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合言葉を失った

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任務報告の型 : 芽の呼吸:根付きの型

里親家庭での生活の中で心が少しずつ開いていった過程の記録。警戒が解けていった瞬間、初めて笑えた日、ここが「家」だと感じた瞬間。劇的な変化ではなく日常の小さな積み重ねの中で起きた変化を記録することで里親と里子の関係構築のリアルが伝わる。

任務報告

照子さんに電話したのは、土曜日の朝だった。

さおりはまだ寝ていた。

私は台所でコーヒーを淹れて、窓際に座った。

外は曇っていた。

雨になるかもしれない空だった。

電話をかけようと思ったのは、昨夜ではなかった。

昨夜は、さおりと話してから布団に入ったが、やはりなかなか眠れなかった。

スマートフォンを手に取っては置いて、取っては置いてを繰り返した。

検索はしなかった。

でも眠れなかった。

朝になって、コーヒーを飲みながら、今日かけようと思った。

今日かけなければ、また先延ばしにする気がした。

さおりに「言えるときに言えばいい」と言われたが、言えるときはいつまで待っても来ないかもしれない。

来ないまま、検索だけを続けるのは、もう嫌だった。

スマートフォンを取り出して、照子さんの番号を開いた。

発信ボタンを押す前に、少し考えた。

何を話すか。

全部話すか。

全部話せるか。

答えが出ないまま、押した。

三回コールして、照子さんが出た。

「ことは、珍しい。土曜日の朝に」
照子さんの声は、いつも通りだった。

穏やかで、少しゆっくりした話し方。

六十一歳になった今も、変わっていなかった。

その声を聞いた瞬間、少し息ができた気がした。

「おはようございます」と私は言った。

「急に電話してすみません」
「いいのよ、嬉しいわ。どうかした?」
どうかした、という問いに、すぐに答えられなかった。

「特に用事があるわけじゃないんですけど」と私は言った。

「声が聞きたくて」
「そう」と照子さんは言った。

嬉しそうな声だった。

しばらく、近況を話した。

仕事のこと、さおりとの共同生活のこと、最近読んだ本のこと。

照子さんは聞き上手で、相槌が自然だった。

話しやすかった。

話しながら、今日は全部話せるかもしれないと思った。

でも、話せなかった。

「実母を検索した」という言葉が、出てこなかった。

代わりに、少しだけ近い言葉を言った。

「最近、実親のことを考えることがあって」
照子さんが、少し間を置いた。

電話口の沈黙だった。

数秒だったと思う。

でも私には長く感じた。

「そうね」と照子さんは言った。

「考えることがあって当然よ」
当然よ、という言葉が、やさしかった。

責める言葉ではなかった。

否定する言葉でもなかった。

ただ、当然だと言った。

でも「当然」という言葉が、少し重く響いた。

当然のことを、二十四年間保留にしてきた。

里子として生きてきた二十四年間、実親のことを考えないようにしてきた。

当然考えていいことを、考えないようにしていた。

それを「当然よ」と言われると、なぜ今まで保留にしてきたのかという問いが、逆に来た。

「照子さんは、嫌じゃないですか」と私は言った。

「何が?」
「私が実親のことを考えることが」
照子さんがまた、少し間を置いた。

「嫌じゃないわよ」と照子さんは言った。

「あなたが実親のことを考えるのは、自然なことだから」
自然なこと、という言葉も、やさしかった。

でも私は、「検索した」とは言えなかった。

自然なことと、実際に検索して画面を一時間見ていたこととの間に、距離があった。

考えることと、行動することは、違う。

照子さんに「自然なこと」と言われたのは、考えることについてだった。

検索したことについてではなかった。

その違いが、今日は話せなかった理由だった。

しばらくして、照子さんが「武志さんが庭にいるから、呼んでくる?」と言った。

「大丈夫です」と私は言った。

「また電話します」
「いつでもかけてきてね」と照子さんは言った。

「嬉しいから」
電話を切った。

コーヒーが冷めていた。

一口飲んだ。

冷たかった。

里親として照子さんが育ててくれた七年間、私は安全だった。

その安全の上に、今の私が立っている。

それはわかっていた。

でも今日、検索したことを話せなかった。

話せなかったことへの後悔は、あった。

でも話せなかったことへの安心も、少しあった。

その二つが同時にあることが、自分でもよくわからなかった。

照子さんの「当然よ」という言葉は、本物のやさしさだった。

でもそのやさしさを、今日の私は全部受け取れなかった。

受け取れる日が来るかどうか、わからなかった。

窓の外が、少し明るくなっていた。

雨にはならなかったらしかった。

曇ったままだったが、光が差し始めていた。

さおりが起きてきた。

「おはよう」と言いながら、目をこすった。

「おはよう」と私は言った。

「電話してた?」
「照子さんに」
「話せた?」とさおりが聞いた。

「少しだけ」と私は答えた。

それが今日の正直な答えだった。

任務報告

遺品整理を終えて駅に向かう途中、あかねから電話がかかってきた。

四十歳で、同じ会社の総務部に勤めている岩本あかねは、私が里親家庭で育ったことを知っている唯一の友人だ。

話したのは三年前、会社の飲み会の帰り道だった。

酔っていたわけでもなかった。

ただ、そのとき急に、誰かに話したくなった。

あかねは驚いた顔をしたが、何も言わなかった。

「そうだったんだね」とだけ言って、それ以上聞かなかった。

それが、私には楽だった。

「どうだった?」とあかねは聞いた。

「うまく説明できない」と私は答えた。

「無理に説明しなくていいよ」
それだけだった。

電話は三分も続かなかった。

でも、切ったあとに少し、息ができた気がした。

家に帰ったのは夜の八時過ぎだった。

健一は夕食を作って待っていた。

テーブルに並んだ料理を見たとき、ふいに涙が出そうになった。

泣かなかった。

でも、出そうになった。

それが遺品整理を終えて、初めての感情らしい感情だった。

食事をしながら、私はしばらく黙っていた。

健一も何も聞かなかった。

食器を片付けたあと、私はソファに座って、持ち帰った段ボール箱をもう一度開いた。

アルバムを一冊取り出して、最初のページを開いた。

遠足の写真。

笑っている私と、隣に立つ清子さん。

「清子さんに、ありがとうって言えなかった」
気がついたら、声に出していた。

健一に向けた言葉ではなかった。

ただ、声に出さずにいられなかった。

健一は黙って、私の隣に座った。

何も言わなかった。

それでよかった。

言葉をもらっても、たぶん受け取れなかった。

ただ隣にいてくれることが、そのときの私にはちょうどよかった。

里親として清子さんが私にしてくれたことは、数えればきりがない。

食事を作ること、学校の行事に来ること、体調を崩したときに看ること。

でも私が今、思い出すのはそういうことではなかった。

廊下ですれ違ったときの気配とか、テレビを見ながら笑っていた横顔とか、雨の日に傘を二本持って校門の前に立っていた姿とか。

言葉にならない、小さなことばかりだった。

「ありがとう」は、相手に届けるためだけにある言葉じゃないのかもしれない、と私は思った。

届けられなかった「ありがとう」は、消えたわけではない。

私の中のどこかに、ずっとあったのだと思う。

うまく取り出せないまま、形にならないまま、でも確かにそこにあった。

清子さんはもういない。

でも、その「ありがとう」は今も私の中にある。

それは本物だと思う。

届かなくても、本物だったと思う。

アルバムをもう一度閉じた。

健一が「お茶、飲む?」と聞いた。

私は「うん」と答えた。

台所でお湯を沸かす音がした。

それを聞きながら、私は段ボール箱の中に「さやかのこと」という文字を見つけた日のことを思った。

あの文字を書いたとき、清子さんは何を思っていたのだろう。

わからない。

たぶん、これからもわからない。

でも、わからないままでいい、と初めて思えた気がした。

任務報告

そらが生まれたのは、桜の花が散ったあとの、雨の多い春だった。

母親は当時二十三歳。父親については、出生届にも名前がなかった。

母は決して悪い人ではなかった、とそらは後にそう思うことになる。

ただ、誰かに頼る術を知らない人だった。自分のことで精一杯で、小さな命を抱えながらも、どうしていいか分からないまま日々をやり過ごしていた。

アパートの一室。カーテンが昼間も閉まっていることが多かった。

冷蔵庫にあるものを食べ、なければ食べなかった。

泣いてもすぐに抱き上げてもらえないことに、そらはいつしか慣れた。

泣くことをやめたのは、二歳になる前だったと、後に担当のケースワーカーが記録に残している。

四歳のとき、近所の住人からの通報をきっかけに、そらは一時保護された。

母親は施設への入所に同意したが、面会には一度も来なかった。

児童養護施設での生活は、悪いものではなかった。

ご飯は毎日あった。清潔な服を着ることができた。

職員の人たちは忙しそうだったけれど、そらのことを嫌いではなさそうだった。

ただ、ここも「自分の場所」だという感覚は、なかなか持てなかった。

部屋には自分のロッカーがあって、なかに小さなぬいぐるみをひとつだけ入れていた。

水色のクマで、名前はつけていなかった。名前をつけると、離れるときに悲しくなる気がしたから。

そらが里親家庭に移ったのは、小学二年生になった年の秋だった。

初日、玄関のドアを開けた瞬間、知らないにおいがした。

掃除の洗剤と、夕飯の匂いと、誰かの生活のにおい。

「いらっしゃい」と言われたとき、なんと返していいか分からなくて、そらはただ頷いた。

夜になると、怖かった。

暗さが怖いのではない。静かすぎることが、怖かった。

施設では誰かが必ずそこにいて、廊下から物音がした。

ここの夜は、しんとしている。その静けさのなかで、自分がどこにいるのか分からなくなる感覚があった。

布団の中で、水色のクマをぎゅっと握った。

泣かなかった。泣き方を、よく知らなかったから。

学校で、給食のおかわりじゃんけんに勝った日のことだった。

いつもなら黙って鞄を置いて、部屋に行くだけだったのに、そらはなぜかその話をしたくなった。

台所に立っているうしろ姿に向かって、「あのさ」と声をかけた。

「今日、じゃんけんで勝って、コロッケもう一個食べた」

振り向いた顔が、なんだかとても嬉しそうだった。

それが不思議だった。たったそれだけの話なのに、あんなに嬉しそうにするなんて、と。

その夜は、すこし早く眠れた気がした。

人の顔色を読む力が、人よりずっと早く育っていた。

大人が疲れているときや、困っているときが、表情を見ただけで分かった。

だから余計なことを言わないようにしていた。心配させないようにしていた。

それは身を守るために覚えたことだったけれど、

その家で過ごすうちに、すこしずつ、その必要がないときもあるのかもしれないと思い始めていた。

そらが家を出た朝、空は曇っていた。

玄関でちゃんとお礼を言おうと思っていたのに、いざとなると言葉が出てこなかった。

かわりに、「またご飯食べに来てもいいですか」とだけ聞いた。

「もちろん」という答えが返ってきた。

車に乗り込んでから、窓の外を一度だけ振り返った。

手を振る姿が見えた。そらも、小さく手を振った。

水色のクマは、リュックの中に入っていた。

旅立ちのとき初めて、そらはそのクマに名前をつけようと思った。

どんな名前にしようか、車の中でずっと考えていた。

そらはまだ、答えを出していない。それでいいと、思っている。

任務報告

担当の職員さんから聞いた話は、断片的だった。それでも、つなぎ合わせていくうちに、一つの輪郭が見えてきた。

その子の父親は、仕事が長続きしない人だったらしい。悪意のある人ではなかったと聞いている。

ただ、思い通りにならないことがあると、感情の制御が利かなくなった。怒鳴り声が家の中に響くことが、日常だった。

母親は止めようとしていた。でも母親自身も、夫の顔色をうかがいながら生活していた。

子どもを守りたい気持ちはあっても、自分を守ることで精一杯だったのだと思う。

そういう家の中で、その子は「問題を起こさないこと」を覚えた。

泣かない。要求しない。怒らない。感情を出すことが、家の空気を壊すと知っていたから。

それは六年かけて体に染み込んだ習慣だった。

その話を聞いたとき、家に来た最初の頃のことを思い返した。

わがままを一切言わなかった理由が、ようやく分かった気がした。あれは「良い子」なのではなかった。感情を出すことが、ずっと許されてこなかったのだ。

静かすぎることを不思議に思っていた自分が、少し恥ずかしかった。

そして同時に、試し行動が始まったあの時期のことも、違って見えてきた。

大切なものを壊し、泣き叫んで暴れたあの数ヶ月。追い詰められて夫婦で泣いた夜もあった。

でも今は思う。あれはきっと、初めて感情を出せた時間だったのかもしれない、と。

怒っても、ここは壊れない。そう確かめていたのかもしれない。

そう考えると、あの苦しかった夜々の意味が、すこし変わって見える。

任務報告

担当の職員さんから少しずつ聞いた話を、私なりにつなぎ合わせると、こういうことだった。

この子の母親は、子どもをとても愛していた。それは本当のことだと思う。ただ、愛することと、育てることは、必ずしも同じではない。

母親自身が、幼いころに安定した家庭を持てなかった人だった。愛の受け取り方も、渡し方も、誰かに教えてもらえないまま大人になった。

だからこの子への愛情は本物でも、それがどういう形で子どもに届くのかは、日によって、気分によって、大きく違った。

機嫌のいい日は抱きしめてくれた。そうでない日は存在ごと無視された。どちらが来るかは、朝起きるまでわからなかった。

この子はそのうち、母親の表情を読むことを覚えた。ドアの開き方、台所から聞こえる音、廊下の足音のリズム。

それらを瞬時に分析して、今日の母親がどちらのモードなのかを判断した。

機嫌がいいと分かれば、愛想よく振る舞った。そうでないと分かれば、気配を消した。七年間で磨き上げられた、サバイバルの技術だった。

記録の中に、母親が残した言葉があった。

「この子には笑っていてほしい。それだけが、私の願いです」

その言葉を読んだとき、最初に感じたのは怒りではなかった。

胸が痛かった。母親もきっと、誰かにそう願ってもらえなかった人だったのだと思った。

そして同時に、この子が初日の玄関で見せたあの整いすぎた笑顔の意味を、ようやく理解した。

あの笑顔は、恐怖から身を守るために覚えたものだったかもしれない。でもそれはきっと、母親の願いに応えようとしてきた証でもあった。

どちらも本当のことだと思う。そしてどちらも、子どもが背負うには重すぎるものだった。

任務報告

みなとが生まれたのは、大阪の下町に近いアパートだった。

築三十年を超えた建物で、廊下の端に他の部屋の自転車が積み重なっていた。

母親は当時二十代の半ば。若くして産んだことを後悔している様子はなかったが、どこか生活に疲れているような顔をしていた、と後にみなとは思い返す。

正確には、「思い返そうとしても、顔があまり浮かばない」のだけれど。父親のことは知らない。名前も、どんな人かも。

それを「かわいそう」だと感じたのは、ずっと後のことだ。小さな頃は、それが当たり前だったから。

みなとは、物心ついたときから声を出すことが少なかった。

泣いても誰も来ないことが多かったし、笑っても誰かが一緒に笑ってくれるとは限らなかった。

だから声を出すことのコスト計算が、幼いながらに体に刷り込まれていた。声を出す。誰かが反応する。

その二つが結びつかないまま育ったこどもは、言葉を道具として使うことを覚える前に、沈黙を選ぶことを覚える。

みなとがそうだった。保育園の先生は「おとなしい子」と言った。

それは間違ってはいなかったが、正確でもなかった。おとなしいのではなく、ただ、言葉を出すべき場所がどこなのか、まだ見つけられていなかっただけだ。

小学校に入ってしばらく経ったころ、担任の先生が気づいた。

お弁当を持ってこない日が続いていること。冬なのに上着が薄いこと。授業中、昼を過ぎると集中できなくなること。

先生が声をかけると、みなとは「大丈夫です」と言った。その返事があまりにも整いすぎていて、先生はかえって心配になったという。

一時保護は、その年の初夏に行われた。

母親は抵抗しなかった。疲れていたのか、それとも別の事情があったのか、みなとには分からなかった。

「また迎えに来る」という言葉が最後だった。みなとはそれを信じることも、疑うことも、しばらくはできないでいた。

一時保護所から児童養護施設へ。みなとはそこで約一年を過ごした。

施設の生活は、思ったよりも規則正しかった。起きる時間、ご飯の時間、寝る時間。

それまでの生活にはなかったリズムが、最初は不思議で、やがて少し安心するものに変わっていった。

自分のロッカーがあった。鍵がついていた。それだけのことが、なぜかとても大事に感じた。

友達と呼べる子が一人できた。同じ年の女の子で、よく折り紙を一緒に折った。

会話は少なかったけれど、並んで折り紙をしている時間は嫌いじゃなかった。

その子がある日、別の家に移っていった。みなとは泣かなかった。泣くのが正しいのかどうか、分からなかった。

里親家庭への委託が決まったのは、小学二年生になった秋のことだった。

担当の人から「新しいおうちに行く」と説明を受けたとき、みなとは「どのくらい居るんですか」と聞いた。

大人は少し間を置いてから、「しばらくの予定です」と答えた。

その「しばらく」が何日なのか何年なのか、みなとには分からなかった。

でも聞き返さなかった。聞き返しても、きっと正確な答えは返ってこないと知っていたから。

新しい家の玄関に立ったとき、石鹸と夕飯の匂いがした。

知らない匂いだった。でも不快ではなかった。「いらっしゃい」と言われて、みなとは小さく頭を下げた。

なんと返すのが正しいのか分からなかったから、頭を下げることにした。

食事のとき、みなとはいつも少ししかよそわなかった。お腹が空いていないわけではなかった。

ただ、たくさん取ることで何かが変わってしまうような気がして、いつも控えめにしていた。

「もっと食べていいよ」と言われるたびに、どう反応すればいいか分からなかった。

「ありがとうございます」と言って、それでも少ししか取らなかった。里親の人たちは何も言わなくなった。

怒っているのかと思ったが、違った。ただ待っていてくれていた、と後になって気づく。

夜になると、眠れなかった。暗い天井を見ていると、いろいろなことを考えた。

母親のこと。施設のロッカーに置いてきたもの。折り紙をよく一緒に作っていた子が、今どこにいるのか。

「大丈夫?」と声をかけられると、みなとは「大丈夫です」と答えた。それ以外の答え方を知らなかったから。

ある夜、隣に座ってただ黙っていてくれる人がいた。何も聞かなかった。何も言わなかった。

ただ、そこにいた。

みなとはその夜も「大丈夫です」と言ったけれど、その言葉の意味が、少しだけ変わっていた気がした。

休み時間に、クラスの子たちと外で遊んだ。ドッジボールで、みなとは最後の一人まで残った。

それが嬉しかった。それだけのことだったけれど、帰り道ずっとそのことを考えていた。

夕食の準備をしている背中に向かって、みなとは声をかけた。「あのさ」と言ってから、少し間があった。

「今日、ドッジボールで最後まで残った」

振り向いた顔が、ぱっと明るくなった。「すごいじゃない!」という言葉が返ってきた。

それだけのことだった。でも、みなとはその夜、いつもより早く眠れた。

見た目よりずっと多くのことを、みなとは考えていた。誰かが疲れているとき、怒っているとき、悲しんでいるとき。

それが表情のわずかな変化から分かった。だから先回りして「大丈夫です」と言い、余計なことを話さないようにしてきた。

でも里親の家で過ごすうちに、少しずつ気づいていった。ここでは、自分が話したことで誰かが疲れるわけじゃないかもしれない。

「大丈夫じゃない」と言っても、消えてしまうわけじゃないかもしれない。

それはゆっくりと、気づくか気づかないかの速さで、みなとの中に積もっていった。

みなとが次の場所へ移る日、空は晴れていた。荷物をまとめるとき、折り紙で折った小さなツルが棚に残っているのに気づいた。

施設にいたころから折り方だけ覚えていて、この家でも何度か折った。置いていこうか迷ったけれど、やっぱり持っていくことにした。

玄関で、言おうと思っていた言葉がうまく出てこなかった。「お世話になりました」は言えた。

もう一つ言いたかった言葉は、のどの奥で止まった。車が走り出してから、みなとは窓の外を見た。

家が小さくなっていく。「また来てもいいですか」と聞けばよかった、と気づいたのは、もう曲がり角を過ぎたあとだった。

でも、聞けなかったことが悔しかったということは、つまりそういうことだと、みなとは思った。

雨の日には、あの家の石鹸の匂いを思い出す気がする。まだそこにいるのかどうか、みなとには分からない。

でも、あの匂いはきっと覚えていられると思っている。