任務報告

ユイが「ちがう」と言ってから、一週間が経った。

その間、卵焼きの話は誰もしなかった。

ミオは毎朝違うものを作った。

スクランブルエッグ、目玉焼き、ふわふわのオムレツ。

どれもおいしかった。

ユイは毎朝きれいに食べた。

でも、あの遠い目をするときが、まだあった。

土曜の午後、ミオが仕事に出かけた。

家にユイと二人になった。

私はデスクで作業をしていたが、画面に集中できなかった。

リビングでユイが絵本を読んでいた。

ページをめくる音が、静かに聞こえた。

一時間くらい経ったころ、私はデスクを離れた。

リビングに行って、ユイの隣にそっと座った。

ユイが絵本から顔を上げた。

私を見た。

私は少し間をおいてから言った。

「前のおうちの卵焼き、どんな味だったか教えてくれる?」
ユイはすぐには答えなかった。

絵本を閉じて、膝の上に置いた。

窓の外を見た。

六歳の女の子が、何かを思い出そうとするときの顔をした。

「あまかった」
「甘かったんだね」
「うん。

それと、なんか、だしみたいなのも入ってた」
「だし巻き卵みたいな感じ?」
ユイが少し考えた。

「わかんない。

でもおいしかった」と言った。

それから小さく続けた。

「はしっこが、ちょっと焦げてた」
私は全部、日記帳に書き留めた。

甘い。

だしが入っている。

端が少し焦げている。

毎朝作っていた。

それだけだった。

でもユイが話してくれたことが、今日の私には十分すぎるほどだった。

「ありがとう、教えてくれて」と私は言った。

ユイはまた絵本を開いた。

それだけだった。

夜、ミオが帰ってきてから、書き留めたことを見せた。

ミオは読みながら「よし」と言って、スマートフォンでレシピを調べ始めた。

二十六歳の女が、カフェの仕事で疲れて帰ってきたのに、台所に立った。

私も隣に立った。

一回目は甘さが足りなかった。

二回目はだしが強すぎた。

三回目、ミオが卵液に砂糖をもう少し足して、火加減を少し弱めた。

焼き始めると、甘い匂いが台所に広がった。

巻き終わりの端が、少し焦げた。

ミオが「あ」と言いかけた。

私は「そのままにして」と言った。

皿に乗せて、二人で一口ずつ食べた。

「近いかも」とミオが言った。

私はまだ足りない気がした。

でも何が足りないのか、言葉にできなかった。

ユイの前の家庭の台所の温度も、その朝の光も、卵焼きを作っていた手の大きさも、私たちには永遠にわからない。

LGBTの同性愛カップルである私たちが里親としてこの子にできることと、できないことの境界線が、今夜の台所にはっきりと見えた。

でも近づこうとすることを、やめたくなかった。

日記を開いて、今夜のことを書いた。

最後にユイが話してくれた言葉を、もう一度書き写した。

あまかった。

だしみたいなのも入ってた。

はしっこが、ちょっと焦げてた。

この三行が、今夜の私たちの地図だと思った。

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朝食の途中だった。

カイがコップに手を伸ばしかけて、止まった。それからユキの方を見て、言った。

「ユキさん、これ取ってもらえる?」

ユキが「え、呼んだ?」と振り返った。一秒くらい、テーブルが静止した。

それからユキは「はいはい」と醤油を手渡して、また自分の味噌汁に戻った。それだけだった。

私は台所に立っていた。卵焼きを皿に移すところだった。手は動いていた。

夕方、ユキが洗濯物を畳みながら「カイ、今朝名前で呼んでくれたね」と言った。嬉しそうだった。

嬉しそうに言えるユキが、今日は少し遠かった。「そうだね」と私は言った。それ以上、何も言わなかった。

夜、日記を開いた。

今日、カイがユキさんと呼んだ。私はまだ、あの、だ。

それしか書けなかった。嫉妬じゃない、と思う。

でもそれが嫉妬じゃないなら、この胸のざらつきは何なのか。ユキが呼ばれたことは嬉しい。

本当に嬉しい。

ただ、嬉しいという気持ちの隣に、もう一つ別の気持ちが座っていて、それに名前をつけるのが怖い。

七年間、ユキと二人で暮らしてきた。里親になることを最初に言い出したのはユキだった。

私は半年悩んで、ユキの隣でようやく頷いた。あのときから、私はずっと半歩遅れている気がする。

ペンを置いて、天井を見た。

隣の部屋で、カイが寝返りを打つ音がした。

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試作を始めてから、二ヶ月が経った。

その間、ミオは何度も卵焼きを作った。

週に二回、三回のときもあった。

砂糖の量、だしの濃さ、火加減、巻くタイミング。

少しずつ変えながら、少しずつ近づこうとした。

ユイはそのたびに食べた。

「ちがう」とは言わなかった。

でも「おいしい」とも言わなかった。

ただ、食べた。

私はその背中を、毎朝見ていた。

八月の朝だった。

ミオが早番で、六時前に起きた。

私も一緒に起きて、台所でコーヒーを入れた。

夏の朝の空気は湿っていて、窓の外がまだ暗かった。

ミオがエプロンをつけて、卵を三つ割った。

砂糖、だし、醤油を少し。

いつもの順番だった。

フライパンを温めながら、ミオが「今日は弱火でゆっくりやってみる」と言った。

私は「うん」と言ってコーヒーを飲んだ。

卵液を流すと、じわりと広がった。

甘い匂いが立ちのぼった。

ミオが菜箸で端を持ち上げて、ゆっくり巻いた。

二巻き目に差しかかったとき、端がフライパンに当たった。

じゅっという音がした。

「あ、焦げた」
ミオが言いかけた。

私は台所の入口から見ていた。

そのとき、ユイが起きてきた。

寝癖のついた六歳の女の子が、目を細めながら台所を覗いた。

甘い匂いが漂っていた。

ミオがフライパンを傾けて、焦げた端を見せながら「焦げちゃったな」と言った。

ユイが卵焼きを見た。

「それでいい」
静かな声だった。

眠そうな、でも確かな声だった。

ミオが振り返ってユイを見た。

私も見た。

ユイはもう台所に背を向けて、洗面所に向かっていた。

水道の音がした。

朝食の間、誰もその話をしなかった。

ユイは焦げた端の卵焼きを、最初に食べた。

それから真ん中を食べた。

最後の一切れを食べ終えてから「おいしかった」と言った。

ミオが「よかった」と言った。

私は何も言えなかった。

喉の奥で何かが詰まっていた。

二十七歳の女が、六歳の子どもの「おいしかった」という一言で、言葉を失った。

LGBT、同性愛カップルとして里親になってから、うまくいかないことを数えてきた。

書類のこと、周囲の視線のこと、自分たちに足りないもののこと。

でも今朝の「おいしかった」は、そういうものを全部、静かに脇に置いた。

ユイが登校してから、日記を開いた。

今日書きたいことは、「それでいい」という言葉のことだった。

あの卵焼きは、前の家庭の味に完全に近づいたわけじゃないと思う。

私たちにはわからないけれど、たぶんまだちがうところがある。

でもユイは「それでいい」と言った。

諦めじゃないと思いたい。

この家の卵焼きを、この家の味として受け取り始めたということだと、思いたい。

LGBTの同性愛カップルが里親として完璧な家族を作ることは、たぶんできない。

でも「それでいい」と言ってもらえる場所には、なれるかもしれない。

今朝の台所が、そう教えてくれた気がした。

夕方、ミオから短いメッセージが届いた。

「今日、仕事中もずっとユイちゃんの顔が浮かんだ」
私は「私も」とだけ返した。

窓の外で、蝉が鳴いていた。

夏の午後の光が、台所の床に細長く伸びていた。

フライパンはもう洗われて、水切りかごに立てかけてあった。

端が少し黒くなっていた。

私はしばらくそれを見ていた。

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夕食が終わって、ユキが先に風呂に入った。

カイとリビングに二人で残った。特に話すこともなく、テレビがついていた。

刑事ドラマの再放送で、私は半分も見ていなかった。カイはソファの端に座って、膝を抱えていた。

委託から三ヶ月が経って、リュックはもうクローゼットにしまわれていた。

それだけのことが、今夜は少し嬉しかった。

CMになった。画面が明るくなって、音が変わった。

そのときカイが言った。

「サチさん、このドラマ好きなの?」

私は一瞬、聞き間違いだと思った。カイを見た。カイは画面を見たまま、何事もなかった顔をしていた。

七歳の横顔が、ブラウン管の光を受けて白く見えた。

「まあね」と私は言った。

声が少し低くなった。気づかれなかったと思う。カイは「ふうん」と言って、また画面に戻った。

ドラマが再開して、刑事が誰かを追いかけ始めた。

私はその画面を見ながら、さっきの三文字を、頭の中で何度か繰り返した。

サチさん。

サチさん。

風呂からユキの鼻歌が聞こえた。カイが小さくあくびをした。

時計が九時を回った。何も起きていない夜だった。

カイを寝かしつけてから、寝室で日記を開いた。ペンを持って、今日のことを書こうとした。

朝のこと、夕食のこと、ドラマのこと。でも全部、どうでもよかった。

一行だけ書いた。

今日、カイが私の名前を呼んだ。

それ以上書こうとすると、何か大切なものが崩れそうな気がした。

ペンを置いて、電気を消した。暗い天井を見ながら、もう一度だけ思った。

サチさん、と。

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成人した里子から連絡が来たのは、委託が終わって11年後のことだった。

SNSのメッセージだった。「元気ですか。あのときのことを、最近よく思い出します」。

それだけだった。返信を打ちながら、手が少し震えた。70文字にも満たないメッセージを読み返すのに、何分かかったか分からない。

里親をしていた頃のことを、夫婦でほとんど話さなくなっていた時期だった。

話さないのは忘れたからではなく、話すと何かが溢れてきそうで、そっとしておいた。そういう11年だった。

委託が始まったのは、自分たちが50代の頃だった。実の子どもは既に独立していて、夫婦二人の生活になっていた。

「まだ何かできることがあるかもしれない」という、定年前の静かな焦りのようなものがあった。

8歳の男の子が来た。小柄で、目が大きく、何かを確かめるようにこちらをよく見る子だった。

口数は少なかったが、観察眼が鋭かった。こちらが機嫌の悪い日は、遠くからそれを察して静かにしていた。

こちらが笑っていると、少し安心したような顔をした。

子どもが大人の感情を読むことに長けているとき、それはたいてい、読まなければならない環境にいたということだ。

その子がそういう子だと分かったとき、胸の奥で何かが動いた。

若い頃の子育てとは、明らかに違った。

小学校の運動会で一日外にいると、翌日は体が重かった。夜中に子どもが起きても、すぐに体が動かない。

気力はあっても、体がついてこない場面が想定より多かった。

それを子どもに悟られたくないと思っていた。しかし子どもはとっくに気づいていた。

ある日、重い買い物袋を黙って持ってくれた。「重そうだったから」と言った。8歳が言う言葉ではなかった。

その気遣いが、うれしいよりも切なかった。子どもに気を遣わせている、という事実が、しばらく頭から離れなかった。

年齢を重ねてから里親をすることの難しさは、体力だけではない。

自分たちが先に老いていくという現実が、子どもの将来と交差する場面がある。

「この子が成人する頃、自分たちはどうなっているのか」という問いを、50代の里親は若い里親より早く突きつけられる。

3年間の委託は、実親の状況が安定したことで終わった。

終わりが近づいてきたとき、子どもに何を伝えるべきか分からなかった。「また会えるよ」と言うべきか。

「元気でいてね」と言うべきか。何を言っても嘘になるような気がして、最後の日、結局「ご飯、ちゃんと食べるんだよ」とだけ言った。

子どもは「うん」と言った。それだけだった。

車で送り届けて、帰り道、夫婦どちらも口を開かなかった。家に帰って、子どもが使っていた部屋を見た。

布団だけが残っていた。片付ける気になれなくて、その日は閉めておいた。翌日も、その次の日も、しばらくそのままにしていた。

委託が終わってから、あの子は今どこで何をしているだろうという問いが、定期的に浮かんだ。

誕生日が近づくと思い出した。進学の時期になると思い出した。ニュースで子どもに関わる話題が出ると思い出した。

夢に出てきたこともあった。夢の中では、いつも8歳のままだった。

里親と里子の関係は、委託が終われば法的には何もない。連絡先を交換していたわけでもなく、会いに行く手段もなかった。

ただ祈るように、どこかで元気にしていることを願い続けた。それが11年間だった。

メッセージが来た日の夜、夫婦で長い時間話した。久しぶりに、あの3年間のことを声に出して話した。

あの子が今、19歳になっていること。自分たちのことを思い出してくれていたこと。

それだけで、11年間の問いが少し報われた気がした。「会いたいね」と夫が言った。自分も、そう思った。

その後、数回メッセージのやり取りをした。会うことはまだできていない。それでも、つながっていることが分かっただけで十分だと思っている。

年齢を重ねてから里親をすることには、若い頃とは違う困難がある。

体力の問題、将来の問題、子どもに気を遣わせてしまうかもしれないという問題。それは正直に認めた方がいい。

ただ、50代・60代にしか提供できないものもある。焦らない関わり方、人生経験から来る落ち着き、すでに子育てを経験した安心感。

若い里親家庭では難しい、「おじいちゃんおばあちゃんのような存在」として子どもの居場所になれることもある。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、「終わっても、終わらない」と伝えたい。

委託が終われば関係も終わると思っていた。しかし実際には、終わってからも子どものことを思い続ける時間が続く。

それは喪失ではなく、続いている何かだと、今は思っている。

11年後にメッセージが来た日、それが証明された。

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九月の終わり、ショウが学校から持ち帰ったプリントの束の中に、運動会の案内が混じっていた。

私はそれをダイニングテーブルで広げた。

「保護者席:お二人まで」という文字が、太いゴシック体で印刷されていた。

五十四歳の男が、その一行を二度読んだ。

夕食の片付けをしていたノブに見せると、五十二歳の男は「行くでしょ、当然」と言って、また皿を拭き始めた。

私たちが同性愛者であることを、ノブはいつもこうやって、問題の外に置く。

それが頼もしいときと、少し羨ましいときがある。

今夜は両方だった。

ショウに「運動会、行くよ」と伝えたのはノブだった。

八歳の男の子は、テレビを見たまま「来なくていいよ」と言った。

声に棘はなかった。

ただ、平らだった。

私はその平らさの底に何があるのか、夜の間ずっと考えた。

遠慮なのか。

恥ずかしいのか。

それとも、LGBTの里親二人が保護者席に並ぶことで、何か傷つくことが起きると、八歳がすでに計算しているのか。

答えは出なかった。

出ないまま、プリントに名前を書いた。

タカシ。

ノブ。

ペンを走らせながら、来てよかったのかどうか、まだわからないと思っていた。

当日の朝、ショウは七時前に家を出た。

私たちより一時間早かった。

玄関で靴を履きながら、こちらを一度も見なかった。

扉が閉まって、足音が階段を降りていく音を、私はダイニングで聞いていた。

会場に着くと、校庭はもう家族連れで埋まっていた。

秋の日差しが白く、運動場の砂が光っていた。

どこかで焼きそばを作る匂いがした。

母親と父親のペアが、シートを広げてお茶を注いでいた。

入口で受付の係員に声をかけられた。

「お子さんのお名前は?」

「篠原ショウです」

係員はリストを指で辿った。

私は息を止めていた。

「篠原ショウくんですね、どうぞ」

それだけだった。

係員は次の家族に向き直った。

私は五十四年生きてきて、他人にそう言ってもらうことを、こんなに待っていたのかと思った。

同性愛者である私たちが、誰かの保護者として受け付けに名前を呼ばれる。

それだけのことに、足が少し震えた。

ノブが隣で「いい天気だな」と言った。

空を見上げていた。

私たちは並んで保護者席に向かった。

五十四歳と五十二歳の男が、秋の校庭を歩いた。

周囲からいくつかの視線を感じた。

感じながら、歩いた。

来てよかったのかどうか、まだわからなかった。

でも今日、ここに席がある。

それだけは確かだった。

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不妊治療を始める前から、里親という選択肢は頭の片隅にあった。

治療をやめる少し前から、インターネットでより具体的に調べるようになった。

治療と並行しながら、もう一つの道を静かに探り続けていた時期だった。

動き出すまでの最大のためらいは、将来への問いだった。

もし里子を迎えた後に、自分の子どもを授かることになったとしたら。そのとき、里子と実の子を同じ愛情で接することができるのか。

自分だけでなく、夫も無意識に実の子を贔屓してしまうのではないか。

その問いは、里親になりたいという気持ちとぶつかり続けた。答えが出ないまま、時間だけが経っていった。

背中を押したのは、夫の一言だった。「大丈夫だよ」。それだけだった。理屈でも、根拠でもなかった。それでも、その言葉が一番の後押しになった。

子どもが来て最初に感じたのは、拍子抜けするような戸惑いだった。

想像していたより、ずっと手がかからなかった。

子どもはもっとわがままを言うものだというイメージがあったから、その静かさが逆に不安を呼んだ。

本当に大丈夫なのかと思った。自分の気持ちをほとんど口にしない。感情が表に出てこない。

こちらが何を考えているのか分からず、どう接すればいいのか戸惑いが続いた。

「良い子すぎる」という状況は、一見問題がないように見えるが、別の難しさを抱えている。

感情を表に出すことを、何らかの理由で抑えてきた子どもに、どうやって安心して気持ちを出せる環境をつくるか。それが最初の課題になった。

一番しんどかったのは、感情を読み取れないまま「何をしていけばいいのか」が分からなくなったときだった。

夫に相談しても、「そのうちどうにかなる、時間の問題だよ」という答えが返ってきた。

楽観的すぎて、真剣に向き合ってもらえていないと感じた。友人には、この状況をうまく説明できなかったし、なんとなく相談しにくかった。

周りに同じような経験をしている人もいなかった。

孤独だった。子どものことで悩んでいるのに、その悩みを話せる相手がいない。この孤立感が、しんどさの核心にあった。

里親として困難な状況にあるとき、同じ経験を持つ里親仲間や支援機関の存在が助けになることがある。

しかしその存在を知っていても、疲れ切っているときにはなかなかたどり着けない。

「相談できる場所を先に確保しておく」ことの重要さを、この時期に身をもって感じた。

関係が変わったと感じたのは、外出先での出来事だった。

それまで、わがままを言ったり怒ったりというマイナスの感情をほとんど出さなかった子どもが、その日は帰りたくないと駄々をこねた。大きな声を出した。

普通に考えれば、困った場面だ。しかしそのとき、うれしいと思った。感情を出してくれた。

我慢しなくていいと思ってくれた。この場所で、自分の気持ちを出せるようになってきた。そう感じた瞬間だった。

近所への説明は、引っ越しという形で自然に解消した。新しい土地では、一般的な家庭として受け取られた。

詮索されることなく生活できたことで、子どもにとっても余計な視線のない環境が保てた。

職場には、話しておくべき人と、迷惑をかける可能性のある人にだけ伝えた。

全員に説明する必要はないと判断し、必要最小限の範囲で理解を得た。

里親を考えている人に、最も伝えたいことは時間軸の話だ。

子どもは小さいときだけではない。いつか自分と同じ年齢になり、それ以上に育つ。

その長い時間を、本当にイメージできているか。

今の気持ちだけでなく、10年後、20年後の自分と子どもの関係まで想像してから判断してほしい。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、「もう少し考えるのもありかな」と伝えたい。

前向きな気持ちは大切だ。しかし長い時間軸で自分に問いかける時間を、もう少し丁寧にとってもよかったかもしれないと、今は思う。

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土曜日の夕方、三人でスーパーに行った。

パートナーが「お菓子、一個だけ選んでいいよ」と言うと、彼女は少しだけ顔を上げた。

お菓子売り場の前で、二人が並んで棚を眺めていた。

彼女がグミを手に取って、パートナーに見せた。

パートナーが「それ美味しいよね」と言うと、彼女は小さく笑った。

私はカートを押しながら、その横顔を見ていた。

笑うんだ、と思った。

家に帰って、夕食の準備をしながらリビングを見ると、パートナーと彼女がソファで肩を並べてテレビを見ていた。

彼女がパートナーの腕に少しだけ寄りかかっていた。

パートナーは気づいていないのか、そのままバラエティ番組を笑って見ていた。

私はにんじんを切った。

まな板の音が、やけに大きく聞こえた。

夕食のあと、パートナーが洗い物をすると言った。

珍しかった。

「いいよ」と言ったら「たまにはやる」と笑って、蛇口をひねった。

彼女はもう自分の部屋に入っていた。

リビングに私一人が残された。

ソファに座って、さっき彼女が寄りかかっていた場所をぼんやり見た。

なぜパートナーには笑うのか。

なぜ私には笑わないのか。

毎日ごはんを作っているのは私だ。

送り迎えをしているのも、夜中に熱を測ったのも、お弁当を作ったのも。

里親としての実務を、ほとんど私が担っている。

パートナーは仕事が忙しいから、という理由で。

最初からそういう役割分担だったから、という理由で。

でも彼女が笑いかけるのは、パートナーのほうだ。

水の音がキッチンから聞こえていた。

皿が重なる音。

パートナーが鼻歌を歌っていた。

その音が、じわじわと耳の奥に入り込んできた。

「ねえ」と私は言った。

「ん?」

「なんで私には笑わないんだろう、あの子」

パートナーが振り返った。

泡のついた手のまま、少し考えるような顔をした。

「そう? 気のせいじゃない?」と言った。

気のせい。

また、その言葉だった。

「気のせいじゃないと思う」と私は言った。

声が少し硬くなった。

自分でもわかった。

「じゃあ、もっと一緒に遊んであげれば?」
その一言で、何かが切れた。

遊んであげれば。

私がやっていることは全部、家事と世話で、それは「遊び」じゃないから数に入らないということか。

LGBTのカップルが里親になるとき、支援員さんに「役割を決めすぎないように」と言われた言葉を、今さら思い出した。

同性愛のカップルには「どちらが母親か」という外からの問いが来ることがある、だから内側では対等でいてほしい、と。

対等。

今の私たちが、対等に見えるだろうか。

口論は長くなかった。

パートナーが「ごめん、言い方が悪かった」と言って、それで終わった。

私も「こっちこそ」と言った。

仲直りの形をした、終わり方だった。

夜、布団の中で目を開けたまま天井を見ていた。

怒りの本当の理由が、里子なのか、パートナーなのか、それとも里親になると決めた自分自身なのか、もうわからなかった。

ただ胸のあたりに、冷たくて重いものが、ずっと乗っかっていた。

隣でパートナーの寝息が聞こえた。

規則正しい、穏やかな音だった。

私はそれを聞きながら、まだ目を閉じられなかった。

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その日のハナは、玄関を開けた瞬間からちがった。

私は台所に立っていたから、顔は見えなかった。

ただ、ランドセルを下ろす音がいつもより重く、廊下を歩く足音が短かった。

ソウはまだ帰っていない。

家の中に、私とハナの二人だけの静けさがあった。

「おかえり」と私は言った。

「……うん」とハナは言った。

それだけだった。

リビングに来たハナは、ソファに座ってランドセルを膝の上に抱えたまま、テレビもつけずにいた。

私はちらりと横目で見て、それから野菜を切る作業に戻った。

包丁がまな板を叩く音が、妙に大きく響いた。

「手、洗ってきな」と私は言った。

ハナは黙って立ち上がった。

夕食の間、ソウが場を持たせようとした。

今日あった仕事の話、駅前に新しくできたパン屋の話。

ハナは短く相槌を打つだけで、箸があまり進まなかった。

肉と玉ねぎだけ食べて、じゃがいもを残した。

いつもは残さないのに、と私は思ったが、何も言わなかった。

食事が終わると、ハナは「ごちそうさまでした」と言って自分の部屋に戻った。

足音が廊下を遠ざかっていって、ドアが静かに閉まった。

ソウが小声で「どうしたんだろう」と私を見た。

私は首を振った。

皿を洗いながら、私はハナの残したじゃがいもを思い出していた。

ラップをかけて冷蔵庫にしまうとき、何か声をかけるべきだったか、と一度だけ考えた。

でも言葉が出てこなかった。

出てこないまま、冷蔵庫のドアを閉めた。

水道を止めると、家の中がしんとした。

ハナの部屋の電気だけが、廊下の隙間から細く漏れていた。

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冬になった。

ショウが「タカシさん」と呼んだのは、十二月の平日の朝だった。

特別な日ではなかった。

私が台所で味噌汁を温めていると、背中から声がした。

「タカシさん、これどこに置けばいい?」
振り返ると、ショウが昨夜の洗い物を両手で持って立っていた。

コップが二つ。

自分から片付けようとしたらしかった。

私は「そこの棚」と言いながら、声が少し低くなったのを自分で気づいた。

気づかれなかったと思う。

ショウは「うん」と言ってコップを棚にしまい、ランドセルを取りに自分の部屋へ戻っていった。

それだけだった。

味噌汁をよそいながら、私はしばらく動けなかった。

五十四年間、自分の名前を呼ばれることに、これほど重さを感じたことはなかった。

この子に名前を呼ばれることを、知らないうちに待っていた。

そのことに、呼ばれてから初めて気づいた。

その月の終わり、ショウが熱を出した。

夕方から顔が赤く、夕食をほとんど食べなかった。

体温計を持ってくると、三十八度七分。

ノブはその夜、学校の会議で遅かった。

私一人で、ショウの看病をした。

濡れたタオルを額に当てると、ショウの眉がわずかに緩んだ。

布団の中で小さくなっている八歳を見ながら、私はこの子が家に来てから初めて、自分がこの子の「誰か」になりつつあると思った。

建築の図面を引くような確かさではない。

もっと頼りない、でも確かな感覚だった。

夜中に二度、体温を測った。

三十九度を超えたとき、私は冷却シートを取り替えながら、ショウの寝顔を見た。

苦しそうに眉を寄せて、それでも静かに呼吸していた。

この子はいつも、苦しいときに声を出さない。

運動会の朝も、熱の夜も。

朝方、体温が三十七度台に下がった。

ショウが薄く目を開けた。

天井を見て、それから私を見た。

「タカシさん、ありがとう」
かすれた声だった。

私は「うん」と言って、額のシートを取り替えた。

それ以上何も言わなかった。

言えなかった。

ありがとうと言われることへの返し方を、この子の前では、まだ練習中だ。

ノブが帰ってきたのは、それから一時間後だった。

五十二歳の男は玄関で靴を脱ぎながら「どうだった」と聞いた。

私は「熱、下がった」とだけ言った。

その夜、ショウが寝てから日記を開いた。

今夜書きたいことは一つだけだった。

名前を呼ばれることの意味を、五十四歳になって、八歳の子どもに教わっている。

それだけだ。

それだけのことが、今夜の台所を、少し温かくした。

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九月になると、また運動会のプリントが届いた。

去年と同じ書式で、同じゴシック体で「保護者席:お二人まで」と書いてあった。

私はそれをテーブルに置いた。

去年はこの一行を二度読んだ。

今年は一度だけ読んで、ペンを取った。

ショウが自分から言ったのは、その翌朝の朝食の席だった。

トーストを食べながら、ショウが私の方を見た。

ノブではなく、私を。

「タカシさん、来てほしい」
それだけだった。

九歳の男の子が、こちらを見たまま、ひと言だけ言った。

私は「わかった」と言って、プリントに名前を書いた。

タカシ。

ノブ。

去年と同じ二つの名前。

でも今年は、ペンを持つ手が震えなかった。

当日の朝は曇りだった。

運動場の砂が、去年より湿って暗く見えた。

保護者席に向かいながら、ノブが「去年と同じ場所に座るか」と言った。

私は「どこでもいい」と言った。

本当にどこでもよかった。

去年は席を探しながら周囲の視線を数えていた。

今年はそれをしていない自分に、歩きながら気づいた。

五十四歳と五十二歳の男が並んで保護者席に座った。

同性愛者である私たちを、じろじろ見る人もいた。

見ないふりをする人もいた。

去年と変わらない景色だった。

でも去年と違ったのは、私がそれをほとんど気にしていなかったことだ。

プログラムを膝に置いて、校庭を見ていた。

徒競走が始まった。

スタートラインにショウが並んだ。

白い帽子、去年と同じ。

でも背が少し伸びていた。

ピストルが鳴る前、ショウが保護者席を見た。

私たちを探していた。

目が合うと、ショウは小さくうなずいた。

私もうなずいた。

ピストルが鳴った。

ショウはまた速かった。

最初の数歩で前に出て、そのまま誰にも抜かせなかった。

ゴールテープを切った瞬間、ショウが振り返った。

去年は一瞬だけ保護者席を見てすぐに視線を外した。

今年は違った。

真っ直ぐこちらを見て、小さく手を振った。

私は手を振り返した。

五十四歳の男が、大勢の保護者の前で、九歳の男の子に向かって手を振った。

LGBTの里親として、この場所に座っていることへの迷いは、あの瞬間どこかへ消えていた。

ノブが隣で「よし」と短く言った。

それだけだった。

それで十分だった。

帰り道、三人で並んで歩いた。

去年は言葉が見つからなくて黙って歩いた。

今年は何を話せばいいか、少しだけわかった。

「速かったな」と私は言った。

ショウは「うん」と言った。

それから少し間をおいて「来年も来て」と言った。

私は「来るよ」と言った。

ノブが「俺も来るぞ、当然」と割り込んだ。

ショウが笑った。

口を開けて、声を出して笑った。

九歳の顔が、秋の曇り空の下で明るかった。

私はその笑顔を、正面から見た。

去年の運動会から一年かけて、ようやく正面から見られた気がした。

家に帰ってから、日記を開いた。

去年の同じ日のページを探した。

「来てよかったのかどうか、まだわからなかった」と書いてあった。

五十四歳の自分の字が、今夜は少し遠く見えた。

今年は短く書いた。

手を振り返した。

それだけで、今年は十分だ。

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三月の朝は、光が薄かった。

ショウの部屋から荷物が出ていくのを、私は一週間かけて少しずつ見ていた。

段ボールが一箱、二箱と廊下に並んで、部屋の中が白くなっていった。

八年間この家で暮らした男の子が、四月から県外の大学に進む。

十八歳になったショウは、私の肩を少し超えた。

いつの間にか、という言葉の意味を、今週は何度も思った。

出発の朝、私は六時に起きた。

台所に立って、卵焼きを焼いた。

ショウが小学校の低学年のころから好きだった味付けで、少し甘めにした。

味噌汁は豆腐と油揚げ。

白いご飯を三人分よそって、テーブルに並べた。

五十四歳の男が、十八年間誰かのために作ることのなかった朝食を、この子のために八年間作り続けた。

今朝が最後だと思うと、卵を溶く手が少しだけ遅くなった。

ノブが起きてきたのは六時半だった。

五十二歳の男は台所を覗いて「卵焼きか」と言った。

私は「ショウの好きなやつ」と言った。

ノブは「そうだな」と言って、冷蔵庫から牛乳を出した。

それだけだった。

それだけで、今朝の台所は十分だった。

ショウが起きてきたのは七時前だった。

寝癖がついたまま椅子に座って、味噌汁を両手で持った。

湯気が顔にかかって、ショウが少し目を細めた。

ノブがすぐに話しかけた。

大学の近くにいい定食屋があるらしいとか、引っ越し先の最寄り駅に銭湯があるとか、会いに行くときは連絡しろとか。

五十二歳の男は今朝もよくしゃべった。

ショウはよく笑った。

私は黙って卵焼きを食べた。

朝食が終わって、三人で片付けた。

ショウが自分の皿を洗った。

家に来た最初の夜、誰に言われるでもなく皿を台所に運んできた八歳を思い出した。

あの子がこんなに大きくなった。

その事実が、今朝は胸の奥に静かに落ちた。

玄関でショウがリュックを背負った。

段ボールは昨日、業者が運んでいった。

今朝のショウの荷物は、高校入学のときより少なかった。

それだけ向こうに根が張ったということだと、私は思った。

ノブが「元気でな」と言って、ショウの肩を一度叩いた。

ショウが「うん」と言った。

私はショウの前に立った。

何を言うべきか、昨夜からずっと考えていた。

気をつけろとか、困ったら連絡しろとか、体に気をつけろとか。

全部、正しかった。

全部、足りなかった。

「元気でな」と私は言った。

ノブと同じ言葉になった。

でもそれでよかった。

ショウは「うん」と言った。

それから少し間をおいて、私を見たまま言った。

「タカシさんも」
続けて「ノブさんも」と言った。

扉が開いて、冷たい三月の空気が入ってきた。

ショウが外に出た。

階段を降りる足音が聞こえた。

軽かった。

迷いのない足音だった。

扉が閉まって、足音が遠ざかって、やがて聞こえなくなった。

ノブが「行ったな」と言った。

私は答えなかった。

台所に戻って、三枚の皿を洗った。

お湯が手に当たって、白い湯気が上がった。

最後の一枚を拭きながら、今夜の日記に何を書くか考えた。

運動会のこと、熱の夜のこと、名前を呼ばれた朝のこと。

八年分のことが、今朝の台所に静かに重なっていた。

でも今夜書くことは、たぶん一行だけだ。

窓の外で、三月の風が鳴った。

この子は自分の足で出ていった。

それだけで、八年間は十分だった。

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六月の夜は、蒸し暑かった。

ユイが玄関に立ったとき、私は靴を揃えることしかできなかった。

六歳の女の子は、花柄のボストンバッグを両手で抱えて、部屋の中を見ていた。

見ているというより、測っていた。

この場所が安全かどうかを、小さな目で静かに確かめていた。

「入って入って、靴脱いでいいよ」

ミオが膝をついて目線を合わせた。

二十六歳の女が、初めて会う子どもにそうやって笑えることを、私は七年間隣で見てきた。

私にはできない。

二十七歳になった今も、できない。

ユイはゆっくり靴を脱いで、部屋に入った。

夕食はミオが作った。

鶏の照り焼き、きゅうりの浅漬け、豆腐の味噌汁。

ミオはカフェの店長をしながら料理の腕を磨いてきた。

今夜は特別に力が入っていた。

醤油とみりんの匂いが部屋に満ちて、私はその匂いを嗅ぎながら、テーブルを拭いた。

三人で食卓を囲んだ。

ミオがよくしゃべった。

好きな食べ物のこと、近くに川があること、週末に一緒に行けたらいいねということ。

ユイは短くうなずいた。

箸はほとんど動かなかった。

照り焼きを一口、味噌汁を二口。

それだけだった。

食後、ミオが皿を重ねていると、ユイが言った。

「前のおうちのごはん、食べたい」
台所の水音が止まった。

ミオがユイを見た。

「どんなごはん?」と聞いた。

ユイはしばらく黙っていた。

それから小さく言った。

「……卵焼き」
それだけだった。

ユイはそれ以上話さなかった。

ミオは「そっか」と言って、また皿を洗い始めた。

水の音が戻った。

私はテーブルの前に座ったまま、動けなかった。

ユイが寝てから、日記を開いた。

同性愛カップルとしてLGBTの里親になることを決めたのは、二年前だった。

申請のたびに書類を書き直して、面談のたびに自分たちの関係を説明した。

二十代の女性同士が里親になれるのかと、何度も不安になった。

それでも進んできたのは、ミオが「やってみよう」と言い続けたからだ。

今夜、私が一番重く感じたのは、そのことではなかった。

ユイが「卵焼き」と言ったときの顔を、何度も思い返した。

泣いていなかった。

怒っていなかった。

ただ、遠くを見ていた。

六歳の子どもが、遠くを見るときの顔を、私は今夜初めて正面から見た。

この子には、帰りたい場所の味がある。

LGBTの同性愛カップルである私たちが里親として何をすべきか、今夜はまだわからない。

ただ、あの卵焼きの味だけは、消してはいけないと思った。

消すことも、できないと思った。

窓の外で、雨が降り始めた。

ユイの部屋の電気は、まだついていた。

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30代前半、不妊治療を続けていた時期に手にした自治体の広報誌に、里親制度の特集記事が載っていた。

そこで初めて、児童相談所を通じて家庭で子どもを預かる制度があることを知った。

読み終えた後、すぐに動こうとは思わなかった。ただ、その記事のことは、しばらく頭の片隅に残り続けた。

一番大きな不安は、自分たちがその子どもをきちんと受け止められるのかという点だった。

里親になる子どもは家庭の事情を抱えていることが多いと聞いていた。

専門的な知識もなく、経験もない自分たちに、本当に対応できるのか。その問いに答えを出せないまま、時間だけが過ぎた。

夫婦で自治体の里親説明会に参加したのは、そんな時期だった。実際に里親をしている人の話を聞いた。

きれいごとだけではない部分も、率直に語ってくれた。大変な話を聞いたからこそ、「それでもやってみよう」と思えた。

家庭で過ごす時間が子どもにとって大切だということ、完璧でなくてもできる範囲で関わることに意味があるということを、その場で初めて実感として受け取れた。

子どもが来てからの最初の頃は、家の中がひどく静かだった。

話しかけても短い返事だけが返ってくる。目を合わせることも少ない。食事もあまり進まない。

どう接するのが正解なのか分からないまま、戸惑う日が続いた。思っていた以上に距離があった。

「家族になる」などという感覚は遠く、「この場所に慣れてもらう」という段階に、まだ全然たどり着けていないような気がした。

良かれと思って話しかけすぎると、逆に重くなる気がした。

かといって距離を置きすぎると、この家が安心できる場所だと伝わらない。そのバランスが、しばらくの間まったくつかめなかった。

最もしんどかったのは夜の時間だった。

夜になると急に不安になるようで、寝る前になると落ち着かなくなった。

布団に入っても眠れず、何度も起きてきた。最初の数ヶ月は、ほとんど毎晩のようにそれが続いた。こちらも寝不足が蓄積していった。

何が不安なのか、聞いても言葉にはできない様子だった。

答えを求めることをやめて、ただそばにいることだけを続けた。夜中に起きてくるたびに、声をかけて、落ち着くまで待った。それを繰り返した。

今振り返ると、あの夜の時間が、じわじわと関係の土台を作っていたのかもしれないと思う。

劇的な場面ではなかった。何も解決しない夜が、ただ積み重なっていっただけだった。

しかしそれが、後になって意味を持っていた。

半年ほど経った頃のことだ。

学校から帰ってきた子どもが、玄関を入るなり「今日ね」と話し始めた。

それまでは、こちらから聞かなければ学校のことを話すことはなかった。その日は違った。自分から、今日あったことを話してくれた。

内容は何でもないことだった。しかし「今日ね」というその言葉の軽さが、その日だけ違う重さを持っていた。

この家を、少しだけ安心できる場所として感じてくれているのかもしれない。そう思えた瞬間だった。

関係というのは、こういうふうに変わっていくのだと思う。

大きな出来事ではなく、ある日の帰宅後の「今日ね」という一言。そこにすべてが凝縮されていた。

近所には詳しい事情まで話さず、親戚の子どもをしばらく預かっているという説明をすることが多かった。

子どもに余計な視線が向かないよう、情報の出し方を慎重にした。

職場には、上司にだけ里親であることを正直に伝えた。

急な対応が必要になる場面を想定して、最低限の理解を事前に得ておくことが、結果的に子どもとの生活を守ることにつながると判断した。

里親を考えている人に伝えたいのは、理想だけで考えない方がよいということだ。

子どもによって状況も性格もまったく違い、思い通りにいかないことの方が多い。

一人で完結しようとせず、児童相談所や周囲と相談しながら続けていく姿勢が、長く関わり続けるための条件になる。

里親になる前の自分に言えるとしたら、「不安に思う気持ちは自然なことだから、無理に自信を持とうとしなくていい」と伝えたい。

分からないことは周りに頼りながら進めばいい。最初から完璧にできなくて当然だ。

里親をしていると、子どもが少しずつ変わっていく姿を目にする。それは劇的な変化ではない。

夜中に何度も起きていた子が、ある夜だけぐっすり眠った。ほとんど食べなかった子が、今日は少し多めに手を伸ばした。

目が合わなかった子が、ふと視線をよこした。そういう、日常の中の小さな変化だ。

その積み重ねを見守る時間が、里親になってよかったと、しみじみと思わせてくれる。派手な感動はない。

しかしあの時間は確かに存在した。夜が明けるたびに、ほんの少しだけ近くなっていた。

そのことだけは、今も変わらない事実として残っている。

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三週間が経った。

ユイは少しずつ部屋に慣れてきた。

朝、自分でカーテンを開けるようになった。

夕食のあと、食器を台所に運んでくるようになった。

言葉は少なかったが、私たちの動きを目で追うことが増えた。

それだけで、今月は十分だとミオが言った。

私は日記にそれを書いた。

ある土曜の昼過ぎ、ミオが台所でボウルを出した。

「ユイちゃん、卵焼き一緒に作らない?」
リビングでクレヨンを動かしていたユイが顔を上げた。

首を横に振った。

ミオは「そっか」と言って、一人で卵を割り始めた。

私はソファから見ていた。

十分くらい経ったころ、ユイがクレヨンを置いた。

音もなく立ち上がって、台所に向かった。

ミオの隣に、黙って立った。

ミオは何も言わなかった。

砂糖とだしを混ぜながら、ユイが覗き込める角度にボウルを傾けた。

六歳の女の子が、二十六歳の女の隣で、泡立つ卵液を見ていた。

フライパンに油を引くと、じゅわりという音がした。

ユイの肩が少し動いた。

卵液を流すと、甘い匂いが台所に広がった。

ミオが菜箸で端を折りながら、丁寧に巻いた。

皿に乗せて、三つに切った。

「食べてみて」
ユイは箸を持った。

一切れを口に入れた。

よく噛んだ。

飲み込んだ。

「ちがう」
泣かなかった。

叫ばなかった。

ただ、静かに言った。

箸を皿の横に置いた。

ミオは「そっか、ちがうか」と言って、自分の箸を取った。

残りの二切れを、ゆっくり食べた。

おいしそうに食べた。

傷ついた顔を、しなかった。

私はそれを、台所の入口から見ていた。

夜、ユイが寝てから日記を開いた。

今日書きたいことは、ミオのことだった。

「ちがう」と言われたとき、ミオは一秒も顔を曇らせなかった。

LGBT、同性愛カップルとして里親になることを決めたとき、私は自分たちに足りないものを数え続けた。

経験も、実績も、世間が想像する「ふつうの家族」の形も。

でも今日台所で足りなかったのは、そういうことじゃなかった。

あの味だけは、再現できない。

ユイの前の家庭で、毎朝作られていた卵焼き。

その味を作った手を、私たちは知らない。

その台所の匂いを、私たちは嗅いだことがない。

どれだけ近づこうとしても、同じにはなれない。

でも今日、ミオは「そっか、ちがうか」と言った。

それだけだった。

責めなかった。

謝らなかった。

ただ、受け取った。

私はミオのその強さを、まだ持っていない。

ペンを置いて、台所を見た。

洗い終わったフライパンが、水切りかごに立てかけてあった。

油の匂いが、まだ少し残っていた。

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今日も「あの」だった。

朝、カイが起きてきて、テーブルに座った。

トーストを焼いていた私の背中に向かって「あの……」と言った。

振り返ると、カイは牛乳パックを両手で持って、私を見ていた。

「開けてほしいの?」と聞くと、小さくうなずいた。それだけだった。

名前は、出てこなかった。

ユキは今朝も早番で、六時前に家を出た。

四十一歳の女が毎朝あの速さで支度を終えることを、七年間見てきてもまだ少し驚く。

玄関が閉まる音がするたびに、この家が少し静かになる。

今朝はその静けさの中に、カイがいた。

委託から三週間が経った。

今日、カイが転んだ。近所の公園で、砂利に足を取られて膝を擦りむいた。

じわりと血が滲んで、カイは泣かなかった。泣かないように、唇をきつく結んでいた。

七歳の子どもが、泣くのをこらえる顔を、私は正面から見た。

家に戻って、救急箱を出した。

消毒液を染み込ませたコットンを当てると、カイの肩がびくりと跳ねた。それでも声を出さなかった。

絆創膏を貼り終えたとき、カイが言った。

「あの……お願いします」

もう終わったあとだった。だから「お願いします」は、たぶん処置のことじゃなかった。
何に対して言ったのか、私にはわからなかった。わからないまま「うん」と言った。

夜、日記を開いた。

今日の「あの」は、今までと少し違う重さがあった。うまく説明できない。

ただ、あの声が耳に残っている。助けを求めることに、どこかで慣れていない子どもの声が。

消毒液の匂いが、まだ指先に残っていた。

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妻が里親制度のことを話してくれたのは、不妊治療をやめようかという話をしていた夜だった。

自分はそのとき、どちらかといえば聞いている側だった。妻が調べてきた内容を聞いて、「いいんじゃないか」と言った。

今思えば、その軽さが後になって問題になった。

説明会にも研修にも、一緒に参加した。書類も二人で揃えた。形の上では、対等に進めていたつもりだった。

しかし子どもが来てから数ヶ月が経った頃、妻に言われた。「全部私がやっている気がする」と。

反論できなかった。仕事を理由に、細かい判断を妻に委ねていた。

学校への連絡も、児童相談所との面談の準備も、子どもの夜の不安定さへの対応も、気づけばほぼ妻が担っていた。

自分は「サポートしている」つもりでいたが、妻の目には「いるだけ」に映っていたのかもしれない。

正直に言えば、子どもへの関わり方が分からなかった。

来たのは10歳の男の子だった。施設での生活が長く、大人の男性に対して警戒心が強いと事前に聞いていた。

実際、最初の頃は自分が部屋に入るだけで子どもの表情が固まった。

無理に距離を縮めようとすれば逆効果だと思い、接触を控えた。しかしそれが「関わらない」ことと同じになっていた。

妻は毎日声をかけ、食事を作り、宿題を見ていた。

自分は仕事から帰って「おかえり」と言い、食卓に座り、テレビを見た。

子どもにとって、自分はその家に「いる大人」でしかなかったと思う。

限界が来たのは、委託から1年ほど経った頃だった。

子どもの試し行動が続いていた時期で、妻が精神的に追い詰められていた。その夜、妻がリビングで泣いていた。

声をかけると「もう分からない、どうしたらいいのか」と言った。

そのとき初めて、自分が何もしていなかったことを理解した。

「サポート」とは、妻が困ったときに話を聞くことではない。

日常の中で、最初から半分を担うことだ。それができていなかった。

翌日から、意識的に変えた。朝の支度を自分が担当した。週に一度は自分が夕食を作った。

児童相談所との連絡窓口を自分に切り替えた。小さなことだったが、妻の表情が少しずつ変わっていった。

関係が変わったのは、ある土曜日だった。妻が体調を崩して寝込み、子どもと二人きりになった。

どこかに連れて行かなければと思い、近所の公園に行くことにした。

公園でキャッチボールをした。子どもは最初、ぎこちなかった。自分もぎこちなかった。

それでも30分ほど続けていると、子どもが「もう一回」と言った。その言葉が、その日一番うれしかった。

帰り道、子どもが「またやろう」と言った。それだけだった。しかしそれまで自分に向けられたことのなかった言葉だった。

家に帰って妻に話すと、「よかった」と言って笑った。

里親を夫婦で始めようとしている男性に、一番伝えたいのはこれだ。「妻に任せない」ということ。

里親の実務は、放っておくと自然に女性側に集中する。

連絡、記録、面談、日常のケア、どれも「気づいた方がやる」では、気づく側に偏っていく。

意識して半分を取りに行かないと、いつの間にか妻だけが消耗している。

子どもとの関係も、待っていても始まらない。自分から動かなければ、「いるだけの大人」のまま時間が過ぎる。

不器用でもいい。キャッチボールでも、一緒に買い物に行くだけでも、何か一つ自分だけの接点を作ること。

それが、子どもにとっての「この家にいる男の人」から「この家の人」になる、最初の一歩だと思っている。

里親になる前の自分に言えるとしたら、「いいんじゃないか、じゃ足りない」と伝えたい。

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不妊治療を断念したとき、次の選択肢として里親という道が視界に入ってきた。

妻が先に動いた。実際に里親経験のある人から話を聞く機会を得て、その話を自分も聞きに行った。

「やってみよう」と思ったのは、そのときだった。

血の繋がらない子どもを愛せるのか、という問いは最初からあった。自信があったわけではない。

ただ、話を聞いた後に残ったのは不安よりも、やってみなければ分からないという気持ちだった。

子どもが来て最初に戸惑ったのは、想定していなかったことだった。

男の子として迎えたはずなのに、仕草や雰囲気が女の子に近かった。

後から分かったことだが、施設にいた頃、周囲にいたのは女性ばかりだったという。

自然と女性的な振る舞いが身についていたのだろう。どう接すればいいのか、最初は戸惑った。

男の子として接するべきなのか、本人の自然な様子に合わせるべきなのか。答えを持たないまま、日々が始まった。

戸惑いはやがて、夫婦間の対立に発展した。

子どもの性別のあり方をどう受け止めるか。男性として見るのか、本人の自然な様子を女性的なものとして受け入れるのか。

二人の間で意見が合わなかった。どちらが正しいという話ではなかったが、同じ屋根の下で子どもに接する方針が一致しないことは、じわじわと家の中の空気を重くした。

正解が見えないまま、それでも毎日は続いた。

子どもが小学校に上がってから、性別のミスマッチを理由にいじめが始まった。

子どもの側から見れば、自分のあり方を否定されているような日々だったはずだ。

そしてその苦しさを里父である自分に打ち明けたとき、自分は「その部分では助けられない」と伝えた。

性別のあり方そのものを肯定することは、自分には難しかった。

ただ、いじめは別の問題だと考えていた。誰かを傷つける行為は許されない。それは明確だった。学校に対して問題として訴え、対応を求めた。

子どもはおそらく、混乱したと思う。自分のあり方は認めてもらえないのに、いじめには怒ってくれる。その両方が同じ人から来ていた。

しかし時間をかけて、お互いがある理解に至った。

「助けられることと、そうではないことがある」ということを、二人の間で共有できた気がした。

それが関係の変わり目だった。見放されたのではなく、できることとできないことがあると、子どもが受け取ってくれたのだと思っている。

里子の実家庭の環境が回復したとき、子どもは実の両親のもとへ戻ることを選んだ。本当の親に会いたいと言った。

止める権利はないと、最初から覚悟していた。里親とはそういうものだと分かっていた。

ここでいう覚悟とは、子どもが戻ってくることはないという意味での覚悟だ。

その日が来たとき、覚悟通りに受け入れた。ただ、覚悟していたからといって、何も感じなかったわけではない。

今振り返ったとき、やってよかったと言い切れるかどうか、正直分からない。

子どもがいなくなったときの空虚感は、予想以上のものだった。あの空虚感を知ってしまうと、やるべきではなかったとも思えてくる。

しかし同時に、子どもがいる家庭というものを経験できたことへの幸福感も確かにある。子どもを育てることに、使命のようなものを感じた時期もあった。

空虚感と満足感が、矛盾したまま同じ場所に存在している。それがこの経験の正直な後味だ。

里親を考えている人に伝えたいのは、責任についてだ。

血が繋がっていないからといって、責任がなくなるわけではない。

学校への関与も、日常の判断も、すべて里親として引き受けることになる。

その責任の重さを、事前に理解しておくことが大切だと思う。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、こう言いたい。

「何事も経験で、よい経験であれ悪い経験であれ、子どもを通して得た経験は忘れない経験になる」と。

任務報告

友人の知人が養子縁組をしたという話を聞いたのは、不妊治療の辞め時を考え始めていた頃だった。

その話をきっかけに養子縁組や里親制度を詳しく調べ始め、制度の輪郭が見えてくるにつれて、自分たちにもできるかもしれないという気持ちが芽生えていった。

前向きになっていく自分とは対照的に、夫はなかなか踏み出せなかった。

血の繋がらない子どもを本当に愛せるのか、確信が持てないのだという。

家庭の平穏が崩れることへの恐れも正直に話してくれた。その気持ちは理解できた。

ただ、二人の気持ちが揃わない限り先に進めないという現実が、しばらく重くのしかかった。

夫婦間の温度差は、里親を検討する多くの家庭が経験するものだ。どちらかが引っ張り、どちらかが慎重になる。

そのバランスをどうとるか、どこで一致点を見つけるか。この時期の夫婦の対話が、その後の土台になる。

転機になったのは、児童相談所が開催した里親サロンへの参加だった。

そこで実際に子育てをしている里親から話を聞いた。

うまくいった話だけではなく、大変だったこと、思い通りにならなかったこと、それでも続けてきたこと、そういった率直な声が、不思議なほど心に届いた。

きれいな話だけを聞いていたら、逆に現実との落差に苦しんだかもしれない。

大変さを含めて聞いたからこそ、「それでもやろう」という覚悟が固まった。夫もその場にいた。

二人で同じ話を聞いたことで、ようやく気持ちが一致した。

子どもが家に来てから最初の頃、私たちは必死だった。気に入ってもらおうと、できる限りのことをしようとした。

しかし子どもの警戒心はなかなか解けなかった。目線がまったく合わない状態が続いた。

家の中の物が隠されることもあった。わざと壊されることもあった。どう対応すべきか分からなかった。

叱るべきなのか、見守るべきなのか、その判断ができないまま、毎日が緊張の連続だった。

子どもが物を隠したり壊したりするのは、不安や試し行動の表れであることが多い。

しかしその渦中にいるときは、そうした知識があっても気持ちが楽になるわけではない。

ただ一日一日をやり過ごすことで精一杯だった。

最もしんどかったのは、夜泣きが数時間続いた時期だ。

抱っこしようとしても、子どもは仰け反って拒絶した。何もできないまま、泣き声だけが続く。

寝不足と精神的な疲労が蓄積していき、夫とのあいだで「もう無理かもしれない」という言葉が何度も出た。

暗いリビングで二人で立ち尽くした夜があった。自分たちの無力さに打ちひしがれて、何も言えなかった。

今思い出しても、胸が締め付けられる。

あの夜を乗り越えられたのは、どちらかが強かったからではない。

二人とも限界に近かったが、それでもそこに一緒にいたことが、何とかつなぎとめてくれた気がする。

委託から半年ほど経ったある日、子どもが転んで膝を擦りむいた。

それまで、この子は痛みさえ我慢していた。弱みを見せることが、どこかで許されないと感じていたのかもしれない。

しかしその日は違った。泣きながら、自分から私の胸に飛び込んできて、「痛い」と言った。

壁が一つ崩れた、という手応えを確かに感じた。

言葉にするとそれだけのことだが、それまでの半年間を思えば、その一言と、真っ直ぐに向かってきたその体の重さは、何にも代えがたいものだった。

子どもがアパートへ引っ越した日、寂しさよりも「無事に送り出せた」という安堵感と誇らしい気持ちのほうが大きかった。

あの夜泣きの夜から、暗いリビングで立ち尽くした夜から、ここまで来た。それだけのことが、二人の間にあった。

血が繋がっていなくても、共に過ごした時間の積み重ねが、本当の絆を作る。その子が巣立っていく姿を見ながら、それを改めて実感した。

今振り返って、やってよかったと思う。きれいごとだけではない日々だった。

葛藤もあったし、限界を感じた夜もあった。自分自身の欠点と、何度も向き合わされた。

それでも、一人の人間の成長を間近で見守り、本当の意味での家族になれた経験は、自分の人生を豊かにしてくれた。

その過程で自分が変わったことも、確かだと思う。

里親を考えている人に伝えたいのは、完璧を目指さないでほしいということだ。

自分の心の余裕を保つことが、結果として子どもを守ることに繋がる。一人で抱え込まず、支援や仲間を頼ってほしい。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、こう言いたい。

「不安で震えているかもしれないけれど、信じて進めばいい。想像もできないような強さと深い愛を、その子が教えてくれるから」と。

任務報告

水曜日の朝、学校から電話が来た。

「お熱が38度4分あります。お迎えをお願いできますか」

受話器を置いて、時計を見た。

午後2時。

会議まであと1時間あった。

私はパソコンを閉じて、上着を取った。

学校の保健室に入ると、彼女はベッドの端に体育座りをしていた。

顔が赤く、目がとろんとしていた。

私を見ても、表情は動かなかった。

「帰ろう」と言うと、ゆっくり立ち上がって、黙って私の後ろをついてきた。

コンビニでスポーツドリンクを買った。

レジ袋がかさかさと鳴る音を聞きながら、私は「好きな味ある?」と聞いた。

彼女は少し考えて、「どれでもいい」と言った。

家に帰って、布団を敷いて、ドリンクをコップに注いで枕元に置いた。

彼女はそのまま横になって、すぐに目を閉じた。

寝息が小さく聞こえ始めるまで、5分もかからなかった。

夜中に2回、熱を測った。

1回目は38度9分。

額に手を当てると、じんわりとした熱が手のひらに伝わってきた。

濡れタオルを作って、そっと額に乗せた。

彼女は薄く目を開けて、また閉じた。

何も言わなかった。

2回目は午前3時。

37度2分。

少し下がっていた。

私はそっと布団をかけ直して、自分の部屋に戻った。

廊下が冷たかった。

翌朝、彼女はケロッとしていた。

トーストを半分食べて、ランドセルを背負って、「行ってきます」と言って玄関を出た。

ドアが閉まる音だけが残った。

ありがとう、は一言もなかった。

その3日後、お弁当を持たせた。

運動会の代休で給食がない日だった。

前夜から卵焼きを巻いて、ミニトマトを洗って、好きだと言っていたから唐揚げも入れた。

彼女は「うん」とだけ言って受け取った。

夕方、弁当箱が戻ってきた。

開けると、唐揚げが2個残っていた。

「なんで残したの」と聞くと、「お腹いっぱいだった」と彼女は言った。

それだけだった。

私はふたを閉めて、流しに持っていった。

お湯をかけながら、なんでこんなに傷ついているんだろうと思った。

残しただけだ。

子どもなんて残す。

わかってる。

でも正直に書く。

傷ついた。

夜、パートナーに話した。

「なんか最近しんどくて」と言うと、「気にしすぎじゃない?」と返ってきた。

笑いながら。

悪気はないとわかっていた。

それでも、その言葉がするりと胃の中に落ちて、冷たく沈んだ。

LGBTのカップルが里親になると決めたとき、二人でいれば大丈夫だと思っていた。

同性愛のパートナーがいるから、一人じゃないと。

でも今夜は、一人だった。

電気を消したあと、天井を見ていた。

暗闇の中で、唐揚げの匂いだけがまだ少し、手に残っていた気がした。