#1 ここに来て三週間、毎朝同じ天井を見ている。 見慣れてきた、とは少し違う。
カーテンの隙間から、光が入った。
白い天井に、細い線が伸びた。
私はそれをしばらく見ていた。
ここに来て三週間、毎朝同じ天井を見ている。
見慣れてきた、とは少し違う。
ただ、知っている天井になった。
知っている天井があることが、今の私には必要だった。
湊が動いた。
隣の布団で、ごろりと寝返りを打った。
まだ眠っていた。
四歳の寝顔は、どこにいても同じだった。
口が少し開いていた。
頬が枕に押されて、片方だけ膨らんでいた。
私は先に起きて、共用の台所へ行った。
シェルターの台所は、六人分の道具が並んでいた。
鍋、フライパン、まな板。
それぞれに名前のシールが貼ってあった。
私のシールは水色だった。
入居したとき、支援員が「好きな色を選んでください」と言った。
水色を選んだ理由は、特になかった。
ただ、選べることが、そのとき少し嬉しかった。
冷蔵庫から卵を出して、湊の分の目玉焼きを焼いた。
バターが溶けて、卵の白身が広がった。
縁がぷつぷつと泡立って、香ばしい匂いが台所に広がった。
窓の外で、雀が鳴いていた。
湊が台所に来た。
髪が寝癖でぐしゃぐしゃだった。
目を細めて、フライパンを覗いた。
「たまごやき」と言った。
「目玉焼きね」と私は言った。
湊は「めだまやき」と繰り返して、椅子に座った。
牛乳をこぼしたのは、食事の途中だった。
湊がコップに手を伸ばして、肘が当たった。
白い液体が、テーブルの端から床に落ちた。
ぱしゃ、と音がした。
私の体が、固まった。
肩に力が入った。
喉の奥が、締まった。
怒鳴り声を待つように、体が先に動いた。
でも声は来なかった。
来ないとわかっていた。
ここには拓也がいない。
三週間、毎日わかっていた。
それでも体は、まだあの台所にいた。
湊が椅子から降りた。
流しの下を開けて、雑巾を取り出した。
床にしゃがんで、こぼれた牛乳を拭き始めた。
「ごめんなさい」と言った。
私の顔を見ずに、床を見たまま言った。
私は動けなかった。
四歳が、こぼしたら謝ることを知っている。
雑巾がどこにあるかを知っている。
自分で取りに行く。
誰かに言われる前に。
それがこの子の中に、いつの間にか入っていた。
私はしゃがんで、湊の手から雑巾を取った。
「いいよ、お母さんがやる」と言った。
湊は少しだけ私を見て、椅子に戻った。
私は床を拭いた。
冷たかった。
牛乳の甘い匂いが、鼻に届いた。
拭きながら、思った。
この子が「ごめんなさい」を反射的に言えるのは、誰のせいか。
拓也のせいか。
逃げられなかった時間のせいか。
それとも私のせいか。
答えを探し始めると、どこにも辿り着かない問いだった。
だから答えを出す前に、雑巾を絞った。
流しで雑巾を洗った。
水が冷たかった。
「お母さん」と湊が言った。
「なに」
「たまご、まだある?」
目玉焼きを、もう一枚食べたかったらしい。
私はフライパンを火にかけた。
バターを落とした。
また溶けて、また香ばしい匂いがした。
湊が椅子の上で、少し背伸びをしてフライパンを見ていた。
怒鳴り声は来なかった。
来ない朝が、また一日始まった。
それだけで、今日はよかった。
今日は、それだけでよかった。
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