任務報告

玉ねぎを炒める音だけが、部屋に満ちていた。

私は三十二歳になるまで、誰かのために夕食を作るとき、こんなに手が緊張したことはなかった。

隣の部屋では、ソウが九歳の女の子に話しかけている声がする。よく通る声だ。

初めて会う人間にも、ソウはああして笑えるのだと、十年近く隣にいても、少し羨ましいと思う。

「ハナちゃん、好きな食べ物とかある?」

「……べつに」

「そっかそっか。じゃあ嫌いなものは?」

返事が聞こえなかった。私は黙って火を弱めた。

三人で食卓を囲んだのは、七時を少し過ぎたころだった。

肉じゃがと、味噌汁と、白いご飯。ハナは椅子に浅く座って、最初の一口をゆっくり口に運んだ。

私はそれを、見ていないふりをして見ていた。小さな手が、箸を握っている。

ソウがよくしゃべった。学校のこと、近所のこと、自分が子どものころ好きだったテレビのこと。

三十一歳の男が、九歳の女の子に向かって一生懸命に話している。私は黙って味噌汁を飲んだ。

食事が終わると、ハナは「ごちそうさまでした」と小さく言って、自分の皿を台所に運んだ。

教えてもいないのに。私は「ありがとう」と言いそびれた。

ハナが布団に入ったあと、二人はソファに並んで座った。男どうしで十年、このソファに座ってきた。

今夜はその間に、九歳の子どもの気配がまだ残っていた。

「うまくいくかな」とソウが言った。

私は答えなかった。台所に目をやると、三枚の皿が重なって置いてあった。自分たちの二枚に、もう一枚。

それだけのことが、今夜はやけに重く見えた。

窓の外で、風が鳴った。

任務報告

みなとが生まれたのは、大阪の下町に近いアパートだった。

築三十年を超えた建物で、廊下の端に他の部屋の自転車が積み重なっていた。

母親は当時二十代の半ば。若くして産んだことを後悔している様子はなかったが、どこか生活に疲れているような顔をしていた、と後にみなとは思い返す。

正確には、「思い返そうとしても、顔があまり浮かばない」のだけれど。父親のことは知らない。名前も、どんな人かも。

それを「かわいそう」だと感じたのは、ずっと後のことだ。小さな頃は、それが当たり前だったから。

みなとは、物心ついたときから声を出すことが少なかった。

泣いても誰も来ないことが多かったし、笑っても誰かが一緒に笑ってくれるとは限らなかった。

だから声を出すことのコスト計算が、幼いながらに体に刷り込まれていた。声を出す。誰かが反応する。

その二つが結びつかないまま育ったこどもは、言葉を道具として使うことを覚える前に、沈黙を選ぶことを覚える。

みなとがそうだった。保育園の先生は「おとなしい子」と言った。

それは間違ってはいなかったが、正確でもなかった。おとなしいのではなく、ただ、言葉を出すべき場所がどこなのか、まだ見つけられていなかっただけだ。

小学校に入ってしばらく経ったころ、担任の先生が気づいた。

お弁当を持ってこない日が続いていること。冬なのに上着が薄いこと。授業中、昼を過ぎると集中できなくなること。

先生が声をかけると、みなとは「大丈夫です」と言った。その返事があまりにも整いすぎていて、先生はかえって心配になったという。

一時保護は、その年の初夏に行われた。

母親は抵抗しなかった。疲れていたのか、それとも別の事情があったのか、みなとには分からなかった。

「また迎えに来る」という言葉が最後だった。みなとはそれを信じることも、疑うことも、しばらくはできないでいた。

一時保護所から児童養護施設へ。みなとはそこで約一年を過ごした。

施設の生活は、思ったよりも規則正しかった。起きる時間、ご飯の時間、寝る時間。

それまでの生活にはなかったリズムが、最初は不思議で、やがて少し安心するものに変わっていった。

自分のロッカーがあった。鍵がついていた。それだけのことが、なぜかとても大事に感じた。

友達と呼べる子が一人できた。同じ年の女の子で、よく折り紙を一緒に折った。

会話は少なかったけれど、並んで折り紙をしている時間は嫌いじゃなかった。

その子がある日、別の家に移っていった。みなとは泣かなかった。泣くのが正しいのかどうか、分からなかった。

里親家庭への委託が決まったのは、小学二年生になった秋のことだった。

担当の人から「新しいおうちに行く」と説明を受けたとき、みなとは「どのくらい居るんですか」と聞いた。

大人は少し間を置いてから、「しばらくの予定です」と答えた。

その「しばらく」が何日なのか何年なのか、みなとには分からなかった。

でも聞き返さなかった。聞き返しても、きっと正確な答えは返ってこないと知っていたから。

新しい家の玄関に立ったとき、石鹸と夕飯の匂いがした。

知らない匂いだった。でも不快ではなかった。「いらっしゃい」と言われて、みなとは小さく頭を下げた。

なんと返すのが正しいのか分からなかったから、頭を下げることにした。

食事のとき、みなとはいつも少ししかよそわなかった。お腹が空いていないわけではなかった。

ただ、たくさん取ることで何かが変わってしまうような気がして、いつも控えめにしていた。

「もっと食べていいよ」と言われるたびに、どう反応すればいいか分からなかった。

「ありがとうございます」と言って、それでも少ししか取らなかった。里親の人たちは何も言わなくなった。

怒っているのかと思ったが、違った。ただ待っていてくれていた、と後になって気づく。

夜になると、眠れなかった。暗い天井を見ていると、いろいろなことを考えた。

母親のこと。施設のロッカーに置いてきたもの。折り紙をよく一緒に作っていた子が、今どこにいるのか。

「大丈夫?」と声をかけられると、みなとは「大丈夫です」と答えた。それ以外の答え方を知らなかったから。

ある夜、隣に座ってただ黙っていてくれる人がいた。何も聞かなかった。何も言わなかった。

ただ、そこにいた。

みなとはその夜も「大丈夫です」と言ったけれど、その言葉の意味が、少しだけ変わっていた気がした。

休み時間に、クラスの子たちと外で遊んだ。ドッジボールで、みなとは最後の一人まで残った。

それが嬉しかった。それだけのことだったけれど、帰り道ずっとそのことを考えていた。

夕食の準備をしている背中に向かって、みなとは声をかけた。「あのさ」と言ってから、少し間があった。

「今日、ドッジボールで最後まで残った」

振り向いた顔が、ぱっと明るくなった。「すごいじゃない!」という言葉が返ってきた。

それだけのことだった。でも、みなとはその夜、いつもより早く眠れた。

見た目よりずっと多くのことを、みなとは考えていた。誰かが疲れているとき、怒っているとき、悲しんでいるとき。

それが表情のわずかな変化から分かった。だから先回りして「大丈夫です」と言い、余計なことを話さないようにしてきた。

でも里親の家で過ごすうちに、少しずつ気づいていった。ここでは、自分が話したことで誰かが疲れるわけじゃないかもしれない。

「大丈夫じゃない」と言っても、消えてしまうわけじゃないかもしれない。

それはゆっくりと、気づくか気づかないかの速さで、みなとの中に積もっていった。

みなとが次の場所へ移る日、空は晴れていた。荷物をまとめるとき、折り紙で折った小さなツルが棚に残っているのに気づいた。

施設にいたころから折り方だけ覚えていて、この家でも何度か折った。置いていこうか迷ったけれど、やっぱり持っていくことにした。

玄関で、言おうと思っていた言葉がうまく出てこなかった。「お世話になりました」は言えた。

もう一つ言いたかった言葉は、のどの奥で止まった。車が走り出してから、みなとは窓の外を見た。

家が小さくなっていく。「また来てもいいですか」と聞けばよかった、と気づいたのは、もう曲がり角を過ぎたあとだった。

でも、聞けなかったことが悔しかったということは、つまりそういうことだと、みなとは思った。

雨の日には、あの家の石鹸の匂いを思い出す気がする。まだそこにいるのかどうか、みなとには分からない。

でも、あの匂いはきっと覚えていられると思っている。

任務報告

40代の頃に見たテレビのドキュメンタリーが、最初のきっかけだった。

児童養護施設で暮らす子どもたちの特集で、その中で里親制度が紹介されていた。

言葉は聞いたことがあっても、具体的な仕組みは知らなかった。

番組を見た後、自治体のサイトやパンフレットを調べて、こういう形で子どもを受け入れている家庭が実際にあるのだと初めて実感した。

ただ、知ってすぐに動けたわけではなかった。

子育て経験があるとはいえ、事情を抱えた子どもを迎えることは普通の子育てとは違うと聞いていた。

自分たちに本当にできるのか。途中で自分が投げ出してしまったらどうなるのか。その怖さはなかなか消えなかった。

家族の生活が大きく変わることへの心配もあった。周囲にどう説明すればいいのかも分からなかった。

知っているだけで動けない、そういう時間がしばらく続いた。

動き出すきっかけになったのは、自治体の里親説明会への参加だった。

実際に里親をしている人の話を聞く機会があり、きれいな話ばかりではなく大変な面も率直に語ってくれた。

その正直さが、かえって気持ちを楽にした。「特別な人だけがやることではないのかもしれない」と思えた。

完璧でなくても関わることはできるのではないか。まずは研修を受けてみようと決めたのは、その帰り道のことだった。

子どもが来た最初の頃は、想像していたより距離があった。

来てすぐに打ち解けるような雰囲気ではなく、どこか警戒されている感じがあった。

食事を用意してもほとんど手をつけない。話しかけても短い返事だけが返ってくる。

どう接するのがいいのか分からず、戸惑う日が続いた。家の中に静かな空気が漂っていた。

自分のやり方が間違っているのではないかと考えることもあった。

最もしんどかったのは、夜になると不安定になる時期だった。布団に入ると急に泣き出す。

理由を聞いても、はっきり言葉にできない様子だった。こちらもどうしていいか分からず、ただそばに座って背中をさすることしかできなかった。

それが何日も続くと、正直気持ちが沈んでいった。夫婦でどう接するべきか話し合った夜も何度かあった。

答えは出なかった。ただ、その子のそばにいることだけを続けた。

変化は、小さな形でやってきた。

ある日、学校から帰ってきた子どもが、授業の出来事をぽつぽつと話してくれた。

それまで必要なこと以外ほとんど話さなかった。その変化に、少しだけ心の距離が縮まったのかもしれないと感じた。

大きな出来事ではなかった。ただその日を境に、少しずつ会話が増えていった。

関係というのは、劇的に変わるのではなく、こういう小さな日の積み重ねの先にあるのだと思う。

子どもが家を出た日は、感動的な場面にはならなかった。特別な言葉を交わすわけでもなく、少し照れたような様子で出ていった。こちらも、静かにそれを見送った。

帰った後に部屋を見たとき、急に空っぽに感じた。そこで初めて寂しさが込み上げてきた。

送り出した後の部屋の静けさというのは、なんとも言えないものがある。

振り返ると、よかったという気持ちと、簡単ではなかったという思いの両方がある。

もっと違う関わり方があったのではないかと考えることも今でもある。うまくできたことばかりではなかった。

それでも、あの時間が自分たちの生活の中にあったことは確かだ。無駄だったとは思っていない。

里親をしている間は、子どもの変化ばかり気にしていた。しかし後から振り返ると、自分の考え方もかなり変わっていた。

家庭の形は一つではないということ、人と距離を縮めるには時間が必要だということを、あの経験を通じて強く感じた。

里親を考えている人に伝えたいのは、里親は特別な人だけができるものではないということだ。

ただ、思っている以上に時間と気持ちを使うことは確かで、きれいな話だけを期待して始めると戸惑う場面も多い。

できるだけ多くの話を聞いてから考えてほしいと思う。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、「完璧にやろうとしなくても大丈夫」と言いたい。

最初は正しいやり方を探そうとしてばかりいたが、実際には迷いながら関わっていくしかなかった。

うまくいかない日があっても、それだけで失敗とは限らない。今ならそう思う。

任務報告

午前2時過ぎ、声で目が覚めた。

最初は夢の中の音だと思った。

でも目を開けると、廊下のほうから細い声が聞こえていた。

泣き声、だった。

くぐもっていて、抑えようとしているような、小さな泣き声。

私は布団を出た。

廊下は冷えていて、フローリングが足の裏に冷たかった。

パートナーはまだ眠っていた。

彼女の部屋のドアの前に立って、息を整えた。

ノックしようとして、やめた。

そっとドアを開けた。

豆電球だけがついていた。

彼女は布団の中で膝を抱えていた。

顔を膝に埋めて、肩が小さく震えていた。

部屋の中に、かすかに汗の匂いがした。

「大丈夫?」

声をかけると、震えが一瞬止まった。

顔は上げなかった。

私はそのまま、彼女の隣に座った。

布団の上に、そっと腰を下ろした。

しばらく何も言わなかった。

泣き声が少しずつ小さくなっていった。

部屋の外で、風の音がしていた。

どこか遠くを車が通る音も聞こえた。

私は膝の上に手を置いて、ただ座っていた。

それから彼女は顔を上げないまま、私の腕をつかんだ。

小さな手だった。

力は強かった。

爪が少し食い込むくらい、ぎゅっとつかんでいた。

私は動かなかった。

腕をつかまれたまま、そのままでいた。

どのくらい時間が経ったかわからない。

彼女の呼吸がゆっくりになって、手の力が少しずつ抜けていった。

眠ったのだと思った。

私はそっと腕を引いて、布団をかけ直した。

前髪が額に張り付いていたので、指でそっとよけた。

熱はなかった。

ただ、泣き疲れた顔だった。

朝まで、床に座っていた。

背中が痛かった。

でも立てなかった。

朝になった。

彼女はいつも通りに起きて、いつも通りにトーストを食べて、ランドセルを背負った。

私は台所でコーヒーを入れていた。

玄関で「行ってきます」と言う声が聞こえた。

ドアが開く音がした。

それから、少しだけ間があった。

振り返る気配がした。

ドアが閉まる音がした。

それだけだった。

ありがとうは、なかった。

説明もなかった。

夜のことには、何も触れなかった。

私はコーヒーカップを両手で包んで、温度を確かめるようにしばらく持っていた。

正直に書く。

あの夜、腕をつかまれた瞬間、里親になってよかったと思った。

LGBTのカップルでも、この子の「助けて」を受け取れた、と思った。

同性愛者である私たちのもとに来てくれたこの子が、暗闇の中で私の腕を選んでくれた、と思った。

でも翌朝の日記に、きれいなことだけを書くつもりはない。

私はまだ、ありがとうの一言がほしい。

看病したときも、お弁当を作ったときも、夜中に隣で座っていたときも。

言葉がほしかった。

たった一言でよかった。

それが本音で、それを恥ずかしいとは思わない。

感動した夜だった。

それも本当だ。

でも私はまだ、満たされていない。

その両方が、今夜の私の中にある。

コーヒーが、少しずつ冷めていった。

任務報告

担当の職員さんから少しずつ聞いた話を、私なりにつなぎ合わせると、こういうことだった。

この子の母親は、子どもをとても愛していた。それは本当のことだと思う。ただ、愛することと、育てることは、必ずしも同じではない。

母親自身が、幼いころに安定した家庭を持てなかった人だった。愛の受け取り方も、渡し方も、誰かに教えてもらえないまま大人になった。

だからこの子への愛情は本物でも、それがどういう形で子どもに届くのかは、日によって、気分によって、大きく違った。

機嫌のいい日は抱きしめてくれた。そうでない日は存在ごと無視された。どちらが来るかは、朝起きるまでわからなかった。

この子はそのうち、母親の表情を読むことを覚えた。ドアの開き方、台所から聞こえる音、廊下の足音のリズム。

それらを瞬時に分析して、今日の母親がどちらのモードなのかを判断した。

機嫌がいいと分かれば、愛想よく振る舞った。そうでないと分かれば、気配を消した。七年間で磨き上げられた、サバイバルの技術だった。

記録の中に、母親が残した言葉があった。

「この子には笑っていてほしい。それだけが、私の願いです」

その言葉を読んだとき、最初に感じたのは怒りではなかった。

胸が痛かった。母親もきっと、誰かにそう願ってもらえなかった人だったのだと思った。

そして同時に、この子が初日の玄関で見せたあの整いすぎた笑顔の意味を、ようやく理解した。

あの笑顔は、恐怖から身を守るために覚えたものだったかもしれない。でもそれはきっと、母親の願いに応えようとしてきた証でもあった。

どちらも本当のことだと思う。そしてどちらも、子どもが背負うには重すぎるものだった。

任務報告

担当の職員さんから聞いた話は、断片的だった。それでも、つなぎ合わせていくうちに、一つの輪郭が見えてきた。

その子の父親は、仕事が長続きしない人だったらしい。悪意のある人ではなかったと聞いている。

ただ、思い通りにならないことがあると、感情の制御が利かなくなった。怒鳴り声が家の中に響くことが、日常だった。

母親は止めようとしていた。でも母親自身も、夫の顔色をうかがいながら生活していた。

子どもを守りたい気持ちはあっても、自分を守ることで精一杯だったのだと思う。

そういう家の中で、その子は「問題を起こさないこと」を覚えた。

泣かない。要求しない。怒らない。感情を出すことが、家の空気を壊すと知っていたから。

それは六年かけて体に染み込んだ習慣だった。

その話を聞いたとき、家に来た最初の頃のことを思い返した。

わがままを一切言わなかった理由が、ようやく分かった気がした。あれは「良い子」なのではなかった。感情を出すことが、ずっと許されてこなかったのだ。

静かすぎることを不思議に思っていた自分が、少し恥ずかしかった。

そして同時に、試し行動が始まったあの時期のことも、違って見えてきた。

大切なものを壊し、泣き叫んで暴れたあの数ヶ月。追い詰められて夫婦で泣いた夜もあった。

でも今は思う。あれはきっと、初めて感情を出せた時間だったのかもしれない、と。

怒っても、ここは壊れない。そう確かめていたのかもしれない。

そう考えると、あの苦しかった夜々の意味が、すこし変わって見える。

任務報告

離婚して3年が経った頃、ふとした夜に里親制度のことを調べ始めた。

子どもが欲しいという気持ちは以前からあったが、再婚を前提にしたくはなかった。

誰かと一緒でなければできないことと、一人でもできることの境界線を、その頃よく考えていた。

里親制度のページを開いたのは、そういう夜だった。

最初に気になったのは、単純な疑問だった。シングルでも里親になれるのか。

調べると、法律上は婚姻の有無は問わないと分かった。ただ、実際に一人で子どもを預かっている人の話がなかなか見つからなかった。

モデルケースが見えない中で、自分がその最初の一歩を踏み出せるのかどうか、しばらく迷った。

児童相談所に相談の電話を入れたのは、調べ始めてから半年後だった。

担当者は「シングルの方も里親登録されています」と当たり前のように言った。

その一言で、ずっと感じていた「例外的な申請をしているのかもしれない」という居心地の悪さが消えた。

周囲からは心配する声もあった。

「一人で大丈夫?」「何かあったときに頼れる人はいるの?」仕事をしながら、子どもの急な呼び出しにも対応できるのか。

体調を崩したときはどうするのか。確かにその不安は本物だった。

ただ、一人であることには別の側面もあった。夫婦間で方針が食い違うことがない。

誰かと合意を取らなくても、自分の判断で動ける。子どもへの接し方も、ルールの決め方も、全部自分で決められる。

その自由さが、むしろ子どもにとってシンプルで分かりやすい環境をつくれるのではないかと、次第に思えるようになった。

委託されたのは小学1年生の女の子だった。人見知りが強く、最初の一週間はほとんど声を出さなかった。

食事のときも、お風呂のときも、こちらの様子をじっと観察しているようだった。

二人きりの家は、静かだった。それが心地よい静けさなのか、張り詰めた静けさなのか、最初は判断できなかった。

仕事から帰って夕食を作り、二人で食べて、宿題を見て、寝かしつける。その繰り返しの中で、少しずつ会話が生まれていった。

一人であることが、むしろ良かった場面もあった。二人きりだからこそ、子どもの小さな変化に気づきやすかった。

今日は少し多くしゃべった、今日は自分から手を洗いに行った、今日は笑った。

そういう細かな変化を、誰かと共有しなくても自分の中で積み重ねていけた。

最もきつかったのは、子どもが高熱を出した夜だった。38度を超えて、夜中に何度も目が覚める。

氷枕を取り替えて、水を飲ませて、体温を測る。それを繰り返しながら、ふと「もし私が倒れたら」と考えた。

一人であることの孤独が、その夜だけ重くのしかかった。翌朝、熱が下がったとき、子どもが「ありがとう」と言った。

か細い声だったが、はっきり聞こえた。それまで「ありがとう」を自分から言ったことがなかった子だった。

しんどかった夜の分が、その一言で報われたような気がした。

委託から8ヶ月が経った頃、子どもが「お母さん」と呼んだ。

それまでは名前で呼んでいた。自分もそれを自然なことだと思っていたし、無理に呼ばせようとも思っていなかった。

その日は学校から帰ってきて、玄関で靴を脱ぎながら、何気なく「お母さん、ただいま」と言った。

子ども自身も、少し驚いたような顔をした。こちらも何も言えなかった。ただ「おかえり」と返した。それだけだった。

その夜、子どもが眠った後に一人で泣いた。誰かに報告する相手もいなかったが、それでよかった。あの瞬間は、二人だけのものだったから。

職場には、直属の上司にだけ里親であることを伝えた。

急な発熱や学校行事での早退があることを事前に話しておかないと、子どもに何かあったときに動けない。

上司は「分かった、できる範囲で調整しよう」と言ってくれた。それ以上でも以下でもなかったが、十分だった。

一番困ったのは、学童の問題だった。里親家庭であることを学童の担当者に伝えるかどうかで悩んだ。

結局、事情を説明した。対応は思っていたより丁寧で、子どもへの余計な詮索もなかった。

事前に伝えることへの恐れが、実際より大きかったと後から感じた。

一人で里親をすることは、想像より孤独ではなかった。もちろん誰かと話し合えたらと思う場面もあった。

しかし一人だからこそ、子どもと真正面から向き合う時間が持てたとも思う。

里親を考えているシングルの人に伝えたいのは、「パートナーがいないこと」は里親になれない理由にはならないということだ。

むしろ、二人でなくとも家庭はつくれる。大切なのは人数ではなく、その子どもの安心できる場所になれるかどうかだと、今は思っている。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、「一人でも、ちゃんとできるよ」と言いたい。

任務報告

そらが生まれたのは、桜の花が散ったあとの、雨の多い春だった。

母親は当時二十三歳。父親については、出生届にも名前がなかった。

母は決して悪い人ではなかった、とそらは後にそう思うことになる。

ただ、誰かに頼る術を知らない人だった。自分のことで精一杯で、小さな命を抱えながらも、どうしていいか分からないまま日々をやり過ごしていた。

アパートの一室。カーテンが昼間も閉まっていることが多かった。

冷蔵庫にあるものを食べ、なければ食べなかった。

泣いてもすぐに抱き上げてもらえないことに、そらはいつしか慣れた。

泣くことをやめたのは、二歳になる前だったと、後に担当のケースワーカーが記録に残している。

四歳のとき、近所の住人からの通報をきっかけに、そらは一時保護された。

母親は施設への入所に同意したが、面会には一度も来なかった。

児童養護施設での生活は、悪いものではなかった。

ご飯は毎日あった。清潔な服を着ることができた。

職員の人たちは忙しそうだったけれど、そらのことを嫌いではなさそうだった。

ただ、ここも「自分の場所」だという感覚は、なかなか持てなかった。

部屋には自分のロッカーがあって、なかに小さなぬいぐるみをひとつだけ入れていた。

水色のクマで、名前はつけていなかった。名前をつけると、離れるときに悲しくなる気がしたから。

そらが里親家庭に移ったのは、小学二年生になった年の秋だった。

初日、玄関のドアを開けた瞬間、知らないにおいがした。

掃除の洗剤と、夕飯の匂いと、誰かの生活のにおい。

「いらっしゃい」と言われたとき、なんと返していいか分からなくて、そらはただ頷いた。

夜になると、怖かった。

暗さが怖いのではない。静かすぎることが、怖かった。

施設では誰かが必ずそこにいて、廊下から物音がした。

ここの夜は、しんとしている。その静けさのなかで、自分がどこにいるのか分からなくなる感覚があった。

布団の中で、水色のクマをぎゅっと握った。

泣かなかった。泣き方を、よく知らなかったから。

学校で、給食のおかわりじゃんけんに勝った日のことだった。

いつもなら黙って鞄を置いて、部屋に行くだけだったのに、そらはなぜかその話をしたくなった。

台所に立っているうしろ姿に向かって、「あのさ」と声をかけた。

「今日、じゃんけんで勝って、コロッケもう一個食べた」

振り向いた顔が、なんだかとても嬉しそうだった。

それが不思議だった。たったそれだけの話なのに、あんなに嬉しそうにするなんて、と。

その夜は、すこし早く眠れた気がした。

人の顔色を読む力が、人よりずっと早く育っていた。

大人が疲れているときや、困っているときが、表情を見ただけで分かった。

だから余計なことを言わないようにしていた。心配させないようにしていた。

それは身を守るために覚えたことだったけれど、

その家で過ごすうちに、すこしずつ、その必要がないときもあるのかもしれないと思い始めていた。

そらが家を出た朝、空は曇っていた。

玄関でちゃんとお礼を言おうと思っていたのに、いざとなると言葉が出てこなかった。

かわりに、「またご飯食べに来てもいいですか」とだけ聞いた。

「もちろん」という答えが返ってきた。

車に乗り込んでから、窓の外を一度だけ振り返った。

手を振る姿が見えた。そらも、小さく手を振った。

水色のクマは、リュックの中に入っていた。

旅立ちのとき初めて、そらはそのクマに名前をつけようと思った。

どんな名前にしようか、車の中でずっと考えていた。

そらはまだ、答えを出していない。それでいいと、思っている。

任務報告

40歳を過ぎた頃、長く続けてきた不妊治療に区切りをつけた。

年齢的にも体力的にも限界を感じ、夫婦で「これからの人生をどう過ごすか」を話し合うようになった。

そのとき初めて、子どもを育てる方法は実子だけではないのかもしれないと思った。

養子縁組について調べ始めたのが最初だった。その流れで里親制度の存在を知った。

それまで「里親」という言葉は聞いたことがあっても、実際にどういう制度なのかはほとんど知らなかった。

自治体のホームページや体験談を読みながら、「こういう形で子どもを受け入れている家庭があるんだ」と、少しずつ興味を持つようになっていった。

調べれば調べるほど、やってみたいという気持ちが強くなっていった。しかし夫はかなり慎重だった。

子どもを受け入れることは、生活も働き方も大きく変わることを意味する。責任も重い。

「中途半端な気持ちで始めるべきではない」という夫の言葉は、反論できないものだった。

自分たちに本当に務まるのか、という不安もあった。愛情だけではどうにもならない場面もあるのではないか。

途中で疲れてしまったらどうするのか。しばらくは資料を読んだり説明会の情報を眺めたりするだけで、申し込みには踏み出せなかった。

「もしやるならどういう形なら続けられるか」を、夫婦で何度も話し合いながら少しずつ考えていった。

動き出すきっかけになったのは、自治体の説明会への参加だった。

担当職員の話を聞き、すでに里親をしているご夫婦の体験を聞くうちに、インターネットで調べていた頃とは違う感覚が生まれた。

特に印象に残ったのは、「最初から完璧にできる人はいない」という話だった。

困ったことがあれば一緒に考えていく仕組みがある。「自分たちだけで全部背負うわけではないんだ」と気持ちが少し軽くなった。

帰り道、夫とこんな話をした。「無理そうなら相談しながら考えればいいし、まずは一歩だけ踏み出してみようか」。

完璧な自信があったわけではない。ただ「やらないまま後悔するより、一度向き合ってみよう」と思えた。

それが動き出したきっかけだった。

子どもが来た最初の頃、どう接していいのか分からず戸惑うことが多かった。

もっと会話があったり、少しずつ距離が縮まっていくのかなと想像していたが、実際はかなり静かな時間が続いた。

必要なことには答えてくれるが、自分から話すことはほとんどない。こちらもどこまで踏み込んでいいのか迷ってしまった。

食事の時間一つとっても、何を出せばいいのか、どこまでこちらのルールを伝えていいのかが分からなかった。

夫婦で毎日のように「これでよかったのかな」と話した。相手にとっては初めての環境かもしれないと思うと、何をするにも慎重になった。

一番戸惑ったのは、「良かれと思ってしたこと」が必ずしも相手にとって良いとは限らないと感じたことだった。

距離を縮めようとして話しかけすぎてしまったり、気を遣いすぎてよそよそしくなってしまったり、そのバランスがつかめなかった。

最初の頃は「家族になる」というより、「同じ家で生活することにお互い慣れる」だけで精一杯だったと思う。

最もしんどかったのは、生活のルールをめぐって子どもと衝突したときだった。

学校から帰ってきたあと、約束していた時間になってもゲームをやめようとしない日があった。

「そろそろ終わりにしようか」と声をかけたが無視された。何度か言ううちに、子どもが急に強い口調で反発してきた。

そのとき言われた言葉が、「どうせまた別のところに行くんでしょ」だった。

こちらはゲームの時間の話をしているつもりだったのに、子どもにとってはもっと別の不安や不信感があった。

頭では分かっていても、実際にその言葉を向けられると、かなりこたえた。

その日の夜、夫婦であとから話したときも意見が食い違ってしまった。

「どこまで厳しくしていいのか」「普通の家庭と同じように叱っていいのか」。二人とも疲れていた。

今振り返ると、その子にとっては「また居場所が変わるかもしれない」という不安がずっとあったのだと思う。

ただそのときは余裕がなく、「どうすればよかったんだろう」と悩む時間が長く続いた。

変化は、小さな場面で訪れた。

夕食の準備をしていたある日、台所に子どもがやってきて「今日のご飯なに?」と聞いてきた。

それまで必要なこと以外ほとんど話しかけてこなかっただけに、その一言が意外だった。

そのあと「手伝おうか」と言って、テーブルにお皿を並べてくれた。

特別な会話があったわけでも、感動的な場面だったわけでもない。それでも「この家の生活の中に少し入ってきてくれたのかな」と感じた。

その頃から、学校の話をしてくれたり、テレビを見ながら感想を言ったりすることが少しずつ増えていった。

関係が一気に変わったわけではなく、こういう小さな出来事が積み重なって、距離が少しずつ近づいていったのだと思う。

近所にはこちらから積極的に説明することはしなかった。子どもが周囲から特別な目で見られることを避けたかった。

ただ、学校関係や自治会など関わりが出る場面では「里親として子どもを預かっています」とだけ伝えた。

それ以上深く聞かれることはほとんどなく、「何かあれば言ってください」と声をかけてもらうこともあり、思っていたより自然に受け入れてもらえた。

職場には上司とごく近い同僚にだけ話した。

「里親制度で子どもを受け入れることになりました」とシンプルに伝えると、否定的な反応はなく落ち着いて聞いてもらえた。

今振り返ると、思っていたほど特別な説明をする必要はなかったと感じている。

子どもが家を出た日は、大きな引っ越しという感じではなかった。

荷物もそれほど多くなく、思っていたよりあっさりした一日だった。

玄関で「元気でね」と送り出したあとも、実感があまり湧かず、しばらくは普段通りに家のことをしていた。

その日の夜、静かになった家の中で「ああ、もうこの家で一緒にご飯を食べることはないのかもしれないな」と思ったとき、寂しさが少し込み上げてきた。

泣くほどではなかったが、ぽっかりと空いたような感覚があった。

「この家で過ごした時間が、少しでもあの子の中に残ってくれていたらいいな」と思いながら、静かに一日を終えた。

今振り返ると、「よかった」と言い切れる部分と、「簡単ではなかった」と感じる部分の両方がある。

悩むことも多く、夫婦でぶつかることもあった。きれいな思い出ばかりではない。

それでも、あの時間が無意味だったとはまったく思わない。

子どもと一緒に生活した日々は、楽しいことも大変なことも含めて、自分たちの人生の中でとても濃い時間だった。

自分の考え方や人との向き合い方も、あの経験を通して少し変わった気がする。

「すべてが良かった」と美談のように言うつもりはない。でも「やらなければよかった」とも思っていない。

もしあのとき何もせずに終わっていたら、きっと今とは違う後悔をしていた。

そういう意味で、あの経験は自分たちにとって大切な時間だったと思っている。

里親を考えている人に一番伝えたいのは、「最初から理想の家族になろうとしなくてもいい」ということだ。

子どもとの距離がなかなか縮まらない時期もある。「自分は向いていないのでは」と悩むこともある。

最初からうまくいく家庭ばかりではないということは、あまり知られていない気がする。

完璧にできるかどうかを考えすぎて動けなくなるより、「できる範囲で向き合っていく」という考え方でもいいのではないかと思う。

一緒にご飯を食べる、学校の話を少し聞く、テレビを見ながら笑う。そういう何気ない時間が、あとから振り返ると一番印象に残っている。

特別な家庭じゃなくても続けていくことはできる。完璧ではなかったけれど、それでも一緒に過ごした時間は確かにあった。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、「全部をうまくやろうとしなくていい」と伝えたい。

目の前の一日を一緒に過ごしていくこと自体に、意味があるのだから。