恵子の家から帰った翌朝、目が覚めたのはいつもより早かった。
窓の外がまだ暗かった。
布団の中で天井を見ていた。
哲也の寝息が聞こえた。
昨夜も眠れない時間があって、でも昨夜とは少し違った。
もやもやしていたのではなく、何かを決めようとしていた。
六時になって、布団から出た。
台所に降りて、お湯を沸かした。
ガスの火が青く灯って、やかんが温まり始めた。
冷えた台所に、少しずつ暖かさが戻ってきた。
窓の外が白み始めていた。
鳥の声が一つ、遠くで鳴いた。
哲也が階段を降りてくる音がした。
「早いな」
哲也が台所の入口に立って言った。
頭が少し寝癖になっていた。
私はお湯が沸いたやかんを持ちながら、振り向いた。
「ねえ、子供の里親って知ってる?」
声に出してから、自分でも驚いた。
今朝言おうと決めていたわけではなかった。
やかんを持ったまま、口から出ていた。
哲也は少し目を細めた。
椅子を引いて、テーブルに座った。
「聞いたことはあるけど、詳しくは知らない」
「そう」
私はお茶を二つ淹れて、哲也の向かいに座った。
湯気が細く立ち上った。
窓の外が、だんだん明るくなっていた。
話し始めた。
京都の旅館で感じた「静かすぎる」という感覚のこと。
恵子が里親をしていると知ったこと。
健太という男の子がいること。
いびつな形のクッキーのこと。
健太の「ふうん」という声のこと。
この数週間、一人でこっそり調べていたこと。
哲也に言えなかった理由が自分でもよくわからなかったこと。
順序はめちゃくちゃだったと思う。
同じことを二度言った気もする。
でも哲也は途中で口を挟まなかった。
お茶を両手で持って、私の顔を見ていた。
話し終えて、お茶を一口飲んだ。
冷めていた。
しばらく、二人とも黙っていた。
外で車が一台通り過ぎた。
鳥の声が増えていた。
台所に朝の光が入り始めて、テーブルの上が白くなった。
「俺たちにもできるかな」
哲也が言った。
反対ではなかった。
賛成でもなかった。
ただ、一緒に考えようという言葉だった。
二十六年間隣にいた人の声で、私にはそれがわかった。
「わからない。でも、知りたいとは思ってる」
「じゃあ、まず知ろう」
哲也がそう言って、スマホを取り出した。
私も自分のスマホを出した。
「里親 説明会」と打ち込んだ。
来月、市の福祉センターで開催される説明会があった。
日時と場所が書いてあった。
参加費は無料で、事前申し込みが必要だった。
「ここ、行ってみるか」
哲也が画面を私に向けた。
私は覗き込んだ。
来月の第二土曜日だった。
「行ってみようか」
私は言った。
申し込むボタンを押したわけではなかった。
まだそこまでは決めていなかった。
でも二人で同じ画面を見ていた。
哲也の肩が、私の肩に触れていた。
窓の外が完全に明るくなっていた。
朝食の支度を始めた。
冷蔵庫から卵を出して、フライパンを火にかけた。
バターが溶けて、甘い匂いが台所に広がった。
恵子の家で食べたクッキーの匂いに、少し似ていた。
目玉焼きを皿に移して、テーブルに並べた。
二人分の食器が、テーブルの上に揃った。
「いただきます」
二人で手を合わせた。
静かだった。
でも今朝の静けさは、京都の旅館の夜とは違った。
何かが足りない静けさではなく、何かが始まる前の静けさだった。
私はまだ何も決めていない。
里親になると決めたわけでも、説明会に申し込んだわけでも、人生の針を動かすと決めたわけでもなかった。
ただ、子供の里親という言葉が、今朝初めて自分の声で口から出た。
それだけのことが、胸の中で思ったより大きく、温かかった。
哲也が卵を崩した。
黄身が広がった。
窓の外で、鳥がまた鳴いた。
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