話し合いから、十四日が過ぎた。
光一とは、それ以来、陽のことを話していなかった。
話さないことで、何かが保たれていた。
何が保たれているのかは、さおりにもよくわからなかった。
ただ、話せば壊れる気がした。
壊れてはいけないものが、まだあった。
毎朝、リハビリを続けた。
陽の腕を動かした。
肘を曲げて、伸ばす。
膝を曲げて、伸ばす。
療法士に教わった順番通りに。
陽が声を上げるたびに、さおりが応えた。
応えると、また声が来た。
その繰り返しだった。
この繰り返しが、さおりには必要だった。
陽が応えてくれることが、この二年間の支えだった。
その朝は、光一が出勤してから三十分後だった。
さおりは陽の左腕を、ゆっくり持ち上げた。
肘を曲げた。
伸ばした。
また曲げた。
陽が声を上げた。
さおりが「そうだよ」と言った。
また声が来た。
指を動かす番になった。
さおりが陽の手のひらに、自分の人差し指を置いた。
陽の指が、少し動いた。
さおりはそのまま待った。
待つことを、療法士に教わっていた。
急かさないこと。
時間をかけること。
陽のペースがあること。
陽の指が、動いた。
さおりの指を、包むように。
弱かった。
かすかだった。
でも確かに、そこに力があった。
さおりの人差し指が、陽の手の中にあった。
さおりは声を上げそうになった。
堪えた。
声が出たら、陽の指が離れる気がした。
このままでいたかった。
もう少し、このままでいたかった。
陽の手のひらが、温かかった。
小さかった。
その小ささの中に、確かな力があった。
光一に電話をかけたかった。
反射的に、そう思った。
今すぐかけて、陽が指を握った、と伝えたかった。
でも手が動かなかった。
陽の指を握ったまま、さおりは動けなかった。
電話して、光一はなんと言うか。
「そうか」と言うか。
「よかったな」と言うか。
正しい言葉が返ってくる。
間違いなく、正しい言葉が返ってくる。
でも今は正しい言葉が欲しくなかった。
一緒に声を上げてくれる人が欲しかった。
信じられないね、と言って、電話口で泣いてくれる人が欲しかった。
光一は、そういう人ではなかった。
七年間、ずっとそうだった。
変わらなかった。
変わることを、もう期待していなかった。
期待しなくなったことが、諦めなのか、受け入れなのか、さおりにはまだ区別がつかなかった。
陽の指が、少し緩んだ。
さおりは陽の顔を見た。
陽が声を上げた。
笑っているように見えた。
さおりには、笑っているとわかった。
この子は笑う。
指を握る力がかすかでも、笑う力は確かにあった。
午後、療法士の西村さんが来た。
週に二回、訪問してくれる人だった。
四十代の、声の大きな女性だった。
陽のそばに座ると、陽が声を上げた。
西村さんはいつも「はいはい、来たよ」と言った。
その言い方が、さおりには好きだった。
リハビリの後、西村さんがさおりに言った。
「今日、指握りましたよ」とさおりは言った。
西村さんが「え」と言った。
「握った?」
「握りました。
人差し指を」
西村さんが「本当に」と言って、陽を見た。
「やるじゃない、陽ちゃん」と言った。
声が大きかった。
陽が反応した。
体が動いた。
さおりは西村さんの顔を見た。
西村さんの目が、潤んでいた。
さおりはそれを見て、初めて泣いた。
声は出なかった。
ただ涙が出た。
西村さんが「よかったね」と言った。
その「よかったね」は、正しい言葉だったが、温度があった。
温度のある正しい言葉だった。
光一の「よかったな」とは、違う言葉だった。
夜、光一が帰ってきた。
さおりは夕飯を出しながら、「今日、陽が指を握った」と言った。
光一が顔を上げた。
「そうか」と言った。
「よかったな」と言った。
さおりは「うん」と言った。
それだけだった。
夕飯の間、陽が声を上げた。
さおりが応えた。
光一は黙って食べた。
三人のテーブルに、箸の音がした。
外で風が鳴った。
アパートの窓が、微かに揺れた。
さおりは陽の顔を見た。
陽が笑っていた。
さおりにはわかった。
この孤独の中で、この子は笑う。
その笑顔が、今日のさおりには、委託への抵抗でもあり、委託への理解でもあった。
どちらでもある、ということが、さおりにはまだ整理できなかった。
整理できなくていい、と西村さんなら言うかもしれなかった。
光一は言わない。
でも西村さんなら、言うかもしれなかった。
登場人物
- 村上 さおり(むらかみ さおり)
女性・36歳 主人公。元幼稚園教諭。現在は専業主婦。感情を言葉にする力を持っているが、夫との間ではその力を使えなくなっている。 - 村上 光一(むらかみ こういち)
男性・39歳 夫。システムエンジニア。論理的に物事を処理する人。愛情がないわけではない。ただ、愛情の形が、さおりとは根本的に違う。 - 村上 陽(むらかみ はる)
3歳。生後8ヶ月のときに重度の脳性麻痺と診断された。よく笑う。さおりの声を聞くと、体が動く。
コメント
言の葉を届けるには入隊するか里に入る必要があります。