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合言葉を失った

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恵子の家から帰った翌朝、目が覚めたのはいつもより早かった。

窓の外がまだ暗かった。

布団の中で天井を見ていた。

哲也の寝息が聞こえた。

昨夜も眠れない時間があって、でも昨夜とは少し違った。

もやもやしていたのではなく、何かを決めようとしていた。

六時になって、布団から出た。

台所に降りて、お湯を沸かした。

ガスの火が青く灯って、やかんが温まり始めた。

冷えた台所に、少しずつ暖かさが戻ってきた。

窓の外が白み始めていた。

鳥の声が一つ、遠くで鳴いた。

哲也が階段を降りてくる音がした。

「早いな」
哲也が台所の入口に立って言った。

頭が少し寝癖になっていた。

私はお湯が沸いたやかんを持ちながら、振り向いた。

「ねえ、子供の里親って知ってる?」
声に出してから、自分でも驚いた。

今朝言おうと決めていたわけではなかった。

やかんを持ったまま、口から出ていた。

哲也は少し目を細めた。

椅子を引いて、テーブルに座った。

「聞いたことはあるけど、詳しくは知らない」
「そう」
私はお茶を二つ淹れて、哲也の向かいに座った。

湯気が細く立ち上った。

窓の外が、だんだん明るくなっていた。

話し始めた。

京都の旅館で感じた「静かすぎる」という感覚のこと。

恵子が里親をしていると知ったこと。

健太という男の子がいること。

いびつな形のクッキーのこと。

健太の「ふうん」という声のこと。

この数週間、一人でこっそり調べていたこと。

哲也に言えなかった理由が自分でもよくわからなかったこと。

順序はめちゃくちゃだったと思う。

同じことを二度言った気もする。

でも哲也は途中で口を挟まなかった。

お茶を両手で持って、私の顔を見ていた。

話し終えて、お茶を一口飲んだ。

冷めていた。

しばらく、二人とも黙っていた。

外で車が一台通り過ぎた。

鳥の声が増えていた。

台所に朝の光が入り始めて、テーブルの上が白くなった。

「俺たちにもできるかな」
哲也が言った。

反対ではなかった。

賛成でもなかった。

ただ、一緒に考えようという言葉だった。

二十六年間隣にいた人の声で、私にはそれがわかった。

「わからない。でも、知りたいとは思ってる」
「じゃあ、まず知ろう」
哲也がそう言って、スマホを取り出した。

私も自分のスマホを出した。

「里親 説明会」と打ち込んだ。

来月、市の福祉センターで開催される説明会があった。

日時と場所が書いてあった。

参加費は無料で、事前申し込みが必要だった。

「ここ、行ってみるか」
哲也が画面を私に向けた。

私は覗き込んだ。

来月の第二土曜日だった。

「行ってみようか」
私は言った。

申し込むボタンを押したわけではなかった。

まだそこまでは決めていなかった。

でも二人で同じ画面を見ていた。

哲也の肩が、私の肩に触れていた。

窓の外が完全に明るくなっていた。

朝食の支度を始めた。

冷蔵庫から卵を出して、フライパンを火にかけた。

バターが溶けて、甘い匂いが台所に広がった。

恵子の家で食べたクッキーの匂いに、少し似ていた。

目玉焼きを皿に移して、テーブルに並べた。

二人分の食器が、テーブルの上に揃った。

「いただきます」
二人で手を合わせた。

静かだった。

でも今朝の静けさは、京都の旅館の夜とは違った。

何かが足りない静けさではなく、何かが始まる前の静けさだった。

私はまだ何も決めていない。

里親になると決めたわけでも、説明会に申し込んだわけでも、人生の針を動かすと決めたわけでもなかった。

ただ、子供の里親という言葉が、今朝初めて自分の声で口から出た。

それだけのことが、胸の中で思ったより大きく、温かかった。

哲也が卵を崩した。

黄身が広がった。

窓の外で、鳥がまた鳴いた。

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恵子から「うちに来ない?」とメッセージが届いたのは、木曜日の昼だった。

「健太もいるけど、気にしないで。お茶でも飲もう」
私は少し迷った。

里親として迎えた子どもがいる家に、突然お邪魔していいのかわからなかった。

でも恵子が誘うなら大丈夫だろうと思って、「行くよ」と返した。

駅からバスで二十分ほどの、静かな住宅街だった。

恵子の家は以前にも何度か来たことがあった。

門の前に立つと、中から子どもが走り回るような音がした。

それから急に静かになった。

インターホンを押すと、恵子が出てきた。

「来て来て、寒かったでしょ」
玄関に入ると、靴が三足並んでいた。

大人の靴が二つと、小さな運動靴が一つ。

泥が少しついた、くたびれた運動靴だった。

私はそれを見て、目を逸らした。

台所からバターの匂いがした。

「さっきクッキー焼いたんだよ。健太が手伝ってくれて」
恵子がそう言いながら、奥へ案内した。

リビングに入ると、子どもの姿はなかった。

廊下の奥に、ドアが一つ閉まっていた。

「健太、来てるよ。洋子おばさんだよ、昔からの友達」
恵子が廊下に向かって声をかけた。

返事はなかった。

私たちはテーブルに向かい合って座った。

恵子がお茶を淹れて、クッキーを皿に並べた。

いびつな形のクッキーが、六枚あった。

端が少し焦げているものも混じっていた。

「健太が型を押したんだけど、力加減がわからなくて」
恵子が笑った。

私はクッキーを一枚手に取った。

ざくっとした食感で、バターの味がした。

おいしかった。

端の焦げた部分が、かえって香ばしかった。

しばらくして、廊下のドアが少し開いた。

隙間から、目だけが見えた。

黒くて、丸い目だった。

私はそちらを見ないようにしながら、恵子と話し続けた。

気づいていないふりをした。

しばらくして、ドアが少し広く開いた。

小さな男の子が、ドアの縁に手をかけて立っていた。

Tシャツにズボン、靴下が片方だけ脱げかかっていた。

髪が少し寝癖のままだった。

恵子が「おいで」と言った。

健太はゆっくりリビングへ入ってきて、恵子の隣に座った。

私から一番遠い椅子だった。

「こんにちは」
私は言った。

健太は小さく頷いた。

声は出なかった。

恵子がクッキーの皿を健太の前に寄せた。

健太は一枚取って、黙って食べた。

私も自分のお茶を飲んだ。

三人で、しばらく黙っていた。

沈黙が、思ったより重くなかった。

「おばさん、子どもいるの?」
突然、健太が言った。

テーブルの端を見たまま、私に向かって言っていた。

「いるよ。二人。もう大人だけど」
「ふうん」
健太はまたクッキーに手を伸ばした。

それだけだった。

それだけだったのに、帰り道ずっと、その「ふうん」が頭から離れなかった。

バスの窓に額を当てた。

外の景色が流れていった。

田んぼ、住宅、コンビニ、また田んぼ。

健太の黒くて丸い目を思い出した。

ドアの隙間から、こちらを見ていた目。

警戒しているようで、でも気になっている目。

もう大人だけど、と私は答えた。

その言葉が、今になって引っかかった。

二人いるよ、もう大人だけど。

まるで終わった話をするように言った。

子育ては終わった、だから今は何もない。

そういう意味に聞こえた気がした。

でも健太の「ふうん」は、そこで終わらない何かを持っていた。

バスが停留所に着いた。

私は立ち上がって、ドアから降りた。

夕方の風が顔に当たった。

冷たくて、頬が一瞬強張った。

恵子の台所に並んでいた、いびつなクッキーのことを考えた。

端が焦げていて、形がばらばらで、でも全部皿の上にあった。

一枚も捨てられていなかった。

私は歩き出した。

自分の子育ての経験が、誰かの役に立てるかもしれないという感覚が、初めてぼんやりと形を持った午後だった。

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恵子と会ってから、三日間、誰にも話さなかった。

哲也は毎日同じ時間に起きて、朝食を食べて、散歩に出かけた。

退職してからの習慣だった。

私は朝食の片付けをして、洗濯をして、昼前には座るものがなくなった。

その空いた時間に、スマホを取り出した。

「里親制度」と打ち込んだ。

最初に出てきたのは行政のページだった。

図表が多く、文字が小さく、読み進めるうちに目が滑った。

次に開いたNPOのサイトは、写真が柔らかくて読みやすかった。

里親にはいくつかの種類があること、養子縁組とは異なること、子どもが元の家庭や別の家庭へ移ることを前提にしているケースが多いこと。

知らないことばかりだった。

施設で暮らす子どもが今もこの国に約四万人いると書いてあった。

私はその数字を読んで、一度スマホを置いた。

台所の窓から外を見た。

近所の公園に、幼稚園くらいの子どもが一人、母親と手をつないで歩いていた。

四万という数字が、うまく体に入ってこなかった。

また画面を開いた。

体験談のブログを見つけた。

四十代の夫婦が里親として子どもを迎えた記録だった。

最初の夜、子どもが布団の中で声を殺して泣いていたこと。

どう声をかければいいかわからなくて、ただ隣に座っていたこと。

朝になって子どもが「おはよう」と言ったとき、それだけで一日が始まれた気がした、と書いてあった。

私はそのページを、二度読んだ。

昼になって、哲也が散歩から帰ってきた。

玄関で靴を脱ぐ音がした。

私はスマホの画面を閉じた。

閉じてから、なぜ閉じたのかを考えた。

夕食の支度をしながら、何度か口を開きかけた。

「里親って知ってる?」
言葉は頭の中にあった。

でも声にならなかった。

哲也が冷蔵庫を開けて麦茶を出すタイミングで言えなかった。

哲也がテレビをつけてニュースを見始めたタイミングでも言えなかった。

「そういえば、恵子に会ってきたよ」
結局、それだけ言った。

「どうだった?」
「元気だったよ」
哲也はそれ以上聞かなかった。

私もそれ以上話さなかった。

夜、布団に入ってから眠れなかった。

哲也の寝息が聞こえた。

規則正しい、穏やかな音だった。

私は天井を見たまま、なぜ話せなかったのかを考えた。

反対されるのが怖いのか。

笑われるのが怖いのか。

それとも、口に出すことで何かが動き出すのが怖いのか。

長い結婚生活の中で、自分の「やりたいこと」を先に言い出したことが、あまりなかったと気づいた。

哲也の転勤に合わせて引っ越して、子どもたちの学校に合わせて予定を組んで、誰かの都合を先に考えることが当たり前になっていた。

それが不満だったわけではない。

でも今夜、暗い天井を見ながら、自分の「やりたいこと」という言葉が、どこか遠くにある気がした。

やりたいのかどうかも、まだわからない。

ただ、知りたいとは思っている。

窓の外で風が鳴った。

カーテンが微かに揺れた。

哲也の寝息が続いていた。

私はそっと布団の中で向きを変えて、目を閉じた。

里親、という言葉が、暗闇の中でしばらく浮かんでいた。

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旅行から帰って四日後、スマホに恵子からメッセージが届いた。

恵子は六十一歳で、子どもたちが小学生のころからのPTA仲間だ。

二十年以上の付き合いになる。

気さくで、誰に対しても分け隔てがなく、集まりの場では必ず輪の中心にいた。

子育てが一段落してからも、月に一度は近所のカフェで会っていた。

「久しぶりにゆっくり話したいな。来週どう?」
私は「いいよ、いつもの場所で」と返した。

水曜日の昼前、駅前のカフェに入った。

窓際の席に恵子がすでに座っていた。

コートを脱いで椅子にかけて、向かいに座った。

店内にコーヒーの匂いが満ちていた。

外は曇っていて、窓ガラスが少し白く曇っていた。

「久しぶり、元気だった?」
恵子が言った。

「まあね。京都行ってきた」
「いいじゃない、どうだった?」
「きれいだったよ」
それだけ答えて、メニューを開いた。

きれいだった、という言葉が、少し空洞に聞こえた。

嘘ではない。

でも全部でもなかった。

コーヒーを二つ頼んで、しばらく近況を話した。

恵子の夫の話、共通の知人の話、近所にできた新しいスーパーの話。

他愛のない言葉が続いて、コーヒーが半分になったころ、恵子が少し姿勢を正した。

「実はね、話したいことがあって」
「うん」
「一年前から、里親をしてるんだ」
私は、カップを持ったまま止まった。

「里親?」
「そう。小学二年生の男の子。健太っていうんだけど」
恵子は静かに、でもはっきりと言った。

驚かせようとしているわけでも、自慢しているわけでもない声だった。

ただ、話したかったことを話している、という顔だった。

「なんで急に」
「急じゃないよ」
恵子は少し笑った。

「ずっと考えてた。子どもたちが独立してから、何かしたいとは思ってたんだけど、なかなか踏み出せなくて。
夫と二人でいろいろ調べて、説明会に行って、登録して。気づいたら一年経ってた」
私はコーヒーを一口飲んだ。

苦さが舌に残った。

健太の話を、恵子はぽつぽつと話した。

最初の一週間は緊張して、食事中も目を合わせなかったこと。

ある朝、恵子が台所で朝食を作っていると、健太が黙って隣に立っていたこと。

何も言わずに、ただ立っていたこと。

「その背中が、小さくてね」
恵子が言った。

窓の外を一度見て、また私を見た。

「なんか、もう、それだけでよかったって思った」
私は恵子の顔を見ていた。

二十年来の友人の顔が、知っている顔のはずなのに、少し違って見えた。

PTAのころも、子育ての愚痴を言い合っていたころも、ずっと元気な人だった。

でも今日の顔は、元気というより、落ち着いていた。

重心が下にある、というか。

自分の居場所を知っている人の顔だった。

コーヒーが冷めていた。

カフェを出て、駅前で恵子と別れた。

曇り空の下を、一人で歩いた。

商店街の軒先から、焼き鳥の煙が流れてきた。

信号が赤になって、私は立ち止まった。

里親。

恵子の声が、頭の中で繰り返した。

一年前から、ずっと考えてた。

信号が青になった。

私は歩き出した。

足元の白線を踏みながら、里親という言葉を、自分がなぜ一度も考えたことがなかったのかを、ぼんやりと思っていた。

続きを読む

仲居さんが障子を閉めて、足音が廊下の奥へ消えていった。

部屋に、私たち二人だけが残った。

テーブルの上に料理が並んでいた。

小鉢が六つ、焼き魚、炊き合わせ、白い飯碗。

どれも丁寧に盛りつけられていて、湯気が細く立ち上っていた。

出汁の匂いが、畳の匂いと混ざって、鼻の奥に届いた。

「いただきます」
向かいに座った夫の哲也が手を合わせた。

哲也は六十四歳で、二年前に定年退職した。

この旅行は、哲也が退職したら二人でどこかへ行こうと、長い間話していたものだった。

温厚で口数が少なく、旅行の計画だけは人一倍丁寧に立てる人だ。

私も手を合わせた。

箸を取って、小鉢の一つを口に運んだ。

蟹の身が入った和え物だった。

冷たくて、甘くて、丁寧な味がした。

おいしかった。

おいしいとわかった。

でも箸が、次へ進むのを少し躊躇った。

哲也は黙って食べていた。

焼き魚をほぐして、飯を一口食べて、また魚に戻る。

いつもの食べ方だった。

私はその手元を見ながら、自分も箸を動かした。

窓の外に川が見えた。

夕暮れの光が水面に伸びて、橙色に揺れていた。

対岸に古い町並みが続いて、軒先に提灯が灯り始めていた。

来たかった景色だった。

何度も写真で見て、いつか哲也と来ようと思っていた景色だった。

「おいしいな」
哲也が言った。

「うん」
私は答えた。

それから、しばらく二人とも黙って食べた。

子どもたちがいたころの食卓は、いつも音があった。

娘の綾香が部活の話をして、息子の大輔が口を挟んで、哲也がたまに笑った。

私は台所と食卓を行き来しながら、全員分の食べ具合を目で追っていた。

誰かが「おかわり」と言えば立ち上がって、誰かが箸を止めれば「どうした、口に合わない?」と聞いた。

綾香は今年三十四歳で、三年前に結婚して横浜にいる。

大輔は三十一歳で、就職してから大阪を離れていない。

二人とも、もう私の食卓には戻ってこない。

今夜は、誰も「おかわり」と言わない。

私は六十二歳になった。

炊き合わせの里芋を箸で割った。

ほろりと崩れて、出汁が染み出した。

食事が終わって、仲居さんが膳を下げにきた。

お茶を二つ置いて、また障子の向こうへ消えた。

哲也が湯呑みを持って、窓の外を見た。

川沿いに灯りが増えていた。

どこかから三味線の音が、かすかに聞こえた。

私は膝の上で両手を重ねた。

「ねえ」
哲也が振り向いた。

「なんか、静かすぎない?」
哲也は少し考えるような間を置いて、「そうか?」と言った。

責めているわけでも、不満があるわけでもない声だった。

ただ、そうか、と。

私は「うん、そうか」と返して、お茶を一口飲んだ。

温かくて、少し苦かった。

川の灯りが、窓の外で揺れ続けていた。

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その週の木曜日、私は図書館へ行った。

特に目的があったわけではない。

読みたい本があったわけでもない。

ただ、家にいると静かすぎて、でも誰かと話したいわけでもない、そういう午後だった。

自転車で十分ほどの距離を、落ち葉を踏みながら歩いた。

靴の裏で乾いた葉が潰れる音が、一歩ごとに鳴った。

図書館の自動ドアが開くと、暖かい空気と紙の匂いが一度に来た。

私は受付の横を通り過ぎて、奥の棚のあたりをゆっくり歩いた。

特定の棚を探していたわけではない。

でも気づいたら、社会福祉のコーナーの前に立っていた。

背表紙を一冊ずつ目で追った。

薄い冊子が一冊、棚の端に差してあった。

表紙に「里親制度のてびき」と書いてあった。

行政が作ったような、飾り気のない冊子だった。

私はそれを抜き取って、近くの閲覧席に座った。

借りようとは思わなかった。

ここで読もうと思った。

ページをめくった。

制度の概要、登録の流れ、子どもを迎えるまでの手順。

知っている内容もあった。

先週ネットで読んだことと重なる部分もあった。

でも、紙で読むのは少し違った。

画面より、言葉がゆっくり入ってくる気がした。

里親には、様々な形があると書いてあった。

養育里親、専門里親、養子縁組里親、親族里親。

一口に里親といっても、それぞれ役割も期間も違う。

私はそのページで少し時間をかけた。

制度の輪郭が、少しずつ実体を持ってきた。

閲覧席の窓から、駐車場が見えた。

若いお母さんが、チャイルドシートから子どもを抱き上げていた。

子どもは帽子を被っていて、お母さんの肩に顔を埋めていた。

私はしばらくそれを見ていた。

冊子を棚に戻して、図書館を出た。

来たときより風が強くなっていた。

マフラーを口元まで引き上げて、来た道を戻った。

落ち葉がアスファルトの上を、風に押されて転がっていった。

家に着いて、コートを脱いだ。

台所でお湯を沸かして、お茶を入れた。

湯気が顔にかかって、温かかった。

テーブルに座って、スマホを開いた。

あのアカウントを探した。

里親として小学生の女の子を迎えた、花のアイコンの人。

最後の投稿は三日前だった。

「今日、一緒にお弁当を作った。

卵焼きが不格好で、二人で笑った」と書いてあった。

私はその文章を読んで、もう一度読んだ。

不格好な卵焼きのことを考えた。

笑い声のことを考えた。

翔太が小学生のころ、運動会のお弁当に卵焼きを作った朝のことを、急に思い出した。

早起きして、焦って、端が少し焦げた。

翔太は何も言わずに食べた。

帰ってきたお弁当箱は、空だった。

フォローボタンを押した。

画面が切り替わって、フォロー中になった。

それだけのことだった。

でも、先週止まった指が今日は止まらなかった。

お茶を一口飲んだ。

少し冷めていた。

誠一に話してみようか、とまた思った。

今夜こそ。

夕食のあと、テレビを消して、里親制度という言葉を声に出してみようか。

どんな顔をするだろう。

興味を持つだろうか。

それとも「ふうん」と言ってチャンネルを変えるだろうか。

わからなかった。

でも、話してみたかった。

私はまだ何も決めていない。

里親になりたいと思っているわけでも、何かに申し込もうとしているわけでもない。

ただ、一週間前には知らなかったことを、今は知っている。

それだけのことが、思ったより重かった。

玄関の鍵が開く音がした。

「ただいま」
誠一の声がした。

私は台所から「おかえり」と返した。

自分の声が、いつもより少しだけ、はっきり聞こえた気がした。

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週末の夜、翔太から電話がかかってきた。

着信音が鳴ったとき、私は風呂上がりで髪を乾かしていた。

ドライヤーを止めて、タオルを肩にかけたまま画面を見た。

「翔太」という文字が光っていた。

三週間ぶりだった。

「もしもし」
「あ、出た。

元気?」
翔太の声は、少し低くなっていた。

東京に出てからそうなった。

実家にいたころの声より、どこか遠い場所から届くような気がした。

「元気よ。

そっちは?」
「まあまあ。

忙しかったけど、今週ちょっと落ち着いた」
それから三十分ほど、他愛のない話が続いた。

職場の先輩がどうとか、最近よく行く定食屋の話とか、東京は朝晩冷えるようになったとか。

私は相槌を打ちながら、翔太の声の奥にある生活の音を聞いていた。

食器が当たるような音、外を走る車の音。

知らない部屋の、知らない夜の音だった。

「じゃあ、また」
「うん、また電話して」
「はーい」
電話が切れた。

私はドライヤーをテーブルに置いて、ベッドの端に腰を下ろした。

タオルがまだ肩にかかっていた。

泣かなかった。

以前は違った。

翔太と電話をするたびに、切ったあとで決まって目が熱くなった。

声が聞けたうれしさと、遠さの寂しさが一度に来て、うまく処理できなかった。

でも今夜は、ただ静かだった。

泣けなかったのではなく、泣く必要がなかった。

何が変わったのだろう、と思った。

ふと、今週読んだ体験談の一節が頭に浮かんだ。

里親家庭で育った子どもが、大人になってから書いた文章だった。

「あの家を出るとき、また帰りたいと思った。

帰れる場所があると思った。

それだけで、ずいぶん遠くまで行けた」という一文だった。

私は翔太に「また電話して」と言った。

翔太は「はーい」と言った。

そのやりとりが、今夜初めて違う形に見えた。

帰れる場所を確かめる声だったのかもしれない、と思った。

翔太にとっても、私にとっても。

タオルを手に取って、髪の毛をもう一度拭いた。

誠一はもう寝室にいた。

リビングの電気だけがついていた。

私はソファに座って、スマホを開いた。

今週読んだページをもう一度探した。

あの一文が、もう一度読みたかった。

見つけて、読んだ。

二回読んだ。

それから画面を閉じて、天井を見た。

エアコンが静かに動いていた。

風が顔にかかった。

翔太を育てた二十四年間が、今夜初めて「社会とつながっている何か」として見えた気がした。

うまく言葉にできない。

でも、そういう感触だった。

里親という制度があることを、私はなぜ今まで知らなかったのだろう。

知らなかったのではなく、知ろうとしていなかったのだと思った。

自分の子育てで手一杯で、それ以外の子どものことを考える隙間が、どこにもなかった。

それは仕方のないことだったかもしれない。

でも今は、その隙間が目の前にある。

翔太の「はーい」という声が、まだ耳に残っていた。

私はスマホをテーブルに置いて、リビングの電気を消した。

暗くなった部屋の中で、窓の外の街灯だけが白く光っていた。

どこかの家の窓にも、明かりがついていた。

あの明かりの下に、今夜どんな人が座っているのだろう、とぼんやり思った。

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翌朝、誠一を送り出してから、私はいつものように洗い物をした。

それから洗濯機を回して、濡れた衣類をベランダに干した。

一枚ずつ伸ばして、シワを伸ばして、ピンチで留める。

その間ずっと、昨日のあの投稿の言葉が頭の中に残っていた。

「今日、初めて『おかえり』って言ってもらえた」
台所に戻って、テーブルの前に座った。

スマホを手に取って、検索画面を開いた。

少し迷ってから、「里親制度」と打ち込んだ。

最初に出てきたのは行政のページだった。

文字が小さく、図表が多く、読み進めるうちに目が滑った。

次に開いたNPOのサイトは、写真が多くて読みやすかった。

里親にはいくつかの種類があること、養子縁組とは違うこと、子どもが家庭に戻ることを前提としているケースが多いこと。

私はそれを、メモも取らずにただ読んだ。

知らないことばかりだった。

施設で暮らしている子どもが、今この国に約四万人いるという数字が出てきた。

私は一度画面から目を離して、窓の外を見た。

近所の公園で、小学生が二人、鉄棒で遊んでいた。

四万という数字が、うまく実感できなかった。

読み続けた。

里親登録をしている家庭の数が足りていないこと。

登録しても実際に子どもを迎えるまでに時間がかかること。

子どもが里親家庭に慣れるまでの難しさを、経験者が率直に書いているブログを見つけた。

うまくいかない日のことも、包み隠さず書いてあった。

私はそのページをゆっくり読んだ。

きれいな話ではなかった。

でも、だからこそ途中でやめられなかった。

気づいたら、二時間が過ぎていた。

台所の窓から入る日差しが、テーブルの端まで伸びていた。

お腹が空いているのに、立ち上がるのが惜しかった。

昼過ぎに誠一から「今夜は少し遅くなる」とメッセージが来た。

私は「わかった」と返した。

それからまたスマホの画面に戻った。

今度は体験談を読んでいた。

里親として子どもを迎えた四十代の夫婦の話。

最初の一週間、子どもが一言も喋らなかったこと。

ある朝、黙ったまま隣に座ってきたこと。

その重さが、嬉しかったと書いてあった。

私は画面を閉じて、冷蔵庫を開けた。

昨日の残りのご飯で、簡単に昼食を済ませた。

食べながら、さっき読んだ夫婦のことを考えていた。

夕方、誠一が帰ってきた。

「今日何してた?」
コートを脱ぎながら、誠一が聞いた。

いつもの、特に答えを求めていない声だった。

「特に何も」
私は答えた。

嘘をついたわけではない。

家事をして、座っていただけだ。

でも、その「何も」の中に、今日読んだすべてが入っていた。

里親制度のこと、四万人という数字のこと、隣に座ってきた子どものこと。

それを誠一に話す言葉が、まだ自分の中に見つからなかった。

夕食の支度をしながら、玉ねぎを切った。

目が滲んだ。

玉ねぎのせいだった。

それだけのことなのに、私はしばらく包丁を止めて、換気扇の音を聞いていた。

続きを読む

翌朝、誠一を送り出したあとの家は、いつもより広く感じた。

玄関のドアが閉まる音がして、私は台所に戻った。

テーブルの上には、誠一が飲みかけのまま置いていったコーヒーカップがあった。

縁に口紅もついていない、ただの白いカップ。

私はそれを流しに運んで、お湯で軽く流した。

排水口に消えていくコーヒーの匂いが、朝の台所にしばらく残った。

洗濯機を回して、掃除機をかけて、昼前には座るものがなくなった。

ソファに腰を下ろして、スマホを手に取る。

特に見たいものがあったわけではない。

ただ手が先に動いた。

SNSのアプリを開くと、画面が自動的に流れ始めた。

知人の旅行写真、料理の動画、誰かが怒っている長い文章。

私は親指を動かし続けた。

何も引っかかってこない。

どのくらい経ったころだろう。

画面がふと、止まった。

正確には、私の親指が止まった。

知らない女性のアカウントだった。

アイコンは小さな花の絵。

投稿は写真もなく、文章だけだった。

「今日、初めて『おかえり』って言ってもらえた。

それだけで、今日はもういい」
短い文章の下に、里親として小学生の女の子を迎えて三ヶ月、とあった。

私は画面を拡大したわけでも、いいねを押したわけでもなく、ただその文章を何度か読み返した。

「おかえり」という言葉が、目の中で何度も光った。

翔太が中学生のころ、部活から帰ってくるたびに玄関で言っていた言葉と、同じだった。

泥のついたシューズを脱ぎ散らかして、返事もせずにそのまま二階へ上がっていく背中に、それでも私は毎日「おかえり」と言っていた。

あの言葉を、誰かが初めて受け取った日のことを、この人は書いている。

私はしばらくそのままでいた。

ソファの背もたれが、肩甲骨のあたりに当たっていた。

エアコンの風が足元をかすめた。

フォローボタンに指が近づいて、止まった。

なぜ止まったのか、うまく説明できない。

感動したのは本当だった。

でも同時に、どこかに薄い壁があった。

この人の話は、自分とは別の世界の話だという感覚。

里親というものが何なのか、私はよく知らない。

知らないまま、フォローだけするのが、なんとなく失礼な気がした。

私はアプリを閉じた。

スマホをテーブルに置いて、窓の外を見た。

洗濯物が風に揺れていた。

翔太のものは一枚もない、私と誠一の二人分だけの洗濯物が、秋の光の中で静かに揺れていた。

里親。

声には出さなかった。

でも頭の中で、その言葉を一度、ゆっくりとなぞった。

自分の口の形を確かめるみたいに。

知っているようで、何も知らない言葉だと気づいた。

洗濯機の終了を知らせるブザーが、台所の奥で鳴った。

私は立ち上がって、スマホをソファに残したまま、洗濯物を取りに行った。

続きを読む

十月の夜は、台所が一番静かだった。

流しに残った水滴が、ステンレスをつたって排水口へ落ちる音。
それだけが聞こえた。
私はスポンジを絞り、いつもより丁寧に水切りかごを拭いた。
拭き終えても、布巾を置く気になれなかった。

リビングからテレビの音がする。
夫の誠一が見ているニュースの、アナウンサーの声。
内容は耳に入ってこない。
私は布巾を四つ折りにして、シンクの縁にかけた。

誠一は五十七歳で、二十八年前に職場で出会った。
口数の少ない人で、最初はとっつきにくいと思っていた。
でも、いつも少し遅れて笑う人だった。
誰かが冗談を言って、周りが笑って、一拍おいてから静かに笑う。
その笑い方が好きで、結婚を決めた。
今も変わらない。
変わらないことが、ありがたいと思う日と、少し遠く感じる日がある。

スマホは、テーブルの上に画面を伏せて置いてある。

手を伸ばして、裏返す。
息子の翔太のトーク画面を開く。
最後のメッセージは三週間前。
「今月忙しいから電話できないかも」。
私が「わかった、無理しないで」と返して、それきりだった。

翔太は二十四歳で、四月から東京のIT企業で働いている。
就職活動のとき、本人より私の方が緊張していた。
内定の電話が来た夜、翔太は「まあ、よかった」とだけ言って自分の部屋に戻った。
私はその夜、一人で台所でこっそり泣いた。
うれしくて泣いたのか、終わったと思って泣いたのか、今でもよくわからない。

電話をかけようとして、やめた。

時刻は夜の九時十五分。
忙しいと言っていた。
起きているかどうかもわからない。
私は画面を伏せて、椅子を引いて、テーブルについた。

窓の外は風が出てきていた。
ベランダの植木鉢が、かすかに揺れる音がする。
夏の終わりに翔太が帰省したとき、一緒に植えたミントだった。
今もまだ青くて、今夜みたいに風が吹くと、台所まで匂いが届くことがある。
私は鼻から息を吸った。
何も匂わなかった。

引き出しを開けて、飴を一粒取り出す。
口に入れると、甘さより先に冷たさが来た。

翔太が高校生のころ、夜中に勉強しているとよく台所へ降りてきた。
私が温めたコーンスープを両手で持って、一言も喋らずに飲んで、また二階へ上がっていく。
その背中を見送るのが、なんでもない日課だった。
コーンスープの缶は、今も戸棚の奥に二つある。
誰も飲まないまま、もう半年が過ぎた。

私は五十四歳になった。
特別なことは何もない年齢だと思っていた。
翔太を産んだのが三十歳で、それからの二十四年は子どもを中心に時間が回っていた。
PTAの役員、学校の送り迎え、受験の夜の夜食。
それが当たり前で、それ以外の自分をあまり考えてこなかった。
だから今、台所で一人でいる時間が、どこか借り物の部屋にいるような、妙な感じがする。

リビングのニュースが終わったのか、急に音量が下がった。
かと思うと、アナウンサーの声がひとつの話題で止まった。
里親の不足が全国的な課題になっている、という短いニュースだった。
私はそちらへ顔を向けたが、誠一がすぐにチャンネルを変えた。
砂漠を走る車のCMに切り替わり、画面が明るくなった。

「久美子、風呂先に入っていいか」
誠一の声がした。
私は「どうぞ」と返した。
自分の声が、少し遠くから聞こえるような気がした。

浴室のドアが閉まる音。
シャワーが落ちる音。

台所にまた静けさが戻ってきた。
私は飴を奥歯で割って、テーブルに両肘をついた。
さっきのニュースの言葉が、まだ耳の端に残っていた。
里親。
声に出したことのない言葉が、台所の空気にひとつ、浮いたような気がした。
スマホの画面は、伏せたままだった。

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