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合言葉を失った

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委託の朝、さおりは陽を早めに起こした。

いつもより三十分早かった。
理由はなかった。
ただ、今日は長く一緒にいたかった。
それだけだった。
陽を抱き上げると、陽が声を上げた。
眠そうな声だった。
さおりは「おはよう」と言った。
陽がまた声を上げた。
目が開いた。
天井を見た。
それからさおりの顔を見た。

笑った。

さおりにはわかった。
この子は今日も笑っている。
委託の朝も、笑っている。
何も知らない顔で、笑っている。
さおりは陽を胸に抱いたまま、しばらく動かなかった。
陽の体が温かかった。
薄いパジャマの下に、体の熱があった。
心臓の音が、さおりの胸に伝わってきた。

朝食を終えて、荷物を確認した。

着替え、医療的なケアに必要な道具、療法士からの引き継ぎ資料。
それから、小さなぬいぐるみを一つ。
白いうさぎだった。
陽が声を上げると体が動いて、よくこのぬいぐるみに触れた。
手が届くと、指が動いた。
このぬいぐるみだけは、持たせたかった。

光一が荷物を車に運んだ。

さおりは陽を抱いたまま、それを見ていた。
光一は黙って運んだ。
一往復、二往復。
靴音が廊下に響いた。
さおりは陽の耳元で、小さな声で話しかけた。
今日から新しいおうちに行くこと。
優しい人たちがいること。
さおりの声を聞いて、陽が体を動かした。
手が、少し上がった。

わかっているのかどうか、さおりにはわからなかった。

わかっていなくていい、と思った。
ただ声を聞いて、体を動かしてくれるだけで、十分だった。

車で四十分走った。

さおりは後部座席で陽を抱いていた。
光一が運転した。
ラジオをつけなかった。
無音だった。
信号で止まるたびに、エンジンの低い音だけがした。
陽が時々声を上げた。
さおりが応えた。
それだけが、車の中の会話だった。

光一が何も言わなかった。

さおりも何も言わなかった。
言葉を探さなかった。
今日は言葉のない朝でいい、とさおりは思った。
言葉を並べても、二人の間にあるものは変わらない。
変わらないものを、今日は動かさなくていい。

川沿いの道を走った。

水面が光っていた。
四月の朝の光が、川に落ちていた。
陽が窓の外を見た。
光の方を向いた。
目が、光を追っていた。
さおりはその横顔を見た。
この子の目は、光を見る。
どこにいても、光を見る。
その確信が、今朝のさおりには支えだった。

里親の家は、住宅街の奥にあった。

平屋の、庭のある家だった。
庭に木が一本あって、若い葉が出ていた。
四月の、薄い緑だった。
担当者がすでに来ていた。

里親の夫婦が玄関から出てきた。

五十代の、落ち着いた二人だった。
妻が先に来て、陽の顔を覗いた。
「会いたかったよ」と言った。
低い、穏やかな声だった。
陽が声を上げた。
体が動いた。
妻が「あら」と言って、微笑んだ。
「元気だね」と言った。

さおりはその声を聞いた。

温度があった。
陽に向けられた、確かな温度があった。
この人たちに預ける、という気持ちが、今朝初めてはっきりした。
気持ちが決まったのではなかった。
ただ、この人たちなら、陽の笑顔を見てくれる、とわかった。
陽が笑ったとき、一緒に笑ってくれる人たちだと、わかった。

玄関の前で、さおりは陽を抱いた。

最後に抱く、と決めていた。
荷物も渡した。
引き継ぎも終えた。
あとは渡すだけだった。
でもその前に、一度だけ、しっかり抱いた。

陽の耳元で、「行っておいで」と言った。

さおりの声を聞いて、陽の体が動いた。
手が上がった。
さおりの肩のあたりを、かすかに叩いた。
それから、笑った。
さおりにはわかった。
笑っていた。
今日も、この子は笑っていた。

さおりは陽を、里親の妻に渡した。

妻が陽を受け取った。
陽が声を上げた。
妻が「はいはい」と言った。
その言い方が、西村さんに似ていた。
温度のある言葉だった。
陽の体が、妻の腕の中で動いた。

光一が隣にいた。

黙っていた。
さおりは光一を見なかった。
陽だけを見ていた。
妻の腕の中で、陽が笑っていた。

玄関のドアが閉まった。

庭の木の葉が、風に揺れた。
薄い緑が、朝の光の中で透けていた。
さおりは庭を見た。
光一が隣にいた。
担当者が何か言った。
さおりは頷いた。
何を言われたか、よく聞こえなかった。

車に戻った。

さおりが助手席に座った。
光一が運転席に座った。
エンジンをかけた。
車が動き出した。

さおりは窓の外を見た。

里親の家が、後ろに遠ざかった。
庭の木が見えた。
葉が揺れていた。
見えなくなった。

光一が泣いていた。

さおりは気づいた。
運転しながら、光一が泣いていた。
声は出ていなかった。
ハンドルを握ったまま、前を向いたまま、泣いていた。
頬に涙が伝っていた。

さおりは光一を見た。

乾いていた目が、今日は濡れていた。
あの夜、許せなかった目が、今日は泣いていた。

許せた、とはならなかった。

でも光一も、愛していた。

愛し方が違っただけだった。
形が違っただけだった。
その理解が、許すこととは別の場所に、静かに落ちた。
胸の奥の、深いところに。
音もなく、落ちた。

さおりは光一の涙を、拭わなかった。

でも見ていた。
前を向いたまま泣く光一を、さおりはしばらく見ていた。
川が見えた。
水面が光っていた。
陽が光を追っていた横顔を、思った。
どこにいても、光を見る子だった。

その確信だけを、今日は持って帰った。

光一が涙を拭った。
袖で、一度だけ拭った。
それだけだった。
二人はまた、黙って走った。
川が続いていた。
光が続いていた。


登場人物

  • 村上 さおり(むらかみ さおり)
    女性・36歳 主人公。元幼稚園教諭。現在は専業主婦。感情を言葉にする力を持っているが、夫との間ではその力を使えなくなっている。
  • 村上 光一(むらかみ こういち)
    男性・39歳 夫。システムエンジニア。論理的に物事を処理する人。愛情がないわけではない。ただ、愛情の形が、さおりとは根本的に違う。
  • 村上 陽(むらかみ はる)
    3歳。生後8ヶ月のときに重度の脳性麻痺と診断された。よく笑う。さおりの声を聞くと、体が動く。

続きを読む

西村さんが帰り際に言ったのは、三月の終わりだった。

リハビリを終えて、道具を片付けながら、西村さんが言った。
特別な場面ではなかった。
バッグのチャックを閉めながら、立ったまま、言った。

「さおりさん、陽ちゃんってね、専門的な環境に入ったら、もっと伸びる可能性があると思うんですよ」
さおりは陽を抱いたまま、西村さんを見た。

「どういう意味ですか」と言った。
声が、少し固くなった。

西村さんは立ったまま、さおりを見た。
目が、真剣だった。
「手放してほしいって言いたいんじゃないんです」と言った。
「ただ、陽ちゃんには可能性がある。
その可能性を、最大限に引き出せる場所がある、ってこと、知っていてほしくて」
さおりは何も言えなかった。

陽が声を上げた。
さおりは陽の背中を、手のひらで叩いた。
規則正しく、やわらかく叩いた。

西村さんが帰った後、さおりはリビングに座った。

陽をマットに寝かせた。
陽が天井を見ていた。
さおりは陽の隣に座って、膝を抱えた。

西村さんの言葉が、頭の中で光一の言葉と重なった。

専門的なケアが必要だ。
俺たちには限界がある。
光一の言葉だった。
専門的な環境に入ったら、もっと伸びる可能性がある。
西村さんの言葉だった。
意味は同じだった。
同じことを、二人が言った。

悔しかった。

光一と同じことを、西村さんが言った。
光一の論理が、西村さんの言葉で裏打ちされた。
それが悔しかった。
光一が正しかったことが悔しいのではなかった。
光一の言葉には届かなかったものが、西村さんの言葉には届いた。
その違いが、さおりには悔しかった。

陽が声を上げた。

さおりは「なに」と言った。
陽がまた声を上げた。
さおりは陽の顔を見た。
笑っていた。
さおりにはわかった。
この子は今日も笑っている。
何も知らずに、笑っている。

何も知らなくていい、とさおりは思った。

ただ笑っていてくれれば、それでいい。
どこにいても、笑っていてくれれば。
その気持ちが浮かんだとき、さおりは自分が少し動いたことを知った。

その夜、光一が帰ってきてから、さおりは言った。

「同意する」
夕飯の後だった。
陽が眠ってから言った。
光一がテーブルの向かいに座っていた。
さおりは光一の目を見ずに言った。
テーブルの木目を見ながら言った。

光一が少し黙った。

「ありがとう」と言った。

さおりはその言葉が嫌だった。

ありがとう、という言葉の中に、安堵があった。
さおりにはわかった。
光一が安堵している。
陽を手放すことに、安堵している。
その安堵が、さおりには許せなかった。
愛しているなら、安堵するな。
悲しめ。
泣け。
声を震わせろ。

でも言えなかった。

言葉が、また喉の手前で止まった。
この二年間、何度も止まってきた場所だった。
さおりはテーブルの木目を見たまま、「陽のためだから」と言った。
光一のためでも、自分のためでもなく、陽のために同意する。
そう言いたかった。
でも声に出すと、少し違った。
陽のため、という言葉が、言い訳に聞こえた。

誰に対する言い訳なのか、さおりにはわからなかった。

その夜も、さおりは陽の部屋で眠った。

陽の寝息が聞こえた。
規則正しい、深い音だった。
さおりはその音を聞きながら、同意した夜のことを確かめた。
後悔しているか。
していなかった。
許せているか。
していなかった。

許せないまま、従った。

それだけだった。
それだけのことだった。
人生にはそういう夜がある。
正しいかどうかより、動かなければならない夜が。
さおりには今夜がそうだった。

陽の手が、マットの上にあった。

小さな手だった。
昼間、さおりの指を握った手だった。
眠っている今は、力が抜けていた。
開いたまま、静かにあった。
さおりはその手に、自分の指を置いた。
今度は握らなかった。
ただ、置いた。

温かかった。

窓の外で、風が鳴った。
三月の終わりの風だった。
春の匂いが、微かに届いた。
さおりは目を閉じた。
陽の寝息が続いていた。
その音だけが、今夜のさおりには十分だった。


登場人物

  • 村上 さおり(むらかみ さおり)
    女性・36歳 主人公。元幼稚園教諭。現在は専業主婦。感情を言葉にする力を持っているが、夫との間ではその力を使えなくなっている。
  • 村上 光一(むらかみ こういち)
    男性・39歳 夫。システムエンジニア。論理的に物事を処理する人。愛情がないわけではない。ただ、愛情の形が、さおりとは根本的に違う。
  • 村上 陽(むらかみ はる)
    3歳。生後8ヶ月のときに重度の脳性麻痺と診断された。よく笑う。さおりの声を聞くと、体が動く。

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話し合いから、十四日が過ぎた。

光一とは、それ以来、陽のことを話していなかった。
話さないことで、何かが保たれていた。
何が保たれているのかは、さおりにもよくわからなかった。
ただ、話せば壊れる気がした。
壊れてはいけないものが、まだあった。

毎朝、リハビリを続けた。

陽の腕を動かした。
肘を曲げて、伸ばす。
膝を曲げて、伸ばす。
療法士に教わった順番通りに。
陽が声を上げるたびに、さおりが応えた。
応えると、また声が来た。
その繰り返しだった。
この繰り返しが、さおりには必要だった。
陽が応えてくれることが、この二年間の支えだった。

その朝は、光一が出勤してから三十分後だった。

さおりは陽の左腕を、ゆっくり持ち上げた。
肘を曲げた。
伸ばした。
また曲げた。
陽が声を上げた。
さおりが「そうだよ」と言った。
また声が来た。

指を動かす番になった。

さおりが陽の手のひらに、自分の人差し指を置いた。
陽の指が、少し動いた。
さおりはそのまま待った。
待つことを、療法士に教わっていた。
急かさないこと。
時間をかけること。
陽のペースがあること。

陽の指が、動いた。

さおりの指を、包むように。
弱かった。
かすかだった。
でも確かに、そこに力があった。
さおりの人差し指が、陽の手の中にあった。

さおりは声を上げそうになった。

堪えた。
声が出たら、陽の指が離れる気がした。
このままでいたかった。
もう少し、このままでいたかった。
陽の手のひらが、温かかった。
小さかった。
その小ささの中に、確かな力があった。

光一に電話をかけたかった。

反射的に、そう思った。
今すぐかけて、陽が指を握った、と伝えたかった。
でも手が動かなかった。
陽の指を握ったまま、さおりは動けなかった。

電話して、光一はなんと言うか。

「そうか」と言うか。
「よかったな」と言うか。
正しい言葉が返ってくる。
間違いなく、正しい言葉が返ってくる。
でも今は正しい言葉が欲しくなかった。
一緒に声を上げてくれる人が欲しかった。
信じられないね、と言って、電話口で泣いてくれる人が欲しかった。

光一は、そういう人ではなかった。

七年間、ずっとそうだった。
変わらなかった。
変わることを、もう期待していなかった。
期待しなくなったことが、諦めなのか、受け入れなのか、さおりにはまだ区別がつかなかった。

陽の指が、少し緩んだ。

さおりは陽の顔を見た。
陽が声を上げた。
笑っているように見えた。
さおりには、笑っているとわかった。
この子は笑う。
指を握る力がかすかでも、笑う力は確かにあった。

午後、療法士の西村さんが来た。

週に二回、訪問してくれる人だった。
四十代の、声の大きな女性だった。
陽のそばに座ると、陽が声を上げた。
西村さんはいつも「はいはい、来たよ」と言った。
その言い方が、さおりには好きだった。

リハビリの後、西村さんがさおりに言った。

「今日、指握りましたよ」とさおりは言った。

西村さんが「え」と言った。
「握った?」
「握りました。
人差し指を」
西村さんが「本当に」と言って、陽を見た。
「やるじゃない、陽ちゃん」と言った。
声が大きかった。
陽が反応した。
体が動いた。

さおりは西村さんの顔を見た。

西村さんの目が、潤んでいた。
さおりはそれを見て、初めて泣いた。
声は出なかった。
ただ涙が出た。
西村さんが「よかったね」と言った。
その「よかったね」は、正しい言葉だったが、温度があった。
温度のある正しい言葉だった。

光一の「よかったな」とは、違う言葉だった。

夜、光一が帰ってきた。

さおりは夕飯を出しながら、「今日、陽が指を握った」と言った。

光一が顔を上げた。
「そうか」と言った。
「よかったな」と言った。

さおりは「うん」と言った。

それだけだった。

夕飯の間、陽が声を上げた。
さおりが応えた。
光一は黙って食べた。
三人のテーブルに、箸の音がした。
外で風が鳴った。
アパートの窓が、微かに揺れた。

さおりは陽の顔を見た。

陽が笑っていた。
さおりにはわかった。
この孤独の中で、この子は笑う。
その笑顔が、今日のさおりには、委託への抵抗でもあり、委託への理解でもあった。
どちらでもある、ということが、さおりにはまだ整理できなかった。

整理できなくていい、と西村さんなら言うかもしれなかった。

光一は言わない。
でも西村さんなら、言うかもしれなかった。


登場人物

  • 村上 さおり(むらかみ さおり)
    女性・36歳 主人公。元幼稚園教諭。現在は専業主婦。感情を言葉にする力を持っているが、夫との間ではその力を使えなくなっている。
  • 村上 光一(むらかみ こういち)
    男性・39歳 夫。システムエンジニア。論理的に物事を処理する人。愛情がないわけではない。ただ、愛情の形が、さおりとは根本的に違う。
  • 村上 陽(むらかみ はる)
    3歳。生後8ヶ月のときに重度の脳性麻痺と診断された。よく笑う。さおりの声を聞くと、体が動く。

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話し合いは、陽が眠ってから始まった。

リビングのテーブルを挟んで、さおりと光一が向かい合った。
ケーキの皿は片付けていた。
テーブルの上には何もなかった。
何もないテーブルが、二人の間にあった。

光一が話し始めた。

順番があった。
まず現状の整理。
次に課題の列挙。
最後に結論。
光一はいつもそういう話し方をした。
会議のような話し方だと、さおりは結婚して最初の年に思った。
今はもう慣れていた。
慣れたことが、良いことなのかどうか、考えないようにしてきた。

「陽には、専門的なケアが必要だ」と光一は言った。

「わかってる」とさおりは言った。

「俺たちにできることの、限界がある」
「わかってる」
「陽の将来を、長い目で見たとき——」
「わかってる」とさおりはまた言った。

光一が止まった。
さおりを見た。
さおりは光一の目を見た。

乾いていた。

泣いていない目だった。
充血もしていなかった。
陽の委託を提案しながら、光一の目は乾いていた。
論理的に、正確に、言葉を並べながら、その目は何も濡れていなかった。

さおりは光一の目から、視線を逸らせなかった。

なぜ泣かないのか。
この子を手放す話をしながら、なぜその目が乾いているのか。
泣けないのか。
泣かないのか。
その違いが、さおりには今夜、決定的だった。
どちらにしても、この人の愛情の形は、私とは違う。
その確信が、テーブルを挟んで、静かに固まった。

「里親委託を、考えてほしい」と光一は言った。

さおりは光一の目を見たまま、「私は」と言った。
「まだ、手放せない」
光一は少し黙った。
「わかった」と言った。

その夜、さおりは陽の部屋で眠った。

陽の横に布団を敷いた。
陽の寝息が聞こえた。
規則正しい、深い音だった。
さおりはその音を聞きながら、天井を見た。

光一の言葉は、正しかった。

全部、正しかった。
専門的なケアが必要なことも、限界があることも、陽の将来のことも。
一つも間違っていなかった。
だからこそ、さおりには光一の言葉が届かなかった。
正しい言葉が、届かない夜があった。

欲しかったのは、正しさではなかった。

この子を手放す話をするなら、泣きながら話してほしかった。
声が震えてほしかった。
言葉が途切れてほしかった。
それがさおりの求めるものだった。
でも光一はそういう人ではなかった。
結婚して七年、ずっとそういう人だった。

陽が寝返りを打とうとして、できなかった。
体が少し動いた。
さおりは手を伸ばして、陽の背中に触れた。
温かかった。
薄いパジャマの下に、体の熱があった。

手放せない、と思った。

でも手放せない理由が、陽のためなのか、自分のためなのか、今夜はまだわからなかった。
わからないまま、陽の寝息を聞いていた。

翌朝、光一はいつもと同じ時間に起きた。

いつもと同じように、コーヒーを淹れた。
いつもと同じように、「行ってくる」と言った。
さおりは陽の部屋から出て、「うん」と言った。

ドアが閉まった。

足音が遠ざかった。
さおりは台所に立った。
コーヒーの香りが残っていた。
光一が淹れたコーヒーの、温かい匂いだった。
カップが一つ、シンクに伏せてあった。
自分の分だけ淹れて、洗って、伏せて、出かけた。

さおりはそのカップを見た。

責める気持ちと、責めてはいけないという気持ちが、また同時に来た。
この二年間、ずっとこの繰り返しだった。
どちらかに決まらないまま、朝が来て、陽が声を上げて、また一日が始まった。

「陽」とさおりは呼んだ。

リビングから、声が来た。
あ、という声だった。
さおりはそちらへ向かった。
陽がいた。
天井を見て、声を上げていた。
さおりの顔を見て、また声を上げた。
体が動いた。
手が、少し持ち上がった。

さおりはその手を、両手で包んだ。

温かかった。
柔らかかった。
この手を、まだ知っていたかった。


登場人物

  • 村上 さおり(むらかみ さおり)
    女性・36歳 主人公。元幼稚園教諭。現在は専業主婦。感情を言葉にする力を持っているが、夫との間ではその力を使えなくなっている。
  • 村上 光一(むらかみ こういち)
    男性・39歳 夫。システムエンジニア。論理的に物事を処理する人。愛情がないわけではない。ただ、愛情の形が、さおりとは根本的に違う。
  • 村上 陽(むらかみ はる)
    3歳。生後8ヶ月のときに重度の脳性麻痺と診断された。よく笑う。さおりの声を聞くと、体が動く。

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登場人物

  • 中村 さつき(なかむら さつき) 女性・34歳
    主人公。スーパーのパートと夜の清掃業の掛け持ち。元夫とは3年前に離婚。感情を飲み込むことに慣れすぎている人。
  • 中村 蓮(なかむら れん) 男性・6歳
    息子。人懐っこくてよく笑う。母親の顔色を読むことを、少しずつ覚えてきている。

委託の前日の夜、私は弁当箱を洗った。

明日からは使わない弁当箱だった。

それでも洗った。

スポンジに洗剤をつけて、内側を丁寧に擦った。

蓋の溝に残った汚れを、爪で押したスポンジの角で取った。

蛇口をひねると、水が冷たかった。

十二月の水道水は、指の感覚をすぐに奪った。

それでも洗い続けた。

蓮はもう眠っていた。

六畳の部屋の隅に、蓮の布団があった。

荷物は昨日のうちにまとめた。

着替えと、好きな恐竜の図鑑と、保育園で作った小さな絵。

部屋の棚が、少し寂しくなっていた。

弁当箱だけが、台所に残っていた。

明日からここに来る人間は、私一人だった。

弁当箱を伏せて、乾かした。

また会いに来るよ、と蓮に言えるか。

洗いながら、ずっと考えていた。

言える根拠はなかった。

行けるかどうか、自分でもわからなかった。

でも言わなければ、蓮が明日、玄関を入れない気がした。

だから言う。

嘘ではないと思いたかった。

思いたい、という気持ちだけを、手元に置いておいた。

当日の朝、蓮は六時に起きた。

私はもう台所にいた。

蓮の好きなウインナーを焼いた。

パチパチと、油が跳ねる音がした。

皮が破れて、断面が赤くなった。

蓮が台所に来て、「いいにおい」と言った。

椅子に座って、両手で頬杖をついて、フライパンを眺めた。

朝食を並べると、蓮は全部食べた。

私は半分しか食べられなかった。

ウインナーを一本、口に入れた。

塩気と油の味がした。

飲み込むのに、時間がかかった。

蓮が「お母さん食べないの」と言った。

「後で食べる」と私は言った。

蓮は「ふーん」と言って、麦茶を飲んだ。

車は、担当者が出してくれた。

蓮は後部座席に座った。

膝の上に、小さなリュックを抱えていた。

窓の外をずっと見ていた。

何を見ているのか、私にはわからなかった。

コンビニ、公園、保育園の前を通った。

保育園の門のところで、蓮が少しだけ顔を向けた。

何も言わなかった。

また窓の外に戻った。

三十分ほど走って、車が止まった。

閑静な住宅街だった。

庭のある、平屋の家だった。

玄関の前に、プランターが並んでいた。

冬だから花はなかったが、土が黒く湿っていた。

誰かが最近、水をやっていた。

里親の夫婦が出てきた。

五十代くらいの、背の高い夫と、エプロンをつけた妻だった。

二人とも、穏やかな顔をしていた。

担当者が蓮の隣にしゃがんで、「ここがおうちだよ」と言った。

蓮は黙って、玄関を見た。

「お母さんも来る?」
蓮が私を見て、言った。

胸の奥で、何かが鳴った。

音ではなかった。

痛みでもなかった。

ただ、何かが鳴った。

「また会いに来るよ」と私は言った。

蓮は三秒ほど私を見た。

それから頷いた。

里親の妻が蓮の隣に来て、「一緒に入ろうか」と言った。

その声が温かかった。

蓮はその声の方を向いて、歩き出した。

玄関のドアが開いた。

蓮が中に入った。

ドアが閉まった。

プランターの土が、日に当たっていた。

湿った黒い土が、冬の光を吸っていた。

帰りは電車だった。

担当者の車には乗らなかった。

一人で帰りたかった。

駅まで歩いて、ホームに立って、電車を待った。

風が吹いて、コートの中まで冷えた。

電車が来て、乗った。

吊り革を握った。

誠の手を握る相手は、いなかった。

窓の外に、町が流れた。

知らない駅、知らない商店街、知らない踏切。

泣かなかった。

泣く体力が残っていなかったのか、泣く場所がわからなかったのか、自分でもわかならかった。

ただ吊り革を握って、立っていた。

窓に、自分の顔が映っていた。

思ったより、普通の顔をしていた。

泣いてもいない。

笑ってもいない。

登場人物

  • 中村 さつき(なかむら さつき) 女性・34歳
    主人公。スーパーのパートと夜の清掃業の掛け持ち。元夫とは3年前に離婚。感情を飲み込むことに慣れすぎている人。
  • 中村 蓮(なかむら れん) 男性・6歳
    息子。人懐っこくてよく笑う。母親の顔色を読むことを、少しずつ覚えてきている。

手続きが進んでいた。

担当者との面談が二回あった。

書類を書いた。

蓮の保育園に連絡が入った。

私の生活状況を、誰かが丁寧に確認していた。

それは有難いことだったが、自分の輪郭を何度もなぞられるような感覚があった。

正しく書けば書くほど、正しく伝えれば伝えるほど、私が「支援を必要とする母親」として形になっていった。

蓮には、何も言えなかった。

夕飯を作りながら、何度か口を開きかけた。

でも蓮が笑っていると、言えなかった。

蓮が何か話しかけてくると、その話を聞いた。

保育園で何があったか。

好きな恐竜の名前。

砂場で作った山の話。

私はそれを聞きながら、今日も言えなかった、と思った。

ある夜、風呂上がりの蓮がリビングに来た。

髪が濡れていた。

タオルを頭にかけたまま、私の隣に座った。

テレビがついていた。

私はテレビを見ていなかった。

蓮も少しの間、黙って画面を見ていた。

「ねえ」と蓮が言った。

「なに」
「お母さん最近、なんか変だよ」
私はテレビを見たまま、「疲れてるだけ」と言った。

蓮は「そっか」と言った。

それだけだった。

蓮は立ち上がって、「お風呂入ってくる」と言った。

自分でシャンプーを取りに行って、浴室のドアを閉めた。

六歳が、一人でお風呂の準備をしていた。

私はテレビの音を聞いていた。

内容は何も入ってこなかった。

シャワーの音が始まった。

壁越しに、水が床を叩く音がした。

蓮が鼻歌を歌っていた。

音程の外れた、知らない歌だった。

その背中を見たとき、決めた。

小さかった。

当たり前だが、六歳の背中だった。

タオルを頭にかけたまま立ち上がった、その背中が。

でも小さいのに、どこか大きかった。

「そっか」と言って引き下がった、その一言の重さが、背中に乗っているように見えた。

この子はいつから、こんなふうになったのか。

察して、聞いて、引き下がる。

母親の「疲れてるだけ」を、疑わずに受け取る。

六歳がそれをする。

私が教えたわけではなかった。

ただ、私と二人で暮らしてきた時間が、蓮にそれを覚えさせた。

かわいそうだとは思わなかった。

申し訳ないとも、少し違った。

ただ、この子にはもっと子どもでいてほしかった。

母親の顔色より、砂場の山や恐竜の名前だけを考えていてほしかった。

その気持ちが、腹の底からゆっくりと上がってきた。

翌朝、蓮が起きてくる前に、私は話すことを決めた。

今日ではなかった。

でも近いうちに、話す。

その覚悟が、朝の台所に静かに落ちた。

蓮が起きてきた。

髪が寝癖でぐしゃぐしゃだった。

目を細めて、「おはよ」と言った。

私は「おはよ」と返して、蓮の頭に手を置いた。

くしゃくしゃと、一度だけ撫でた。

蓮が「やめてよー」と言って、笑った。

私も笑った。

今度は、作らなくても笑えた。

その笑顔がどこから来たのか、私にはわからなかった。

でも笑えた。

昨夜、何かが決まったから笑えたのか、それとも蓮の寝癖が本当におかしかったから笑えたのか。

どちらでもよかった。

笑えたなら、それでよかった。

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登場人物

  • 中村 さつき(なかむら さつき) 女性・34歳
    主人公。スーパーのパートと夜の清掃業の掛け持ち。元夫とは3年前に離婚。感情を飲み込むことに慣れすぎている人。
  • 中村 蓮(なかむら れん) 男性・6歳
    息子。人懐っこくてよく笑う。母親の顔色を読むことを、少しずつ覚えてきている。

区の福祉窓口は、火曜日の午前中だけ空いていた。

パートの出勤前に寄った。

スーパーのエプロンをバッグに押し込んで、番号札を取って、プラスチックの椅子に座った。

待合室には私の他に、老いた男性と、赤ん坊を抱いた若い母親がいた。

赤ん坊が時々声を上げて、母親がその都度背中を叩いた。

規則正しい、やわらかい音だった。

番号を呼ばれて、窓口へ行った。

担当者は四十代くらいの女性だった。

「今日はどのようなご相談ですか」と言った。

声が穏やかだった。

私はその声を聞いて、一秒だけ迷った。

「子育て支援について、教えていただけますか」
そう言った。

里親に、息子を出すことはできますか。その言葉は、口の手前で止まった。

言葉にした瞬間に、私が「息子を手放す母親」になる気がした。

なってしまえばもう、引き返せない気がした。

だから違う言葉を選んだ。

自分でも気づかないくらい、自然に。

担当者は丁寧だった。

ひとり親家庭への給付金、保育料の減免制度、一時保護の仕組み。

資料を何枚か出して、一つずつ説明した。

私はメモを取った。

ボールペンで、担当者の言葉を書き写した。

窓口のカウンターは冷たかった。

蛍光灯が白く、眩しかった。

説明が終わると、担当者が「他に何かありますか」と言った。

ありました、と私は思った。

でも「大丈夫です」と言って、立ち上がった。

外に出ると、風が冷たかった。

メモを書いたノートをバッグに入れて、スーパーへ向かった。

歩きながら、書いた内容を思い返した。

給付金の金額。

申請の締め切り。

必要な書類。

全部正しかった。

全部、私が聞きたかったことではなかった。

翌週の火曜日、また番号札を取った。

同じ椅子に座って、同じ蛍光灯の下で待った。

今日は赤ん坊はいなかった。

待合室が静かだった。

自分の呼吸が聞こえた。

番号を呼ばれた。

窓口へ行った。

担当者は先週と同じ女性だった。

私のことを覚えているかどうか、わからなかった。

「今日はどのようなご相談ですか」と、また言った。

同じ声だった。

今度は一秒も迷わなかった。

「里親に、息子を出すことはできますか」
声に出したとき、泣くと思っていた。

でも泣かなかった。

ただ言葉が、口から出た。

それだけだった。

担当者は表情を変えなかった。

「はい、ご相談をお受けできます」と言って、新しい資料を出した。

その落ち着いた声が、私には有難かった。

驚かれたら、崩れていたかもしれなかった。

帰り道、私はコンビニに寄った。

肉まんを一個買った。

百円だった。

外に出て、立ったまま食べた。

湯気が顔に当たった。

生地が温かく、手のひらから熱が伝わってきた。

里親に出すことはできますか、と声に出した自分を、頭の中で確認した。

言えた。

言えてしまった。

勇気があったわけではなかった。

ただ限界だった。

限界になれば、人は言えるのだと、三十四年生きてきて初めて知った。

肉まんを食べ終えて、包みをゴミ箱に捨てた。

元夫にも言えなかった。

親にも言えなかった。

職場の誰にも言えなかった。

言えないまま削れてきた三十四年だった。

それが窓口の、あの蛍光灯の下で、初めて外に出た。

泣かなかったことが、怖いような気もした。

でも今は、怖いより先に、腹が温かかった。

それで、よかった。

今日は、それだけでよかった。

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登場人物

  • 村上 さおり(むらかみ さおり)
    女性・36歳 主人公。元幼稚園教諭。現在は専業主婦。感情を言葉にする力を持っているが、夫との間ではその力を使えなくなっている。
  • 村上 光一(むらかみ こういち)
    男性・39歳 夫。システムエンジニア。論理的に物事を処理する人。愛情がないわけではない。ただ、愛情の形が、さおりとは根本的に違う。
  • 村上 陽(むらかみ はる)
    3歳。生後8ヶ月のときに重度の脳性麻痺と診断された。よく笑う。さおりの声を聞くと、体が動く。

三月の朝、さおりはオーブンの前にいた。

ケーキが焼けるまで、あと十分だった。
タイマーが静かに時を刻んでいた。
陽のそばにいながら、キッチンとリビングを何度も往復した。
陽はリビングのマットの上に寝ていた。
天井を見ていた。
天井の何かが、陽には見えているのかもしれなかった。
時々、声を上げた。
あ、とか、う、とかいう声だった。
さおりがその声に応えるたびに、陽の体が動いた。
手が、足が、少しずつ動いた。

「陽、今日で三歳だよ」とさおりは言った。

陽が声を上げた。
笑っているのか、それとも別の何かなのか、医師にはわからないと言われたことがあった。
さおりにはわかった。
笑っていた。
この子は笑う。
それだけは、二年間ずっと変わらなかった。

光一が出勤したのは、八時だった。

玄関で靴を履きながら、「今日だったな」と言った。
リビングのさおりに向かって言った。
陽を見なかった。
さおりは「うん」と返した。
それだけだった。
ドアが閉まった。
靴音が廊下を遠ざかって、消えた。

今日だったな。

さおりはその言葉を、台所で一人繰り返した。
「だったな」という言葉の温度を、確かめるように。
責めているのか、確かめているのか、自分でもわからなかった。
ただ、陽の誕生日は「だったな」で済む日ではないと、さおりには思えた。
思えたが、光一に言わなかった。
言っても、光一には伝わらない気がした。
伝わらないとわかっている言葉を、さおりはこの二年間、飲み続けてきた。

オーブンのタイマーが鳴った。

ケーキを焼き終えて、陽とリビングで過ごした。

リハビリの時間があった。
陽の腕をゆっくり動かした。
肘を曲げて、伸ばす。
膝を曲げて、伸ばす。
療法士に教わった順番通りに、毎朝繰り返してきた。
陽が声を上げると、さおりが応えた。
応えると、また声が来た。
その繰り返しだった。

昼に、陽が眠った。

さおりはケーキに小さなろうそくを三本立てた。
火をつけた。
炎が揺れた。
陽は眠っていた。
さおりは一人で「ハッピーバースデー」を口ずさんだ。
声に出さずに、口だけ動かした。
炎が揺れた。
窓から入った風で、一本だけ消えかけた。
また揺れて、戻った。

さおりは息を吹いた。
三本、消えた。

誰もいなかった。
静かだった。
陽の寝息だけが、部屋に聞こえた。

光一が帰ったのは、七時を過ぎていた。

玄関を入って、台所を見て、「上手に焼けたな」と言った。
ケーキを見て言った。
さおりは「ありがとう」と言った。
三人でテーブルに座った。
陽は椅子に固定された姿勢で、テーブルの前にいた。
光一がケーキを切った。
さおりが陽の分を少しだけ取り分けた。
柔らかく崩して、陽の口に運んだ。
陽が口を動かした。
飲み込んだ。
また声を上げた。

「よく食べるな」と光一が言った。

「うん」とさおりは言った。

ケーキを食べ終えて、陽が眠りかけた頃、光一が言った。

「そろそろ、話し合おう」
さおりは光一を見た。
「何を」と言った。

「陽のこと」と光一は言った。

わかっていた。
この言葉が来ることは、一週間前からわかっていた。
でも今日でなくてよかった、と思った。
陽の誕生日でなくてよかった、と思った。
でもそれは、声に出なかった。

テーブルの上に、ケーキの皿が残っていた。
ろうそくの跡が、クリームについていた。
三本分の、小さな跡だった。

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登場人物

  • 中村 さつき(なかむら さつき) 女性・34歳
    主人公。スーパーのパートと夜の清掃業の掛け持ち。元夫とは3年前に離婚。感情を飲み込むことに慣れすぎている人。
  • 中村 蓮(なかむら れん) 男性・6歳
    息子。人懐っこくてよく笑う。母親の顔色を読むことを、少しずつ覚えてきている。

参観日は、木曜日だった。

シフト表を見たとき、私は三秒だけ考えて、目を逸らした。

木曜の午前は入れ替わりのきかないポジションだった。

誰かに頼めなくはなかった。

でも頼むための言葉を探しているうちに、締め切りが過ぎた。

蓮には「お母さん、今日行けないかも」と伝えた。

蓮は「ふーん」と言って、ランドセルを背負った。

その日の夜、蓮が帰ってきた。

玄関でランドセルを下ろしながら、「今日ねえ、お弁当みんなで食べたんだよ」と言った。

遠足でもないのに、と私は思った。

「なんで」と聞くと、「先生が急に言ったの」と蓮が言った。

胃のあたりが、冷えた。

連絡帳を開いた。

木曜日のページに、担任の字で書いてあった。

「来週の参観日は、お子さんとお弁当を食べる時間を設けます。

ご準備をお願いします」。

先週の欄だった。

私はそのページを開いた記憶がなかった。

「パンおいしかったよ」と蓮が言った。

台所から私の顔を見て、笑っていた。

「購買のカレーパン、はじめて食べた」
「よかった」と私は言った。

蓮が寝てから、連絡帳をもう一度読んだ。

蛍光灯の下で、一行ずつ読んだ。

木曜日のページだけではなかった。

その前の週も、その前も、読んでいない日があった。

仕事から帰ってきて、夕飯を作って、蓮を風呂に入れて、洗濯を回して、気づいたら蓮より先に眠っていた夜が、何度もあった。

隣の子の弁当箱に、何が入っていたか。

蓮は見たか。

何か思ったか。

帰ってきたとき、蓮は笑っていた。

カレーパンがおいしかったと言った。

でもその笑顔の前に、何があったかを私は知らなかった。

知る方法がなかった。

蓮は何も言わなかった。

言わなかったことが、言ったことよりずっと重く、部屋に残っていた。

この子はいつから、私に気を遣うようになったのか。

六歳が、母親の顔色を読んで、「パンおいしかったよ」と言う。

それは本当においしかったのかもしれない。

でも私には、その言葉が蓮の優しさに見えた。

六歳の子どもが持つには、重すぎる優しさだった。

連絡帳を閉じた。

部屋が静かだった。

冷蔵庫の音がしていた。

外で風が鳴った。

アパートの壁が薄いから、隣の部屋のテレビの音が微かに届いた。

笑い声のある番組だった。

疲れた、とは思わなかった。

終わりにしたい、と思った。

育てることを、ではない。

この綱渡りを、終わりにしたい。

自分の手取りと蓮の給食費と家賃と光熱費を頭の中で足し引きしながら、連絡帳を読み忘れながら、笑えない朝を笑ってごまかしながら続けてきた、この綱渡りを。

子どもの貧困、という言葉を、どこかで読んだことがあった。

自分のことだと思ったことは、一度もなかった。

蓮は今日もご飯を食べて、布団で眠っている。

でもその言葉が、今夜初めて、自分の輪郭に重なった。

里親、という言葉が浮かんだのは、そのあとだった。

浮かんで、すぐに沈んだ。

でも沈む前に、一瞬だけ、水面に出た。

それで十分だった。

その夜の私には、それで十分だった。

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登場人物

  • 中村 さつき(なかむら さつき) 女性・34歳
    主人公。スーパーのパートと夜の清掃業の掛け持ち。元夫とは3年前に離婚。感情を飲み込むことに慣れすぎている人。
  • 中村 蓮(なかむら れん) 男性・6歳
    息子。人懐っこくてよく笑う。母親の顔色を読むことを、少しずつ覚えてきている。

十二月の午前五時、アパートの階段は凍りかけていた。

清掃の仕事を終えて帰ってきたとき、私の指先は感覚がなかった。
鍵穴に鍵を差し込むのに、三回かかった。
ドアを開けると、部屋の空気が冷えていた。
暖房を切って出かけたから。
電気代のことを、今朝も考えながら帰ってきた。

蓮はまだ眠っていた。

六畳の部屋の隅に、蓮の布団があった。
毛布から足が出ていた。
私はそれをかけ直して、台所に立った。
弁当を作らなければならなかった。
蓮の登園は八時。
それまでに作って、自分も少し眠る。
それだけの朝だった。

冷蔵庫を開けた。

卵が一個。
キャベツの芯。
醤油と、味噌と、古いバター。
給料日まであと四日。
財布の中に千二百円あった。
作れないわけではなかった。
卵一個を焼いて、キャベツを炒めれば、弁当は埋まる。

でも私は、冷蔵庫を閉めた。

卵一個の弁当を、蓮に持たせることができなかった。
理由を言葉にしようとすると、うまくいかなかった。
みっともないから、ではなかった。
ただ、それを詰めた弁当箱を蓮が開ける瞬間を、想像できなかった。

蓮を起こしたのは七時だった。

「れん、今日は購買で買いなさい」
財布から五百円玉を出して、蓮の手に置いた。
蓮の手は温かかった。
眠っていた体の温度が、そのまま手のひらに残っていた。

「やった」と蓮が言った。

笑った顔だった。
五百円が嬉しかったのか、弁当を自分で選べるのが嬉しかったのか、私にはわからなかった。
わからないまま、私は「早く顔洗いなさい」と言った。

笑えなかった。

笑えなかった自分に気づいたのは、蓮が洗面所へ走っていったあとだった。
蛇口をひねる音がした。
水が出る音がした。
蓮が何か鼻歌を歌っていた。
その声が、台所まで届いた。

私は流しの縁を両手で持って、立っていた。
窓の外がようやく白みはじめていた。
どこかで車のエンジンがかかる音がして、遠ざかっていった。

五百円を渡した手が、さっきまで震えていた。
震えたのが、お金のせいなのか、蓮の顔を見たせいなのか、どちらなのか、自分でもわからないままだった。

シングルマザーでいることの重さを、誰かに話したことは一度もなかった。
話す場所がなかった、というより、話したところで朝は来る。
弁当は要る。
それだけのことだった。

蓮が洗面所から出てきた。
顔に水滴がついたまま、「お母さん、タオルどこ」と言った。

「そこにかかってるでしょ」と私は言った。

今度は、笑えた。
作った笑顔ではなかった。
ただ、自然に口の端が上がった。
それが怖いような、救いのような、奇妙な朝だった。

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