登場人物
- 中村 さつき(なかむら さつき) 女性・34歳
主人公。スーパーのパートと夜の清掃業の掛け持ち。元夫とは3年前に離婚。感情を飲み込むことに慣れすぎている人。 - 中村 蓮(なかむら れん) 男性・6歳
息子。人懐っこくてよく笑う。母親の顔色を読むことを、少しずつ覚えてきている。
区の福祉窓口は、火曜日の午前中だけ空いていた。
パートの出勤前に寄った。
スーパーのエプロンをバッグに押し込んで、番号札を取って、プラスチックの椅子に座った。
待合室には私の他に、老いた男性と、赤ん坊を抱いた若い母親がいた。
赤ん坊が時々声を上げて、母親がその都度背中を叩いた。
規則正しい、やわらかい音だった。
番号を呼ばれて、窓口へ行った。
担当者は四十代くらいの女性だった。
「今日はどのようなご相談ですか」と言った。
声が穏やかだった。
私はその声を聞いて、一秒だけ迷った。
「子育て支援について、教えていただけますか」
そう言った。
里親に、息子を出すことはできますか。その言葉は、口の手前で止まった。
言葉にした瞬間に、私が「息子を手放す母親」になる気がした。
なってしまえばもう、引き返せない気がした。
だから違う言葉を選んだ。
自分でも気づかないくらい、自然に。
担当者は丁寧だった。
ひとり親家庭への給付金、保育料の減免制度、一時保護の仕組み。
資料を何枚か出して、一つずつ説明した。
私はメモを取った。
ボールペンで、担当者の言葉を書き写した。
窓口のカウンターは冷たかった。
蛍光灯が白く、眩しかった。
説明が終わると、担当者が「他に何かありますか」と言った。
ありました、と私は思った。
でも「大丈夫です」と言って、立ち上がった。
外に出ると、風が冷たかった。
メモを書いたノートをバッグに入れて、スーパーへ向かった。
歩きながら、書いた内容を思い返した。
給付金の金額。
申請の締め切り。
必要な書類。
全部正しかった。
全部、私が聞きたかったことではなかった。
翌週の火曜日、また番号札を取った。
同じ椅子に座って、同じ蛍光灯の下で待った。
今日は赤ん坊はいなかった。
待合室が静かだった。
自分の呼吸が聞こえた。
番号を呼ばれた。
窓口へ行った。
担当者は先週と同じ女性だった。
私のことを覚えているかどうか、わからなかった。
「今日はどのようなご相談ですか」と、また言った。
同じ声だった。
今度は一秒も迷わなかった。
「里親に、息子を出すことはできますか」
声に出したとき、泣くと思っていた。
でも泣かなかった。
ただ言葉が、口から出た。
それだけだった。
担当者は表情を変えなかった。
「はい、ご相談をお受けできます」と言って、新しい資料を出した。
その落ち着いた声が、私には有難かった。
驚かれたら、崩れていたかもしれなかった。
帰り道、私はコンビニに寄った。
肉まんを一個買った。
百円だった。
外に出て、立ったまま食べた。
湯気が顔に当たった。
生地が温かく、手のひらから熱が伝わってきた。
里親に出すことはできますか、と声に出した自分を、頭の中で確認した。
言えた。
言えてしまった。
勇気があったわけではなかった。
ただ限界だった。
限界になれば、人は言えるのだと、三十四年生きてきて初めて知った。
肉まんを食べ終えて、包みをゴミ箱に捨てた。
元夫にも言えなかった。
親にも言えなかった。
職場の誰にも言えなかった。
言えないまま削れてきた三十四年だった。
それが窓口の、あの蛍光灯の下で、初めて外に出た。
泣かなかったことが、怖いような気もした。
でも今は、怖いより先に、腹が温かかった。
それで、よかった。
今日は、それだけでよかった。
コメント
言の葉を届けるには入隊するか里に入る必要があります。