再婚と里親の間5 「しばらく、別のおうちにいてほしい」と私は言った。

任務報告

奈緒さんに連絡したのは、翌週の月曜日だった。

「話したいことがある」とメッセージを送った。
奈緒さんからすぐに返信が来た。
「いつでも」と書いてあった。
そのたった三文字が、重かった。
いつでも、という言葉の中に、待っていた時間があった。

水曜日の夜、また同じ居酒屋に行った。

カウンターに二人で座った。
ビールを頼んだ。
グラスが来た。
でも今夜は乾杯しなかった。
私がグラスを持たなかったから、奈緒さんも持たなかった。
先に話すべきだと思った。

「遥のことを、正直に話す」と私は言った。

奈緒さんが頷いた。

全部話した。

先月の夜、廊下で遥の泣き声を聞いたこと。
ノックできなかったこと。
翌朝、二人とも何も言わなかったこと。
先週、遥の部屋に入って話したこと。
「お父さんが好きならいいんじゃない」という言葉のこと。

話しながら、奈緒さんの顔を見た。

奈緒さんは黙って聞いていた。
グラスを両手で持ったまま、聞いていた。
表情が、途中で一度だけ動いた。
遥の言葉を話したとき。
「お父さんが好きならいいんじゃない」と私が言ったとき、奈緒さんの目が、少し揺れた。
でも何も言わなかった。
最後まで、聞いていた。

話し終えた。

カウンターが静かになった。
隣の席で、誰かが笑っていた。
居酒屋の音が、遠かった。

奈緒さんがグラスを置いた。

「遥ちゃん、そんなこと考えてたんだね」と言った。
責める声ではなかった。
ただ、言った。

「ああ」と私は言った。

「私が来るたびに、測ってたんだね。
この人は信用できるかって」
「そう見えた」
奈緒さんが少し黙った。
「私、遥ちゃんに好かれようとしてたかもしれない」と言った。
「好かれようとして、空回りしてたかもしれない」
私は何も言えなかった。
否定できなかった。
でも奈緒さんを責める気持ちもなかった。
好かれようとすることの、どこが悪いのか。
悪くなかった。
ただ、遥には届かなかった。
それだけのことだった。

「わかった」と奈緒さんが言った。

わかった、という言葉の意味を、私はすぐには聞けなかった。

別れを受け入れたのか。
待つということなのか。
距離を置くということなのか。
その言葉の中に何があるのか、聞かなければわからなかった。
でも聞けなかった。
聞いてしまえば、奈緒さんが答えを出さなければならなくなる。
今夜、それを求めるのは違う気がした。

「ありがとう」と奈緒さんが言った。
「話してくれて」
私は頷いた。

二人でビールを飲んだ。
冷えていた。
苦かった。
外が雨になっていた。
居酒屋の窓に、雨粒が当たった。
七月の雨だった。

その夜、帰ってから、私は遥の部屋をノックした。

「どうぞ」と遥が言った。

入ると、遥がベッドで本を読んでいた。
私は机の前の椅子に座った。
先週と同じ場所だった。

「話がある」と私は言った。

遥が本を閉じた。
膝の上に置いた。
私を見た。

「しばらく、別のおうちにいてほしい」と私は言った。
「里親、という制度がある。
遥のことをちゃんと迎えてくれる家が、ある」
遥が黙った。

私は続けた。
遥のためでも、奈緒さんのためでもなく、全部のためだと言おうとした。
でも言葉がうまく出なかった。
出てきたのは、別の言葉だった。

「俺が、まだ準備できていなかった。
遥と二人の生活を、ちゃんと守れていなかった。
それが先にある」
遥が下を向いた。
指がパジャマをつまんだ。
いつもの癖だった。

「お父さんは」と遥が言った。

「お父さんはここにいる」と私は言った。
「どこにも行かない」

遥が黙った。

長い沈黙だった。
外の雨が、窓を叩いていた。
七月の雨音だった。
本棚の本が、きれいに並んでいた。
遥の手が、パジャマをつまんだまま、止まっていた。

「わかった」と遥が言った。

先週の「わかった」より、重かった。
先週は場所を譲った「わかった」だった。
今夜は違った。
お父さんがここにいると言ったから、わかった。
その違いが、私にはわかった。

「遥」と私は言った。

「なに」
「お前に譲らせた。
すまなかった」
遥が顔を上げた。
私を見た。
目が、少し赤かった。
でも泣かなかった。
唇をきつく結んで、私を見た。

「べつに」と遥が言った。

二度目の「べつに」だった。
先週と同じ言葉だった。
でも今夜の「べつに」は、声が震えていなかった。
まっすぐ出てきた言葉だった。

部屋を出た。

廊下に出て、ドアを閉めた。
雨の音が続いていた。
私はしばらく廊下に立った。

誰かが場所を譲った。

大人が譲った。
奈緒さんが「わかった」と言った。
私が遥に正直に話した。
遥は譲らなくてよかった。
そのことだけが、今夜の私には十分だった。
十分かどうかは、本当はわからなかった。
奈緒さんの「わかった」の意味も、これからどうなるかも、まだ何もわからなかった。

でも今夜、遥が泣かなかった。

声を殺さずに、まっすぐ「べつに」と言えた。
それだけが、今夜の確かなことだった。

廊下を歩いた。

台所に行って、水を一杯飲んだ。
冷たかった。
喉を通って、腹に落ちた。
窓の外で、雨が続いていた。
七月の雨だった。
明日も降るかもしれなかった。
明日のことは、明日になればわかる。

今夜は、それだけでよかった。

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