任務報告

朝食の途中だった。

カイがコップに手を伸ばしかけて、止まった。それからユキの方を見て、言った。

「ユキさん、これ取ってもらえる?」

ユキが「え、呼んだ?」と振り返った。一秒くらい、テーブルが静止した。

それからユキは「はいはい」と醤油を手渡して、また自分の味噌汁に戻った。それだけだった。

私は台所に立っていた。卵焼きを皿に移すところだった。手は動いていた。

夕方、ユキが洗濯物を畳みながら「カイ、今朝名前で呼んでくれたね」と言った。嬉しそうだった。

嬉しそうに言えるユキが、今日は少し遠かった。「そうだね」と私は言った。それ以上、何も言わなかった。

夜、日記を開いた。

今日、カイがユキさんと呼んだ。私はまだ、あの、だ。

それしか書けなかった。嫉妬じゃない、と思う。

でもそれが嫉妬じゃないなら、この胸のざらつきは何なのか。ユキが呼ばれたことは嬉しい。

本当に嬉しい。

ただ、嬉しいという気持ちの隣に、もう一つ別の気持ちが座っていて、それに名前をつけるのが怖い。

七年間、ユキと二人で暮らしてきた。里親になることを最初に言い出したのはユキだった。

私は半年悩んで、ユキの隣でようやく頷いた。あのときから、私はずっと半歩遅れている気がする。

ペンを置いて、天井を見た。

隣の部屋で、カイが寝返りを打つ音がした。

任務報告

最初から長く関わるつもりは、なかった。

短期の委託という形で、2週間だけ子どもを預かる。実親が入院中で、他に頼れる親族がいない。

その間だけ、家庭的な環境を提供してほしいという依頼だった。夫婦で話し合い、「2週間なら」と引き受けた。子どもはその時、4歳だった。

2週間が終わっても、実親の退院は延びた。延びた先にまた事情が重なった。

気づけば委託は続いており、4歳だった子どもが小学校に上がり、やがて9歳になっていた。

人生には、始める前に全貌が見えない縁というものがある。

あのとき「2週間だけ」と思わなければ、引き受けていなかった。引き受けなければ、この5年間はなかった。

短期委託の難しさは、「終わりがある」という前提で関係を始めることだ。

最初の数日、子どもに対して適切な距離を保とうとしていた。

深く関わりすぎると、終わったときに子どもが混乱する。そう考えて、必要以上に情を移さないよう、どこかで自分にブレーキをかけていた。

しかしそのブレーキは、子どもには関係がない。4歳の子どもは、目の前の大人を「一時的な保護者」として認識しない。

ただそこにいる大人として、少しずつ近づいてくる。朝起きると隣に来て座る。手を繋いで歩く。名前ではなく「ねえ」と呼んで袖を引っ張る。

2週間が経つ頃には、こちらのブレーキなど意味をなしていなかった。

最初の延長連絡が来たのは、委託13日目だった。「もう少し待ってほしい」という内容だった。

夫婦で顔を見合わせた。断る理由は特になかった。「もう少しなら」と答えた。そのやり取りが、その後何度繰り返されたか分からない。

短期委託が長期に移行するとき、制度上の手続きが変わる。

書類が増え、面談が増え、関わる人間も増えた。気づけば自分たちは「短期里親」ではなく、気持ちの上でも制度の上でも「この子の養育者」になっていた。

誰かに強制されたわけではない。気づいたらそうなっていた、という感覚だった。それが不思議と、重くはなかった。

委託から1年ほど経った頃、実親が回復して面会に来た。

子どもはその日、朝から落ち着かなかった。何かを察していたのだと思う。

面会の場には自分たちは同席しなかったが、終わった後の子どもの様子を見た。泣いていた。

どんな気持ちで泣いていたのか、聞けなかった。

その夜、子どもはなかなか眠れなかった。布団の中で何度も寝返りを打ち、夜中に起きて水を飲みに来た。

隣に座ってただ背中に手を当てていた。何も言わなかった。言葉では届かないものが、その夜の子どもの中にあった。

実親との面会が定期的に続くようになってからも、委託は継続された。

二つの「家」の間で、子どもは少しずつ自分の感情を整理していったのだと思う。

その整理を手伝うことが、自分たちの役割だと理解するようになった。

転機は、子どもが9歳になった夏だった。

実親のもとに週末を過ごしに行って戻ってきた日の夜、子どもがぽつりと言った。「帰りたくなかった」と。

その言葉の意味を、すぐには整理できなかった。実親のところから、ここに帰りたくなかったのか。

それともここから、どこかへ帰りたくなかったのか。どちらの意味かを確認する前に、子どもは布団に潜ってしまった。

翌朝、何事もなかったように朝食を食べた。こちらも何も聞かなかった。

ただその言葉は、5年間の中で最も重く、最も温かく、胸に残っている言葉になった。

短期委託という入り口は、里親への最もハードルの低い形の一つだ。

「長く関わる自信はないけれど、一時的なら」という気持ちで始められる。それは正直な出発点だと思う。

ただ、短期であっても子どもとの関係は始まる。始まった関係には、予想外の続きがあることがある。それを怖れる必要はないが、覚悟しておいてもいいと思う。

「2週間だけのつもりだった」という言葉は、後悔ではない。あの軽い入り口がなければ、この5年間は存在しなかった。

軽い気持ちで始めたことが、気づけば人生の一部になっていた。そういうことが、里親という経験には起きる。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、「2週間で終わらないかもしれないけど、それでいい」と伝えたい。

任務報告

三月の夕方、ユイが「卵焼き作っていい?」と言った。

台所でパスタを茹でていた私は、振り返った。

十八歳になったユイが、エプロンを手に持って立っていた。

春から調理の専門学校に進む。

入学式は来週だった。

今夜は出発前最後の夜だった。

「ハルカさんとミオさんの分も作る」
私は「作って」と言った。

それだけ言えた。

ミオがちょうど帰ってきた。

玄関で「いい匂い」と言いながら荷物を置いて、台所を覗いた。

三十二歳の女が、エプロン姿のユイを見て、一瞬動きを止めた。

それから何事もなかったように「手洗ってくる」と言って、洗面所に向かった。

私はソファに座って、台所を見ていた。

ユイが卵を割った。

三つ。

ボウルに落として、菜箸でよく溶いた。

砂糖を入れた。

だしを加えた。

少し考えてから、砂糖をもう少し足した。

その仕草が、十二年前のミオに似ていた。

フライパンを火にかけた。

油を引いた。

じゅわりという音がした。

甘い匂いが広がった。

私は目を閉じた。

この匂いを、何百回嗅いだだろう。

二十七歳だった私が、三十三歳になるまでの六年間。

試作を重ねたあの夏の朝も、ユイが初めて「おいしかった」と言ったあの朝も、全部この匂いの中にあった。

ユイが卵液を流した。

菜箸で端を持ち上げて、ゆっくり巻いた。

二巻き目に差しかかったとき、端がフライパンに当たる音がした。

じゅっ。

ユイが「あ」と言った。

私は目を開けた。

ミオも台所の入口に立っていた。

二人で見ていた。

ユイはそのまま巻き続けた。

焦げた端を、わざと残したような手つきで。

皿に乗せて、三つに切った。

「どうぞ」
三人でテーブルを囲んだ。

LGBTの同性愛カップルとして里親になった日から、六年が経っていた。

二十七歳と二十六歳だった私たちは、いつの間にか三十代になっていた。

ユイは六歳から十八歳になっていた。

テーブルの上に、三枚の皿があった。

私は箸を取った。

一口、食べた。

甘かった。

だしが入っていた。

端が少し焦げていた。

何も言えなかった。

言葉が見つからなかった。

三十三歳の女が、十八歳の作った卵焼きを前に、黙って箸を持っていた。

ミオが「うまい」と言った。

ユイが箸を持ちながら、静かに言った。

「前のおうちの味に似てるかな」
誰も答えなかった。

ミオも私も、答えを持っていなかった。

ユイの前の家庭の台所を、私たちは知らない。

あの卵焼きを作っていた手を、見たことがない。

似ているかどうか、永遠にわからない。

でも三人とも、最後まで食べた。

夜、ユイが寝てから日記を開いた。

今夜は長い時間をかけて書こうと思っていた。

でもペンを持ったまま、しばらく何も書けなかった。

書きたいことが多すぎると、言葉が出てこない。

窓の外で、春の風が鳴った。

LGBTの同性愛カップルとして里親になることを決めたあの夜、私は自分たちに足りないものを数えていた。

でも今夜、ユイが台所に立って、三人分の卵焼きを作った。

端を少し焦げさせながら、丁寧に巻いた。

それを三人で食べた。

完璧な家族ではなかった。

あの味に完全に近づけたかどうかも、わからない。

でもこの台所で、この子は何かを作れるようになった。

誰かのために、台所に立てるようになった。

それが今夜の、最後の一行になった。

ユイが、私たちのために卵焼きを作った。

端が少し焦げていた。

それで十分だった。

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朝、カイが登校前にランドセルを背負いながら言いかけた。

「あの……」

止まった。私はコートのボタンを留めながら、続きを待った。カイは一度口を閉じて、それからもう一度開いた。

「サチさん、今日お弁当いる?」

遠足は来週だった。だからお弁当はいらない。

「いらないよ」と答えると、カイは「そっか」と言って玄関を出た。

扉が閉まって、足音が階段を降りていった。私はしばらくそこに立っていた。

「あの」から「サチさん」に、言い直した。その数秒を、ずっと見ていた。

夜、ユキが寝たあとで日記を開いた。今日こそ、ちゃんと書こうと思った。

カイがこの家に来てから、私は「あの」という言葉を何十回聞いただろう。

最初は空白だと思っていた。名前がない場所、呼び方が決まらない空白。

だからその言葉が聞こえるたびに、どこかで息を詰めていた。

でも今日、カイが「あの」と言いかけて止まった瞬間を見て、初めてわかった気がした。

あの言葉は、空白じゃなかった。

カイはずっと、誰かを呼ぼうとしていた。

名前がわからないまま、呼び方が見つからないまま、それでも「あの」と言って、こちらに手を伸ばしていた。

牛乳パックを持って振り返ったときも、膝から血を流しながら処置が終わったあとも、ずっと。

私はその手に、気づくのが遅かった。

元教員として、三百人以上の子どもと関わってきた。

子どもの言葉を読むのは得意だと思っていた。でもこの七歳の男の子の「あの」に、三ヶ月かかった。

ペンを持ったまま、窓の外を見た。夜の住宅街が静かだった。カイの部屋の電気は、もう消えていた。

最後に一行だけ書いた。

この子が「あの」と言うたびに、私はちゃんと呼ばれていたんだと思う。

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不妊治療をやめると決めた日の夜、夫婦でテーブルを挟んで座っていた。

泣くわけでも、言い合うわけでもなかった。ただ静かだった。

窓の外から車の音が聞こえて、冷蔵庫がかすかに鳴っていた。

6年間通い続けたクリニックに、翌日電話をかけた。

担当の看護師さんが「お疲れさまでした」と言った。その言葉が、予想外に長く胸に残った。

治療をやめた後、しばらくの間、自分たちが何者なのか分からなかった。

「子どもを望んでいる夫婦」という役割が、6年間の自分たちを定義していた。

それがなくなったとき、代わりに何があるのかが見えなかった。

喪失の中で、里親という言葉に出会った。

治療をやめてから3ヶ月ほど経った頃、夫がある夜こう言った。

「里親って、調べたことある?」

自分は調べたことがなかった。その言葉を聞いたとき、正直な反応は「まだそういう話をする気持ちになれない」だった。

治療の疲れが、まだ体に残っていた。子どもに関わることすべてが、しばらくは遠く感じた。

それでも夫が調べてきた内容を、黙って聞いた。制度の仕組み、委託の流れ、登録までのステップ。

聞きながら、「これは私たちの話だ」という感覚と、「まだ私たちの話にしたくない」という感覚が、同時にあった。

その夜は結論を出さなかった。ただ、夫が調べてきてくれたことを、悪くないと思った。

「代替案」ではないと、はっきり思った瞬間。

里親について調べていく中で、一つのことが気になっていた。

自分たちは、子どもを持てなかったから里親を選ぼうとしているのか。

それは「本当に子どもを望んでいる」のではなく、「子どもがいる生活の代替を求めている」だけではないのか。その問いが、しばらく離れなかった。

答えが出たのは、説明会に参加した日だった。

担当者が「今、家庭を必要としている子どもが、この地域だけで何十人もいます」と言った。

数字として聞いていたはずが、そのとき急に、その子どもたちが具体的な重さを持って迫ってきた。

自分たちが子どもを必要としているのではなく、子どもが家庭を必要としている。

その順番の違いに気づいたとき、「代替案かどうか」という問いが、急に小さく見えた。

どういう動機で始めても、目の前の子どもにとっての現実は変わらない。

ならば、動機の純粋さにこだわって立ち止まっている場合ではないと思えた。

不妊治療の6年間が、思わぬ形で役に立った。

来たのは6歳の女の子だった。人懐っこいが、突然泣き出すことがあった。

理由が分からないまま泣いている子どもを前にして、最初は戸惑った。

しかしある日、気づいたことがあった。自分たちは6年間、「なぜうまくいかないのか分からない」という状況の中にいた。

説明のつかない結果を受け入れ続けた。答えが出ない問いと共存することに、どこかで慣れていた。

理由の分からない子どもの涙を、「解決しなければならない問題」として見なくなったのは、その経験があったからかもしれない。

ただそこにいて、泣き止むまで待つ。それでいいと思えた。

不妊治療の6年間が、こういう形で役に立つとは思っていなかった。

夫婦の間で起きた、静かな変化。

治療中、夫婦の会話はいつも治療のことが中心だった。

次の周期はどうするか、結果をどう受け止めるか、次のステップに進むか。それが6年間続いた。

里親になってからの会話は、違った。

「今日あの子がこんなことを言った」「昨日の夕食、よく食べてた」「最近、笑うことが増えた気がする」。

子どもの話ではあるが、治療中の会話とは質が違った。未来への不安ではなく、今日の出来事を話していた。

夫婦関係が、治療中より柔らかくなったと感じたのは、委託から半年ほど経った頃だった。

治療中は同じ目標に向かっていたが、どこか切迫していた。今は同じ日常を生きている、という感覚があった。

「お父さんのご飯、好き」。

関係の変化を感じたのは、夫への言葉だった。

ある夕食のとき、子どもが何気なく「お父さんのご飯、好き」と言った。

夫は料理が得意で、週末によく台所に立っていた。その一言を聞いたとき、夫が少し目を細めた。

その顔を見て、自分も胸が熱くなった。

6年間の治療中、夫がつらそうにしている場面を何度も見た。

男性は治療の当事者でありながら、周囲からは「奥さんを支える立場」として見られることが多い。

夫自身の悲しみや焦りは、どこかに置いておかなければならないような空気があった。

「お父さんのご飯、好き」という一言が、その6年間を少し癒したような気がした。

大げさかもしれない。しかしあの夜の夫の顔を、自分はずっと覚えていると思う。

治療を経て里親になろうとしている人へ。

不妊治療を経て里親を考えている人に、一つだけ伝えたいことがある。

治療中の自分と、里親になってからの自分は、違う人間になっている。

治療中に感じた「子どもが欲しい」という気持ちと、里親として目の前の子どもと向き合うときの気持ちは、似ているようで違う。

どちらが正しいとか、どちらが深いとかではない。ただ、違う。

その違いを怖れなくていいと思う。

治療をやめた日に「何者でもなくなった」と感じた自分たちが、今は「あの子の里親」という場所に立っている。

場所は、探しているうちに見つかるものではなく、気づいたらそこにいた、というものかもしれない。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、「治療をやめた日の静けさを、覚えておいて」と伝えたい。

あの静けさが、その後の出発点になったから。

任務報告

保護者席は、校庭の端に白いパイプ椅子が並んでいた。

ノブと二人、真ん中あたりに座った。

左隣は母親が一人でビデオカメラを構えていた。

右隣は祖父母らしき老夫婦が、お茶を回し飲みしていた。

誰も私たちを見なかった。

見ないことで、見ていた。

五十四歳の男は、その種類の視線の避け方を、長い年月をかけて覚えてきた。

競技が始まった。

アナウンスが響くたびに、保護者席がざわついた。

子どもの名前を呼ぶ声、手を叩く音、スマートフォンを構える腕。

秋の空気は乾いていて、運動場の砂埃が風に乗った。

私はプログラムを膝の上に置いて、校庭を見ていた。

徒競走は午前の最後だった。

三年生の列にショウがいた。

白い帽子をかぶって、スタートラインに並んでいた。

遠くて表情は読めなかった。

ピストルが鳴った。

ショウは速かった。

最初の十メートルで前に出て、そのまま誰にも追いつかせなかった。

ゴールテープを切った瞬間、ノブが「おお」と短く言った。

私は何も言わなかった。

言葉が出てくる前に、ショウが保護者席を見た。

目が合った。

一秒か、二秒か。

ショウはすぐに視線を外して、列に戻っていった。

それだけだった。

その一瞬に何があったのか、午後の競技の間もずっと考えていた。

確認だったのか。

来ているかどうか、確かめたかっただけなのか。

それとも、もっと別の何かだったのか。

答えを持たないまま、閉会式を聞いた。

帰り道、三人で並んで歩いた。

ノブが「速かったな、一番だったぞ」と言った。

ショウは「うん」と言った。

私は黙って歩いた。

言葉が見つからなかった。

運動会の帰り道に、五十四歳の男が八歳の子どもにかける言葉を、私は持っていなかった。

家に帰って、ショウが部屋に戻った。

私は台所でお茶を入れた。

湯呑みを両手で持って、廊下に出たとき、ショウの部屋の前を通った。

ドアが少し開いていた。

隙間から声が聞こえた。

「一番だった」
誰かに話しかけているわけではなかった。

ただ、自分に言い聞かせるように。

あるいは、誰かに報告するように。

小さく、確かめるように。

私はその場に立ったまま、お茶が冷めていくのを感じていた。

言いたかったのだ、あの子は。

誰かに。

一番だったと。

その誰かに、私はまだなれていない。

なれているのかどうか、今夜はまだわからない。

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不妊治療を始める前から、里親という選択肢は頭の片隅にあった。

治療をやめる少し前から、インターネットでより具体的に調べるようになった。

治療と並行しながら、もう一つの道を静かに探り続けていた時期だった。

動き出すまでの最大のためらいは、将来への問いだった。

もし里子を迎えた後に、自分の子どもを授かることになったとしたら。そのとき、里子と実の子を同じ愛情で接することができるのか。

自分だけでなく、夫も無意識に実の子を贔屓してしまうのではないか。

その問いは、里親になりたいという気持ちとぶつかり続けた。答えが出ないまま、時間だけが経っていった。

背中を押したのは、夫の一言だった。「大丈夫だよ」。それだけだった。理屈でも、根拠でもなかった。それでも、その言葉が一番の後押しになった。

子どもが来て最初に感じたのは、拍子抜けするような戸惑いだった。

想像していたより、ずっと手がかからなかった。

子どもはもっとわがままを言うものだというイメージがあったから、その静かさが逆に不安を呼んだ。

本当に大丈夫なのかと思った。自分の気持ちをほとんど口にしない。感情が表に出てこない。

こちらが何を考えているのか分からず、どう接すればいいのか戸惑いが続いた。

「良い子すぎる」という状況は、一見問題がないように見えるが、別の難しさを抱えている。

感情を表に出すことを、何らかの理由で抑えてきた子どもに、どうやって安心して気持ちを出せる環境をつくるか。それが最初の課題になった。

一番しんどかったのは、感情を読み取れないまま「何をしていけばいいのか」が分からなくなったときだった。

夫に相談しても、「そのうちどうにかなる、時間の問題だよ」という答えが返ってきた。

楽観的すぎて、真剣に向き合ってもらえていないと感じた。友人には、この状況をうまく説明できなかったし、なんとなく相談しにくかった。

周りに同じような経験をしている人もいなかった。

孤独だった。子どものことで悩んでいるのに、その悩みを話せる相手がいない。この孤立感が、しんどさの核心にあった。

里親として困難な状況にあるとき、同じ経験を持つ里親仲間や支援機関の存在が助けになることがある。

しかしその存在を知っていても、疲れ切っているときにはなかなかたどり着けない。

「相談できる場所を先に確保しておく」ことの重要さを、この時期に身をもって感じた。

関係が変わったと感じたのは、外出先での出来事だった。

それまで、わがままを言ったり怒ったりというマイナスの感情をほとんど出さなかった子どもが、その日は帰りたくないと駄々をこねた。大きな声を出した。

普通に考えれば、困った場面だ。しかしそのとき、うれしいと思った。感情を出してくれた。

我慢しなくていいと思ってくれた。この場所で、自分の気持ちを出せるようになってきた。そう感じた瞬間だった。

近所への説明は、引っ越しという形で自然に解消した。新しい土地では、一般的な家庭として受け取られた。

詮索されることなく生活できたことで、子どもにとっても余計な視線のない環境が保てた。

職場には、話しておくべき人と、迷惑をかける可能性のある人にだけ伝えた。

全員に説明する必要はないと判断し、必要最小限の範囲で理解を得た。

里親を考えている人に、最も伝えたいことは時間軸の話だ。

子どもは小さいときだけではない。いつか自分と同じ年齢になり、それ以上に育つ。

その長い時間を、本当にイメージできているか。

今の気持ちだけでなく、10年後、20年後の自分と子どもの関係まで想像してから判断してほしい。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、「もう少し考えるのもありかな」と伝えたい。

前向きな気持ちは大切だ。しかし長い時間軸で自分に問いかける時間を、もう少し丁寧にとってもよかったかもしれないと、今は思う。

任務報告

翌朝、私が卵を割ったとき、ソウが台所に入ってきた。

「昨日、ハナちゃんと少し話した」

声が低かった。

私はフライパンから目を離さずに「そうか」と言った。

「学校で聞かれたみたい。

お父さんとお母さんはどんな人って」

卵が油の上に広がった。

白身の端がゆっくりと固まっていく。

私は火を弱めた。

「それで?」

「ふつうだよって答えたって。

でも帰ってきてからずっと、そのことが頭に残ってたみたい」

ソウは冷蔵庫を開けて、牛乳を出した。

三十一歳の男が、朝からそわそわしている。

普段と同じ動作なのに、今朝は少し落ち着きがなかった。

「ちゃんと話してあげたほうがいいよね。

俺たちのこと、説明するというか……」

「説明って、何を」

私は皿に卵を移しながら言った。

責めているわけじゃなかった。

ただ、本当にわからなかった。

自分たちが男どうしで暮らしていること、それが世間の言う「ふつう」とは違うこと、でもだからといってハナに何を伝えればいいのか。

謝るわけでもない。

誇るわけでもない。

「……うまく言えないけど」とソウが言った。

「ハナちゃんが困ってるなら、何か言ってあげたい」

「そうだな」と私は言った。

それだけだった。

二人で朝食を食べた。

ハナはその間、自分の部屋から出てこなかった。

八時になってドアが開いて、ランドセルを背負った小さな背中が「いってきます」と言った。

私は「いってらっしゃい」と返した。

玄関が閉まる音がして、家の中が静かになった。

シンクに重ねた三人分の皿から、湯気がゆっくりと上がっていた。

任務報告

30代後半の頃、自治体の広報や福祉関係の情報を見ている中で、里親制度という言葉が目に入った。最初は自分には縁のない話だと思った。

しかし読み進めるうちに、家庭で暮らせない子どもがいるという事実が、どこか頭に残り続けた。

子どもの居場所について、初めて真剣に考えるきっかけになった。

子どもの人生に関わるということの重さを考えると、軽い気持ちで決めてはいけないという思いが強かった。

自分に本当に務まるのか。その問いに答えが出ないまま、なかなか一歩が出なかった。

責任感が強いほど、足が止まりやすい。里親を検討する多くの人が経験する、その矛盾した状態がしばらく続いた。

動き出せたのは、視点が変わったことがきっかけだった。

「完璧な親でなくても、安心できる場所を作ることはできるかもしれない」と思えた瞬間があった。

必要としている子どもがいるなら、まず向き合ってみようと思えた。

完璧な準備が揃うのを待つより、できることから始めることへと、気持ちが切り替わった。

子どもが来た最初の頃、想像以上に距離があった。大人しくて感情をあまり表に出さない子だったので、こちらもどう接するのが正解か分からなかった。

無理に距離を縮めようとすると、逆に負担になる気がした。話しかけすぎても空気が重くなる。

かといって何もしなければ、この家に安心できていないのではないかと不安になる。

その加減がつかめないまま、日々が過ぎていった。打ち解けるまでにかかった時間は、当初の予想よりずっと長かった。

最もしんどかったのは、こちらが話しかけても反応が薄く、何を考えているのか分からない時期だった。

食事のときも、日常の声かけをするときも、子どもはどこか遠慮しているようだった。

この家で本当に安心できているのだろうか、という不安が頭から離れなかった。焦るほど言葉が空回りした。

反応が薄いと、次にどう声をかければいいかも分からなくなった。

何かしなければという焦りと、何をしても届いていないような無力感が、交互にやってくる時期だった。

正解を探そうとすればするほど、その正解が遠ざかっていくような感覚があった。

変化が訪れたのは、ある日のことだった。

こちらから聞いたわけでもないのに、子どもが自分から学校のことを少し話してくれた。本当に短い会話だった。

内容も特別なものではなかった。ただ、それまで必要なこと以外ほとんど言葉を発しなかった子が、自分から口を開いた。

うれしかった。

そしてその日を境に、少しずつ表情がやわらかくなっていった気がした。関係は劇的に変わったわけではない。

しかしあの日の短い会話が、その後の積み重ねの始まりになった。

近所には深く詮索されないよう、自然に接することを心がけた。

「家庭の事情で子どもを受け入れている」とだけ伝え、それ以上の説明はしなかった。

職場にも最低限の説明にとどめた。子どものプライバシーを守ることを、周囲への説明よりも優先した。

どこまで話すかの正解はない。ただ、「子どもが余計な目線にさらされないこと」を基準に判断することが、一つの軸になると思っている。

里親をやってみて一番感じたのは、特別なことをするより、毎日の小さな積み重ねの方が大切だということだった。

朝の挨拶、一緒に食べる食事、安心して過ごせる家の空気。大きな変化はすぐには見えない。

しかし気づいたときには、少しずつ何かが変わっていた。

関係というのは、劇的な瞬間によって生まれるのではなく、何でもない日々の連なりの先に自然と育っていくものなのだと、この経験を通じて実感した。

里親を考えている人に伝えたいのは、すぐに家族のようになれるとは限らないということだ。

良かれと思って距離を縮めようとしても、子どもによっては時間が必要だ。

焦らず、安心できる日常を積み重ねることが、遠回りに見えて一番の近道だと思う。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、「早く分かり合おうとしなくて大丈夫」と伝えたい。

関係づくりには時間がかかって当然だ。焦らず、目の前の子どもを見ていけばいい。

任務報告

数日後の夕方、私は台所に立っていた。

玉ねぎを炒めていると、玄関が開く音がした。

ランドセルが壁に当たる音、靴を脱ぐ音。

それからハナの声が聞こえた。

「ただいま」

いつもより少し、大きかった。

私はフライパンを持ったまま「おかえり」と返した。

リビングに入ってきたハナは、ランドセルをソファに下ろして、そのまま私の背中に向かって言った。

「今日ね、ミサちゃんにうちのこと話した」

私は火を少し弱めた。

「そっか」と言った。

「お父さんとお母さんはいないけど、帰ったら『おかえり』って言ってくれる人が二人いるって。

男の人どうしだけどって」

「ミサちゃん、なんて言ってた」

「へえ、いいじゃんって」

それだけだった。

ハナは手を洗いに洗面所へ行って、戻ってきてソファに座った。

私は鍋に出汁を注ぎながら、その「いいじゃん」という言葉を、しばらく頭の中で転がした。

九歳の子どもの友達が、何気なく言った三文字。

それがなぜか、今夜の台所をすこし温かくした。

七時過ぎに玄関が開いて、ソウが帰ってきた。

鞄を廊下に放り投げる音がして、私は「また」と思った。

いつも通りだった。

「ただいまー。あ、いい匂い」

「おかえり」と私が言った。

「おかえり」とハナが言った。

ソウが一瞬、動きを止めた。

それからいつもより少し柔らかい顔で「ただいま」ともう一度言って、リビングに入ってきた。

三人で食卓を囲んだ。

ハナはじゃがいもまで、きれいに食べた。

食事が終わって皿を洗いながら、私は特別なことは何も起きていないと思った。

何かが解決したわけでも、何かが変わったわけでもない。

ただ、この子が「ただいま」と言える場所に、自分たちはなれているかもしれない。

それだけで、今夜の出汁は、少しだけ丁寧にとった。

任務報告

今日、カイが来た。

七歳の男の子は、玄関に立ったまま動かなかった。

紺色のリュックを両手で抱えて、床を見ていた。

ユキが「待ってたよ、入って入って」と言いながら膝をついて目線を合わせた。

四十一歳の女が、迷わずそうできることを、私は少し羨ましいと思った。

私は突っ立ったまま、何も言えなかった。

夕食はユキが作ったカレーだった。甘口にしてあった。

カイはスプーンを小さく動かしながら、ほとんど顔を上げなかった。ユキがしゃべり続けた。

好きな食べ物のこと、近くに公園があること、明日は一緒に散歩しようか、ということ。

カイは短くうなずいた。私は味噌汁を飲んだ。口の中がやけに乾いていた。

食後、ユキが洗い物をしている間、カイとリビングに二人になった。

カイはソファの端に座って、膝の上にリュックを乗せたままだった。

まだ、置く場所が決まっていないのだと思った。私も、何をすればいいか決まっていなかった。
しばらくして、カイが顔を上げた。
「あの……」
私を見ていた。続きを待った。でも続きは来なかった。カイは一度口を閉じて、また床を見た。

「うん」と私は言った。それしか出てこなかった。

寝室に戻ってから、日記を開いた。ペンを持ったまま、しばらく何も書けなかった。

三百人以上の子どもと向き合ってきた四十三年間が、今夜だけ、何の役にも立たなかった。

窓の外で風が鳴った。カイの部屋の電気は、まだついていた。

やっと一行だけ書いた。

今日、この子は私を「あの」と呼んだ。私にはまだ、名前がない。

任務報告

試作を始めてから、二ヶ月が経った。

その間、ミオは何度も卵焼きを作った。

週に二回、三回のときもあった。

砂糖の量、だしの濃さ、火加減、巻くタイミング。

少しずつ変えながら、少しずつ近づこうとした。

ユイはそのたびに食べた。

「ちがう」とは言わなかった。

でも「おいしい」とも言わなかった。

ただ、食べた。

私はその背中を、毎朝見ていた。

八月の朝だった。

ミオが早番で、六時前に起きた。

私も一緒に起きて、台所でコーヒーを入れた。

夏の朝の空気は湿っていて、窓の外がまだ暗かった。

ミオがエプロンをつけて、卵を三つ割った。

砂糖、だし、醤油を少し。

いつもの順番だった。

フライパンを温めながら、ミオが「今日は弱火でゆっくりやってみる」と言った。

私は「うん」と言ってコーヒーを飲んだ。

卵液を流すと、じわりと広がった。

甘い匂いが立ちのぼった。

ミオが菜箸で端を持ち上げて、ゆっくり巻いた。

二巻き目に差しかかったとき、端がフライパンに当たった。

じゅっという音がした。

「あ、焦げた」
ミオが言いかけた。

私は台所の入口から見ていた。

そのとき、ユイが起きてきた。

寝癖のついた六歳の女の子が、目を細めながら台所を覗いた。

甘い匂いが漂っていた。

ミオがフライパンを傾けて、焦げた端を見せながら「焦げちゃったな」と言った。

ユイが卵焼きを見た。

「それでいい」
静かな声だった。

眠そうな、でも確かな声だった。

ミオが振り返ってユイを見た。

私も見た。

ユイはもう台所に背を向けて、洗面所に向かっていた。

水道の音がした。

朝食の間、誰もその話をしなかった。

ユイは焦げた端の卵焼きを、最初に食べた。

それから真ん中を食べた。

最後の一切れを食べ終えてから「おいしかった」と言った。

ミオが「よかった」と言った。

私は何も言えなかった。

喉の奥で何かが詰まっていた。

二十七歳の女が、六歳の子どもの「おいしかった」という一言で、言葉を失った。

LGBT、同性愛カップルとして里親になってから、うまくいかないことを数えてきた。

書類のこと、周囲の視線のこと、自分たちに足りないもののこと。

でも今朝の「おいしかった」は、そういうものを全部、静かに脇に置いた。

ユイが登校してから、日記を開いた。

今日書きたいことは、「それでいい」という言葉のことだった。

あの卵焼きは、前の家庭の味に完全に近づいたわけじゃないと思う。

私たちにはわからないけれど、たぶんまだちがうところがある。

でもユイは「それでいい」と言った。

諦めじゃないと思いたい。

この家の卵焼きを、この家の味として受け取り始めたということだと、思いたい。

LGBTの同性愛カップルが里親として完璧な家族を作ることは、たぶんできない。

でも「それでいい」と言ってもらえる場所には、なれるかもしれない。

今朝の台所が、そう教えてくれた気がした。

夕方、ミオから短いメッセージが届いた。

「今日、仕事中もずっとユイちゃんの顔が浮かんだ」
私は「私も」とだけ返した。

窓の外で、蝉が鳴いていた。

夏の午後の光が、台所の床に細長く伸びていた。

フライパンはもう洗われて、水切りかごに立てかけてあった。

端が少し黒くなっていた。

私はしばらくそれを見ていた。

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夕食が終わって、ユキが先に風呂に入った。

カイとリビングに二人で残った。特に話すこともなく、テレビがついていた。

刑事ドラマの再放送で、私は半分も見ていなかった。カイはソファの端に座って、膝を抱えていた。

委託から三ヶ月が経って、リュックはもうクローゼットにしまわれていた。

それだけのことが、今夜は少し嬉しかった。

CMになった。画面が明るくなって、音が変わった。

そのときカイが言った。

「サチさん、このドラマ好きなの?」

私は一瞬、聞き間違いだと思った。カイを見た。カイは画面を見たまま、何事もなかった顔をしていた。

七歳の横顔が、ブラウン管の光を受けて白く見えた。

「まあね」と私は言った。

声が少し低くなった。気づかれなかったと思う。カイは「ふうん」と言って、また画面に戻った。

ドラマが再開して、刑事が誰かを追いかけ始めた。

私はその画面を見ながら、さっきの三文字を、頭の中で何度か繰り返した。

サチさん。

サチさん。

風呂からユキの鼻歌が聞こえた。カイが小さくあくびをした。

時計が九時を回った。何も起きていない夜だった。

カイを寝かしつけてから、寝室で日記を開いた。ペンを持って、今日のことを書こうとした。

朝のこと、夕食のこと、ドラマのこと。でも全部、どうでもよかった。

一行だけ書いた。

今日、カイが私の名前を呼んだ。

それ以上書こうとすると、何か大切なものが崩れそうな気がした。

ペンを置いて、電気を消した。暗い天井を見ながら、もう一度だけ思った。

サチさん、と。

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成人した里子から連絡が来たのは、委託が終わって11年後のことだった。

SNSのメッセージだった。「元気ですか。あのときのことを、最近よく思い出します」。

それだけだった。返信を打ちながら、手が少し震えた。70文字にも満たないメッセージを読み返すのに、何分かかったか分からない。

里親をしていた頃のことを、夫婦でほとんど話さなくなっていた時期だった。

話さないのは忘れたからではなく、話すと何かが溢れてきそうで、そっとしておいた。そういう11年だった。

委託が始まったのは、自分たちが50代の頃だった。実の子どもは既に独立していて、夫婦二人の生活になっていた。

「まだ何かできることがあるかもしれない」という、定年前の静かな焦りのようなものがあった。

8歳の男の子が来た。小柄で、目が大きく、何かを確かめるようにこちらをよく見る子だった。

口数は少なかったが、観察眼が鋭かった。こちらが機嫌の悪い日は、遠くからそれを察して静かにしていた。

こちらが笑っていると、少し安心したような顔をした。

子どもが大人の感情を読むことに長けているとき、それはたいてい、読まなければならない環境にいたということだ。

その子がそういう子だと分かったとき、胸の奥で何かが動いた。

若い頃の子育てとは、明らかに違った。

小学校の運動会で一日外にいると、翌日は体が重かった。夜中に子どもが起きても、すぐに体が動かない。

気力はあっても、体がついてこない場面が想定より多かった。

それを子どもに悟られたくないと思っていた。しかし子どもはとっくに気づいていた。

ある日、重い買い物袋を黙って持ってくれた。「重そうだったから」と言った。8歳が言う言葉ではなかった。

その気遣いが、うれしいよりも切なかった。子どもに気を遣わせている、という事実が、しばらく頭から離れなかった。

年齢を重ねてから里親をすることの難しさは、体力だけではない。

自分たちが先に老いていくという現実が、子どもの将来と交差する場面がある。

「この子が成人する頃、自分たちはどうなっているのか」という問いを、50代の里親は若い里親より早く突きつけられる。

3年間の委託は、実親の状況が安定したことで終わった。

終わりが近づいてきたとき、子どもに何を伝えるべきか分からなかった。「また会えるよ」と言うべきか。

「元気でいてね」と言うべきか。何を言っても嘘になるような気がして、最後の日、結局「ご飯、ちゃんと食べるんだよ」とだけ言った。

子どもは「うん」と言った。それだけだった。

車で送り届けて、帰り道、夫婦どちらも口を開かなかった。家に帰って、子どもが使っていた部屋を見た。

布団だけが残っていた。片付ける気になれなくて、その日は閉めておいた。翌日も、その次の日も、しばらくそのままにしていた。

委託が終わってから、あの子は今どこで何をしているだろうという問いが、定期的に浮かんだ。

誕生日が近づくと思い出した。進学の時期になると思い出した。ニュースで子どもに関わる話題が出ると思い出した。

夢に出てきたこともあった。夢の中では、いつも8歳のままだった。

里親と里子の関係は、委託が終われば法的には何もない。連絡先を交換していたわけでもなく、会いに行く手段もなかった。

ただ祈るように、どこかで元気にしていることを願い続けた。それが11年間だった。

メッセージが来た日の夜、夫婦で長い時間話した。久しぶりに、あの3年間のことを声に出して話した。

あの子が今、19歳になっていること。自分たちのことを思い出してくれていたこと。

それだけで、11年間の問いが少し報われた気がした。「会いたいね」と夫が言った。自分も、そう思った。

その後、数回メッセージのやり取りをした。会うことはまだできていない。それでも、つながっていることが分かっただけで十分だと思っている。

年齢を重ねてから里親をすることには、若い頃とは違う困難がある。

体力の問題、将来の問題、子どもに気を遣わせてしまうかもしれないという問題。それは正直に認めた方がいい。

ただ、50代・60代にしか提供できないものもある。焦らない関わり方、人生経験から来る落ち着き、すでに子育てを経験した安心感。

若い里親家庭では難しい、「おじいちゃんおばあちゃんのような存在」として子どもの居場所になれることもある。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、「終わっても、終わらない」と伝えたい。

委託が終われば関係も終わると思っていた。しかし実際には、終わってからも子どものことを思い続ける時間が続く。

それは喪失ではなく、続いている何かだと、今は思っている。

11年後にメッセージが来た日、それが証明された。

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奈緒さんが来てから、一週間が過ぎた。

その間、遥は変わらなかった。
朝、起きてくる。
朝食を食べる。
学校へ行く。
帰ってくる。
夕飯を食べる。
部屋に戻る。
眠る。
その繰り返しだった。
私も変わらなかった。
学校へ行って、帰って、夕飯を作って、食べた。
二人の生活は、表面だけ見れば、何も変わっていなかった。

変わっていないことが、変わっているのかもしれなかった。

でも確かめる方法がなかった。
遥に「どうだ」と聞けなかった。
「何が」と聞き返されたら、答えられなかった。
体育教師として生徒に話しかけるときは、言葉が出た。
でも遥には、出なかった。

木曜日の夜だった。

私は風呂から上がって、廊下を歩いた。
遥の部屋の前を通った。
ドアが閉まっていた。
いつも閉まっている。
でもその夜は、ドアの隙間から光が漏れていた。
まだ起きていた。

音がした。

小さな音だった。
最初、何の音かわからなかった。
一歩、止まった。
もう一度、聞いた。

泣いていた。

声を殺して、泣いていた。
声を殺していたから、余計に聞こえた。
堪えている音が、ドアの隙間から漏れてきた。

私はドアの前に立った。

ノックしようとした。

右手を上げた。
ドアの前で、止まった。

何を言えばいいか、わからなかった。
「どうした」と言えば、遥が答える。
答えた内容によっては、私が選ばなければならなくなる。
奈緒さんのことだと遥が言ったとき、私は何を言えるか。
大丈夫だと言えるか。
奈緒さんとは終わりにする、と言えるか。
遥が一番大事だと言えるか。

言えるかどうか、わからなかった。

わからないまま、ドアをノックすることが、できなかった。
右手を下ろした。
廊下に立ったまま、しばらくいた。
遥の泣き声が、まだ聞こえていた。
堪えている、細い音だった。
十一歳が声を殺して泣く音だった。

私は自分の部屋に戻った。

ベッドに入った。

天井を見た。
白い天井だった。
暗くて、よく見えなかった。
遥の泣き声が、耳に残っていた。
実際にはもう聞こえなかった。
でも残っていた。

遥が泣いている理由は、わかっていた。

奈緒さんのことだった。
確かめたわけではなかった。
でもわかっていた。
四年間、二人で暮らしてきた。
遥の泣き方を、私は知っていた。
悔しくて泣くときと、寂しくて泣くときと、怖くて泣くときが、違った。
今夜の音は、怖くて泣く音に似ていた。

何が怖いのか。

変わることが怖いのか。
二人の生活が変わることが怖いのか。
それとも、変わった後に自分の居場所がなくなることが怖いのか。

答えを、私は知らなかった。

知らないまま、ドアを開けなかった。
開けられなかった。
開けた先に、自分がまだ用意できていない言葉が待っている気がした。
用意できていない言葉を、遥にぶつけたくなかった。

それは、遥のためだったのか。

自分のためだったのか。
今夜は、区別がつかなかった。

翌朝、遥が台所に来た。

髪が少し寝癖になっていた。
目が、微かに腫れていた。
でも私は言わなかった。
遥も言わなかった。

「おはよう」と遥が言った。

「おはよう」と私は言った。

トーストを焼いた。
二枚、焼けた。
バターを塗った。
二人でテーブルに座った。
遥がトーストをかじった。
私も食べた。

窓から朝の光が入った。

六月の光だった。
柔らかかった。
遥の横顔に、光が当たった。
目の腫れが、光の中でわかった。
私は味噌汁を飲んだ。
熱かった。
喉に落ちた。

二人とも、何も言わなかった。

昨夜のことを言わなかった。
言わないことで、何かが保たれた。
何が保たれたのか、今朝もわからなかった。
ただ、二人で朝食を食べた。
それだけが、今朝の確かなことだった。

遥が「行ってきます」と言った。

「行ってらっしゃい」と私は言った。

ドアが閉まった。
廊下に足音がした。
階段を降りる音がして、消えた。

私は一人で、残ったトーストを食べた。
冷めていた。
バターが固まっていた。
それでも食べた。
窓の外で、どこかで鳥が鳴いた。
六月の朝だった。

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九月の終わり、ショウが学校から持ち帰ったプリントの束の中に、運動会の案内が混じっていた。

私はそれをダイニングテーブルで広げた。

「保護者席:お二人まで」という文字が、太いゴシック体で印刷されていた。

五十四歳の男が、その一行を二度読んだ。

夕食の片付けをしていたノブに見せると、五十二歳の男は「行くでしょ、当然」と言って、また皿を拭き始めた。

私たちが同性愛者であることを、ノブはいつもこうやって、問題の外に置く。

それが頼もしいときと、少し羨ましいときがある。

今夜は両方だった。

ショウに「運動会、行くよ」と伝えたのはノブだった。

八歳の男の子は、テレビを見たまま「来なくていいよ」と言った。

声に棘はなかった。

ただ、平らだった。

私はその平らさの底に何があるのか、夜の間ずっと考えた。

遠慮なのか。

恥ずかしいのか。

それとも、LGBTの里親二人が保護者席に並ぶことで、何か傷つくことが起きると、八歳がすでに計算しているのか。

答えは出なかった。

出ないまま、プリントに名前を書いた。

タカシ。

ノブ。

ペンを走らせながら、来てよかったのかどうか、まだわからないと思っていた。

当日の朝、ショウは七時前に家を出た。

私たちより一時間早かった。

玄関で靴を履きながら、こちらを一度も見なかった。

扉が閉まって、足音が階段を降りていく音を、私はダイニングで聞いていた。

会場に着くと、校庭はもう家族連れで埋まっていた。

秋の日差しが白く、運動場の砂が光っていた。

どこかで焼きそばを作る匂いがした。

母親と父親のペアが、シートを広げてお茶を注いでいた。

入口で受付の係員に声をかけられた。

「お子さんのお名前は?」

「篠原ショウです」

係員はリストを指で辿った。

私は息を止めていた。

「篠原ショウくんですね、どうぞ」

それだけだった。

係員は次の家族に向き直った。

私は五十四年生きてきて、他人にそう言ってもらうことを、こんなに待っていたのかと思った。

同性愛者である私たちが、誰かの保護者として受け付けに名前を呼ばれる。

それだけのことに、足が少し震えた。

ノブが隣で「いい天気だな」と言った。

空を見上げていた。

私たちは並んで保護者席に向かった。

五十四歳と五十二歳の男が、秋の校庭を歩いた。

周囲からいくつかの視線を感じた。

感じながら、歩いた。

来てよかったのかどうか、まだわからなかった。

でも今日、ここに席がある。

それだけは確かだった。

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水曜日の朝、学校から電話が来た。

「お熱が38度4分あります。お迎えをお願いできますか」

受話器を置いて、時計を見た。

午後2時。

会議まであと1時間あった。

私はパソコンを閉じて、上着を取った。

学校の保健室に入ると、彼女はベッドの端に体育座りをしていた。

顔が赤く、目がとろんとしていた。

私を見ても、表情は動かなかった。

「帰ろう」と言うと、ゆっくり立ち上がって、黙って私の後ろをついてきた。

コンビニでスポーツドリンクを買った。

レジ袋がかさかさと鳴る音を聞きながら、私は「好きな味ある?」と聞いた。

彼女は少し考えて、「どれでもいい」と言った。

家に帰って、布団を敷いて、ドリンクをコップに注いで枕元に置いた。

彼女はそのまま横になって、すぐに目を閉じた。

寝息が小さく聞こえ始めるまで、5分もかからなかった。

夜中に2回、熱を測った。

1回目は38度9分。

額に手を当てると、じんわりとした熱が手のひらに伝わってきた。

濡れタオルを作って、そっと額に乗せた。

彼女は薄く目を開けて、また閉じた。

何も言わなかった。

2回目は午前3時。

37度2分。

少し下がっていた。

私はそっと布団をかけ直して、自分の部屋に戻った。

廊下が冷たかった。

翌朝、彼女はケロッとしていた。

トーストを半分食べて、ランドセルを背負って、「行ってきます」と言って玄関を出た。

ドアが閉まる音だけが残った。

ありがとう、は一言もなかった。

その3日後、お弁当を持たせた。

運動会の代休で給食がない日だった。

前夜から卵焼きを巻いて、ミニトマトを洗って、好きだと言っていたから唐揚げも入れた。

彼女は「うん」とだけ言って受け取った。

夕方、弁当箱が戻ってきた。

開けると、唐揚げが2個残っていた。

「なんで残したの」と聞くと、「お腹いっぱいだった」と彼女は言った。

それだけだった。

私はふたを閉めて、流しに持っていった。

お湯をかけながら、なんでこんなに傷ついているんだろうと思った。

残しただけだ。

子どもなんて残す。

わかってる。

でも正直に書く。

傷ついた。

夜、パートナーに話した。

「なんか最近しんどくて」と言うと、「気にしすぎじゃない?」と返ってきた。

笑いながら。

悪気はないとわかっていた。

それでも、その言葉がするりと胃の中に落ちて、冷たく沈んだ。

LGBTのカップルが里親になると決めたとき、二人でいれば大丈夫だと思っていた。

同性愛のパートナーがいるから、一人じゃないと。

でも今夜は、一人だった。

電気を消したあと、天井を見ていた。

暗闇の中で、唐揚げの匂いだけがまだ少し、手に残っていた気がした。

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奈緒さんと会ったのは、金曜日の夜だった。

遥は同級生の家に泊まりに行っていた。
珍しいことだった。
遥が友達の家に泊まるのは、この一年で二度目だった。
奈緒さんと二人で会える夜が、自然にできた。
自然にできたことが、少し後ろめたかった。
後ろめたい理由を、うまく言えなかった。

駅の近くの、小さな居酒屋だった。

カウンターに二人で座った。
奈緒さんがビールを頼んだ。
私も同じものを頼んだ。
グラスが来た。
二人で飲んだ。
奈緒さんが「遥ちゃん、お泊まりなんだね」と言った。
「珍しいだろ」と私は言った。
奈緒さんが「友達がいるんだね」と言った。
笑った。
私も笑った。

笑いながら、遥の夜泣きを思い出した。

しばらく、仕事の話をした。

奈緒さんが担当している生徒のこと。
私が受け持っているクラスのこと。
話しやすい話題だった。
二人とも学校に勤めていた。
共通の話題が、自然に出てきた。
奈緒さんの話し方は、聞きやすかった。
声が穏やかで、言葉を選ぶ人だった。

料理が来た。

枝豆と、だし巻き卵と、焼き鳥が並んだ。
奈緒さんが「食べて」と言った。
私は箸を取った。
だし巻き卵を食べた。
柔らかかった。
出汁の味がした。
奈緒さんも食べた。
しばらく、食べながら話した。

「遥ちゃん、少しずつ慣れてくれるといいね」と奈緒さんが言った。

グラスを持ったまま、言った。
私を見ていた。

「そうだな」と私は言った。

奈緒さんが少し間を置いた。

「私、何か失礼なことしたかな」と言った。

グラスを置いた。
カウンターに目を落としながら言った。
私を見なかった。
聞きたくて聞いたのか、聞かずにいられなくて聞いたのか、わからなかった。
でもその言葉の中に、先週の夕飯からずっと抱えていたものがあった。

「そんなことない」と私は言った。

「料理、口に合わなかったかな」
「うまかったと思う」
「話しかけ方、変だったかな」
「そんなことない」
奈緒さんが「そっか」と言った。
でも顔が、晴れなかった。
私にはわかった。
そんなことない、という言葉が、答えになっていないことが、奈緒さんにはわかっていた。
わかっていて、これ以上聞かなかった。

帰り道、一人で歩いた。

奈緒さんとは駅で別れた。
奈緒さんが「また連絡する」と言った。
私は「ああ」と言った。
改札を入る奈緒さんの背中を見た。
小さくなって、消えた。

私は歩いた。

夜の道だった。
六月だから、風が生ぬるかった。
街灯が続いていた。
人が少なかった。
歩きながら、奈緒さんは悪くない、と思った。

何度思っても、遥の夜泣きが頭から消えなかった。

声を殺して泣いていた音。
廊下に立って、ノックできなかった夜。
翌朝、目が腫れていた遥の横顔。
それが、歩くたびに浮かんだ。

奈緒さんに、言えなかった。

遥が泣いていたことを。
廊下でノックできなかったことを。
翌朝、二人とも何も言わなかったことを。
全部、言えなかった。
言えば、奈緒さんが傷つく。
傷ついた奈緒さんが、遥との距離をもっと慎重に測り始める。
その慎重さが、遥にはもっと伝わらない。

わかっていた。

悪循環だとわかっていた。
でも言えなかった。

交差点で、信号が赤になった。

止まった。
車が通った。
ヘッドライトが、道を照らした。
通り過ぎた。
暗くなった。
信号が青になった。
歩いた。

今夜、私は誰に対しても正直になれなかった。

奈緒さんには「そんなことない」と言った。
遥には何も言えていない。
自分に対しても、何が正しいのかを決められずにいる。
体育教師として、生徒に正直でいることを教えてきた。
正直に話せ、と何度も言ってきた。
自分がいちばん、できていなかった。

アパートに帰った。

遥はいなかった。
部屋が静かだった。
いつもは遥がいる静けさと、いない静けさが、違った。
遥がいない静けさは、広かった。
広くて、少し寒かった。

私はソファに座った。

テレビをつけなかった。
静かな部屋に、一人でいた。
奈緒さんのこと、遥のこと、順番に考えようとした。
でも順番がつかなかった。
どちらが先かを決めると、どちらかを後回しにすることになる。
後回しにできる話ではなかった。

どちらも、大事だった。

どちらも大事だから、動けなかった。
考えるより動くはずの自分が、この問題だけは動けなかった。
ソファに座ったまま、夜が深くなった。

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その日のハナは、玄関を開けた瞬間からちがった。

私は台所に立っていたから、顔は見えなかった。

ただ、ランドセルを下ろす音がいつもより重く、廊下を歩く足音が短かった。

ソウはまだ帰っていない。

家の中に、私とハナの二人だけの静けさがあった。

「おかえり」と私は言った。

「……うん」とハナは言った。

それだけだった。

リビングに来たハナは、ソファに座ってランドセルを膝の上に抱えたまま、テレビもつけずにいた。

私はちらりと横目で見て、それから野菜を切る作業に戻った。

包丁がまな板を叩く音が、妙に大きく響いた。

「手、洗ってきな」と私は言った。

ハナは黙って立ち上がった。

夕食の間、ソウが場を持たせようとした。

今日あった仕事の話、駅前に新しくできたパン屋の話。

ハナは短く相槌を打つだけで、箸があまり進まなかった。

肉と玉ねぎだけ食べて、じゃがいもを残した。

いつもは残さないのに、と私は思ったが、何も言わなかった。

食事が終わると、ハナは「ごちそうさまでした」と言って自分の部屋に戻った。

足音が廊下を遠ざかっていって、ドアが静かに閉まった。

ソウが小声で「どうしたんだろう」と私を見た。

私は首を振った。

皿を洗いながら、私はハナの残したじゃがいもを思い出していた。

ラップをかけて冷蔵庫にしまうとき、何か声をかけるべきだったか、と一度だけ考えた。

でも言葉が出てこなかった。

出てこないまま、冷蔵庫のドアを閉めた。

水道を止めると、家の中がしんとした。

ハナの部屋の電気だけが、廊下の隙間から細く漏れていた。

任務報告

冬になった。

ショウが「タカシさん」と呼んだのは、十二月の平日の朝だった。

特別な日ではなかった。

私が台所で味噌汁を温めていると、背中から声がした。

「タカシさん、これどこに置けばいい?」
振り返ると、ショウが昨夜の洗い物を両手で持って立っていた。

コップが二つ。

自分から片付けようとしたらしかった。

私は「そこの棚」と言いながら、声が少し低くなったのを自分で気づいた。

気づかれなかったと思う。

ショウは「うん」と言ってコップを棚にしまい、ランドセルを取りに自分の部屋へ戻っていった。

それだけだった。

味噌汁をよそいながら、私はしばらく動けなかった。

五十四年間、自分の名前を呼ばれることに、これほど重さを感じたことはなかった。

この子に名前を呼ばれることを、知らないうちに待っていた。

そのことに、呼ばれてから初めて気づいた。

その月の終わり、ショウが熱を出した。

夕方から顔が赤く、夕食をほとんど食べなかった。

体温計を持ってくると、三十八度七分。

ノブはその夜、学校の会議で遅かった。

私一人で、ショウの看病をした。

濡れたタオルを額に当てると、ショウの眉がわずかに緩んだ。

布団の中で小さくなっている八歳を見ながら、私はこの子が家に来てから初めて、自分がこの子の「誰か」になりつつあると思った。

建築の図面を引くような確かさではない。

もっと頼りない、でも確かな感覚だった。

夜中に二度、体温を測った。

三十九度を超えたとき、私は冷却シートを取り替えながら、ショウの寝顔を見た。

苦しそうに眉を寄せて、それでも静かに呼吸していた。

この子はいつも、苦しいときに声を出さない。

運動会の朝も、熱の夜も。

朝方、体温が三十七度台に下がった。

ショウが薄く目を開けた。

天井を見て、それから私を見た。

「タカシさん、ありがとう」
かすれた声だった。

私は「うん」と言って、額のシートを取り替えた。

それ以上何も言わなかった。

言えなかった。

ありがとうと言われることへの返し方を、この子の前では、まだ練習中だ。

ノブが帰ってきたのは、それから一時間後だった。

五十二歳の男は玄関で靴を脱ぎながら「どうだった」と聞いた。

私は「熱、下がった」とだけ言った。

その夜、ショウが寝てから日記を開いた。

今夜書きたいことは一つだけだった。

名前を呼ばれることの意味を、五十四歳になって、八歳の子どもに教わっている。

それだけだ。

それだけのことが、今夜の台所を、少し温かくした。