#4 私の悲しみを、この子の夜に置いていく気がした。
支援員の田中さんに相談してから、三週間が過ぎた。
手続きは静かに進んでいた。
書類を書いた。
面談があった。
里親家庭の候補について、説明を受けた。
その間、湊はシェルターで過ごしていた。
他の子どもたちと遊んで、ご飯を食べて、眠った。
私はその隣にいた。
隣にいながら、何も言えなかった。
言えなかったのは、言葉が見つからなかったからではなかった。
言葉はあった。
「湊に、新しいおうちに行ってほしい」。
それだけだった。
短い言葉だった。
でもその言葉を口に出す前に、私はいつも湊の顔を見た。
見ると、言えなかった。
湊が笑っていると、言えなかった。
湊が眠そうにしていると、言えなかった。
言える顔、というものが、湊にはなかった。
話したのは、三週間目の木曜日の夜だった。
湊を風呂に入れて、歯を磨かせて、布団に入った。
部屋の電気を消した。
豆電球だけが、橙色に灯っていた。
湊が私の隣に転がって、天井を見た。
私も天井を見た。
「湊」と私は言った。
「なに」
「お母さん、湊に話がある」
湊が横を向いた。
私の顔を見た。
暗い部屋の中で、湊の目だけが光っていた。
「湊に、新しいおうちに行ってほしいと思ってる」
湊はすぐには何も言わなかった。
私は続けた。
今のおうちとは別の場所に、湊のことをちゃんと迎えてくれる大人がいること。
そこで暮らしてほしいこと。
言葉を選びながら話した。
選んでいる間も、湊は黙って私を見ていた。
「お母さんも来る?」と湊が言った。
胸の奥で、何かが鳴った。
お母さんも来る?それが子どもにとって、唯一の問いなのかもしれない。
「お母さんは後から行く」と私は言った。
嘘かどうか、わからなかった。
後から行けるようになりたい、という気持ちは本物だった。
でも「なれる」かどうかは、今の私には誰にも言えなかった。
言えないまま、言った。
湊のために言ったのか、自分のために言ったのか、それもわからなかった。
湊は少し黙った。
布団の中で、足をもぞもぞと動かした。
考えているのか、眠いのか、私には読めなかった。
それから「わかった」と言った。
「わかった」の中に何があるのか、私には見えなかった。
納得したのか、諦めたのか、ただ言葉を受け取っただけなのか。
四歳の「わかった」は、時々大人より深くて、時々大人より浅かった。
どちらかを確かめる方法を、私は持っていなかった。
「ねむい」と湊が言った。
目を閉じた。
それだけだった。
私は湊の寝顔を見た。
橙色の豆電球の光の中で、湊の顔が柔らかかった。
口が少し開いていた。
頬が枕に押されて、片方だけ膨らんでいた。
シェルターに来た最初の夜も、同じ顔で眠った。
あの家にいた頃も、同じ顔で眠った。
どこにいても、この子は同じ顔で眠る。
泣きたかった。
でも泣けなかった。
泣くことが、眠りかけている湊に何かを押しつける気がした。
私の悲しみを、この子の夜に置いていく気がした。
だから飲んだ。
奥へ押し込んだ。
いつもそうしてきたように。
でも今夜は、少し違った。
押し込んだのは、逃げるためではなかった。
湊が「ねむい」と言えたから。
「わかった」と言って、目を閉じられたから。
この子は今夜、安心して眠れている。
私の隣で。
それだけが、今夜の私には十分だった。
湊の呼吸が、深くなった。
規則正しい、柔らかい音だった。
私はその音を聞きながら、暗い天井を見た。
いつもと同じ天井だった。
知っている天井。
でも今夜は少し、遠くに見えた。
お母さんは後から行く。
その言葉が、まだ部屋の中にあった。
言ったことを、後悔はしていなかった。
ただ、その言葉を本当にするために、私には何が必要か。
安全な親になるために、何が要るか。
答えはまだなかった。
でも今夜、湊に話した。
話せた。
それだけが、今夜の私にできたことだった。
湊の寝息が続いていた。
私はそれを聞きながら、ゆっくりと目を閉じた。
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