委託の朝、さおりは陽を早めに起こした。
いつもより三十分早かった。
理由はなかった。
ただ、今日は長く一緒にいたかった。
それだけだった。
陽を抱き上げると、陽が声を上げた。
眠そうな声だった。
さおりは「おはよう」と言った。
陽がまた声を上げた。
目が開いた。
天井を見た。
それからさおりの顔を見た。
笑った。
さおりにはわかった。
この子は今日も笑っている。
委託の朝も、笑っている。
何も知らない顔で、笑っている。
さおりは陽を胸に抱いたまま、しばらく動かなかった。
陽の体が温かかった。
薄いパジャマの下に、体の熱があった。
心臓の音が、さおりの胸に伝わってきた。
朝食を終えて、荷物を確認した。
着替え、医療的なケアに必要な道具、療法士からの引き継ぎ資料。
それから、小さなぬいぐるみを一つ。
白いうさぎだった。
陽が声を上げると体が動いて、よくこのぬいぐるみに触れた。
手が届くと、指が動いた。
このぬいぐるみだけは、持たせたかった。
光一が荷物を車に運んだ。
さおりは陽を抱いたまま、それを見ていた。
光一は黙って運んだ。
一往復、二往復。
靴音が廊下に響いた。
さおりは陽の耳元で、小さな声で話しかけた。
今日から新しいおうちに行くこと。
優しい人たちがいること。
さおりの声を聞いて、陽が体を動かした。
手が、少し上がった。
わかっているのかどうか、さおりにはわからなかった。
わかっていなくていい、と思った。
ただ声を聞いて、体を動かしてくれるだけで、十分だった。
車で四十分走った。
さおりは後部座席で陽を抱いていた。
光一が運転した。
ラジオをつけなかった。
無音だった。
信号で止まるたびに、エンジンの低い音だけがした。
陽が時々声を上げた。
さおりが応えた。
それだけが、車の中の会話だった。
光一が何も言わなかった。
さおりも何も言わなかった。
言葉を探さなかった。
今日は言葉のない朝でいい、とさおりは思った。
言葉を並べても、二人の間にあるものは変わらない。
変わらないものを、今日は動かさなくていい。
川沿いの道を走った。
水面が光っていた。
四月の朝の光が、川に落ちていた。
陽が窓の外を見た。
光の方を向いた。
目が、光を追っていた。
さおりはその横顔を見た。
この子の目は、光を見る。
どこにいても、光を見る。
その確信が、今朝のさおりには支えだった。
里親の家は、住宅街の奥にあった。
平屋の、庭のある家だった。
庭に木が一本あって、若い葉が出ていた。
四月の、薄い緑だった。
担当者がすでに来ていた。
里親の夫婦が玄関から出てきた。
五十代の、落ち着いた二人だった。
妻が先に来て、陽の顔を覗いた。
「会いたかったよ」と言った。
低い、穏やかな声だった。
陽が声を上げた。
体が動いた。
妻が「あら」と言って、微笑んだ。
「元気だね」と言った。
さおりはその声を聞いた。
温度があった。
陽に向けられた、確かな温度があった。
この人たちに預ける、という気持ちが、今朝初めてはっきりした。
気持ちが決まったのではなかった。
ただ、この人たちなら、陽の笑顔を見てくれる、とわかった。
陽が笑ったとき、一緒に笑ってくれる人たちだと、わかった。
玄関の前で、さおりは陽を抱いた。
最後に抱く、と決めていた。
荷物も渡した。
引き継ぎも終えた。
あとは渡すだけだった。
でもその前に、一度だけ、しっかり抱いた。
陽の耳元で、「行っておいで」と言った。
さおりの声を聞いて、陽の体が動いた。
手が上がった。
さおりの肩のあたりを、かすかに叩いた。
それから、笑った。
さおりにはわかった。
笑っていた。
今日も、この子は笑っていた。
さおりは陽を、里親の妻に渡した。
妻が陽を受け取った。
陽が声を上げた。
妻が「はいはい」と言った。
その言い方が、西村さんに似ていた。
温度のある言葉だった。
陽の体が、妻の腕の中で動いた。
光一が隣にいた。
黙っていた。
さおりは光一を見なかった。
陽だけを見ていた。
妻の腕の中で、陽が笑っていた。
玄関のドアが閉まった。
庭の木の葉が、風に揺れた。
薄い緑が、朝の光の中で透けていた。
さおりは庭を見た。
光一が隣にいた。
担当者が何か言った。
さおりは頷いた。
何を言われたか、よく聞こえなかった。
車に戻った。
さおりが助手席に座った。
光一が運転席に座った。
エンジンをかけた。
車が動き出した。
さおりは窓の外を見た。
里親の家が、後ろに遠ざかった。
庭の木が見えた。
葉が揺れていた。
見えなくなった。
光一が泣いていた。
さおりは気づいた。
運転しながら、光一が泣いていた。
声は出ていなかった。
ハンドルを握ったまま、前を向いたまま、泣いていた。
頬に涙が伝っていた。
さおりは光一を見た。
乾いていた目が、今日は濡れていた。
あの夜、許せなかった目が、今日は泣いていた。
許せた、とはならなかった。
でも光一も、愛していた。
愛し方が違っただけだった。
形が違っただけだった。
その理解が、許すこととは別の場所に、静かに落ちた。
胸の奥の、深いところに。
音もなく、落ちた。
さおりは光一の涙を、拭わなかった。
でも見ていた。
前を向いたまま泣く光一を、さおりはしばらく見ていた。
川が見えた。
水面が光っていた。
陽が光を追っていた横顔を、思った。
どこにいても、光を見る子だった。
その確信だけを、今日は持って帰った。
光一が涙を拭った。
袖で、一度だけ拭った。
それだけだった。
二人はまた、黙って走った。
川が続いていた。
光が続いていた。
登場人物
- 村上 さおり(むらかみ さおり)
女性・36歳 主人公。元幼稚園教諭。現在は専業主婦。感情を言葉にする力を持っているが、夫との間ではその力を使えなくなっている。 - 村上 光一(むらかみ こういち)
男性・39歳 夫。システムエンジニア。論理的に物事を処理する人。愛情がないわけではない。ただ、愛情の形が、さおりとは根本的に違う。 - 村上 陽(むらかみ はる)
3歳。生後8ヶ月のときに重度の脳性麻痺と診断された。よく笑う。さおりの声を聞くと、体が動く。
コメント
言の葉を届けるには入隊するか里に入る必要があります。