父子家庭として子どもを育てる中で限界を感じ里親に出すことを決断した父親の記録。「父親だから弱音を吐けない」という孤独の中で抱え続けた苦しみ。父親の実親としての記録は特に語られる場所がなくここに刻む価値が高い。
再婚と里親の間4 その言葉を、私はしばらく考えた。 お父さんが好きならいい。 好きでいてもいい、ではなかった。
七月になった。
期末試験が終わって、学校が少し静かになった。
私の担当するクラスも、試験明けの緩んだ空気があった。
生徒たちがよく笑っていた。
私はそれを見ながら、遥はどうだろうと思った。
遥の試験が終わったかどうか、聞いていなかった。
帰り道、スーパーに寄った。
遥の好きなものを買おうとした。
何が好きだったか、考えた。
からあげ。
きゅうりの浅漬け。
プリン。
三つは出てきた。
四つ目が出てこなかった。
四年間、一緒に暮らしていて、四つ目が出てこなかった。
スーパーの蛍光灯の下で、かごを持ったまま、しばらく立っていた。
からあげの材料を買った。
夕飯を食べ終えてから、遥が部屋に戻ろうとした。
「遥」と私は言った。
遥が振り返った。
「なに」と言った。
「ちょっといいか」
遥が少し間を置いた。
「うん」と言った。
遥の部屋に入るのは、久しぶりだった。
本棚に本が並んでいた。
背表紙が、きれいに揃っていた。
几帳面に並べていた。
机の上に、教科書とノートがあった。
ベッドが、きちんと整えられていた。
十一歳の部屋だったが、私の部屋より整っていた。
遥がベッドに座った。
私は机の前の椅子に座った。
向かい合った。
「奈緒さんのこと、どう思う」と私は言った。
言ってしまってから、唐突だったと思った。
前置きがなかった。
でも前置きを探していたら、また言えなくなる気がした。
だから言った。
遥が黙った。
膝の上に手を置いて、下を見た。
私は遥を見た。
遥の手が、少し動いた。
指が、パジャマの生地をつまんだ。
離した。
またつまんだ。
沈黙が続いた。
私は待った。
急かさなかった。
体育の授業で、生徒が答えを探しているとき、待つことを覚えた。
待つことが、答えを引き出すことがある。
今夜も、待った。
「お父さんが好きならいいんじゃない」と遥が言った。
下を向いたまま言った。
私の顔を見なかった。
その言葉を、私はしばらく考えた。
お父さんが好きならいい。
好きでいてもいい、ではなかった。
拓海が好きなら、私は何も言わない。
拓海が決めることだから、私には関係ない。
そういう言葉だった。
十一歳が、場所を譲った言葉だった。
遥がいつ、その言葉を用意したのか。
夜泣きをしながら、用意したのかもしれなかった。
声を殺して泣きながら、父親に何か聞かれたときのために、用意した言葉かもしれなかった。
その想像が、胸に刺さった。
刺さったまま、抜けなかった。
「遥」と私は言った。
遥が顔を上げた。
「お前が、どう思うかを聞いてる」
遥がまた下を向いた。
指がパジャマをつまんだ。
「わからない」と言った。
今度は小さい声だった。
「そうか」と私は言った。
椅子から立とうとして、止まった。
立ったら、終わりになる気がした。
この部屋を出たら、また何も言えないまま戻る気がした。
だから座ったまま、もう少しいた。
「俺も、わからない」と私は言った。
遥が顔を上げた。
今度は私を見た。
「どうすれば正しいのか、わからない。
遥のこと、奈緒さんのこと、どっちも大事で、どっちが先かを決められない。
ずっとそのまま、動けなかった」
遥が黙っていた。
「だから今夜、聞いた。
お前に聞かないで、決めるのは、違う気がした」
部屋が静かだった。
本棚の本が、並んでいた。
外で、虫が鳴いていた。
七月の夜だった。
遥が膝の上の手を見た。
指が、パジャマをつまんでいた。
「お父さんは、奈緒さんのこと、好きなの」と遥が言った。
「好きだ」と私は言った。
「お前のことも、好きだ」
遥が「そっか」と言った。
それだけだった。
答えは出なかった。
でも今夜、遥と話した。
話せた。
それだけが、今夜の確かなことだった。
部屋を出る前に、私は遥に言った。
「夜泣いてるの、聞こえてた」
遥が固まった。
「ノックできなかった。
すまなかった」
遥はしばらく黙った。
それから「べつに」と言った。
でも声が、少し震えた。
私は部屋を出た。
廊下に出て、ドアを閉めた。
遥の部屋の前に、少しだけ立った。
中から音はしなかった。
泣いていなかった。
少なくとも今は、泣いていなかった。
それだけで、今夜は十分だった。
再婚と里親の間3 どちらが先かを決めると、どちらかを後回しにすることになる。 後回しにできる話ではなかった。
奈緒さんと会ったのは、金曜日の夜だった。
遥は同級生の家に泊まりに行っていた。
珍しいことだった。
遥が友達の家に泊まるのは、この一年で二度目だった。
奈緒さんと二人で会える夜が、自然にできた。
自然にできたことが、少し後ろめたかった。
後ろめたい理由を、うまく言えなかった。
駅の近くの、小さな居酒屋だった。
カウンターに二人で座った。
奈緒さんがビールを頼んだ。
私も同じものを頼んだ。
グラスが来た。
二人で飲んだ。
奈緒さんが「遥ちゃん、お泊まりなんだね」と言った。
「珍しいだろ」と私は言った。
奈緒さんが「友達がいるんだね」と言った。
笑った。
私も笑った。
笑いながら、遥の夜泣きを思い出した。
しばらく、仕事の話をした。
奈緒さんが担当している生徒のこと。
私が受け持っているクラスのこと。
話しやすい話題だった。
二人とも学校に勤めていた。
共通の話題が、自然に出てきた。
奈緒さんの話し方は、聞きやすかった。
声が穏やかで、言葉を選ぶ人だった。
料理が来た。
枝豆と、だし巻き卵と、焼き鳥が並んだ。
奈緒さんが「食べて」と言った。
私は箸を取った。
だし巻き卵を食べた。
柔らかかった。
出汁の味がした。
奈緒さんも食べた。
しばらく、食べながら話した。
「遥ちゃん、少しずつ慣れてくれるといいね」と奈緒さんが言った。
グラスを持ったまま、言った。
私を見ていた。
「そうだな」と私は言った。
奈緒さんが少し間を置いた。
「私、何か失礼なことしたかな」と言った。
グラスを置いた。
カウンターに目を落としながら言った。
私を見なかった。
聞きたくて聞いたのか、聞かずにいられなくて聞いたのか、わからなかった。
でもその言葉の中に、先週の夕飯からずっと抱えていたものがあった。
「そんなことない」と私は言った。
「料理、口に合わなかったかな」
「うまかったと思う」
「話しかけ方、変だったかな」
「そんなことない」
奈緒さんが「そっか」と言った。
でも顔が、晴れなかった。
私にはわかった。
そんなことない、という言葉が、答えになっていないことが、奈緒さんにはわかっていた。
わかっていて、これ以上聞かなかった。
帰り道、一人で歩いた。
奈緒さんとは駅で別れた。
奈緒さんが「また連絡する」と言った。
私は「ああ」と言った。
改札を入る奈緒さんの背中を見た。
小さくなって、消えた。
私は歩いた。
夜の道だった。
六月だから、風が生ぬるかった。
街灯が続いていた。
人が少なかった。
歩きながら、奈緒さんは悪くない、と思った。
何度思っても、遥の夜泣きが頭から消えなかった。
声を殺して泣いていた音。
廊下に立って、ノックできなかった夜。
翌朝、目が腫れていた遥の横顔。
それが、歩くたびに浮かんだ。
奈緒さんに、言えなかった。
遥が泣いていたことを。
廊下でノックできなかったことを。
翌朝、二人とも何も言わなかったことを。
全部、言えなかった。
言えば、奈緒さんが傷つく。
傷ついた奈緒さんが、遥との距離をもっと慎重に測り始める。
その慎重さが、遥にはもっと伝わらない。
わかっていた。
悪循環だとわかっていた。
でも言えなかった。
交差点で、信号が赤になった。
止まった。
車が通った。
ヘッドライトが、道を照らした。
通り過ぎた。
暗くなった。
信号が青になった。
歩いた。
今夜、私は誰に対しても正直になれなかった。
奈緒さんには「そんなことない」と言った。
遥には何も言えていない。
自分に対しても、何が正しいのかを決められずにいる。
体育教師として、生徒に正直でいることを教えてきた。
正直に話せ、と何度も言ってきた。
自分がいちばん、できていなかった。
アパートに帰った。
遥はいなかった。
部屋が静かだった。
いつもは遥がいる静けさと、いない静けさが、違った。
遥がいない静けさは、広かった。
広くて、少し寒かった。
私はソファに座った。
テレビをつけなかった。
静かな部屋に、一人でいた。
奈緒さんのこと、遥のこと、順番に考えようとした。
でも順番がつかなかった。
どちらが先かを決めると、どちらかを後回しにすることになる。
後回しにできる話ではなかった。
どちらも、大事だった。
どちらも大事だから、動けなかった。
考えるより動くはずの自分が、この問題だけは動けなかった。
ソファに座ったまま、夜が深くなった。
再婚と里親の間2 泣いていた。 声を殺して、泣いていた。 声を殺していたから、余計に聞こえた。
奈緒さんが来てから、一週間が過ぎた。
その間、遥は変わらなかった。
朝、起きてくる。
朝食を食べる。
学校へ行く。
帰ってくる。
夕飯を食べる。
部屋に戻る。
眠る。
その繰り返しだった。
私も変わらなかった。
学校へ行って、帰って、夕飯を作って、食べた。
二人の生活は、表面だけ見れば、何も変わっていなかった。
変わっていないことが、変わっているのかもしれなかった。
でも確かめる方法がなかった。
遥に「どうだ」と聞けなかった。
「何が」と聞き返されたら、答えられなかった。
体育教師として生徒に話しかけるときは、言葉が出た。
でも遥には、出なかった。
木曜日の夜だった。
私は風呂から上がって、廊下を歩いた。
遥の部屋の前を通った。
ドアが閉まっていた。
いつも閉まっている。
でもその夜は、ドアの隙間から光が漏れていた。
まだ起きていた。
音がした。
小さな音だった。
最初、何の音かわからなかった。
一歩、止まった。
もう一度、聞いた。
泣いていた。
声を殺して、泣いていた。
声を殺していたから、余計に聞こえた。
堪えている音が、ドアの隙間から漏れてきた。
私はドアの前に立った。
ノックしようとした。
右手を上げた。
ドアの前で、止まった。
何を言えばいいか、わからなかった。
「どうした」と言えば、遥が答える。
答えた内容によっては、私が選ばなければならなくなる。
奈緒さんのことだと遥が言ったとき、私は何を言えるか。
大丈夫だと言えるか。
奈緒さんとは終わりにする、と言えるか。
遥が一番大事だと言えるか。
言えるかどうか、わからなかった。
わからないまま、ドアをノックすることが、できなかった。
右手を下ろした。
廊下に立ったまま、しばらくいた。
遥の泣き声が、まだ聞こえていた。
堪えている、細い音だった。
十一歳が声を殺して泣く音だった。
私は自分の部屋に戻った。
ベッドに入った。
天井を見た。
白い天井だった。
暗くて、よく見えなかった。
遥の泣き声が、耳に残っていた。
実際にはもう聞こえなかった。
でも残っていた。
遥が泣いている理由は、わかっていた。
奈緒さんのことだった。
確かめたわけではなかった。
でもわかっていた。
四年間、二人で暮らしてきた。
遥の泣き方を、私は知っていた。
悔しくて泣くときと、寂しくて泣くときと、怖くて泣くときが、違った。
今夜の音は、怖くて泣く音に似ていた。
何が怖いのか。
変わることが怖いのか。
二人の生活が変わることが怖いのか。
それとも、変わった後に自分の居場所がなくなることが怖いのか。
答えを、私は知らなかった。
知らないまま、ドアを開けなかった。
開けられなかった。
開けた先に、自分がまだ用意できていない言葉が待っている気がした。
用意できていない言葉を、遥にぶつけたくなかった。
それは、遥のためだったのか。
自分のためだったのか。
今夜は、区別がつかなかった。
翌朝、遥が台所に来た。
髪が少し寝癖になっていた。
目が、微かに腫れていた。
でも私は言わなかった。
遥も言わなかった。
「おはよう」と遥が言った。
「おはよう」と私は言った。
トーストを焼いた。
二枚、焼けた。
バターを塗った。
二人でテーブルに座った。
遥がトーストをかじった。
私も食べた。
窓から朝の光が入った。
六月の光だった。
柔らかかった。
遥の横顔に、光が当たった。
目の腫れが、光の中でわかった。
私は味噌汁を飲んだ。
熱かった。
喉に落ちた。
二人とも、何も言わなかった。
昨夜のことを言わなかった。
言わないことで、何かが保たれた。
何が保たれたのか、今朝もわからなかった。
ただ、二人で朝食を食べた。
それだけが、今朝の確かなことだった。
遥が「行ってきます」と言った。
「行ってらっしゃい」と私は言った。
ドアが閉まった。
廊下に足音がした。
階段を降りる音がして、消えた。
私は一人で、残ったトーストを食べた。
冷めていた。
バターが固まっていた。
それでも食べた。
窓の外で、どこかで鳥が鳴いた。
六月の朝だった。
再婚と里親の間1 体育教師を十五年やってきた。 生徒の気持ちを読むのは、得意なはずだった。
六月の土曜日、奈緒さんが夕飯を持ってきた。
チキンのトマト煮込みだった。
鍋ごと持ってきた。
玄関で受け取ったとき、鍋が温かかった。
作りたてだった。
「遥ちゃんが食べられるか、わからなくて」と奈緒さんが言った。
「大丈夫です」と私は言った。
遥は自分の部屋にいた。
「遥、奈緒さん来たぞ」と廊下に向かって言った。
しばらくして、遥が出てきた。
「こんにちは」と言った。
奈緒さんが「こんにちは、遥ちゃん」と言った。
笑顔だった。
遥も笑った。
笑ったが、目が笑っていなかった。
私は気づいた。
気づいて、台所に向かった。
三人でテーブルに座った。
奈緒さんが持ってきたトマト煮込みと、私が作った味噌汁が並んだ。
奈緒さんが「いただきます」と言った。
三人で手を合わせた。
奈緒さんが遥に話しかけた。
「最近、学校どう?」
「普通です」と遥が言った。
「好きな授業ある?」
「国語です」と遥が言った。
「本が好きなんだね」
「はい」と遥が言った。
それだけだった。
遥は間違っていなかった。
質問に答えていた。
でも何かが続かなかった。
奈緒さんが話しかけるたびに、遥が短く答えて、止まった。
止まるたびに、奈緒さんが次の言葉を探した。
その繰り返しだった。
私は黙って食べた。
間に入れなかった。
入ろうとするたびに、何を言えばいいかわからなかった。
体育教師を十五年やってきた。
生徒の気持ちを読むのは、得意なはずだった。
でも今夜の遥と奈緒さんの間に、私は入れなかった。
食事が終わった。
遥が「ごちそうさまでした」と言って、自分の皿を台所に持っていった。
「部屋に戻ってていいか」と私に言った。
「ああ」と私は言った。
遥が廊下に消えた。
奈緒さんが片付けを手伝った。
「トマト煮込み、食べてくれてよかった」と奈緒さんが言った。
「ありがとう、うまかった」と私は言った。
奈緒さんが笑った。
でも少しだけ、疲れた笑顔だった。
気づかないふりをした。
気づいてしまったら、何か言わなければならない気がした。
奈緒さんが帰った。
玄関でドアが閉まった。
廊下が静かになった。
私は台所に戻って、残った皿を洗い始めた。
奈緒さんが持ってきた鍋を洗った。
丸い、赤い鍋だった。
奈緒さんの家の鍋だった。
スポンジで内側を洗った。
トマトの赤が、泡と混ざって流れた。
温かい水が、手に当たった。
うまくいかなかった、と思った。
誰が悪いわけではなかった。
奈緒さんは優しかった。
遥も失礼ではなかった。
料理も、会話も、全部正しかった。
でも温度がなかった。
三人のテーブルに、温度がなかった。
遥が奈緒さんを見るとき、何かを測るような目をしていた。
何を測っていたのか、私には読めなかった。
この人は信用できるか。
この人はここにいていい人か。
それとも別の何かを。
読めないまま、鍋を洗い続けた。
誰かが、この三人の中で場所を譲らなければならない。
その感覚が、温かい水の中で、静かに浮かんだ。
誰が譲るのか。
譲った人は、どこへ行くのか。
答えが出ないまま、鍋がきれいになった。
私は鍋を伏せて、水を止めた。
台所が静かになった。
遥の部屋から、物音がした。
本をめくる音か、椅子を引く音か、わからなかった。
ただ、遥がそこにいた。
今夜も、ここにいた。
それだけが、今夜の確かなことだった。