二十七歳の女が、六歳の子どもの「おいしかった」という一言で、言葉を失った。
試作を始めてから、二ヶ月が経った。
その間、ミオは何度も卵焼きを作った。
週に二回、三回のときもあった。
砂糖の量、だしの濃さ、火加減、巻くタイミング。
少しずつ変えながら、少しずつ近づこうとした。
ユイはそのたびに食べた。
「ちがう」とは言わなかった。
でも「おいしい」とも言わなかった。
ただ、食べた。
私はその背中を、毎朝見ていた。
八月の朝だった。
ミオが早番で、六時前に起きた。
私も一緒に起きて、台所でコーヒーを入れた。
夏の朝の空気は湿っていて、窓の外がまだ暗かった。
ミオがエプロンをつけて、卵を三つ割った。
砂糖、だし、醤油を少し。
いつもの順番だった。
フライパンを温めながら、ミオが「今日は弱火でゆっくりやってみる」と言った。
私は「うん」と言ってコーヒーを飲んだ。
卵液を流すと、じわりと広がった。
甘い匂いが立ちのぼった。
ミオが菜箸で端を持ち上げて、ゆっくり巻いた。
二巻き目に差しかかったとき、端がフライパンに当たった。
じゅっという音がした。
「あ、焦げた」
ミオが言いかけた。
私は台所の入口から見ていた。
そのとき、ユイが起きてきた。
寝癖のついた六歳の女の子が、目を細めながら台所を覗いた。
甘い匂いが漂っていた。
ミオがフライパンを傾けて、焦げた端を見せながら「焦げちゃったな」と言った。
ユイが卵焼きを見た。
「それでいい」
静かな声だった。
眠そうな、でも確かな声だった。
ミオが振り返ってユイを見た。
私も見た。
ユイはもう台所に背を向けて、洗面所に向かっていた。
水道の音がした。
朝食の間、誰もその話をしなかった。
ユイは焦げた端の卵焼きを、最初に食べた。
それから真ん中を食べた。
最後の一切れを食べ終えてから「おいしかった」と言った。
ミオが「よかった」と言った。
私は何も言えなかった。
喉の奥で何かが詰まっていた。
二十七歳の女が、六歳の子どもの「おいしかった」という一言で、言葉を失った。
LGBT、同性愛カップルとして里親になってから、うまくいかないことを数えてきた。
書類のこと、周囲の視線のこと、自分たちに足りないもののこと。
でも今朝の「おいしかった」は、そういうものを全部、静かに脇に置いた。
ユイが登校してから、日記を開いた。
今日書きたいことは、「それでいい」という言葉のことだった。
あの卵焼きは、前の家庭の味に完全に近づいたわけじゃないと思う。
私たちにはわからないけれど、たぶんまだちがうところがある。
でもユイは「それでいい」と言った。
諦めじゃないと思いたい。
この家の卵焼きを、この家の味として受け取り始めたということだと、思いたい。
LGBTの同性愛カップルが里親として完璧な家族を作ることは、たぶんできない。
でも「それでいい」と言ってもらえる場所には、なれるかもしれない。
今朝の台所が、そう教えてくれた気がした。
夕方、ミオから短いメッセージが届いた。
「今日、仕事中もずっとユイちゃんの顔が浮かんだ」
私は「私も」とだけ返した。
窓の外で、蝉が鳴いていた。
夏の午後の光が、台所の床に細長く伸びていた。
フライパンはもう洗われて、水切りかごに立てかけてあった。
端が少し黒くなっていた。
私はしばらくそれを見ていた。
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