登場人物
- 村上 さおり(むらかみ さおり)
女性・36歳 主人公。元幼稚園教諭。現在は専業主婦。感情を言葉にする力を持っているが、夫との間ではその力を使えなくなっている。 - 村上 光一(むらかみ こういち)
男性・39歳 夫。システムエンジニア。論理的に物事を処理する人。愛情がないわけではない。ただ、愛情の形が、さおりとは根本的に違う。 - 村上 陽(むらかみ はる)
3歳。生後8ヶ月のときに重度の脳性麻痺と診断された。よく笑う。さおりの声を聞くと、体が動く。
三月の朝、さおりはオーブンの前にいた。
ケーキが焼けるまで、あと十分だった。
タイマーが静かに時を刻んでいた。
陽のそばにいながら、キッチンとリビングを何度も往復した。
陽はリビングのマットの上に寝ていた。
天井を見ていた。
天井の何かが、陽には見えているのかもしれなかった。
時々、声を上げた。
あ、とか、う、とかいう声だった。
さおりがその声に応えるたびに、陽の体が動いた。
手が、足が、少しずつ動いた。
「陽、今日で三歳だよ」とさおりは言った。
陽が声を上げた。
笑っているのか、それとも別の何かなのか、医師にはわからないと言われたことがあった。
さおりにはわかった。
笑っていた。
この子は笑う。
それだけは、二年間ずっと変わらなかった。
光一が出勤したのは、八時だった。
玄関で靴を履きながら、「今日だったな」と言った。
リビングのさおりに向かって言った。
陽を見なかった。
さおりは「うん」と返した。
それだけだった。
ドアが閉まった。
靴音が廊下を遠ざかって、消えた。
今日だったな。
さおりはその言葉を、台所で一人繰り返した。
「だったな」という言葉の温度を、確かめるように。
責めているのか、確かめているのか、自分でもわからなかった。
ただ、陽の誕生日は「だったな」で済む日ではないと、さおりには思えた。
思えたが、光一に言わなかった。
言っても、光一には伝わらない気がした。
伝わらないとわかっている言葉を、さおりはこの二年間、飲み続けてきた。
オーブンのタイマーが鳴った。
ケーキを焼き終えて、陽とリビングで過ごした。
リハビリの時間があった。
陽の腕をゆっくり動かした。
肘を曲げて、伸ばす。
膝を曲げて、伸ばす。
療法士に教わった順番通りに、毎朝繰り返してきた。
陽が声を上げると、さおりが応えた。
応えると、また声が来た。
その繰り返しだった。
昼に、陽が眠った。
さおりはケーキに小さなろうそくを三本立てた。
火をつけた。
炎が揺れた。
陽は眠っていた。
さおりは一人で「ハッピーバースデー」を口ずさんだ。
声に出さずに、口だけ動かした。
炎が揺れた。
窓から入った風で、一本だけ消えかけた。
また揺れて、戻った。
さおりは息を吹いた。
三本、消えた。
誰もいなかった。
静かだった。
陽の寝息だけが、部屋に聞こえた。
光一が帰ったのは、七時を過ぎていた。
玄関を入って、台所を見て、「上手に焼けたな」と言った。
ケーキを見て言った。
さおりは「ありがとう」と言った。
三人でテーブルに座った。
陽は椅子に固定された姿勢で、テーブルの前にいた。
光一がケーキを切った。
さおりが陽の分を少しだけ取り分けた。
柔らかく崩して、陽の口に運んだ。
陽が口を動かした。
飲み込んだ。
また声を上げた。
「よく食べるな」と光一が言った。
「うん」とさおりは言った。
ケーキを食べ終えて、陽が眠りかけた頃、光一が言った。
「そろそろ、話し合おう」
さおりは光一を見た。
「何を」と言った。
「陽のこと」と光一は言った。
わかっていた。
この言葉が来ることは、一週間前からわかっていた。
でも今日でなくてよかった、と思った。
陽の誕生日でなくてよかった、と思った。
でもそれは、声に出なかった。
テーブルの上に、ケーキの皿が残っていた。
ろうそくの跡が、クリームについていた。
三本分の、小さな跡だった。
コメント
言の葉を届けるには入隊するか里に入る必要があります。