寝室に戻ってから、日記を開いた。ペンを持ったまま、しばらく何も書けなかった
今日、カイが来た。
七歳の男の子は、玄関に立ったまま動かなかった。
紺色のリュックを両手で抱えて、床を見ていた。
ユキが「待ってたよ、入って入って」と言いながら膝をついて目線を合わせた。
四十一歳の女が、迷わずそうできることを、私は少し羨ましいと思った。
私は突っ立ったまま、何も言えなかった。
夕食はユキが作ったカレーだった。甘口にしてあった。
カイはスプーンを小さく動かしながら、ほとんど顔を上げなかった。ユキがしゃべり続けた。
好きな食べ物のこと、近くに公園があること、明日は一緒に散歩しようか、ということ。
カイは短くうなずいた。私は味噌汁を飲んだ。口の中がやけに乾いていた。
食後、ユキが洗い物をしている間、カイとリビングに二人になった。
カイはソファの端に座って、膝の上にリュックを乗せたままだった。
まだ、置く場所が決まっていないのだと思った。私も、何をすればいいか決まっていなかった。
しばらくして、カイが顔を上げた。
「あの……」
私を見ていた。続きを待った。でも続きは来なかった。カイは一度口を閉じて、また床を見た。
「うん」と私は言った。それしか出てこなかった。
寝室に戻ってから、日記を開いた。ペンを持ったまま、しばらく何も書けなかった。
三百人以上の子どもと向き合ってきた四十三年間が、今夜だけ、何の役にも立たなかった。
窓の外で風が鳴った。カイの部屋の電気は、まだついていた。
やっと一行だけ書いた。
今日、この子は私を「あの」と呼んだ。私にはまだ、名前がない。
言の葉( コメント )を届ける
言の葉を届けるには入隊するか里に入る必要があります。