うつ病の母親から里親委託へ5 笑っていなかった。 でも怒っていなかった。 ただ、真剣な顔だった。 八歳の、真剣な顔だった
委託の朝、いい日だった。
目が覚めたとき、光が眩しすぎなかった。
体が重くなかった。
布団から出られた。
今日はいい日だ、とわかった。
わかって、少し泣きそうになった。
泣かなかった。
今日は泣く日ではなかった。
今日は、朝陽と朝食を作る日だった。
朝陽を起こしに行った。
部屋に入ると、朝陽はもう起きていた。
布団の上に座って、窓の外を見ていた。
私が入ってくると、振り返った。
笑った。
確認しなかった。
私の顔を見る前に、笑った。
「おはよう」と朝陽が言った。
「おはよう」と私は言った。
「一緒に作ろう」
朝陽が「うん」と言って、立ち上がった。
二人で台所に立った。
朝陽が卵を割った。
上手だった。
黄身が崩れなかった。
いつから上手になったのか、わからなかった。
でも上手だった。
私がほうれん草を切った。
朝陽が混ぜた。
二人で作った。
スクランブルエッグができた。
トーストと一緒に、テーブルに並べた。
二人で座って食べた。
朝陽が「おいしい」と言った。
私も食べた。
飲み込めた。
味がした。
卵の柔らかい味がした。
今日は最後の朝食だった。
でも最後だとは言わなかった。
ただ、食べた。
食べながら、朝陽が話した。
昨日、学校で理科の実験があったこと。
植物の種を植えたこと。
芽が出るのが楽しみだと言った。
私は「何の種」と聞いた。
「ひまわり」と朝陽が言った。
「ひまわりかあ」と私は言った。
「大きくなるよ」と朝陽が言った。
「なるね」と私は言った。
普通の朝だった。
普通の朝が、今日もあった。
担当者の車で、里親の家へ向かった。
朝陽が後部座席に座った。
窓の外を見ていた。
私は隣に座った。
車が動き出した。
町が流れた。
いつも通る道だった。
パン屋、郵便局、朝陽の通う小学校。
小学校の前を通ったとき、朝陽が少しだけ窓の方に顔を向けた。
何も言わなかった。
また前を向いた。
私は朝陽の横顔を見た。
ひまわりの種を植えた、と言っていた。
芽が出るのを楽しみにしていた。
その芽が出るころ、朝陽はここにいない。
誰が水をやるのか。
先生がやるかもしれない。
クラスの誰かがやるかもしれない。
朝陽が見られないかもしれなかった。
でも種は、植えた。
朝陽が植えた種が、土の中にあった。
それだけは、確かだった。
里親の家は、川の近くにあった。
緑の多い、静かな住宅街だった。
庭に、花壇があった。
色とりどりの花が咲いていた。
誰かが丁寧に育てた花だった。
担当者が車を止めた。
里親の夫婦が出てきた。
五十代の、穏やかな二人だった。
妻が朝陽に「来てくれてありがとう」と言った。
声が温かかった。
朝陽が少し照れた。
夫が「花、好きか」と言った。
花壇を指した。
朝陽が「きれいですね」と言った。
夫が「一緒に育てよう」と言った。
朝陽が小さく頷いた。
私はその会話を、少し離れて見ていた。
朝陽が花壇を見ていた。
色とりどりの花を、じっと見ていた。
ひまわりはまだなかった。
でも夏になれば、咲くかもしれなかった。
朝陽が育てた、学校のひまわりとは別の、ひまわりが。
玄関の前で、朝陽が私を見た。
「お母さん」と言った。
「なに」
「だめな日は、どうするの」
私は止まった。
だめな日。
朝陽がその言葉を使った。
いい日と、だめな日。
その区別を、朝陽はずっと知っていた。
知っていて、今日も使った。
だめな日の私を、心配していた。
「一人でいる」と私は言った。
正直に言った。
だめな日は、布団の中にいる。
一人でいる。
それが今までだった。
朝陽が「一人はだめだよ」と言った。
静かな声だった。
責めていなかった。
ただ、言った。
八歳が、母親に言った。
一人はだめだよ、と。
私は答えられなかった。
答えられないまま、朝陽の顔を見た。
朝陽が私を見ていた。
笑っていなかった。
でも怒っていなかった。
ただ、真剣な顔だった。
八歳の、真剣な顔だった。
「わかった」と私は言った。
朝陽が少し頷いた。
それから里親の妻の方を向いた。
妻が「入ろうか」と言った。
朝陽が頷いた。
歩き出した。
玄関のドアが開いた。
朝陽が中に入った。
一度だけ振り返った。
私を見た。
笑った。
確認しなかった。
私の顔を見る前に、笑った。
振り返って、そのまま笑った。
それだけだった。
ドアが閉まった。
花壇の花が、風に揺れた。
帰り道、私は担当者の車に乗らなかった。
「歩いて帰ります」と言った。
担当者が「大丈夫ですか」と言った。
「今日はいい日なので」と私は言った。
担当者が頷いた。
川沿いの道を歩いた。
水が流れていた。
五月の川だった。
光が水面に当たって、きらきらしていた。
風が吹いた。
温かかった。
スマホを取った。
川島さんの名前を探した。
電話をかけた。
呼び出し音が鳴った。
二回鳴って、川島さんが出た。
「松本です」と私は言った。
「朝陽を、送ってきました」
「そうですか」と川島さんが言った。
穏やかな声だった。
「今、どこにいますか」
「川の近くを、歩いています」
「一人ですか」
「一人です」と私は言った。
少し間を置いた。
「だめな日になったとき、電話してもいいですか」
川島さんが「もちろんです」と言った。
「いつでも」
電話を切った。
川が流れていた。
止まらずに、流れていた。
私は歩き続けた。
朝陽が「一人はだめだよ」と言った。
その言葉が、今日の私を動かした。
だめな日に一人でいることを、朝陽に心配させない。
そのための電話だった。
朝陽のための電話が、私のための電話でもあった。
今日は、まだいい日だった。
だめな日が来るかもしれなかった。
明日かもしれなかった。
来週かもしれなかった。
でもだめな日になっても、今日、電話番号を一つ持った。
川島さんの声が、電話口にあった。
だめな日も、もう一人ではなかった。
川沿いの道が続いていた。
光が水面に当たっていた。
風が吹いた。
五月の風が、温かかった。
私は歩いた。
どこまで歩くかは、決めていなかった。
でも今日は歩けた。
いい日の足が、川沿いを歩いていた。
朝陽が植えたひまわりが、今頃土の中にあった。
芽が出るのを、誰かが楽しみにしている。
朝陽が楽しみにしている。
その楽しみが、土の中にあった。
私には見えなかったが、そこにあった。
それだけが、今日の最後に、確かなことだった。
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