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合言葉を失った

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任務報告の型 : 根の呼吸:苦渋の型

「手放す」という決断に至るまでの長い苦しみの記録。子どもへの愛情と育てられないという現実の間で引き裂かれた日々。「親失格」という言葉が頭から離れなかった経験も刻んでいい。その記録は社会が知るべき現実であり同じ苦しみの中にいる人の孤独を和らげる。

任務報告

委託の朝、私は湊より先に起きた。

布団の中で目を開けると、カーテンの隙間から光が入っていた。

細い線が、白い天井に伸びていた。

三週間前と同じ光だった。

同じ天井だった。

でも今日で、この部屋の朝は最後だった。

湊にとっては。

湊はまだ眠っていた。

口が少し開いていた。

頬が枕に押されて、片方だけ膨らんでいた。

いつもと同じ寝顔だった。

私はしばらく、それを見ていた。

見ながら、昨夜のうちに荷物をまとめたことを確認した。

着替え、好きな恐竜の図鑑、シェルターで一緒に買った小さなぬいぐるみ。

くたびれた白い犬のぬいぐるみだった。

ホームセンターで三百円だった。

湊が「これがいい」と言って選んだ。

朝食は、卵焼きにした。

甘めに焼いた。

湊の好きな味だった。

湊が起きてきて、椅子に座って、「いいにおい」と言った。

フライパンを覗いて、「たまごやき」と言った。

「そう」と私は言った。

湊は全部食べた。

私は半分しか食べられなかった。

卵焼きを口に入れると、甘かった。

甘すぎるくらいだった。

飲み込むのに、時間がかかった。

湊が「お母さん食べないの」と言った。

「後で食べる」と私は言った。

湊は「ふーん」と言って、麦茶を飲んだ。

麦茶を飲む湊の喉が、こくりと動いた。

私はそれを見ていた。

この子の喉が動くのを、毎朝見てきた。

あの家でも、ここでも。

こくり、こくりと、規則正しく動いた。

どこにいても、この子は水を飲む。

ご飯を食べる。

眠る。

それだけは変わらなかった。

変えさせなかった、と言えるかどうか、私にはわからなかった。

でも変わらなかった。

担当者の車で、三十分走った。

湊は後部座席で、白い犬のぬいぐるみを膝に乗せていた。

窓の外をずっと見ていた。

信号、電柱、川沿いの道。

湊が何を見ているのか、私にはわからなかった。

聞けなかった。

聞いたら、何かが崩れる気がした。

車が止まった。

静かな住宅街だった。

塀に沿って、細い木が並んでいた。

葉が落ちて、枝だけになっていた。

でもその枝の先に、小さな芽が出ていた。

冬の終わりの、固い芽だった。

里親の夫婦が、玄関の前に立っていた。

六十代くらいの、背の低い夫と、白髪の妻だった。

二人とも、穏やかな顔をしていた。

妻がしゃがんで、湊の目線に合わせた。

「来てくれてありがとう」と言った。

湊は少し照れて、ぬいぐるみを胸に押しつけた。

担当者が湊の隣に立って、玄関を示した。

湊がぬいぐるみを抱えたまま、玄関に向かって歩き出した。

二歩、三歩。

敷石の上を、湊の靴が踏んだ。

ぺた、ぺた、と音がした。

玄関の前で、湊が振り返った。

私を見た。

私は動けなかった。

何か言わなければと思った。

でも言葉が、どこにもなかった。

湊は私を見て、それから玄関のドアを向いた。

「いってきます」と湊が言った。

私の喉が、動いた。

「いってらっしゃい」と私は言った。

それだけだった。

湊がドアを開けた。

中に入った。

里親の妻が続いて入った。

ドアが閉まった。

枝の先の芽が、風に揺れた。

固い、小さな芽だった。

帰り道は、一人で歩いた。

担当者に駅まで送ると言われたが、断った。

歩きたかった。

どこをどう歩いているのか、よくわからないまま歩いた。

住宅街を抜けて、大きな道に出た。

車が通った。

自転車が追い抜いた。

風が吹いて、コートの中まで冷えた。

道の端で、立ち止まった。

塀の前だった。

誰かの家の、白い塀。

寄りかかって、声を殺して泣いた。

声は出なかった。

ただ涙が出た。

止まらなかった。

しばらくそのまま立っていた。

風が吹くたびに、目が冷えた。

涙が乾いた。

また出た。

また乾いた。

それが終わると、歩き出した。

歩きながら、「いってきます」という声を思った。

湊の声だった。

躊躇いがなかった。

まっすぐ、外に向かって出た言葉だった。

行ってくる場所があって、その言葉が言えた。

あの家では、「いってきます」を言える朝があったか。

私には思い出せなかった。

でも今日、湊は言えた。

逃げたのではない、と初めて思えた。

逃げたから、湊はあの家を出られた。

それは本当だった。

でも今日気づいたのは、そこではなかった。

私が逃げた日から、湊が「いってきます」と言える朝に向かって、歩いてきた。

遠回りだった。

傷だらけだった。

安全な親かどうか、今もわからなかった。

でも今日、湊を安全な場所に届けた。

それだけが、今日の私にできたことだった。

それだけで、よかった。

駅が見えた。

私は歩き続けた。

風がまた吹いた。

今度は、少しだけ温かかった。

任務報告

支援員の田中さんに相談してから、三週間が過ぎた。

手続きは静かに進んでいた。

書類を書いた。

面談があった。

里親家庭の候補について、説明を受けた。

その間、湊はシェルターで過ごしていた。

他の子どもたちと遊んで、ご飯を食べて、眠った。

私はその隣にいた。

隣にいながら、何も言えなかった。

言えなかったのは、言葉が見つからなかったからではなかった。

言葉はあった。

「湊に、新しいおうちに行ってほしい」。

それだけだった。

短い言葉だった。

でもその言葉を口に出す前に、私はいつも湊の顔を見た。

見ると、言えなかった。

湊が笑っていると、言えなかった。

湊が眠そうにしていると、言えなかった。

言える顔、というものが、湊にはなかった。

話したのは、三週間目の木曜日の夜だった。

湊を風呂に入れて、歯を磨かせて、布団に入った。

部屋の電気を消した。

豆電球だけが、橙色に灯っていた。

湊が私の隣に転がって、天井を見た。

私も天井を見た。

「湊」と私は言った。

「なに」
「お母さん、湊に話がある」
湊が横を向いた。

私の顔を見た。

暗い部屋の中で、湊の目だけが光っていた。

「湊に、新しいおうちに行ってほしいと思ってる」
湊はすぐには何も言わなかった。

私は続けた。

今のおうちとは別の場所に、湊のことをちゃんと迎えてくれる大人がいること。

そこで暮らしてほしいこと。

言葉を選びながら話した。

選んでいる間も、湊は黙って私を見ていた。

「お母さんも来る?」と湊が言った。

胸の奥で、何かが鳴った。

お母さんも来る?それが子どもにとって、唯一の問いなのかもしれない。

「お母さんは後から行く」と私は言った。

嘘かどうか、わからなかった。

後から行けるようになりたい、という気持ちは本物だった。

でも「なれる」かどうかは、今の私には誰にも言えなかった。

言えないまま、言った。

湊のために言ったのか、自分のために言ったのか、それもわからなかった。

湊は少し黙った。

布団の中で、足をもぞもぞと動かした。

考えているのか、眠いのか、私には読めなかった。

それから「わかった」と言った。

「わかった」の中に何があるのか、私には見えなかった。

納得したのか、諦めたのか、ただ言葉を受け取っただけなのか。

四歳の「わかった」は、時々大人より深くて、時々大人より浅かった。

どちらかを確かめる方法を、私は持っていなかった。

「ねむい」と湊が言った。

目を閉じた。

それだけだった。

私は湊の寝顔を見た。

橙色の豆電球の光の中で、湊の顔が柔らかかった。

口が少し開いていた。

頬が枕に押されて、片方だけ膨らんでいた。

シェルターに来た最初の夜も、同じ顔で眠った。

あの家にいた頃も、同じ顔で眠った。

どこにいても、この子は同じ顔で眠る。

泣きたかった。

でも泣けなかった。

泣くことが、眠りかけている湊に何かを押しつける気がした。

私の悲しみを、この子の夜に置いていく気がした。

だから飲んだ。

奥へ押し込んだ。

いつもそうしてきたように。

でも今夜は、少し違った。

押し込んだのは、逃げるためではなかった。

湊が「ねむい」と言えたから。

「わかった」と言って、目を閉じられたから。

この子は今夜、安心して眠れている。

私の隣で。

それだけが、今夜の私には十分だった。

湊の呼吸が、深くなった。

規則正しい、柔らかい音だった。

私はその音を聞きながら、暗い天井を見た。

いつもと同じ天井だった。

知っている天井。

でも今夜は少し、遠くに見えた。

お母さんは後から行く。

その言葉が、まだ部屋の中にあった。

言ったことを、後悔はしていなかった。

ただ、その言葉を本当にするために、私には何が必要か。

安全な親になるために、何が要るか。

答えはまだなかった。

でも今夜、湊に話した。

話せた。

それだけが、今夜の私にできたことだった。

湊の寝息が続いていた。

私はそれを聞きながら、ゆっくりと目を閉じた。

任務報告

その夜は、夕食のあとだった。

共用スペースに、子どもが三人いた。

湊と、小学生くらいの女の子と、湊より少し小さい男の子。

三人でおもちゃ箱を囲んでいた。

私は壁際の椅子に座って、湊を見ていた。

はじめは穏やかだった。

ブロックを並べて、何かを作っていた。

湊が赤いブロックを取った。

小さい男の子も、同じ赤いブロックに手を伸ばした。

二人の手が、同時にそれを掴んだ。

湊が引いた。

男の子も引いた。

湊が、押した。

強くはなかった。

でも男の子は体勢を崩して、尻もちをついた。

それから泣き出した。

私は立っていた。

気づいたら、湊の腕を掴んでいた。

右手で、湊の左腕を。

湊の体が、ぐらりと傾いた。

掴みすぎた、と気づいたのは、湊の顔を見てからだった。

湊は泣かなかった。

ただ、私を見た。

黙って、真っ直ぐ、私を見た。

その目が、どこか遠かった。

怯えとも違った。

諦めとも違った。

ただ、待っていた。

次に何が来るかを、待っていた。

私は手を離した。

湊の腕に、私の指の跡が残っていた。

赤くはなかった。

でも確かに、そこに四本の指の形があった。

私はそれを見た。

見て、目を逸らせなかった。

湊の目が、拓也に怒鳴られていたときの自分の目に見えた。

次に何が来るかを知っている目。

備えている目。

四歳が、その目をしていた。

男の子のお母さんが来て、泣いている子を抱き上げた。

湊に「ごめんなさいは?」と言った。

湊は「ごめんなさい」と言った。

私の方を一度も見ずに、まっすぐ男の子に向かって言った。

私は何も言えなかった。

湊の「ごめんなさい」が、耳に残った。

きれいな「ごめんなさい」だった。

躊躇いがなかった。

反射的に、正確に、出てきた言葉だった。

それがこの子の中に、いつから入っていたのか。

その夜、湊が眠ってから、私は布団の中で天井を見た。

腕を掴んだ手の感触が、まだ右手に残っていた。

強く掴みすぎた。

湊は泣かなかった。

泣かなかったことの意味を、私は知っていた。

泣いてはいけないと、体が判断したから泣かなかった。

その判断を、四歳がしている。

誰が教えたか。

拓也が教えた部分はある。

でも私が逃げられなかった時間が、教えた部分もある。

私がそこにいたから、湊はあの家で、泣いてはいけないことを覚えた。

それは拓也のせいにできなかった。

私が、そこにいたのだから。

天井のシミを、暗い中で探した。

昼間は見えているシミが、夜は見えなかった。

同じ天井なのに、光がなければ何もわからなかった。

里親委託、という言葉が浮かんだ。

これまでも浮かんだことはあった。

でもそれは、私が限界だから、という場所から浮かんでいた。

今夜は違った。

湊の腕に残った指の跡。

泣かなかった目。

反射的な「ごめんなさい」。

それらが、全部湊のことだった。

私のことではなかった。

この子にとって、私は安全な親でいられるか。

いられない日が、今夜あった。

それだけは確かだった。

確かなことが一つあれば、次が見えることもある。

私はそう思うことにした。

思うことにして、目を閉じた。

湊の寝息が、暗い部屋に聞こえていた。

規則正しい、深い音だった。

その音を聞きながら、私はようやく眠った。

任務報告

面談室は、窓が一つあった。

曇りガラスで、外の景色は見えなかった。

白く滲んだ光だけが入ってきた。

部屋の隅に観葉植物があって、葉が丸く、濃い緑色をしていた。

誰かが水をやっている植物だった。

私はそれを見ながら、椅子に座った。

支援員の田中さんは、三十代くらいの女性だった。

いつも少しだけ前のめりに座る人だった。

話を聞くとき、体ごと向けてくる。

その姿勢が、最初は少し怖かった。

まっすぐ向けられることに、慣れていなかった。

「今日は生活再建について、一緒に整理しましょう」と田中さんが言った。

就労支援の話から始まった。

美容師の資格があること、ブランクが三年あること、湊の預け先が確保できれば働けること。

田中さんがノートに書きながら、確認するように話した。

私は頷いた。

頷くたびに、自分の生活が図式になっていく感覚があった。

正しかった。

全部、正しかった。

離婚手続きの進捗を確認して、住居の候補をいくつか見て、面談が終わりに近づいた。

「湊くんの様子は、どうですか」と田中さんが言った。

「元気です」と私は答えた。

嘘ではなかった。

湊はよく食べて、よく眠った。

シェルターの他の子どもたちと、すぐに打ち解けた。

昨日は共用スペースで、知らない子と一緒に積み木を積んでいた。

崩れるたびに、二人で笑っていた。

元気だった。

本当に、元気だった。

でも田中さんが「そうですか、よかった」と言ったとき、私は少しだけ黙った。

よかった、と思えなかったわけではなかった。

ただ、元気であることが、安心と不安の両方に見えた。

面談室を出て、廊下を歩いた。

共用スペースから、子どもたちの声が聞こえた。

湊の声も混じっていた。

高くて、よく通る声だった。

私はその声を廊下で聞きながら、立ち止まった。

この子は適応が早い。

場所が変わっても、人が変わっても、すぐに慣れる。

それは強さかもしれない。

でも私には、その強さの輪郭が怖かった。

この子がどこにでも慣れられるのは、慣れなければならない場所に、ずっといたからではないか。

あの家に。

私と拓也がいた、あの家に。

DVを受けた人間が、DVをしない親になれるか。

その問いを、誰にも言ったことがなかった。

田中さんにも言えなかった。

言葉にすれば、答えを求めなければならない。

答えが出たとき、それが「なれない」だったら。

その先を、まだ考えられなかった。

廊下の窓から、空が見えた。

曇っていた。

白い雲が、低く垂れていた。

どこかで風が吹いているのか、雲の端がゆっくりと動いていた。

私はそれを見ていた。

雲は答えを持っていなかった。

ただ動いていた。

夕方、湊が部屋に戻ってきた。

「お母さん、つみき強かったよ」と言った。

「そう」と私は言った。

「ぜんぜん崩れなかった」
「上手だったんだね」
湊は満足そうに頷いて、布団の上に転がった。

天井を見て、何か考えるような顔をして、またすぐに目を閉じた。

夕飯前なのに、眠りそうだった。

私は湊の隣に座った。

この子の寝顔を、今日も見ている。

あの家でも見ていた。

逃げる前も、逃げた後も、湊の寝顔だけは変わらなかった。

口が少し開いて、頬が緩んで、呼吸が深くなる。

どこにいても、同じ順番で眠る。

安全な親かどうか、まだわからなかった。

でも今日、この子の隣に座っている。

それだけが、今日の私にわかることだった。

任務報告

カーテンの隙間から、光が入った。

白い天井に、細い線が伸びた。

私はそれをしばらく見ていた。

ここに来て三週間、毎朝同じ天井を見ている。

見慣れてきた、とは少し違う。

ただ、知っている天井になった。

知っている天井があることが、今の私には必要だった。

湊が動いた。

隣の布団で、ごろりと寝返りを打った。

まだ眠っていた。

四歳の寝顔は、どこにいても同じだった。

口が少し開いていた。

頬が枕に押されて、片方だけ膨らんでいた。

私は先に起きて、共用の台所へ行った。

シェルターの台所は、六人分の道具が並んでいた。

鍋、フライパン、まな板。

それぞれに名前のシールが貼ってあった。

私のシールは水色だった。

入居したとき、支援員が「好きな色を選んでください」と言った。

水色を選んだ理由は、特になかった。

ただ、選べることが、そのとき少し嬉しかった。

冷蔵庫から卵を出して、湊の分の目玉焼きを焼いた。

バターが溶けて、卵の白身が広がった。

縁がぷつぷつと泡立って、香ばしい匂いが台所に広がった。

窓の外で、雀が鳴いていた。

湊が台所に来た。

髪が寝癖でぐしゃぐしゃだった。

目を細めて、フライパンを覗いた。

「たまごやき」と言った。

「目玉焼きね」と私は言った。

湊は「めだまやき」と繰り返して、椅子に座った。

牛乳をこぼしたのは、食事の途中だった。

湊がコップに手を伸ばして、肘が当たった。

白い液体が、テーブルの端から床に落ちた。

ぱしゃ、と音がした。

私の体が、固まった。

肩に力が入った。

喉の奥が、締まった。

怒鳴り声を待つように、体が先に動いた。

でも声は来なかった。

来ないとわかっていた。

ここには拓也がいない。

三週間、毎日わかっていた。

それでも体は、まだあの台所にいた。

湊が椅子から降りた。

流しの下を開けて、雑巾を取り出した。

床にしゃがんで、こぼれた牛乳を拭き始めた。

「ごめんなさい」と言った。

私の顔を見ずに、床を見たまま言った。

私は動けなかった。

四歳が、こぼしたら謝ることを知っている。

雑巾がどこにあるかを知っている。

自分で取りに行く。

誰かに言われる前に。

それがこの子の中に、いつの間にか入っていた。

私はしゃがんで、湊の手から雑巾を取った。

「いいよ、お母さんがやる」と言った。

湊は少しだけ私を見て、椅子に戻った。

私は床を拭いた。

冷たかった。

牛乳の甘い匂いが、鼻に届いた。

拭きながら、思った。

この子が「ごめんなさい」を反射的に言えるのは、誰のせいか。

拓也のせいか。

逃げられなかった時間のせいか。

それとも私のせいか。

答えを探し始めると、どこにも辿り着かない問いだった。

だから答えを出す前に、雑巾を絞った。

流しで雑巾を洗った。

水が冷たかった。

「お母さん」と湊が言った。

「なに」
「たまご、まだある?」
目玉焼きを、もう一枚食べたかったらしい。

私はフライパンを火にかけた。

バターを落とした。

また溶けて、また香ばしい匂いがした。

湊が椅子の上で、少し背伸びをしてフライパンを見ていた。

怒鳴り声は来なかった。

来ない朝が、また一日始まった。

それだけで、今日はよかった。

今日は、それだけでよかった。