うつ病の母親から里親委託へ4 治る、という言葉を、自分に使ったことが、あまりなかった。 治るかどうか、わからなかった
話す日を、土曜日に決めた。
理由があった。
土曜日は朝陽が学校に行かない。
一日、一緒にいられる。
話すなら、一日の終わりがいいと思った。
朝に話して、朝陽が学校に行く後ろ姿を見送るのは、違う気がした。
話した後、一緒にいたかった。
その土曜日は、いい日だった。
朝、目が覚めたとき、体が重くなかった。
光が眩しすぎなかった。
布団から出られた。
今日はいい日だ、とわかった。
今日に決めていてよかった、と思った。
だめな日に、この話はできなかった。
朝食を、一緒に作った。
「何がいい」と朝陽に聞いた。
「ホットケーキ」と朝陽が言った。
ホットケーキは、時間がかかった。
でも今日は時間があった。
粉を量って、卵を割って、牛乳を入れた。
朝陽が混ぜた。
泡立て器で、真剣に混ぜた。
生地が滑らかになった。
フライパンに流した。
丸く広がった。
表面に気泡が出てきた。
ひっくり返した。
きつね色だった。
うまくできた。
朝陽が「きれい」と言った。
笑った。
私の顔を確認する前に、フライパンを見て笑った。
二枚、三枚と焼いた。
バターとメープルシロップを出した。
二人でテーブルに座って食べた。
甘かった。
温かかった。
朝陽が「おいしい」と言った。
私も食べた。
今日は飲み込めた。
喉が、ちゃんと動いた。
午後、一緒にテレビを見た。
朝陽が好きな動物の番組だった。
アフリカの草原で、チーターが走っていた。
朝陽が「速い」と言った。
「本当に速いね」と私は言った。
チーターが獲物を追いかけた。
朝陽が画面に近づいた。
私は「離れて見なさい」と言った。
朝陽が「はーい」と言って、少し戻った。
普通の午後だった。
普通の午後が、今日はあった。
こういう午後を、もっと作れていたらよかった。
でも今日は、あった。
今日あったことは、本当にあった。
それだけは、確かだった。
テレビが終わった。
夕飯を作った。
朝陽の好きなからあげにした。
油の温度を確かめながら、揚げた。
焦げなかった。
きつね色に、うまく揚がった。
二人で食べた。
朝陽が「おいしい」と言った。
三回、言った。
夕飯の片付けが終わってから、私はソファに朝陽を呼んだ。
「朝陽、ちょっといい」
朝陽が来た。
私の隣に座った。
テレビはついていなかった。
部屋が静かだった。
五月の夜だった。
窓の外で、どこかで虫が鳴いていた。
「話があるんだけど」と私は言った。
朝陽が私を見た。
笑っていなかった。
でも怖がってもいなかった。
ただ、聞く顔だった。
「朝陽に、新しいおうちに行ってほしいと思ってる」と私は言った。
「お母さんとは別の、別の大人の人のところへ」
朝陽が黙った。
私は続けた。
里親という制度のこと。
朝陽のことをちゃんと迎えてくれる家があること。
お母さんが元気になるための時間が必要なこと。
川島さんに教わった言葉を、自分の言葉に変えながら、話した。
朝陽がしばらく黙っていた。
膝の上に手を置いて、下を見ていた。
私は待った。
急かさなかった。
朝陽のペースを、待った。
「お母さんが治ったら、帰れる?」と朝陽が言った。
私は一秒、止まった。
治る、という言葉を、自分に使ったことが、あまりなかった。
治るかどうか、わからなかった。
主治医も、治る、とは言わなかった。
うまく付き合っていく、という言葉を使った。
でも朝陽は、治る、と言った。
「そうなるといいと思ってる」と私は言った。
嘘をつかなかった。
治る、と言えなかった。
でも治りたい、という気持ちは本物だった。
そうなるといいと思ってる、という言葉が、今の私に言える、一番正直な言葉だった。
朝陽が頷いた。
「わかった」と言った。
部屋が静かだった。
私は朝陽の横顔を見た。
朝陽が窓の外を見ていた。
虫の声がしていた。
五月の夜の、細い声だった。
「今日、いい日だったね」と朝陽が言った。
私は止まった。
朝陽が、いい日、という言葉を使った。
私が使う言葉を、朝陽も使っていた。
いい日と、だめな日。
その区別を、朝陽はずっと知っていた。
私が思っていた以上に、ずっと前から、知っていた。
「うん」と私は言った。
声が、震えそうだった。
震える前に、飲んだ。
「今日は、いい日だった」
「ホットケーキ、おいしかった」と朝陽が言った。
「うん」と私は言った。
「からあげも」
「うん」
朝陽が私を見た。
笑った。
確認しなかった。
私の顔を見る前に、笑った。
今日は何度も、確認しない笑顔があった。
私も笑った。
涙が出そうだったが、出なかった。
笑えた。
今日はいい日だった。
いい日の終わりに、この話ができた。
いい日に話したかった。
だめな日に話すより、いい日に話したかった。
それだけは、叶った。
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