#5 終 里親の夫婦が、玄関の前に立っていた。 六十代くらいの、背の低い夫と、白髪の妻だった。

任務報告

委託の朝、私は湊より先に起きた。

布団の中で目を開けると、カーテンの隙間から光が入っていた。

細い線が、白い天井に伸びていた。

三週間前と同じ光だった。

同じ天井だった。

でも今日で、この部屋の朝は最後だった。

湊にとっては。

湊はまだ眠っていた。

口が少し開いていた。

頬が枕に押されて、片方だけ膨らんでいた。

いつもと同じ寝顔だった。

私はしばらく、それを見ていた。

見ながら、昨夜のうちに荷物をまとめたことを確認した。

着替え、好きな恐竜の図鑑、シェルターで一緒に買った小さなぬいぐるみ。

くたびれた白い犬のぬいぐるみだった。

ホームセンターで三百円だった。

湊が「これがいい」と言って選んだ。

朝食は、卵焼きにした。

甘めに焼いた。

湊の好きな味だった。

湊が起きてきて、椅子に座って、「いいにおい」と言った。

フライパンを覗いて、「たまごやき」と言った。

「そう」と私は言った。

湊は全部食べた。

私は半分しか食べられなかった。

卵焼きを口に入れると、甘かった。

甘すぎるくらいだった。

飲み込むのに、時間がかかった。

湊が「お母さん食べないの」と言った。

「後で食べる」と私は言った。

湊は「ふーん」と言って、麦茶を飲んだ。

麦茶を飲む湊の喉が、こくりと動いた。

私はそれを見ていた。

この子の喉が動くのを、毎朝見てきた。

あの家でも、ここでも。

こくり、こくりと、規則正しく動いた。

どこにいても、この子は水を飲む。

ご飯を食べる。

眠る。

それだけは変わらなかった。

変えさせなかった、と言えるかどうか、私にはわからなかった。

でも変わらなかった。

担当者の車で、三十分走った。

湊は後部座席で、白い犬のぬいぐるみを膝に乗せていた。

窓の外をずっと見ていた。

信号、電柱、川沿いの道。

湊が何を見ているのか、私にはわからなかった。

聞けなかった。

聞いたら、何かが崩れる気がした。

車が止まった。

静かな住宅街だった。

塀に沿って、細い木が並んでいた。

葉が落ちて、枝だけになっていた。

でもその枝の先に、小さな芽が出ていた。

冬の終わりの、固い芽だった。

里親の夫婦が、玄関の前に立っていた。

六十代くらいの、背の低い夫と、白髪の妻だった。

二人とも、穏やかな顔をしていた。

妻がしゃがんで、湊の目線に合わせた。

「来てくれてありがとう」と言った。

湊は少し照れて、ぬいぐるみを胸に押しつけた。

担当者が湊の隣に立って、玄関を示した。

湊がぬいぐるみを抱えたまま、玄関に向かって歩き出した。

二歩、三歩。

敷石の上を、湊の靴が踏んだ。

ぺた、ぺた、と音がした。

玄関の前で、湊が振り返った。

私を見た。

私は動けなかった。

何か言わなければと思った。

でも言葉が、どこにもなかった。

湊は私を見て、それから玄関のドアを向いた。

「いってきます」と湊が言った。

私の喉が、動いた。

「いってらっしゃい」と私は言った。

それだけだった。

湊がドアを開けた。

中に入った。

里親の妻が続いて入った。

ドアが閉まった。

枝の先の芽が、風に揺れた。

固い、小さな芽だった。

帰り道は、一人で歩いた。

担当者に駅まで送ると言われたが、断った。

歩きたかった。

どこをどう歩いているのか、よくわからないまま歩いた。

住宅街を抜けて、大きな道に出た。

車が通った。

自転車が追い抜いた。

風が吹いて、コートの中まで冷えた。

道の端で、立ち止まった。

塀の前だった。

誰かの家の、白い塀。

寄りかかって、声を殺して泣いた。

声は出なかった。

ただ涙が出た。

止まらなかった。

しばらくそのまま立っていた。

風が吹くたびに、目が冷えた。

涙が乾いた。

また出た。

また乾いた。

それが終わると、歩き出した。

歩きながら、「いってきます」という声を思った。

湊の声だった。

躊躇いがなかった。

まっすぐ、外に向かって出た言葉だった。

行ってくる場所があって、その言葉が言えた。

あの家では、「いってきます」を言える朝があったか。

私には思い出せなかった。

でも今日、湊は言えた。

逃げたのではない、と初めて思えた。

逃げたから、湊はあの家を出られた。

それは本当だった。

でも今日気づいたのは、そこではなかった。

私が逃げた日から、湊が「いってきます」と言える朝に向かって、歩いてきた。

遠回りだった。

傷だらけだった。

安全な親かどうか、今もわからなかった。

でも今日、湊を安全な場所に届けた。

それだけが、今日の私にできたことだった。

それだけで、よかった。

駅が見えた。

私は歩き続けた。

風がまた吹いた。

今度は、少しだけ温かかった。

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