、遥がそこにいた。
今夜も、ここにいた。
それだけが、今夜の確かなことだった。

任務報告

面談室は、窓が一つあった。

曇りガラスで、外の景色は見えなかった。

白く滲んだ光だけが入ってきた。

部屋の隅に観葉植物があって、葉が丸く、濃い緑色をしていた。

誰かが水をやっている植物だった。

私はそれを見ながら、椅子に座った。

支援員の田中さんは、三十代くらいの女性だった。

いつも少しだけ前のめりに座る人だった。

話を聞くとき、体ごと向けてくる。

その姿勢が、最初は少し怖かった。

まっすぐ向けられることに、慣れていなかった。

「今日は生活再建について、一緒に整理しましょう」と田中さんが言った。

就労支援の話から始まった。

美容師の資格があること、ブランクが三年あること、湊の預け先が確保できれば働けること。

田中さんがノートに書きながら、確認するように話した。

私は頷いた。

頷くたびに、自分の生活が図式になっていく感覚があった。

正しかった。

全部、正しかった。

離婚手続きの進捗を確認して、住居の候補をいくつか見て、面談が終わりに近づいた。

「湊くんの様子は、どうですか」と田中さんが言った。

「元気です」と私は答えた。

嘘ではなかった。

湊はよく食べて、よく眠った。

シェルターの他の子どもたちと、すぐに打ち解けた。

昨日は共用スペースで、知らない子と一緒に積み木を積んでいた。

崩れるたびに、二人で笑っていた。

元気だった。

本当に、元気だった。

でも田中さんが「そうですか、よかった」と言ったとき、私は少しだけ黙った。

よかった、と思えなかったわけではなかった。

ただ、元気であることが、安心と不安の両方に見えた。

面談室を出て、廊下を歩いた。

共用スペースから、子どもたちの声が聞こえた。

湊の声も混じっていた。

高くて、よく通る声だった。

私はその声を廊下で聞きながら、立ち止まった。

この子は適応が早い。

場所が変わっても、人が変わっても、すぐに慣れる。

それは強さかもしれない。

でも私には、その強さの輪郭が怖かった。

この子がどこにでも慣れられるのは、慣れなければならない場所に、ずっといたからではないか。

あの家に。

私と拓也がいた、あの家に。

DVを受けた人間が、DVをしない親になれるか。

その問いを、誰にも言ったことがなかった。

田中さんにも言えなかった。

言葉にすれば、答えを求めなければならない。

答えが出たとき、それが「なれない」だったら。

その先を、まだ考えられなかった。

廊下の窓から、空が見えた。

曇っていた。

白い雲が、低く垂れていた。

どこかで風が吹いているのか、雲の端がゆっくりと動いていた。

私はそれを見ていた。

雲は答えを持っていなかった。

ただ動いていた。

夕方、湊が部屋に戻ってきた。

「お母さん、つみき強かったよ」と言った。

「そう」と私は言った。

「ぜんぜん崩れなかった」
「上手だったんだね」
湊は満足そうに頷いて、布団の上に転がった。

天井を見て、何か考えるような顔をして、またすぐに目を閉じた。

夕飯前なのに、眠りそうだった。

私は湊の隣に座った。

この子の寝顔を、今日も見ている。

あの家でも見ていた。

逃げる前も、逃げた後も、湊の寝顔だけは変わらなかった。

口が少し開いて、頬が緩んで、呼吸が深くなる。

どこにいても、同じ順番で眠る。

安全な親かどうか、まだわからなかった。

でも今日、この子の隣に座っている。

それだけが、今日の私にわかることだった。

任務報告

きっかけは、テレビのドキュメンタリー番組だった。

家庭の事情で親と一緒に暮らせない子どもたちがいること、そしてそうした子どもたちを家庭で育てる里親という制度があることを、そこで初めて知った。

制度を知ってからも、すぐには動けなかった。

子どもの人生に関わることだから、中途半端な気持ちで踏み込んではいけないという思いが強かった。

実際の生活の中でどこまで受け入れられるのか、家族の理解と協力が得られるのか。自分一人では決められないことばかりだった。

家族と何度も話し合いを重ねながら、少しずつ気持ちを整理していった。

背中を押したのは、説明会で聞いた現役里親の言葉だった。悩みながらも子どもと向き合い続けているその姿に共感した。

「すべてを完璧にしてあげる必要はなく、安心できる居場所をつくることが大切」

この言葉が、それまで感じていた「自分に務まるのだろうか」という重さを、少し軽くしてくれた。

子どもが来た最初の頃、こちらが声をかけても小さくうなずく程度で、表情はどこか固かった。

食事のときも遠慮しているようで、「本当に食べていいの?」といった様子が見えた。

夜もなかなか寝付けない日があり、家の中では静かに過ごしながらこちらの顔色をうかがっているように感じる場面も多かった。

新しい環境への不安と戸惑いが、子どもの全身から伝わってきた。

最もきつかったのは、突然泣き出したり怒りをぶつけてきたりする場面への対応だった。

「自分の対応は正しいのか」「子どもを傷つけてしまうのではないか」

そのたびに不安が押し寄せ、精神的に疲弊する瞬間があった。

夜中に泣いて呼ばれることが続き、寝不足が重なって体力的にも限界に近い日もあった。

変化は、日常の小さなやり取りの中に現れた。

学校や遊びでの出来事を楽しそうに話してくれるようになり、一緒に笑える瞬間が少しずつ増えてきた。

最初の頃の緊張と距離感が解けていくのを、日々のやり取りの中で感じた。

信頼関係というものは、特別な出来事によって生まれるのではなく、何でもない日常の積み重ねの先にあるのだと実感した。

職場では、直属の上司とチームメンバーにだけ事前に相談した。

「家庭で新しい子どもを受け入れるので、最初のうちは時間に変動があるかもしれない」と率直に伝えたことで、勤務時間の調整や休暇取得に柔軟に対応してもらえた。

子どもに安心できる環境を保ちながら、自分たちの生活も守るために、職場への事前の相談は欠かせない準備だったと感じている。

里親を考えている人へ伝えたいのは、最初の緊張や戸惑いは誰にでもあるということだ。

完璧を目指す必要はなく、子どものそばにいて寄り添うことが出発点になる。

少しずつ信頼関係が築けたときの喜び、日常の中でふと見せてくれる笑顔。それは、どんな言葉でも言い表せないものだ。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、「迷わずまず一歩を踏み出してみなさい」と言いたい。

任務報告

支援員の田中さんに相談してから、三週間が過ぎた。

手続きは静かに進んでいた。

書類を書いた。

面談があった。

里親家庭の候補について、説明を受けた。

その間、湊はシェルターで過ごしていた。

他の子どもたちと遊んで、ご飯を食べて、眠った。

私はその隣にいた。

隣にいながら、何も言えなかった。

言えなかったのは、言葉が見つからなかったからではなかった。

言葉はあった。

「湊に、新しいおうちに行ってほしい」。

それだけだった。

短い言葉だった。

でもその言葉を口に出す前に、私はいつも湊の顔を見た。

見ると、言えなかった。

湊が笑っていると、言えなかった。

湊が眠そうにしていると、言えなかった。

言える顔、というものが、湊にはなかった。

話したのは、三週間目の木曜日の夜だった。

湊を風呂に入れて、歯を磨かせて、布団に入った。

部屋の電気を消した。

豆電球だけが、橙色に灯っていた。

湊が私の隣に転がって、天井を見た。

私も天井を見た。

「湊」と私は言った。

「なに」
「お母さん、湊に話がある」
湊が横を向いた。

私の顔を見た。

暗い部屋の中で、湊の目だけが光っていた。

「湊に、新しいおうちに行ってほしいと思ってる」
湊はすぐには何も言わなかった。

私は続けた。

今のおうちとは別の場所に、湊のことをちゃんと迎えてくれる大人がいること。

そこで暮らしてほしいこと。

言葉を選びながら話した。

選んでいる間も、湊は黙って私を見ていた。

「お母さんも来る?」と湊が言った。

胸の奥で、何かが鳴った。

お母さんも来る?それが子どもにとって、唯一の問いなのかもしれない。

「お母さんは後から行く」と私は言った。

嘘かどうか、わからなかった。

後から行けるようになりたい、という気持ちは本物だった。

でも「なれる」かどうかは、今の私には誰にも言えなかった。

言えないまま、言った。

湊のために言ったのか、自分のために言ったのか、それもわからなかった。

湊は少し黙った。

布団の中で、足をもぞもぞと動かした。

考えているのか、眠いのか、私には読めなかった。

それから「わかった」と言った。

「わかった」の中に何があるのか、私には見えなかった。

納得したのか、諦めたのか、ただ言葉を受け取っただけなのか。

四歳の「わかった」は、時々大人より深くて、時々大人より浅かった。

どちらかを確かめる方法を、私は持っていなかった。

「ねむい」と湊が言った。

目を閉じた。

それだけだった。

私は湊の寝顔を見た。

橙色の豆電球の光の中で、湊の顔が柔らかかった。

口が少し開いていた。

頬が枕に押されて、片方だけ膨らんでいた。

シェルターに来た最初の夜も、同じ顔で眠った。

あの家にいた頃も、同じ顔で眠った。

どこにいても、この子は同じ顔で眠る。

泣きたかった。

でも泣けなかった。

泣くことが、眠りかけている湊に何かを押しつける気がした。

私の悲しみを、この子の夜に置いていく気がした。

だから飲んだ。

奥へ押し込んだ。

いつもそうしてきたように。

でも今夜は、少し違った。

押し込んだのは、逃げるためではなかった。

湊が「ねむい」と言えたから。

「わかった」と言って、目を閉じられたから。

この子は今夜、安心して眠れている。

私の隣で。

それだけが、今夜の私には十分だった。

湊の呼吸が、深くなった。

規則正しい、柔らかい音だった。

私はその音を聞きながら、暗い天井を見た。

いつもと同じ天井だった。

知っている天井。

でも今夜は少し、遠くに見えた。

お母さんは後から行く。

その言葉が、まだ部屋の中にあった。

言ったことを、後悔はしていなかった。

ただ、その言葉を本当にするために、私には何が必要か。

安全な親になるために、何が要るか。

答えはまだなかった。

でも今夜、湊に話した。

話せた。

それだけが、今夜の私にできたことだった。

湊の寝息が続いていた。

私はそれを聞きながら、ゆっくりと目を閉じた。

任務報告

その夜は、夕食のあとだった。

共用スペースに、子どもが三人いた。

湊と、小学生くらいの女の子と、湊より少し小さい男の子。

三人でおもちゃ箱を囲んでいた。

私は壁際の椅子に座って、湊を見ていた。

はじめは穏やかだった。

ブロックを並べて、何かを作っていた。

湊が赤いブロックを取った。

小さい男の子も、同じ赤いブロックに手を伸ばした。

二人の手が、同時にそれを掴んだ。

湊が引いた。

男の子も引いた。

湊が、押した。

強くはなかった。

でも男の子は体勢を崩して、尻もちをついた。

それから泣き出した。

私は立っていた。

気づいたら、湊の腕を掴んでいた。

右手で、湊の左腕を。

湊の体が、ぐらりと傾いた。

掴みすぎた、と気づいたのは、湊の顔を見てからだった。

湊は泣かなかった。

ただ、私を見た。

黙って、真っ直ぐ、私を見た。

その目が、どこか遠かった。

怯えとも違った。

諦めとも違った。

ただ、待っていた。

次に何が来るかを、待っていた。

私は手を離した。

湊の腕に、私の指の跡が残っていた。

赤くはなかった。

でも確かに、そこに四本の指の形があった。

私はそれを見た。

見て、目を逸らせなかった。

湊の目が、拓也に怒鳴られていたときの自分の目に見えた。

次に何が来るかを知っている目。

備えている目。

四歳が、その目をしていた。

男の子のお母さんが来て、泣いている子を抱き上げた。

湊に「ごめんなさいは?」と言った。

湊は「ごめんなさい」と言った。

私の方を一度も見ずに、まっすぐ男の子に向かって言った。

私は何も言えなかった。

湊の「ごめんなさい」が、耳に残った。

きれいな「ごめんなさい」だった。

躊躇いがなかった。

反射的に、正確に、出てきた言葉だった。

それがこの子の中に、いつから入っていたのか。

その夜、湊が眠ってから、私は布団の中で天井を見た。

腕を掴んだ手の感触が、まだ右手に残っていた。

強く掴みすぎた。

湊は泣かなかった。

泣かなかったことの意味を、私は知っていた。

泣いてはいけないと、体が判断したから泣かなかった。

その判断を、四歳がしている。

誰が教えたか。

拓也が教えた部分はある。

でも私が逃げられなかった時間が、教えた部分もある。

私がそこにいたから、湊はあの家で、泣いてはいけないことを覚えた。

それは拓也のせいにできなかった。

私が、そこにいたのだから。

天井のシミを、暗い中で探した。

昼間は見えているシミが、夜は見えなかった。

同じ天井なのに、光がなければ何もわからなかった。

里親委託、という言葉が浮かんだ。

これまでも浮かんだことはあった。

でもそれは、私が限界だから、という場所から浮かんでいた。

今夜は違った。

湊の腕に残った指の跡。

泣かなかった目。

反射的な「ごめんなさい」。

それらが、全部湊のことだった。

私のことではなかった。

この子にとって、私は安全な親でいられるか。

いられない日が、今夜あった。

それだけは確かだった。

確かなことが一つあれば、次が見えることもある。

私はそう思うことにした。

思うことにして、目を閉じた。

湊の寝息が、暗い部屋に聞こえていた。

規則正しい、深い音だった。

その音を聞きながら、私はようやく眠った。

任務報告

今日も「ありがとう」は、なかった。

夕方、玉ねぎを炒める音がキッチンに広がっていた。

油の弾ける音、醤油を入れた瞬間の甘い煙。

私はそれを聞きながら、リビングのほうを何度か確認した。

彼女はソファに座って、ランドセルも下ろさないまま、窓の外をぼんやり見ていた。

8歳の背中は小さくて、でも妙に遠かった。

「ごはん、できたよ」

返事はなかった。

少しして、ランドセルをどさっと床に置く音だけが聞こえた。

テーブルに並べた皿を、彼女はひとつひとつ確認するように見た。

嫌いなものが入っていないか、確かめるみたいに。

「いただきます」を言って、箸を持って、黙って食べ始めた。

パートナーが「おいしいね」と言うと、彼女は小さくうなずいた。

私のほうは見なかった。

食器を洗いながら、泡の立つ音を聞いていた。

別に、感謝してほしいわけじゃない。

そう思おうとした。

でも手の中のスポンジが、なんとなく重かった。

委託されて3ヶ月が経つ。

LGBTのカップルが里親になることへの周囲の視線は、想像していたよりずっとやわらかかった。

担当の支援員さんは丁寧だったし、児童相談所の対応も思っていたより温かかった。

同性愛のカップルだからといって、特別に冷たくされた記憶はない。

それでも私たちは、どこかで「ちゃんとしなければ」と思い続けていた。

里親として、LGBTとして、この子に何かを証明しなければならないような気がして。

だから余計に、頑張ってしまっているのかもしれない。

お風呂の準備をして「入れるよ」と声をかけると、彼女は無言で立ち上がってドアを閉めた。

シャワーの音が壁越しに聞こえてきた。

水音はしばらく続いて、それからぴたりと止まった。

廊下に、シャンプーの甘い匂いが漂ってきた。

「慣れてないだけだよ」
パートナーはそう言って、私の肩に手を置いた。

温かかった。

でもその温かさが、少しだけ的外れに感じた。

慣れの話じゃない、たぶん。

うまく言葉にできないまま、私は「そうだね」と返した。

夜、彼女が眠ったあと、リビングに一人で座った。

テーブルの上に、彼女が使ったコップが残っていた。

麦茶の輪染みが、白いテーブルクロスにうっすらついていた。

私はそれをじっと見ていた。

拭こうとして、やめた。

任務報告

五月の朝、目が覚めたとき、体が軽かった。

軽い、というのは、正確ではないかもしれない。
ただ、重くなかった。
重くない朝が、私には「いい日」だった。
布団から出られる。
台所に立てる。
朝陽の顔を見られる。
それだけのことが、できる朝だった。

カーテンを開けた。

光が入った。
五月の光は、柔らかかった。
眩しすぎなかった。
「だめな日」の光は眩しすぎる。
同じ光なのに、体の状態によって違って届く。
今日の光は、ちょうどよかった。
それだけで、今日がいい日だとわかった。

台所に立って、朝食を作った。

卵を二個、割った。
フライパンに落とした。
白身が広がった。
黄身が、真ん中に収まった。
塩を少し振った。
パチパチと、油が跳ねた。
その音が、今朝は心地よかった。
「だめな日」はこの音が怖い。
音が、体に刺さる。
今日は刺さらなかった。

朝陽を起こした。

「朝陽、ご飯だよ」と言った。
朝陽が「んー」と言った。
しばらくして、起き上がった。
台所に来た。
目玉焼きを見て、「いい匂い」と言った。
椅子に座った。

二人で食べた。

朝陽が学校のことを話した。
昨日の体育で、ドッジボールをしたこと。
当たらなかったこと。
でも一回だけ、ボールを取れたこと。
私はそれを聞きながら、頷いた。
声が届いた。
朝陽の声が、今朝は届いた。

「行ってきます」と朝陽が言った。

「行ってらっしゃい」と私は言った。

ドアが閉まった。
私は一人になった。
今日はいい日だ、と思った。
このまま続けばいい、と思った。
続くかどうかは、わからなかった。

午後、仕事をした。

データ入力の仕事だった。
画面を見て、数字を打った。
集中できた。
「いい日」は集中できる。
「だめな日」は画面の文字が、意味を持たない記号に見える。
今日は意味があった。
数字が数字として見えた。

三時間、働いた。

疲れた。
でも働いた疲れだった。
「だめな日」の疲れとは、種類が違った。
働いた疲れは、少し気持ちよかった。

夕方、四時を過ぎたころだった。

急に、重くなった。

予告はなかった。
いつもそうだった。
「だめな日」は予告なく来る。
さっきまで軽かった体が、急に鉛になった。
画面の文字が、滲んだ。
椅子から立てなくなった。

布団に入った。

カーテンを閉めた。
部屋が暗くなった。
天井を見た。
白い天井が、遠かった。
体が沈んでいく感覚があった。
沈んでいく、というより、溶けていく感覚だった。

朝陽が帰ってくる時間が、頭にあった。

五時半。
もうすぐだった。
夕飯を作らなければならなかった。
でも動けなかった。
動けないことへの罪悪感が来た。
罪悪感が来ると、もっと動けなくなった。
そのことを、主治医に話したことがあった。
主治医が「罪悪感は症状の一つです」と言った。
症状だとわかっていても、罪悪感は来た。

玄関のドアが開く音がした。

「ただいま」と朝陽が言った。
「お母さん?」と言った。

「大丈夫」と私は言った。
布団の中から言った。
声が、かすれた。

朝陽が台所に行く音がした。

引き出しを開ける音がした。
冷蔵庫を開ける音がした。
何かを切る音がした。
包丁の音だった。
フライパンが火にかかる音がした。
油が温まる音がした。

私は布団の中で、その音を聞いていた。

朝陽が台所で、夕飯を作っていた。
八歳が、包丁を使っていた。
どこで覚えたのか、わからなかった。
いつから作れるようになったのか、正確にわからなかった。
気づいたら、そうなっていた。
気づかなかった自分が、布団の中で、重かった。

「ご飯できたよ」と朝陽が言った。

廊下から言った。
部屋のドアを開けずに言った。
起きられないなら起きなくていい、という気遣いが、その距離にあった。
八歳の気遣いだった。

嬉しかった。
悲しかった。
申し訳なかった。
全部が同時に来た。

どれが本当かは、わからなかった。
全部、本当だった。

任務報告

土曜日の夕方、三人でスーパーに行った。

パートナーが「お菓子、一個だけ選んでいいよ」と言うと、彼女は少しだけ顔を上げた。

お菓子売り場の前で、二人が並んで棚を眺めていた。

彼女がグミを手に取って、パートナーに見せた。

パートナーが「それ美味しいよね」と言うと、彼女は小さく笑った。

私はカートを押しながら、その横顔を見ていた。

笑うんだ、と思った。

家に帰って、夕食の準備をしながらリビングを見ると、パートナーと彼女がソファで肩を並べてテレビを見ていた。

彼女がパートナーの腕に少しだけ寄りかかっていた。

パートナーは気づいていないのか、そのままバラエティ番組を笑って見ていた。

私はにんじんを切った。

まな板の音が、やけに大きく聞こえた。

夕食のあと、パートナーが洗い物をすると言った。

珍しかった。

「いいよ」と言ったら「たまにはやる」と笑って、蛇口をひねった。

彼女はもう自分の部屋に入っていた。

リビングに私一人が残された。

ソファに座って、さっき彼女が寄りかかっていた場所をぼんやり見た。

なぜパートナーには笑うのか。

なぜ私には笑わないのか。

毎日ごはんを作っているのは私だ。

送り迎えをしているのも、夜中に熱を測ったのも、お弁当を作ったのも。

里親としての実務を、ほとんど私が担っている。

パートナーは仕事が忙しいから、という理由で。

最初からそういう役割分担だったから、という理由で。

でも彼女が笑いかけるのは、パートナーのほうだ。

水の音がキッチンから聞こえていた。

皿が重なる音。

パートナーが鼻歌を歌っていた。

その音が、じわじわと耳の奥に入り込んできた。

「ねえ」と私は言った。

「ん?」

「なんで私には笑わないんだろう、あの子」

パートナーが振り返った。

泡のついた手のまま、少し考えるような顔をした。

「そう? 気のせいじゃない?」と言った。

気のせい。

また、その言葉だった。

「気のせいじゃないと思う」と私は言った。

声が少し硬くなった。

自分でもわかった。

「じゃあ、もっと一緒に遊んであげれば?」
その一言で、何かが切れた。

遊んであげれば。

私がやっていることは全部、家事と世話で、それは「遊び」じゃないから数に入らないということか。

LGBTのカップルが里親になるとき、支援員さんに「役割を決めすぎないように」と言われた言葉を、今さら思い出した。

同性愛のカップルには「どちらが母親か」という外からの問いが来ることがある、だから内側では対等でいてほしい、と。

対等。

今の私たちが、対等に見えるだろうか。

口論は長くなかった。

パートナーが「ごめん、言い方が悪かった」と言って、それで終わった。

私も「こっちこそ」と言った。

仲直りの形をした、終わり方だった。

夜、布団の中で目を開けたまま天井を見ていた。

怒りの本当の理由が、里子なのか、パートナーなのか、それとも里親になると決めた自分自身なのか、もうわからなかった。

ただ胸のあたりに、冷たくて重いものが、ずっと乗っかっていた。

隣でパートナーの寝息が聞こえた。

規則正しい、穏やかな音だった。

私はそれを聞きながら、まだ目を閉じられなかった。

任務報告

夕食が終わって、ソウがリビングでハナに話しかけていた。

私は一人で皿を洗っていた。

水の音を聞きながら、私は今夜こそ何か言うべきかと考えていた。

でも何をどう切り出せばいいか、昨日も今日も、言葉は出てこないままだった。

フライパンをすすいで、スポンジを絞って、皿を拭く。

その繰り返しの中に、気配がした。

ハナが台所に入ってきて、私の隣に立った。

何も言わなかった。

私も何も言わなかった。

水の音だけが続いた。

三十秒か、一分か、それくらい経ったころ、ハナがぽつりと言った。

「ねえ。
うちってふつうの家族じゃないの?」

私は手を止めなかった。

グラスの内側をスポンジで丁寧に回しながら、少し間をおいた。

「どうしてそう思った?」

ハナが話した。

学校からの帰り道、ミサちゃんに聞かれたこと。

ふつうだよと答えたこと。

でもそれが本当かどうか、ずっとわからなかったこと。

私は水を流したまま、全部聞いた。

話し終わったとき、私は水を止めた。

タオルで手を拭いて、ハナの隣にしゃがんだ。

九歳の目と、三十二歳の目が、同じ高さになった。

「ふつうじゃないかもしれない」と私は言った。

「俺とソウさんは、男どうしで一緒に暮らしてる。

それは、世間でいうふつうとは違う」

ハナは黙って聞いていた。

「でも」と私は続けた。

「ふつうって、誰が決めるんだろうな」

答えにならないとわかっていた。

もっとうまい言葉があるのかもしれない。

でもこれが、今夜自分の言える正直だった。

ハナはしばらく黙っていた。

それから小さくうなずいた。

何かが解決したわけじゃない。

でもその小さなうなずきが、私の胸の奥に、静かに落ちた。

リビングからソウの「どうしたの二人とも」という声がした。

私は立ち上がって「なんでもない」と言った。

ハナも、少しだけ口の端を動かした。

任務報告

ニュースやテレビの特集で、親と一緒に暮らせない子どもたちの現状を取り上げているのを見たことがきっかけだった。

それまで「里親」という言葉はなんとなく聞いたことがある程度だったが、実際には家庭的な環境を必要としている子どもが多くいることを初めて知った。

インターネットで調べ、自治体の情報を読むうちに、里親にはさまざまな形があり、子どもの生活と成長を支える制度なのだと理解するようになった。

関心を持ってからも、すぐには動けなかった。子どもの背景やこれまでの経験をしっかり受け止められるのか、責任の重さを感じていた。

家族の理解が得られるか、仕事との両立ができるか、現実的な不安もあった。

情報を集め、話を聞くうちに、少しずつ具体的に考えられるようになった。

家族とも話し合いを重ね、「できる範囲で子どもの成長を支えたい」という気持ちが言葉になっていった。

そして思い切って、一歩を踏み出した。

子どもが来た最初の頃、お互いに緊張していた。

子どもは環境の変化に戸惑っているようで、あまり言葉を発さず、距離を取っている様子があった。

こちらもどう接すれば安心してもらえるのか分からないまま、気を遣いながら様子を見る日々だった。

まずは安心して過ごせる場所だと感じてもらうことを意識した。生活のリズムやルールも少しずつ伝えながら、焦らずに時間をかけた。

時間が経つにつれて、少しずつ表情が出てきて、会話も増えていった。

最もしんどかったのは、子どもがなかなか気持ちを言葉にできず、どう接すればいいか分からなくなったときだった。

ある日、学校から帰ってきた後、急に機嫌が悪くなった。声をかけても部屋にこもってしまった。

何かあったのだとは分かる。しかし無理に聞くのがいいのか、そっとしておくべきなのか、判断できなかった。

子どものこれまでの経験を思うと、気持ちを簡単に話せないことも理解できる。

それでも、どう支えればいいのか分からないまま時間が過ぎていくことは、想像以上にこたえた。

答えは出なかった。ただ、焦らず待つことが、そのときできる唯一のことだった。

変化は静かにやってきた。

ある日、子どもの方から学校での出来事を話してくれた。今日あったことや、感じたことをぽつぽつと。

それまでは必要なこと以外あまり話さず、どこか距離があるように感じていただけに、その言葉が嬉しかった。

特別な出来事ではなかった。日常の中で自然に会話が生まれた、それだけのことだ。

しかしその瞬間に、少しずつ信頼関係ができてきたのだと実感した。

周囲への説明は、特にしなかった。それぞれの家庭の判断があっていい。

どこまで話すかは、子どものプライバシーを守ることを軸に考えることが一つの基準になると思う。

里親を考えている人に伝えたいのは、「完璧でなくても大丈夫」ということだ。

最初は不安や迷いが多く、本当に自分たちにできるのか悩んだ。

子どもの気持ちを理解することも、信頼関係を築くことも、簡単ではなかった。

それでも、特別なことをするというより、日々の生活の中で安心できる場所をつくり、少しずつ関係を育てていくことが大切だと感じている。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、「考えすぎなくて大丈夫!」と言いたい。

20代で里親になることへの迷いは、実際にやってみると杞憂だった部分も多かった。

年齢よりも、目の前の子どもと向き合う気持ちの方がずっと大事だと、今は思っている。

任務報告

ユイが「ちがう」と言ってから、一週間が経った。

その間、卵焼きの話は誰もしなかった。

ミオは毎朝違うものを作った。

スクランブルエッグ、目玉焼き、ふわふわのオムレツ。

どれもおいしかった。

ユイは毎朝きれいに食べた。

でも、あの遠い目をするときが、まだあった。

土曜の午後、ミオが仕事に出かけた。

家にユイと二人になった。

私はデスクで作業をしていたが、画面に集中できなかった。

リビングでユイが絵本を読んでいた。

ページをめくる音が、静かに聞こえた。

一時間くらい経ったころ、私はデスクを離れた。

リビングに行って、ユイの隣にそっと座った。

ユイが絵本から顔を上げた。

私を見た。

私は少し間をおいてから言った。

「前のおうちの卵焼き、どんな味だったか教えてくれる?」
ユイはすぐには答えなかった。

絵本を閉じて、膝の上に置いた。

窓の外を見た。

六歳の女の子が、何かを思い出そうとするときの顔をした。

「あまかった」
「甘かったんだね」
「うん。

それと、なんか、だしみたいなのも入ってた」
「だし巻き卵みたいな感じ?」
ユイが少し考えた。

「わかんない。

でもおいしかった」と言った。

それから小さく続けた。

「はしっこが、ちょっと焦げてた」
私は全部、日記帳に書き留めた。

甘い。

だしが入っている。

端が少し焦げている。

毎朝作っていた。

それだけだった。

でもユイが話してくれたことが、今日の私には十分すぎるほどだった。

「ありがとう、教えてくれて」と私は言った。

ユイはまた絵本を開いた。

それだけだった。

夜、ミオが帰ってきてから、書き留めたことを見せた。

ミオは読みながら「よし」と言って、スマートフォンでレシピを調べ始めた。

二十六歳の女が、カフェの仕事で疲れて帰ってきたのに、台所に立った。

私も隣に立った。

一回目は甘さが足りなかった。

二回目はだしが強すぎた。

三回目、ミオが卵液に砂糖をもう少し足して、火加減を少し弱めた。

焼き始めると、甘い匂いが台所に広がった。

巻き終わりの端が、少し焦げた。

ミオが「あ」と言いかけた。

私は「そのままにして」と言った。

皿に乗せて、二人で一口ずつ食べた。

「近いかも」とミオが言った。

私はまだ足りない気がした。

でも何が足りないのか、言葉にできなかった。

ユイの前の家庭の台所の温度も、その朝の光も、卵焼きを作っていた手の大きさも、私たちには永遠にわからない。

LGBTの同性愛カップルである私たちが里親としてこの子にできることと、できないことの境界線が、今夜の台所にはっきりと見えた。

でも近づこうとすることを、やめたくなかった。

日記を開いて、今夜のことを書いた。

最後にユイが話してくれた言葉を、もう一度書き写した。

あまかった。

だしみたいなのも入ってた。

はしっこが、ちょっと焦げてた。

この三行が、今夜の私たちの地図だと思った。