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合言葉を失った

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任務報告の型 : 根の呼吸:母ひとりの型

パートナーのいない状況で一人で子どもを里親に出すという決断を下した母親の記録。経済的・精神的・身体的な限界の中で誰にも頼れずに決断するしかなかった現実。母子家庭の実親が抱える固有の苦しみを記録することで同じ状況にいる人の孤独を和らげる。

任務報告

委託の朝、いい日だった。

目が覚めたとき、光が眩しすぎなかった。
体が重くなかった。
布団から出られた。
今日はいい日だ、とわかった。
わかって、少し泣きそうになった。
泣かなかった。
今日は泣く日ではなかった。
今日は、朝陽と朝食を作る日だった。

朝陽を起こしに行った。

部屋に入ると、朝陽はもう起きていた。
布団の上に座って、窓の外を見ていた。
私が入ってくると、振り返った。
笑った。
確認しなかった。
私の顔を見る前に、笑った。

「おはよう」と朝陽が言った。

「おはよう」と私は言った。
「一緒に作ろう」
朝陽が「うん」と言って、立ち上がった。

二人で台所に立った。

朝陽が卵を割った。
上手だった。
黄身が崩れなかった。
いつから上手になったのか、わからなかった。
でも上手だった。
私がほうれん草を切った。
朝陽が混ぜた。
二人で作った。

スクランブルエッグができた。

トーストと一緒に、テーブルに並べた。
二人で座って食べた。
朝陽が「おいしい」と言った。
私も食べた。
飲み込めた。
味がした。
卵の柔らかい味がした。
今日は最後の朝食だった。
でも最後だとは言わなかった。
ただ、食べた。

食べながら、朝陽が話した。

昨日、学校で理科の実験があったこと。
植物の種を植えたこと。
芽が出るのが楽しみだと言った。
私は「何の種」と聞いた。
「ひまわり」と朝陽が言った。
「ひまわりかあ」と私は言った。
「大きくなるよ」と朝陽が言った。
「なるね」と私は言った。

普通の朝だった。

普通の朝が、今日もあった。

担当者の車で、里親の家へ向かった。

朝陽が後部座席に座った。
窓の外を見ていた。
私は隣に座った。
車が動き出した。
町が流れた。
いつも通る道だった。
パン屋、郵便局、朝陽の通う小学校。
小学校の前を通ったとき、朝陽が少しだけ窓の方に顔を向けた。
何も言わなかった。
また前を向いた。

私は朝陽の横顔を見た。

ひまわりの種を植えた、と言っていた。
芽が出るのを楽しみにしていた。
その芽が出るころ、朝陽はここにいない。
誰が水をやるのか。
先生がやるかもしれない。
クラスの誰かがやるかもしれない。
朝陽が見られないかもしれなかった。

でも種は、植えた。

朝陽が植えた種が、土の中にあった。
それだけは、確かだった。

里親の家は、川の近くにあった。

緑の多い、静かな住宅街だった。
庭に、花壇があった。
色とりどりの花が咲いていた。
誰かが丁寧に育てた花だった。
担当者が車を止めた。

里親の夫婦が出てきた。

五十代の、穏やかな二人だった。
妻が朝陽に「来てくれてありがとう」と言った。
声が温かかった。
朝陽が少し照れた。
夫が「花、好きか」と言った。
花壇を指した。
朝陽が「きれいですね」と言った。
夫が「一緒に育てよう」と言った。
朝陽が小さく頷いた。

私はその会話を、少し離れて見ていた。

朝陽が花壇を見ていた。
色とりどりの花を、じっと見ていた。
ひまわりはまだなかった。
でも夏になれば、咲くかもしれなかった。
朝陽が育てた、学校のひまわりとは別の、ひまわりが。

玄関の前で、朝陽が私を見た。

「お母さん」と言った。

「なに」
「だめな日は、どうするの」
私は止まった。

だめな日。
朝陽がその言葉を使った。
いい日と、だめな日。
その区別を、朝陽はずっと知っていた。
知っていて、今日も使った。
だめな日の私を、心配していた。

「一人でいる」と私は言った。

正直に言った。
だめな日は、布団の中にいる。
一人でいる。
それが今までだった。

朝陽が「一人はだめだよ」と言った。

静かな声だった。
責めていなかった。
ただ、言った。
八歳が、母親に言った。
一人はだめだよ、と。

私は答えられなかった。

答えられないまま、朝陽の顔を見た。
朝陽が私を見ていた。
笑っていなかった。
でも怒っていなかった。
ただ、真剣な顔だった。
八歳の、真剣な顔だった。

「わかった」と私は言った。

朝陽が少し頷いた。
それから里親の妻の方を向いた。
妻が「入ろうか」と言った。
朝陽が頷いた。
歩き出した。
玄関のドアが開いた。
朝陽が中に入った。
一度だけ振り返った。
私を見た。
笑った。

確認しなかった。

私の顔を見る前に、笑った。
振り返って、そのまま笑った。
それだけだった。
ドアが閉まった。

花壇の花が、風に揺れた。

帰り道、私は担当者の車に乗らなかった。

「歩いて帰ります」と言った。
担当者が「大丈夫ですか」と言った。
「今日はいい日なので」と私は言った。
担当者が頷いた。

川沿いの道を歩いた。

水が流れていた。
五月の川だった。
光が水面に当たって、きらきらしていた。
風が吹いた。
温かかった。

スマホを取った。

川島さんの名前を探した。
電話をかけた。
呼び出し音が鳴った。
二回鳴って、川島さんが出た。

「松本です」と私は言った。
「朝陽を、送ってきました」
「そうですか」と川島さんが言った。
穏やかな声だった。
「今、どこにいますか」
「川の近くを、歩いています」
「一人ですか」
「一人です」と私は言った。
少し間を置いた。
「だめな日になったとき、電話してもいいですか」
川島さんが「もちろんです」と言った。
「いつでも」

電話を切った。

川が流れていた。
止まらずに、流れていた。
私は歩き続けた。

朝陽が「一人はだめだよ」と言った。
その言葉が、今日の私を動かした。
だめな日に一人でいることを、朝陽に心配させない。
そのための電話だった。
朝陽のための電話が、私のための電話でもあった。

今日は、まだいい日だった。

だめな日が来るかもしれなかった。
明日かもしれなかった。
来週かもしれなかった。
でもだめな日になっても、今日、電話番号を一つ持った。
川島さんの声が、電話口にあった。

だめな日も、もう一人ではなかった。

川沿いの道が続いていた。
光が水面に当たっていた。
風が吹いた。
五月の風が、温かかった。
私は歩いた。
どこまで歩くかは、決めていなかった。
でも今日は歩けた。
いい日の足が、川沿いを歩いていた。

朝陽が植えたひまわりが、今頃土の中にあった。

芽が出るのを、誰かが楽しみにしている。
朝陽が楽しみにしている。
その楽しみが、土の中にあった。
私には見えなかったが、そこにあった。

それだけが、今日の最後に、確かなことだった。

任務報告

話す日を、土曜日に決めた。

理由があった。
土曜日は朝陽が学校に行かない。
一日、一緒にいられる。
話すなら、一日の終わりがいいと思った。
朝に話して、朝陽が学校に行く後ろ姿を見送るのは、違う気がした。
話した後、一緒にいたかった。

その土曜日は、いい日だった。

朝、目が覚めたとき、体が重くなかった。
光が眩しすぎなかった。
布団から出られた。
今日はいい日だ、とわかった。
今日に決めていてよかった、と思った。
だめな日に、この話はできなかった。

朝食を、一緒に作った。

「何がいい」と朝陽に聞いた。
「ホットケーキ」と朝陽が言った。
ホットケーキは、時間がかかった。
でも今日は時間があった。
粉を量って、卵を割って、牛乳を入れた。
朝陽が混ぜた。
泡立て器で、真剣に混ぜた。
生地が滑らかになった。

フライパンに流した。

丸く広がった。
表面に気泡が出てきた。
ひっくり返した。
きつね色だった。
うまくできた。
朝陽が「きれい」と言った。
笑った。
私の顔を確認する前に、フライパンを見て笑った。

二枚、三枚と焼いた。

バターとメープルシロップを出した。
二人でテーブルに座って食べた。
甘かった。
温かかった。
朝陽が「おいしい」と言った。
私も食べた。
今日は飲み込めた。
喉が、ちゃんと動いた。

午後、一緒にテレビを見た。

朝陽が好きな動物の番組だった。
アフリカの草原で、チーターが走っていた。
朝陽が「速い」と言った。
「本当に速いね」と私は言った。
チーターが獲物を追いかけた。
朝陽が画面に近づいた。
私は「離れて見なさい」と言った。
朝陽が「はーい」と言って、少し戻った。

普通の午後だった。

普通の午後が、今日はあった。
こういう午後を、もっと作れていたらよかった。
でも今日は、あった。
今日あったことは、本当にあった。
それだけは、確かだった。

テレビが終わった。

夕飯を作った。
朝陽の好きなからあげにした。
油の温度を確かめながら、揚げた。
焦げなかった。
きつね色に、うまく揚がった。
二人で食べた。
朝陽が「おいしい」と言った。
三回、言った。

夕飯の片付けが終わってから、私はソファに朝陽を呼んだ。

「朝陽、ちょっといい」
朝陽が来た。
私の隣に座った。
テレビはついていなかった。
部屋が静かだった。
五月の夜だった。
窓の外で、どこかで虫が鳴いていた。

「話があるんだけど」と私は言った。

朝陽が私を見た。
笑っていなかった。
でも怖がってもいなかった。
ただ、聞く顔だった。

「朝陽に、新しいおうちに行ってほしいと思ってる」と私は言った。
「お母さんとは別の、別の大人の人のところへ」
朝陽が黙った。

私は続けた。
里親という制度のこと。
朝陽のことをちゃんと迎えてくれる家があること。
お母さんが元気になるための時間が必要なこと。
川島さんに教わった言葉を、自分の言葉に変えながら、話した。

朝陽がしばらく黙っていた。

膝の上に手を置いて、下を見ていた。
私は待った。
急かさなかった。
朝陽のペースを、待った。

「お母さんが治ったら、帰れる?」と朝陽が言った。

私は一秒、止まった。

治る、という言葉を、自分に使ったことが、あまりなかった。
治るかどうか、わからなかった。
主治医も、治る、とは言わなかった。
うまく付き合っていく、という言葉を使った。
でも朝陽は、治る、と言った。

「そうなるといいと思ってる」と私は言った。

嘘をつかなかった。
治る、と言えなかった。
でも治りたい、という気持ちは本物だった。
そうなるといいと思ってる、という言葉が、今の私に言える、一番正直な言葉だった。

朝陽が頷いた。
「わかった」と言った。

部屋が静かだった。

私は朝陽の横顔を見た。
朝陽が窓の外を見ていた。
虫の声がしていた。
五月の夜の、細い声だった。

「今日、いい日だったね」と朝陽が言った。

私は止まった。

朝陽が、いい日、という言葉を使った。
私が使う言葉を、朝陽も使っていた。
いい日と、だめな日。
その区別を、朝陽はずっと知っていた。
私が思っていた以上に、ずっと前から、知っていた。

「うん」と私は言った。
声が、震えそうだった。
震える前に、飲んだ。
「今日は、いい日だった」
「ホットケーキ、おいしかった」と朝陽が言った。

「うん」と私は言った。

「からあげも」
「うん」
朝陽が私を見た。
笑った。
確認しなかった。
私の顔を見る前に、笑った。
今日は何度も、確認しない笑顔があった。

私も笑った。

涙が出そうだったが、出なかった。
笑えた。
今日はいい日だった。
いい日の終わりに、この話ができた。
いい日に話したかった。
だめな日に話すより、いい日に話したかった。
それだけは、叶った。

任務報告

面談は、月に二回あった。

精神科の外来に、支援員の川島さんがいた。
四十代の、落ち着いた女性だった。
診察の前後に、三十分ほど話す時間があった。
私はいつも「大丈夫です」と言ってきた。
大丈夫ではなかった。
でも大丈夫と言うことで、自分を保ってきた。
大丈夫と言えば、大丈夫な人間でいられる気がした。
そう思ってきた。

五月の面談だった。

川島さんが向かいに座った。
部屋は小さかった。
窓が一つあって、外が見えた。
今日は曇っていた。
白い空だった。
川島さんが「最近、どうですか」と言った。

「先週、三日間、布団から出られませんでした」と私は言った。

川島さんが頷いた。
「三日間、朝陽くんはどうしていましたか」と言った。

朝陽のことを聞かれたのは、初めてだった。

「大丈夫です」と言おうとした。
言いかけた。
でも止まった。
朝陽のことを、大丈夫と言えなかった。
自分のことは大丈夫と言えた。
嘘でも言えた。
でも朝陽のことには、その言葉が出なかった。

「夕飯を、作ってくれました」と私は言った。
「朝陽が」
川島さんが少し間を置いた。
「作ってくれたんですね」と言った。

「はい。
いつからか、作れるようになっていて」私は続けた。
「気づいたら、そうなっていました。
私が教えたわけじゃなくて」
川島さんが頷いた。
「他に、気づいたことはありますか」と言った。

私は少し黙った。
今朝の朝陽の顔が、浮かんだ。
笑う前に、私の顔を見る。
確認してから、笑う。
その順番が、浮かんだ。

「笑う前に、私の顔を見るんです」と私は言った。

「朝陽くんが?」
「はい。
笑っていいかどうか、確認してから笑う。
今朝、初めて気づきました」
川島さんが黙った。
窓の外の白い空が、変わらずそこにあった。
私は川島さんの顔を見た。
川島さんは私を見ていた。
責めていなかった。
でも何かを、受け取っていた。

涙が出た。

止めようとしたが、出た。
出てしまってから、止めることを諦めた。
川島さんがティッシュを差し出した。
私は受け取った。
目を押さえた。
泣きながら、続けた。

「私が、そうさせたんだと思います。
だめな日の私を見て、覚えたんだと思う」
「そうかもしれません」と川島さんが言った。

否定しなかった。
でも責めなかった。
そうかもしれない、とだけ言った。

泣きながら、話した。

元夫と離婚してから、うつが悪化したこと。
一人で朝陽を育てながら、「大丈夫です」と言い続けてきたこと。
大丈夫ではない日を、朝陽に見せてきたこと。
見せながら、朝陽が変わっていくのを、気づかないふりをしてきたこと。

全部、川島さんの前で出てきた。

川島さんは黙って聞いた。
メモを取らなかった。
ただ、聞いた。
その聞き方が、川島さんらしかった。
急かさなかった。
まとめようとしなかった。
私が話すままに、受け取った。

泣き終えた。

ティッシュが、手の中でぐしゃぐしゃになっていた。
私はそれを握ったまま、川島さんを見た。

「由佳さんが気づいたこと、大事なことだと思います」と川島さんが言った。

大事なこと、という言葉が、部屋に残った。

責めではなかった。
慰めでもなかった。
ただ、大事なことだ、と言った。
気づいたことを、大事なことだと言った。
気づいてしまったことを、責められると思っていた。
自分でも責めていた。
でも川島さんは、大事なことだと言った。

「朝陽くんのために、何かできることを、一緒に考えませんか」と川島さんが言った。

私は頷いた。

「里親、という選択肢があります」と川島さんが言った。
「由佳さんが回復するための時間を、朝陽くんが安全な場所で過ごす、という考え方です」
里親、という言葉を、聞いたことはあった。
でも自分に関係のある言葉だとは、思っていなかった。
今日まで。

川島さんの声が、穏やかだった。

窓の外の空が、少し明るくなっていた。
白い雲が、動いていた。
私はそれを見た。
動いていた。
止まっていなかった。
雲は、止まらなかった。

面談室を出た。

廊下が明るかった。
蛍光灯の白い光が、廊下に続いていた。
私は歩いた。
泣いた後の顔が、まだ残っていた。
目が、腫れているかもしれなかった。
でも歩けた。

自分のことは嘘をつけた。

でも朝陽のことには、嘘をつけなかった。
その違いが、今日の私には大きかった。
嘘をつかなかったから、泣いた。
泣いたから、川島さんに聞いてもらえた。
聞いてもらえたから、里親という言葉が届いた。

順番があった。

嘘をつかないことが、最初にあった。
朝陽の顔が、笑う前に私の顔を見た、あの朝が、最初にあった。

外に出た。

曇っていた空が、少し変わっていた。
雲の隙間から、光が差していた。
五月の光だった。
眩しかったが、刺さらなかった。
今日は、まだいい日だった。

任務報告

三日後、いい日が戻ってきた。

目が覚めたとき、光が眩しすぎなかった。
体が、重くなかった。
布団から出られた。
それだけで、今日はいい日だとわかった。
いい日が三日ぶりに来た。
三日間、何ができたか。
布団にいた。
朝陽が作ったものを、少し食べた。
それだけだった。

台所に立った。

冷蔵庫を開けた。
卵があった。
ほうれん草があった。
朝陽の好きな卵焼きを作ろうと思った。
出汁を少し入れると、甘くなる。
朝陽が好きな甘さだった。
どこで覚えたか、わからなかった。
気づいたら、朝陽の好きな甘さを知っていた。

フライパンを熱した。

卵を溶いた。
出汁を入れた。
菜箸で混ぜた。
フライパンに流した。
端から巻いた。
うまく巻けなかった。
形が崩れた。
でも焼けた。
皿に乗せた。
三日ぶりに、朝食を作れた。

朝陽を起こしに行った。

部屋に入ると、朝陽はもう起きていた。
ベッドに座って、本を読んでいた。
私が入ってきた気配を感じて、顔を上げた。

笑った。

笑う前に、一瞬だけ私の顔を見た。
私の顔を確認してから、笑った。

私はその順番に、気づいた。

今まで気づかなかった。
でも今朝、気づいた。
笑う前に、私の顔を見る。
確認する。
お母さんは今日、いい日か。
笑っても大丈夫か。
それを確かめてから、笑っていた。

朝陽が「おはよう」と言った。

「おはよう」と私は言った。
声が、少しだけ遅れた。

台所に戻った。

卵焼きが皿にあった。
崩れた形のまま、あった。
トーストを焼いた。
牛乳をコップに注いだ。
朝陽が台所に来た。
椅子に座った。

「卵焼き」と朝陽が言った。
嬉しそうだった。

「形、崩れちゃった」と私は言った。

「いいよ」と朝陽が言った。
「おいしければ」
箸を取った。
一口食べた。
「おいしい」と言った。
笑った。

笑う前に、私の顔を見なかった。
卵焼きを見て、笑った。
今度は確認しなかった。
卵焼きが嬉しくて、確認する前に笑った。

私はそれを見た。

確認しない笑顔が、あった。
確認する笑顔と、確認しない笑顔が、朝陽には両方あった。
どちらが本当の笑顔か、ではなかった。
両方、本当だった。
でも確認する笑顔を、私が作らせていた。

トーストを手に取った。

食べようとした。
口に入れた。
噛んだ。
飲み込もうとした。
飲み込めなかった。
喉の手前で、止まった。

置いた。

朝陽が「どうしたの」と言った。

「ちょっと待って」と私は言った。
水を飲んだ。
冷たかった。
ゆっくり飲んだ。
喉が、少し動いた。

「食欲ない?」と朝陽が言った。

「少しだけ」と私は言った。

朝陽が頷いた。
それ以上聞かなかった。
また卵焼きを食べ始めた。
その引き下がり方が、八歳のものではなかった。
聞いて、引き下がる。
それをいつから覚えたのか。

私はもう一度、トーストを手に取った。

食べた。
今度は飲み込めた。
味がした。
バターの味がした。
焦げた端の、香ばしい味がした。
食べながら、朝陽の横顔を見た。

朝陽が食べ終えた。

「ごちそうさま」と言った。
皿を台所に持っていった。
水で軽く流した。
それも、いつから覚えたのかわからなかった。

ランドセルを背負って、玄関に向かった。

「行ってきます」と言った。
ドアを開けた。

「朝陽」と私は言った。

朝陽が振り返った。
「なに」
「おいしかった?」
朝陽が「うん」と言った。
笑った。
今度も、確認しなかった。
私の顔を見る前に、笑った。

ドアが閉まった。

一人になった台所で、私は椅子に座った。

朝陽の皿が、流しに伏せてあった。
きれいに流してあった。
卵焼きの皿も、重ねてあった。
八歳が、自分の食器を片付けた跡だった。

笑う前に、顔色を読む。

その順番を、今朝初めて正確に見た。
見てしまった。
見てしまったことで、もう知らないふりができなくなった。
知らないふりができなくなったことが、今朝の私には重かった。

重くなった体が、また「だめな日」に向かうかもしれなかった。

でも今日は、まだいい日だった。
いい日の朝に、見てしまった。
見てしまったことを、どこかへ持っていかなければならなかった。
一人で抱えていたら、また布団の中に沈む。

どこへ持っていくか。

答えは、まだなかった。
でも今日は、いい日だった。
いい日のうちに、考えなければならなかった。

任務報告

五月の朝、目が覚めたとき、体が軽かった。

軽い、というのは、正確ではないかもしれない。
ただ、重くなかった。
重くない朝が、私には「いい日」だった。
布団から出られる。
台所に立てる。
朝陽の顔を見られる。
それだけのことが、できる朝だった。

カーテンを開けた。

光が入った。
五月の光は、柔らかかった。
眩しすぎなかった。
「だめな日」の光は眩しすぎる。
同じ光なのに、体の状態によって違って届く。
今日の光は、ちょうどよかった。
それだけで、今日がいい日だとわかった。

台所に立って、朝食を作った。

卵を二個、割った。
フライパンに落とした。
白身が広がった。
黄身が、真ん中に収まった。
塩を少し振った。
パチパチと、油が跳ねた。
その音が、今朝は心地よかった。
「だめな日」はこの音が怖い。
音が、体に刺さる。
今日は刺さらなかった。

朝陽を起こした。

「朝陽、ご飯だよ」と言った。
朝陽が「んー」と言った。
しばらくして、起き上がった。
台所に来た。
目玉焼きを見て、「いい匂い」と言った。
椅子に座った。

二人で食べた。

朝陽が学校のことを話した。
昨日の体育で、ドッジボールをしたこと。
当たらなかったこと。
でも一回だけ、ボールを取れたこと。
私はそれを聞きながら、頷いた。
声が届いた。
朝陽の声が、今朝は届いた。

「行ってきます」と朝陽が言った。

「行ってらっしゃい」と私は言った。

ドアが閉まった。
私は一人になった。
今日はいい日だ、と思った。
このまま続けばいい、と思った。
続くかどうかは、わからなかった。

午後、仕事をした。

データ入力の仕事だった。
画面を見て、数字を打った。
集中できた。
「いい日」は集中できる。
「だめな日」は画面の文字が、意味を持たない記号に見える。
今日は意味があった。
数字が数字として見えた。

三時間、働いた。

疲れた。
でも働いた疲れだった。
「だめな日」の疲れとは、種類が違った。
働いた疲れは、少し気持ちよかった。

夕方、四時を過ぎたころだった。

急に、重くなった。

予告はなかった。
いつもそうだった。
「だめな日」は予告なく来る。
さっきまで軽かった体が、急に鉛になった。
画面の文字が、滲んだ。
椅子から立てなくなった。

布団に入った。

カーテンを閉めた。
部屋が暗くなった。
天井を見た。
白い天井が、遠かった。
体が沈んでいく感覚があった。
沈んでいく、というより、溶けていく感覚だった。

朝陽が帰ってくる時間が、頭にあった。

五時半。
もうすぐだった。
夕飯を作らなければならなかった。
でも動けなかった。
動けないことへの罪悪感が来た。
罪悪感が来ると、もっと動けなくなった。
そのことを、主治医に話したことがあった。
主治医が「罪悪感は症状の一つです」と言った。
症状だとわかっていても、罪悪感は来た。

玄関のドアが開く音がした。

「ただいま」と朝陽が言った。
「お母さん?」と言った。

「大丈夫」と私は言った。
布団の中から言った。
声が、かすれた。

朝陽が台所に行く音がした。

引き出しを開ける音がした。
冷蔵庫を開ける音がした。
何かを切る音がした。
包丁の音だった。
フライパンが火にかかる音がした。
油が温まる音がした。

私は布団の中で、その音を聞いていた。

朝陽が台所で、夕飯を作っていた。
八歳が、包丁を使っていた。
どこで覚えたのか、わからなかった。
いつから作れるようになったのか、正確にわからなかった。
気づいたら、そうなっていた。
気づかなかった自分が、布団の中で、重かった。

「ご飯できたよ」と朝陽が言った。

廊下から言った。
部屋のドアを開けずに言った。
起きられないなら起きなくていい、という気遣いが、その距離にあった。
八歳の気遣いだった。

嬉しかった。
悲しかった。
申し訳なかった。
全部が同時に来た。

どれが本当かは、わからなかった。
全部、本当だった。