#2 DVを受けた人間が、DVをしない親になれるか。 その問いを、誰にも言ったことがなかった。
面談室は、窓が一つあった。
曇りガラスで、外の景色は見えなかった。
白く滲んだ光だけが入ってきた。
部屋の隅に観葉植物があって、葉が丸く、濃い緑色をしていた。
誰かが水をやっている植物だった。
私はそれを見ながら、椅子に座った。
支援員の田中さんは、三十代くらいの女性だった。
いつも少しだけ前のめりに座る人だった。
話を聞くとき、体ごと向けてくる。
その姿勢が、最初は少し怖かった。
まっすぐ向けられることに、慣れていなかった。
「今日は生活再建について、一緒に整理しましょう」と田中さんが言った。
就労支援の話から始まった。
美容師の資格があること、ブランクが三年あること、湊の預け先が確保できれば働けること。
田中さんがノートに書きながら、確認するように話した。
私は頷いた。
頷くたびに、自分の生活が図式になっていく感覚があった。
正しかった。
全部、正しかった。
離婚手続きの進捗を確認して、住居の候補をいくつか見て、面談が終わりに近づいた。
「湊くんの様子は、どうですか」と田中さんが言った。
「元気です」と私は答えた。
嘘ではなかった。
湊はよく食べて、よく眠った。
シェルターの他の子どもたちと、すぐに打ち解けた。
昨日は共用スペースで、知らない子と一緒に積み木を積んでいた。
崩れるたびに、二人で笑っていた。
元気だった。
本当に、元気だった。
でも田中さんが「そうですか、よかった」と言ったとき、私は少しだけ黙った。
よかった、と思えなかったわけではなかった。
ただ、元気であることが、安心と不安の両方に見えた。
面談室を出て、廊下を歩いた。
共用スペースから、子どもたちの声が聞こえた。
湊の声も混じっていた。
高くて、よく通る声だった。
私はその声を廊下で聞きながら、立ち止まった。
この子は適応が早い。
場所が変わっても、人が変わっても、すぐに慣れる。
それは強さかもしれない。
でも私には、その強さの輪郭が怖かった。
この子がどこにでも慣れられるのは、慣れなければならない場所に、ずっといたからではないか。
あの家に。
私と拓也がいた、あの家に。
DVを受けた人間が、DVをしない親になれるか。
その問いを、誰にも言ったことがなかった。
田中さんにも言えなかった。
言葉にすれば、答えを求めなければならない。
答えが出たとき、それが「なれない」だったら。
その先を、まだ考えられなかった。
廊下の窓から、空が見えた。
曇っていた。
白い雲が、低く垂れていた。
どこかで風が吹いているのか、雲の端がゆっくりと動いていた。
私はそれを見ていた。
雲は答えを持っていなかった。
ただ動いていた。
夕方、湊が部屋に戻ってきた。
「お母さん、つみき強かったよ」と言った。
「そう」と私は言った。
「ぜんぜん崩れなかった」
「上手だったんだね」
湊は満足そうに頷いて、布団の上に転がった。
天井を見て、何か考えるような顔をして、またすぐに目を閉じた。
夕飯前なのに、眠りそうだった。
私は湊の隣に座った。
この子の寝顔を、今日も見ている。
あの家でも見ていた。
逃げる前も、逃げた後も、湊の寝顔だけは変わらなかった。
口が少し開いて、頬が緩んで、呼吸が深くなる。
どこにいても、同じ順番で眠る。
安全な親かどうか、まだわからなかった。
でも今日、この子の隣に座っている。
それだけが、今日の私にわかることだった。
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