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合言葉を失った

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里親応援1-1 週に一度が、月に一度になった

十月の夜は、台所が一番静かだった。

流しに残った水滴が、ステンレスをつたって排水口へ落ちる音。
それだけが聞こえた。
私はスポンジを絞り、いつもより丁寧に水切りかごを拭いた。
拭き終えても、布巾を置く気になれなかった。

リビングからテレビの音がする。
夫の誠一が見ているニュースの、アナウンサーの声。
内容は耳に入ってこない。
私は布巾を四つ折りにして、シンクの縁にかけた。

誠一は五十七歳で、二十八年前に職場で出会った。
口数の少ない人で、最初はとっつきにくいと思っていた。
でも、いつも少し遅れて笑う人だった。
誰かが冗談を言って、周りが笑って、一拍おいてから静かに笑う。
その笑い方が好きで、結婚を決めた。
今も変わらない。
変わらないことが、ありがたいと思う日と、少し遠く感じる日がある。

スマホは、テーブルの上に画面を伏せて置いてある。

手を伸ばして、裏返す。
息子の翔太のトーク画面を開く。
最後のメッセージは三週間前。
「今月忙しいから電話できないかも」。
私が「わかった、無理しないで」と返して、それきりだった。

翔太は二十四歳で、四月から東京のIT企業で働いている。
就職活動のとき、本人より私の方が緊張していた。
内定の電話が来た夜、翔太は「まあ、よかった」とだけ言って自分の部屋に戻った。
私はその夜、一人で台所でこっそり泣いた。
うれしくて泣いたのか、終わったと思って泣いたのか、今でもよくわからない。

電話をかけようとして、やめた。

時刻は夜の九時十五分。
忙しいと言っていた。
起きているかどうかもわからない。
私は画面を伏せて、椅子を引いて、テーブルについた。

窓の外は風が出てきていた。
ベランダの植木鉢が、かすかに揺れる音がする。
夏の終わりに翔太が帰省したとき、一緒に植えたミントだった。
今もまだ青くて、今夜みたいに風が吹くと、台所まで匂いが届くことがある。
私は鼻から息を吸った。
何も匂わなかった。

引き出しを開けて、飴を一粒取り出す。
口に入れると、甘さより先に冷たさが来た。

翔太が高校生のころ、夜中に勉強しているとよく台所へ降りてきた。
私が温めたコーンスープを両手で持って、一言も喋らずに飲んで、また二階へ上がっていく。
その背中を見送るのが、なんでもない日課だった。
コーンスープの缶は、今も戸棚の奥に二つある。
誰も飲まないまま、もう半年が過ぎた。

私は五十四歳になった。
特別なことは何もない年齢だと思っていた。
翔太を産んだのが三十歳で、それからの二十四年は子どもを中心に時間が回っていた。
PTAの役員、学校の送り迎え、受験の夜の夜食。
それが当たり前で、それ以外の自分をあまり考えてこなかった。
だから今、台所で一人でいる時間が、どこか借り物の部屋にいるような、妙な感じがする。

リビングのニュースが終わったのか、急に音量が下がった。
かと思うと、アナウンサーの声がひとつの話題で止まった。
里親の不足が全国的な課題になっている、という短いニュースだった。
私はそちらへ顔を向けたが、誠一がすぐにチャンネルを変えた。
砂漠を走る車のCMに切り替わり、画面が明るくなった。

「久美子、風呂先に入っていいか」
誠一の声がした。
私は「どうぞ」と返した。
自分の声が、少し遠くから聞こえるような気がした。

浴室のドアが閉まる音。
シャワーが落ちる音。

台所にまた静けさが戻ってきた。
私は飴を奥歯で割って、テーブルに両肘をついた。
さっきのニュースの言葉が、まだ耳の端に残っていた。
里親。
声に出したことのない言葉が、台所の空気にひとつ、浮いたような気がした。
スマホの画面は、伏せたままだった。


隊士 お館様管理者

藤の里における鬼倒隊を統率している者。私が初めて鬼の存在を知ったのは、ボランティアの場でした。 里親制度への無知と誤解という鬼が、日本中に蔓延していること。そのせいで、家庭で暮らせずにいる子どもたちがいること。里親になりたくても、なれずにいる人たちがいること。 その現実が、忘れられませんでした。 それからも何度もボランティアを重ねるたびに、鬼の大きさを思い知らされました。 私自身は里親経験者ではありません。 剣を持って戦える立場にはない。 だからこそ、実際に戦ってきた方々の記録を集め、次の誰かへ届ける場所を作ることが、私にできる戦いだと思いました。 藤の里は、その使命のために生まれました。 あなたの戦いの記録を、ここに刻んでください。 その呼吸を、次の世代へつないでいきましょう。

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