再婚と里親の間2 泣いていた。 声を殺して、泣いていた。 声を殺していたから、余計に聞こえた。
奈緒さんが来てから、一週間が過ぎた。
その間、遥は変わらなかった。
朝、起きてくる。
朝食を食べる。
学校へ行く。
帰ってくる。
夕飯を食べる。
部屋に戻る。
眠る。
その繰り返しだった。
私も変わらなかった。
学校へ行って、帰って、夕飯を作って、食べた。
二人の生活は、表面だけ見れば、何も変わっていなかった。
変わっていないことが、変わっているのかもしれなかった。
でも確かめる方法がなかった。
遥に「どうだ」と聞けなかった。
「何が」と聞き返されたら、答えられなかった。
体育教師として生徒に話しかけるときは、言葉が出た。
でも遥には、出なかった。
木曜日の夜だった。
私は風呂から上がって、廊下を歩いた。
遥の部屋の前を通った。
ドアが閉まっていた。
いつも閉まっている。
でもその夜は、ドアの隙間から光が漏れていた。
まだ起きていた。
音がした。
小さな音だった。
最初、何の音かわからなかった。
一歩、止まった。
もう一度、聞いた。
泣いていた。
声を殺して、泣いていた。
声を殺していたから、余計に聞こえた。
堪えている音が、ドアの隙間から漏れてきた。
私はドアの前に立った。
ノックしようとした。
右手を上げた。
ドアの前で、止まった。
何を言えばいいか、わからなかった。
「どうした」と言えば、遥が答える。
答えた内容によっては、私が選ばなければならなくなる。
奈緒さんのことだと遥が言ったとき、私は何を言えるか。
大丈夫だと言えるか。
奈緒さんとは終わりにする、と言えるか。
遥が一番大事だと言えるか。
言えるかどうか、わからなかった。
わからないまま、ドアをノックすることが、できなかった。
右手を下ろした。
廊下に立ったまま、しばらくいた。
遥の泣き声が、まだ聞こえていた。
堪えている、細い音だった。
十一歳が声を殺して泣く音だった。
私は自分の部屋に戻った。
ベッドに入った。
天井を見た。
白い天井だった。
暗くて、よく見えなかった。
遥の泣き声が、耳に残っていた。
実際にはもう聞こえなかった。
でも残っていた。
遥が泣いている理由は、わかっていた。
奈緒さんのことだった。
確かめたわけではなかった。
でもわかっていた。
四年間、二人で暮らしてきた。
遥の泣き方を、私は知っていた。
悔しくて泣くときと、寂しくて泣くときと、怖くて泣くときが、違った。
今夜の音は、怖くて泣く音に似ていた。
何が怖いのか。
変わることが怖いのか。
二人の生活が変わることが怖いのか。
それとも、変わった後に自分の居場所がなくなることが怖いのか。
答えを、私は知らなかった。
知らないまま、ドアを開けなかった。
開けられなかった。
開けた先に、自分がまだ用意できていない言葉が待っている気がした。
用意できていない言葉を、遥にぶつけたくなかった。
それは、遥のためだったのか。
自分のためだったのか。
今夜は、区別がつかなかった。
翌朝、遥が台所に来た。
髪が少し寝癖になっていた。
目が、微かに腫れていた。
でも私は言わなかった。
遥も言わなかった。
「おはよう」と遥が言った。
「おはよう」と私は言った。
トーストを焼いた。
二枚、焼けた。
バターを塗った。
二人でテーブルに座った。
遥がトーストをかじった。
私も食べた。
窓から朝の光が入った。
六月の光だった。
柔らかかった。
遥の横顔に、光が当たった。
目の腫れが、光の中でわかった。
私は味噌汁を飲んだ。
熱かった。
喉に落ちた。
二人とも、何も言わなかった。
昨夜のことを言わなかった。
言わないことで、何かが保たれた。
何が保たれたのか、今朝もわからなかった。
ただ、二人で朝食を食べた。
それだけが、今朝の確かなことだった。
遥が「行ってきます」と言った。
「行ってらっしゃい」と私は言った。
ドアが閉まった。
廊下に足音がした。
階段を降りる音がして、消えた。
私は一人で、残ったトーストを食べた。
冷めていた。
バターが固まっていた。
それでも食べた。
窓の外で、どこかで鳥が鳴いた。
六月の朝だった。
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言の葉を届けるには入隊するか里に入る必要があります。