この子が「ただいま」と言える場所に、自分たちはなれているかもしれない
数日後の夕方、私は台所に立っていた。
玉ねぎを炒めていると、玄関が開く音がした。
ランドセルが壁に当たる音、靴を脱ぐ音。
それからハナの声が聞こえた。
「ただいま」
いつもより少し、大きかった。
私はフライパンを持ったまま「おかえり」と返した。
リビングに入ってきたハナは、ランドセルをソファに下ろして、そのまま私の背中に向かって言った。
「今日ね、ミサちゃんにうちのこと話した」
私は火を少し弱めた。
「そっか」と言った。
「お父さんとお母さんはいないけど、帰ったら『おかえり』って言ってくれる人が二人いるって。
男の人どうしだけどって」
「ミサちゃん、なんて言ってた」
「へえ、いいじゃんって」
それだけだった。
ハナは手を洗いに洗面所へ行って、戻ってきてソファに座った。
私は鍋に出汁を注ぎながら、その「いいじゃん」という言葉を、しばらく頭の中で転がした。
九歳の子どもの友達が、何気なく言った三文字。
それがなぜか、今夜の台所をすこし温かくした。
七時過ぎに玄関が開いて、ソウが帰ってきた。
鞄を廊下に放り投げる音がして、私は「また」と思った。
いつも通りだった。
「ただいまー。あ、いい匂い」
「おかえり」と私が言った。
「おかえり」とハナが言った。
ソウが一瞬、動きを止めた。
それからいつもより少し柔らかい顔で「ただいま」ともう一度言って、リビングに入ってきた。
三人で食卓を囲んだ。
ハナはじゃがいもまで、きれいに食べた。
食事が終わって皿を洗いながら、私は特別なことは何も起きていないと思った。
何かが解決したわけでも、何かが変わったわけでもない。
ただ、この子が「ただいま」と言える場所に、自分たちはなれているかもしれない。
それだけで、今夜の出汁は、少しだけ丁寧にとった。
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