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合言葉を失った

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登場人物

  • 中村 さつき(なかむら さつき) 女性・34歳
    主人公。スーパーのパートと夜の清掃業の掛け持ち。元夫とは3年前に離婚。感情を飲み込むことに慣れすぎている人。
  • 中村 蓮(なかむら れん) 男性・6歳
    息子。人懐っこくてよく笑う。母親の顔色を読むことを、少しずつ覚えてきている。

十二月の午前五時、アパートの階段は凍りかけていた。

清掃の仕事を終えて帰ってきたとき、私の指先は感覚がなかった。
鍵穴に鍵を差し込むのに、三回かかった。
ドアを開けると、部屋の空気が冷えていた。
暖房を切って出かけたから。
電気代のことを、今朝も考えながら帰ってきた。

蓮はまだ眠っていた。

六畳の部屋の隅に、蓮の布団があった。
毛布から足が出ていた。
私はそれをかけ直して、台所に立った。
弁当を作らなければならなかった。
蓮の登園は八時。
それまでに作って、自分も少し眠る。
それだけの朝だった。

冷蔵庫を開けた。

卵が一個。
キャベツの芯。
醤油と、味噌と、古いバター。
給料日まであと四日。
財布の中に千二百円あった。
作れないわけではなかった。
卵一個を焼いて、キャベツを炒めれば、弁当は埋まる。

でも私は、冷蔵庫を閉めた。

卵一個の弁当を、蓮に持たせることができなかった。
理由を言葉にしようとすると、うまくいかなかった。
みっともないから、ではなかった。
ただ、それを詰めた弁当箱を蓮が開ける瞬間を、想像できなかった。

蓮を起こしたのは七時だった。

「れん、今日は購買で買いなさい」
財布から五百円玉を出して、蓮の手に置いた。
蓮の手は温かかった。
眠っていた体の温度が、そのまま手のひらに残っていた。

「やった」と蓮が言った。

笑った顔だった。
五百円が嬉しかったのか、弁当を自分で選べるのが嬉しかったのか、私にはわからなかった。
わからないまま、私は「早く顔洗いなさい」と言った。

笑えなかった。

笑えなかった自分に気づいたのは、蓮が洗面所へ走っていったあとだった。
蛇口をひねる音がした。
水が出る音がした。
蓮が何か鼻歌を歌っていた。
その声が、台所まで届いた。

私は流しの縁を両手で持って、立っていた。
窓の外がようやく白みはじめていた。
どこかで車のエンジンがかかる音がして、遠ざかっていった。

五百円を渡した手が、さっきまで震えていた。
震えたのが、お金のせいなのか、蓮の顔を見たせいなのか、どちらなのか、自分でもわからないままだった。

シングルマザーでいることの重さを、誰かに話したことは一度もなかった。
話す場所がなかった、というより、話したところで朝は来る。
弁当は要る。
それだけのことだった。

蓮が洗面所から出てきた。
顔に水滴がついたまま、「お母さん、タオルどこ」と言った。

「そこにかかってるでしょ」と私は言った。

今度は、笑えた。
作った笑顔ではなかった。
ただ、自然に口の端が上がった。
それが怖いような、救いのような、奇妙な朝だった。

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