任務報告

40代の頃に見たテレビのドキュメンタリーが、最初のきっかけだった。

児童養護施設で暮らす子どもたちの特集で、その中で里親制度が紹介されていた。

言葉は聞いたことがあっても、具体的な仕組みは知らなかった。

番組を見た後、自治体のサイトやパンフレットを調べて、こういう形で子どもを受け入れている家庭が実際にあるのだと初めて実感した。

ただ、知ってすぐに動けたわけではなかった。

子育て経験があるとはいえ、事情を抱えた子どもを迎えることは普通の子育てとは違うと聞いていた。

自分たちに本当にできるのか。途中で自分が投げ出してしまったらどうなるのか。その怖さはなかなか消えなかった。

家族の生活が大きく変わることへの心配もあった。周囲にどう説明すればいいのかも分からなかった。

知っているだけで動けない、そういう時間がしばらく続いた。

動き出すきっかけになったのは、自治体の里親説明会への参加だった。

実際に里親をしている人の話を聞く機会があり、きれいな話ばかりではなく大変な面も率直に語ってくれた。

その正直さが、かえって気持ちを楽にした。「特別な人だけがやることではないのかもしれない」と思えた。

完璧でなくても関わることはできるのではないか。まずは研修を受けてみようと決めたのは、その帰り道のことだった。

子どもが来た最初の頃は、想像していたより距離があった。

来てすぐに打ち解けるような雰囲気ではなく、どこか警戒されている感じがあった。

食事を用意してもほとんど手をつけない。話しかけても短い返事だけが返ってくる。

どう接するのがいいのか分からず、戸惑う日が続いた。家の中に静かな空気が漂っていた。

自分のやり方が間違っているのではないかと考えることもあった。

最もしんどかったのは、夜になると不安定になる時期だった。布団に入ると急に泣き出す。

理由を聞いても、はっきり言葉にできない様子だった。こちらもどうしていいか分からず、ただそばに座って背中をさすることしかできなかった。

それが何日も続くと、正直気持ちが沈んでいった。夫婦でどう接するべきか話し合った夜も何度かあった。

答えは出なかった。ただ、その子のそばにいることだけを続けた。

変化は、小さな形でやってきた。

ある日、学校から帰ってきた子どもが、授業の出来事をぽつぽつと話してくれた。

それまで必要なこと以外ほとんど話さなかった。その変化に、少しだけ心の距離が縮まったのかもしれないと感じた。

大きな出来事ではなかった。ただその日を境に、少しずつ会話が増えていった。

関係というのは、劇的に変わるのではなく、こういう小さな日の積み重ねの先にあるのだと思う。

子どもが家を出た日は、感動的な場面にはならなかった。特別な言葉を交わすわけでもなく、少し照れたような様子で出ていった。こちらも、静かにそれを見送った。

帰った後に部屋を見たとき、急に空っぽに感じた。そこで初めて寂しさが込み上げてきた。

送り出した後の部屋の静けさというのは、なんとも言えないものがある。

振り返ると、よかったという気持ちと、簡単ではなかったという思いの両方がある。

もっと違う関わり方があったのではないかと考えることも今でもある。うまくできたことばかりではなかった。

それでも、あの時間が自分たちの生活の中にあったことは確かだ。無駄だったとは思っていない。

里親をしている間は、子どもの変化ばかり気にしていた。しかし後から振り返ると、自分の考え方もかなり変わっていた。

家庭の形は一つではないということ、人と距離を縮めるには時間が必要だということを、あの経験を通じて強く感じた。

里親を考えている人に伝えたいのは、里親は特別な人だけができるものではないということだ。

ただ、思っている以上に時間と気持ちを使うことは確かで、きれいな話だけを期待して始めると戸惑う場面も多い。

できるだけ多くの話を聞いてから考えてほしいと思う。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、「完璧にやろうとしなくても大丈夫」と言いたい。

最初は正しいやり方を探そうとしてばかりいたが、実際には迷いながら関わっていくしかなかった。

うまくいかない日があっても、それだけで失敗とは限らない。今ならそう思う。

任務報告

午前2時過ぎ、声で目が覚めた。

最初は夢の中の音だと思った。

でも目を開けると、廊下のほうから細い声が聞こえていた。

泣き声、だった。

くぐもっていて、抑えようとしているような、小さな泣き声。

私は布団を出た。

廊下は冷えていて、フローリングが足の裏に冷たかった。

パートナーはまだ眠っていた。

彼女の部屋のドアの前に立って、息を整えた。

ノックしようとして、やめた。

そっとドアを開けた。

豆電球だけがついていた。

彼女は布団の中で膝を抱えていた。

顔を膝に埋めて、肩が小さく震えていた。

部屋の中に、かすかに汗の匂いがした。

「大丈夫?」

声をかけると、震えが一瞬止まった。

顔は上げなかった。

私はそのまま、彼女の隣に座った。

布団の上に、そっと腰を下ろした。

しばらく何も言わなかった。

泣き声が少しずつ小さくなっていった。

部屋の外で、風の音がしていた。

どこか遠くを車が通る音も聞こえた。

私は膝の上に手を置いて、ただ座っていた。

それから彼女は顔を上げないまま、私の腕をつかんだ。

小さな手だった。

力は強かった。

爪が少し食い込むくらい、ぎゅっとつかんでいた。

私は動かなかった。

腕をつかまれたまま、そのままでいた。

どのくらい時間が経ったかわからない。

彼女の呼吸がゆっくりになって、手の力が少しずつ抜けていった。

眠ったのだと思った。

私はそっと腕を引いて、布団をかけ直した。

前髪が額に張り付いていたので、指でそっとよけた。

熱はなかった。

ただ、泣き疲れた顔だった。

朝まで、床に座っていた。

背中が痛かった。

でも立てなかった。

朝になった。

彼女はいつも通りに起きて、いつも通りにトーストを食べて、ランドセルを背負った。

私は台所でコーヒーを入れていた。

玄関で「行ってきます」と言う声が聞こえた。

ドアが開く音がした。

それから、少しだけ間があった。

振り返る気配がした。

ドアが閉まる音がした。

それだけだった。

ありがとうは、なかった。

説明もなかった。

夜のことには、何も触れなかった。

私はコーヒーカップを両手で包んで、温度を確かめるようにしばらく持っていた。

正直に書く。

あの夜、腕をつかまれた瞬間、里親になってよかったと思った。

LGBTのカップルでも、この子の「助けて」を受け取れた、と思った。

同性愛者である私たちのもとに来てくれたこの子が、暗闇の中で私の腕を選んでくれた、と思った。

でも翌朝の日記に、きれいなことだけを書くつもりはない。

私はまだ、ありがとうの一言がほしい。

看病したときも、お弁当を作ったときも、夜中に隣で座っていたときも。

言葉がほしかった。

たった一言でよかった。

それが本音で、それを恥ずかしいとは思わない。

感動した夜だった。

それも本当だ。

でも私はまだ、満たされていない。

その両方が、今夜の私の中にある。

コーヒーが、少しずつ冷めていった。

任務報告

担当の職員さんから少しずつ聞いた話を、私なりにつなぎ合わせると、こういうことだった。

この子の母親は、子どもをとても愛していた。それは本当のことだと思う。ただ、愛することと、育てることは、必ずしも同じではない。

母親自身が、幼いころに安定した家庭を持てなかった人だった。愛の受け取り方も、渡し方も、誰かに教えてもらえないまま大人になった。

だからこの子への愛情は本物でも、それがどういう形で子どもに届くのかは、日によって、気分によって、大きく違った。

機嫌のいい日は抱きしめてくれた。そうでない日は存在ごと無視された。どちらが来るかは、朝起きるまでわからなかった。

この子はそのうち、母親の表情を読むことを覚えた。ドアの開き方、台所から聞こえる音、廊下の足音のリズム。

それらを瞬時に分析して、今日の母親がどちらのモードなのかを判断した。

機嫌がいいと分かれば、愛想よく振る舞った。そうでないと分かれば、気配を消した。七年間で磨き上げられた、サバイバルの技術だった。

記録の中に、母親が残した言葉があった。

「この子には笑っていてほしい。それだけが、私の願いです」

その言葉を読んだとき、最初に感じたのは怒りではなかった。

胸が痛かった。母親もきっと、誰かにそう願ってもらえなかった人だったのだと思った。

そして同時に、この子が初日の玄関で見せたあの整いすぎた笑顔の意味を、ようやく理解した。

あの笑顔は、恐怖から身を守るために覚えたものだったかもしれない。でもそれはきっと、母親の願いに応えようとしてきた証でもあった。

どちらも本当のことだと思う。そしてどちらも、子どもが背負うには重すぎるものだった。

任務報告

アパートに帰ったのは、夜の八時過ぎだった。

冷蔵庫から缶ビールを出して、ソファに座った。

テレビをつけたが、何も頭に入らなかった。

結局消して、暗い部屋で缶を傾けた。

こういう夜が、たまにある。

何かがあったわけではないのに、うまく切り替えられない夜が。

実母の顔を、私はほとんど覚えていない。

六歳のとき、実母が蒸発した。

朝起きたら、家に誰もいなかった。

近所の人が気づいて、児童相談所に連絡した。

施設に入って、しばらくして里親制度で吉田家に引き取られた。

その一連のことを、私は記憶の断片としてしか持っていない。

施設の廊下の蛍光灯の白さ。

担当者の女性が履いていた黒いパンプス。

それくらいだ。

実母の顔は、出てこない。

覚えていないことを、ずっと普通のことだと思ってきた。

六歳の記憶など、誰だって曖昧なものだ。

特別なことではない。

そう自分に言い聞かせてきた。

でも今日、松田に「似てる」と言われた瞬間、私は無意識に何かを探した。

覚えていないはずの顔を、頭の中で探していた。

見つからなかった。

当然だった。

吉田家に連れていかれた夜のことは、少し覚えている。

里親の吉田康夫さんは当時五十歳で、元大工だった。

三年前に六十八歳で他界している。

初めて会ったとき、康夫さんは玄関に立って、私を見下ろした。

大きな人だった。

無口で、表情が読めなかった。

正直、怖かった。

幸子さんは当時四十五歳で、康夫さんとは対照的によく笑う人だった。

「ご飯食べようね」と言って、台所に連れていってくれた。

夕食は肉と野菜の炒め物だった。

おいしかった記憶はあるが、食べたのか食べていないのか、はっきりしない。

康夫さんと初めてちゃんと向き合ったのは、吉田家に来て一週間ほど経ったころだった。

縁側で康夫さんが木を削っていた。

私はすることがなくて、ただそこに座った。

康夫さんは何も言わなかった。

私も何も言わなかった。

しばらくそうしていると、康夫さんが小さな木片を私の手のひらに置いた。

何の説明もなかった。

ただ、渡された。

木片は、不思議とあたたかかった。

削りたての木の、やわらかいにおいがした。

それが吉田家での最初の安心だった、と今なら言える。

あのとき六歳の私には、安心という言葉はなかった。

ただ、もう少しここにいてもいい気がした。

それだけだった。

缶ビールを飲み干して、もう一本取りに行く気にもなれなかった。

三十五歳の私が今さら考えていることを、六歳の私は何も考えていなかった。

血がつながるとはどういうことか。

似ているとはどういうことか。

里親家庭で育つとはどういうことか。

そんな問いを持つ言葉を、六歳の私はまだ持っていなかった。

持っていなくてよかったと思う。

あのころ余計なことを考えなかったから、縁側で康夫さんの隣に座れた。

木片を受け取れた。

そういうことだったかもしれない。

でも三十五歳の私は、今日から少し、考え始めてしまった気がした。

部屋の棚に、あの木片がある。

六歳のとき康夫さんからもらって、三十五歳の今も捨てられずにいる。

引っ越しのたびに持ち歩いてきた。

なぜ捨てられないのか、自分でもよくわからない。

ただ、手放す気になれなかった。

暗い部屋で、私は棚の方向をしばらく見ていた。

任務報告

担当の職員さんから聞いた話は、断片的だった。それでも、つなぎ合わせていくうちに、一つの輪郭が見えてきた。

その子の父親は、仕事が長続きしない人だったらしい。悪意のある人ではなかったと聞いている。

ただ、思い通りにならないことがあると、感情の制御が利かなくなった。怒鳴り声が家の中に響くことが、日常だった。

母親は止めようとしていた。でも母親自身も、夫の顔色をうかがいながら生活していた。

子どもを守りたい気持ちはあっても、自分を守ることで精一杯だったのだと思う。

そういう家の中で、その子は「問題を起こさないこと」を覚えた。

泣かない。要求しない。怒らない。感情を出すことが、家の空気を壊すと知っていたから。

それは六年かけて体に染み込んだ習慣だった。

その話を聞いたとき、家に来た最初の頃のことを思い返した。

わがままを一切言わなかった理由が、ようやく分かった気がした。あれは「良い子」なのではなかった。感情を出すことが、ずっと許されてこなかったのだ。

静かすぎることを不思議に思っていた自分が、少し恥ずかしかった。

そして同時に、試し行動が始まったあの時期のことも、違って見えてきた。

大切なものを壊し、泣き叫んで暴れたあの数ヶ月。追い詰められて夫婦で泣いた夜もあった。

でも今は思う。あれはきっと、初めて感情を出せた時間だったのかもしれない、と。

怒っても、ここは壊れない。そう確かめていたのかもしれない。

そう考えると、あの苦しかった夜々の意味が、すこし変わって見える。

任務報告

照子さんの家から帰ったのは、夜の八時過ぎだった。

電車の中で、ぼんやりと窓の外を見ていた。

来るときに見た景色を、逆方向にたどっていった。

緑の多い景色から、少しずつ建物の密集した景色に戻っていった。

疲れていた。

泣いたからかもしれなかった。

話したからかもしれなかった。

でも疲れの種類が、ここ一週間の疲れとは違った。

何かを抱えたまま眠れない夜の疲れではなく、何かを下ろしてきた後の疲れだった。

アパートに帰ると、さおりがいた。

「おかえり」と言いながら、さおりが顔を見た。

「泣いた?」
「泣いた」と私は正直に言った。

「照子さんに、全部話せた?」
「全部話せた」
「よかった」とさおりは言った。

それだけだった。

それ以上聞いてこなかった。

いつものさおりだった。

夕食を食べて、お風呂に入って、部屋に戻った。

ベッドに座って、スマートフォンを手に取った。

今夜も開くだろう、と思っていた。

照子さんに全部話せても、アカウントへの気持ちがなくなったわけではなかった。

検索をやめると決めたわけでもなかった。

SNSのアプリを開いた。

検索履歴に、「山下恵」という文字があった。

一週間以上、そこにあり続けた文字だった。

三つのアカウントを、もう一度見た。

プロフィール写真のない鍵アカウント、「yuki_m_1980」。

中年女性らしき写真のアカウント。

明らかに別人の若い女性のアカウント。

今夜は、一時間ではなかった。

五分で、画面を閉じた。

閉じることができた。

閉じながら、なぜ閉じられたのかを考えた。

答えが出たからではなかった。

フォローするかどうかを決めたからでもなかった。

会いたいのかどうかも、まだわからなかった。

でも今夜は、閉じられた。

照子さんに話したことで、何かが変わった気がした。

「怖かったのね」という言葉が、一週間引きずってきたものに名前をつけてくれた。

怖い、という感情に名前がついたことで、少し扱えるようになった気がした。

スマートフォンを、枕元に置いた。

翌朝、目が覚めたとき、スマートフォンを手に取らなかった。

いつもなら、目が覚めた瞬間に手が伸びていた。

今日は伸びなかった。

支度をして、朝食を食べて、出勤する準備をした。

その間、検索しなかった。

意識してやめたわけではなかった。

ただ、今日は手が動かなかった。

職場に着いて、業務を始めた。

原稿を読みながら、今日一日検索しなかったことに、昼過ぎに気づいた。

気づいたとき、特別なことだとは思わなかった。

ただ、今日はそうだった、と思った。

退勤して、帰り道の電車に乗った。

スマートフォンを取り出した。

SNSを開いた。

でも「山下恵」とは検索しなかった。

タイムラインを少し見て、アプリを閉じた。

それだけだった。

アパートに帰って、さおりと夕食を食べた。

今日の職場の話をした。

さおりが笑った。

私も笑った。

いつもの夜だった。

夜、部屋に一人になってから、ノートを開いた。

先週カフェで書いた、実母について知っていることが書いてあるページを開いた。

三行しかなかったページだった。

その下に、今日の日付を書いた。

そして一行書いた。

「照子さんに、全部話した」
それだけ書いて、ノートを閉じた。

里子として育った私には、実母についての空白がある。

その空白は、今日も埋まっていない。

「yuki_m_1980」が実母かどうかも、わからないままだった。

フォローするかどうかも、決めていなかった。

会いたいのかどうかも、まだわからなかった。

でも今日、一つのことが変わった。

検索することと、しないことの間に、自分の意志が戻ってきた気がした。

引きずられて開くのではなく、開くかどうかを自分で決める。

今夜開かないのは、やめると決めたからではなかった。

今夜は開かない、と思ったから、開かなかった。

その違いが、今日の自分には大きかった。

里親として照子さんが育ててくれた七年間は、私の土台だった。

その土台の上に、実母への問いがある。

どちらかを選ばなくていい、と照子さんは言った。

その言葉が、今日も頭にあった。

土台があるから、問いを持てる。

問いを持つことで、土台の意味がわかる。

二つは、矛盾しなかった。

窓の外に、夜の住宅街が広がっていた。

どの家にも明かりがついていた。

それぞれの家に、それぞれの事情があった。

言えないことと、言えるようになったことが、あの明かりの数だけあった。

私の部屋にも、明かりがついていた。

スマートフォンを手に取った。

SNSを開かなかった。

代わりに、照子さんにメッセージを送った。

「今日も、ありがとうございました。また行きます」
すぐに返信が来た。

「待ってるわよ。ゆっくりおいで」
スマートフォンを置いた。

部屋の電気が、白く部屋を照らしていた。

実母のことは、まだわからない。

フォローするかどうかも、会いたいのかどうかも。

わからないことは、たくさんあった。

でも今夜は、わからないことをわからないまま抱えて、眠れる気がした。

それで十分だと思った。

電気を消した。

暗い部屋の中で、照子さんの「ゆっくりおいで」という言葉が、まだ温かかった。

任務報告

離婚して3年が経った頃、ふとした夜に里親制度のことを調べ始めた。

子どもが欲しいという気持ちは以前からあったが、再婚を前提にしたくはなかった。

誰かと一緒でなければできないことと、一人でもできることの境界線を、その頃よく考えていた。

里親制度のページを開いたのは、そういう夜だった。

最初に気になったのは、単純な疑問だった。シングルでも里親になれるのか。

調べると、法律上は婚姻の有無は問わないと分かった。ただ、実際に一人で子どもを預かっている人の話がなかなか見つからなかった。

モデルケースが見えない中で、自分がその最初の一歩を踏み出せるのかどうか、しばらく迷った。

児童相談所に相談の電話を入れたのは、調べ始めてから半年後だった。

担当者は「シングルの方も里親登録されています」と当たり前のように言った。

その一言で、ずっと感じていた「例外的な申請をしているのかもしれない」という居心地の悪さが消えた。

周囲からは心配する声もあった。

「一人で大丈夫?」「何かあったときに頼れる人はいるの?」仕事をしながら、子どもの急な呼び出しにも対応できるのか。

体調を崩したときはどうするのか。確かにその不安は本物だった。

ただ、一人であることには別の側面もあった。夫婦間で方針が食い違うことがない。

誰かと合意を取らなくても、自分の判断で動ける。子どもへの接し方も、ルールの決め方も、全部自分で決められる。

その自由さが、むしろ子どもにとってシンプルで分かりやすい環境をつくれるのではないかと、次第に思えるようになった。

委託されたのは小学1年生の女の子だった。人見知りが強く、最初の一週間はほとんど声を出さなかった。

食事のときも、お風呂のときも、こちらの様子をじっと観察しているようだった。

二人きりの家は、静かだった。それが心地よい静けさなのか、張り詰めた静けさなのか、最初は判断できなかった。

仕事から帰って夕食を作り、二人で食べて、宿題を見て、寝かしつける。その繰り返しの中で、少しずつ会話が生まれていった。

一人であることが、むしろ良かった場面もあった。二人きりだからこそ、子どもの小さな変化に気づきやすかった。

今日は少し多くしゃべった、今日は自分から手を洗いに行った、今日は笑った。

そういう細かな変化を、誰かと共有しなくても自分の中で積み重ねていけた。

最もきつかったのは、子どもが高熱を出した夜だった。38度を超えて、夜中に何度も目が覚める。

氷枕を取り替えて、水を飲ませて、体温を測る。それを繰り返しながら、ふと「もし私が倒れたら」と考えた。

一人であることの孤独が、その夜だけ重くのしかかった。翌朝、熱が下がったとき、子どもが「ありがとう」と言った。

か細い声だったが、はっきり聞こえた。それまで「ありがとう」を自分から言ったことがなかった子だった。

しんどかった夜の分が、その一言で報われたような気がした。

委託から8ヶ月が経った頃、子どもが「お母さん」と呼んだ。

それまでは名前で呼んでいた。自分もそれを自然なことだと思っていたし、無理に呼ばせようとも思っていなかった。

その日は学校から帰ってきて、玄関で靴を脱ぎながら、何気なく「お母さん、ただいま」と言った。

子ども自身も、少し驚いたような顔をした。こちらも何も言えなかった。ただ「おかえり」と返した。それだけだった。

その夜、子どもが眠った後に一人で泣いた。誰かに報告する相手もいなかったが、それでよかった。あの瞬間は、二人だけのものだったから。

職場には、直属の上司にだけ里親であることを伝えた。

急な発熱や学校行事での早退があることを事前に話しておかないと、子どもに何かあったときに動けない。

上司は「分かった、できる範囲で調整しよう」と言ってくれた。それ以上でも以下でもなかったが、十分だった。

一番困ったのは、学童の問題だった。里親家庭であることを学童の担当者に伝えるかどうかで悩んだ。

結局、事情を説明した。対応は思っていたより丁寧で、子どもへの余計な詮索もなかった。

事前に伝えることへの恐れが、実際より大きかったと後から感じた。

一人で里親をすることは、想像より孤独ではなかった。もちろん誰かと話し合えたらと思う場面もあった。

しかし一人だからこそ、子どもと真正面から向き合う時間が持てたとも思う。

里親を考えているシングルの人に伝えたいのは、「パートナーがいないこと」は里親になれない理由にはならないということだ。

むしろ、二人でなくとも家庭はつくれる。大切なのは人数ではなく、その子どもの安心できる場所になれるかどうかだと、今は思っている。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、「一人でも、ちゃんとできるよ」と言いたい。

任務報告

幸子さんの家を訪ねたのは、浩二と飲んだ翌々週の日曜日だった。

特別な用事があったわけではない。

ただ、行きたくなった。

浩二に「康夫さんに似てきた」と言われてから、なぜかずっと幸子さんの顔が浮かんでいた。

電話でもよかったが、今回は直接会いたかった。

最寄り駅から歩いて七分。

道を、体が覚えていた。

角を曲がるタイミング、坂の手前にある小さな公園、吉田家の手前の電柱に巻きついた蔦。

子どものころと変わっていないものと、変わっているものが混在していた。

変わっていないものを見るたびに、六歳の自分がどこかから覗いている気がした。

七十歳の幸子さんは、インターフォンを押すより先に玄関を開けた。

「来ると思ってたわ」と言った。

「なんでですか」
「なんとなく」と笑った。

二年前に電話で言われた「なんとなく」と、同じ笑い方だった。

台所でお茶を飲んだ。

幸子さんが出してくれた煎餅を食べながら、特に意味のない話をした。

幸子さんの近所付き合いのこと、私の仕事のこと、先月降った雪のこと。

里親家庭で育った十二年間も、康夫さんが亡くなった三年前も、今日は誰も持ち出さなかった。

それでよかった。

しばらくして、幸子さんが「康夫さんの道具、使ってくれてる?」と聞いた。

「毎週末使ってます」
「そう」と幸子さんは言った。

「よかった。あの人、道具だけは大事にしてたから」
康夫さんの道具を使うたびに、私は康夫さんのことを考える。

考えようとしているわけではない。

ただ、手が動くと自然に思い出す。

鉋の重さとか、木くずのにおいとか、縁側の陽当たりとか。

体に染みついた記憶というのが、あるのだと思う。

帰り際、玄関で靴を履きながら、私は言った。

「六歳のとき、康夫さんにもらった木片、まだ持ってます」
幸子さんが動きを止めた。

「あの木片、覚えてたの?」
「ずっと持ってました。引っ越しのたびに」
幸子さんはしばらく黙っていた。

泣くかと思ったが、泣かなかった。

ただ、少し目を細めて、静かに笑った。

康夫さんが縁側で木を削っているとき、私が隣に座るといつもしてくれた笑い方に、少し似ていた。

「康夫さんに言ってあげたかったわね」と幸子さんは言った。

私は何も言えなかった。

言葉が出なかった。

ただ「また来ます」とだけ言って、玄関を出た。

帰り道を、ゆっくり歩いた。

空は曇っていたが、雨にはならなかった。

公園の前を通ると、小さな子どもが遊んでいた。

父親らしき男性が隣でしゃがんで、何かを教えていた。

私はその横を通り過ぎながら、少しだけ見た。

見て、また前を向いた。

自分の手を見た。

細くて、傷のない、三十五歳の私の手だった。

血がつながっていない人から受け継いだ鉋の角度を持つ、私の手だった。

似ているかどうかは、もうどちらでもいい気がした。

里親として康夫さんが私に残してくれたものが、この手の中にあるのかどうか、言葉ではわからない。

でも確かに何かがある。

六歳の縁側から始まって、三十五歳の今も続いている何かが。

名前がなくても、それは本物だったと思う。

名前をつけなくても、なくなるものではないと、今日初めて思えた気がした。

アパートに帰って、棚から木片を取り出した。

小さくて、古びて、康夫さんのにおいはもうしない。

でも手のひらに乗せると、あたたかかった。

気のせいかもしれない。

でも、あたたかかった。

それだけで、十分だった。

任務報告

村上清子さんが亡くなって、三週間が経った。

享年七十四歳。

元小学校の教員で、定年後は地域の読み聞かせボランティアを続けていたと、葬儀のときに初めて知った。

私が里親として清子さんのもとに預けられたのは、私が八歳のときだった。

それから十年間、私は村上家で育った。

今の私は四十二歳になる。

四十四歳で、製造業の会社に勤めている夫の健一には「一人で行きたい」と伝えた。

理由はうまく説明できなかった。

ただ、誰かに見られながら整理できる気がしなかった。

最寄り駅から歩いて十二分。

その道を、体が覚えていた。

角を曲がるタイミング、坂の途中にある自動販売機、隣家の金木犀の木。

全部、変わっていなかった。

変わっていないことが、少し怖かった。

玄関の鍵は、清子さんの姪の、五十一歳で葬儀の際に挨拶を交わした佐藤礼子さんが持っていた。

礼子さんは「ゆっくりやってください」と言い残して、一時間後にまた来ると言った。

私は一人で、静かな家の中に立った。

においがした。

線香と、古い畳と、かすかに何か甘いものの混じった、村上家のにおいだった。

居間から始めて、台所、納戸と片付けていった。

処分するものと、残すものと、確認が必要なものに分けながら、機械的に手を動かした。

泣くかもしれないと思っていた。

でも、泣けなかった。

それが怖かった。

悲しくないのか、と自分に問いかけてみたが、答えが出なかった。

悲しくないわけではないと思う。

ただ、その感情がどこにあるのか、自分でも見つけられなかった。

押し入れの奥に、段ボール箱があった。

ガムテープで丁寧に封がされていて、側面にマジックで「さやかのこと」と書いてあった。

私の名前だった。

手が止まった。

開けるのに、少し時間がかかった。

中には、アルバムが四冊、几帳面に重ねて入っていた。

一冊目を開くと、私が委託されて最初の秋に行った遠足の写真があった。

私は写真の中で笑っていた。

その隣に、清子さんが立っていた。

次のページ。

誕生日ケーキの前で、私が目を閉じている写真。

次。

中学の入学式。

次。

高校の入学式。

自分でもほとんど覚えていない場面が、几帳面に並んでいた。

写真の中の私は、ほとんどの場面で笑っていた。

笑っていた理由を、私は何ひとつ思い出せなかった。

泣けない自分を、少し責めた。

清子さんは、私を一度も「娘」と呼ばなかった。

私も「お母さん」と呼んだことはなかった。

それが冷たい関係だったかといえば、そうじゃないと思う。

ただ、私たちの間にはずっと、名前のつかない距離があった。

悪い距離ではなかった。

でも、埋まることもなかった。

アルバムを静かに閉じた。

「さやかのこと」と書かれた文字を、もう一度見た。

清子さんの字だった。

几帳面で、少し右上がりの。

私は、その段ボール箱を持って帰ることにした。

なぜそうしたいのかは、自分でもわからなかった。

ただ、誰かに処分させたくなかった。

それだけはわかった。

任務報告

あの夜のことを、私はずっと思い出さないようにしていた。

八歳の春。

児童相談所の担当者に連れられて、初めて村上家を訪れた夜のことだ。

里親制度という言葉を、私はそのころまだ知らなかった。

ただ、「しばらくここで暮らす」と説明されて、よく意味がわからないまま玄関に立っていた。

実母に置いていかれたのは、その少し前だった。

ある朝、起きたら家に誰もいなかった。

それだけだった。

泣いた記憶もない。

ただ、お腹が空いていたことだけを覚えている。

児童相談所の待合室は、明るかった。

明るすぎて、居心地が悪かった。

担当者の女性は、私に何度も話しかけてくれたが、私はほとんど答えなかった。

答える言葉が見つからなかったというより、答えることで何かが決まってしまう気がして、黙っていた。

村上家に着いたのは、夕方だった。

玄関のドアを開けた清子さんは、私の顔を見て、しゃがんだ。

目線を合わせるためだったと思う。

今の私と同じ年齢だったのか、とアルバムを見ながら初めて気がついた。

あのころの清子さんは、私には大人としか見えなかった。

「さやかちゃんね。

私は清子。

よろしくね」
それだけ言った。

「よろしく」の意味が、八歳の私にはよくわからなかった。

夕食は肉じゃがだった。

里親である清子さんが、私のために作ってくれたのだと、担当者の人が教えてくれた。

でも私は、一口も食べられなかった。

食べたくないわけではなかった。

箸を持つと、手が少し震えた。

知らない家の、知らない食卓で、何かを食べるということが、うまくできなかった。

清子さんは、何も言わなかった。

怒るかと思った。

せっかく作ったのに、と責められるかと思った。

でも清子さんはただ、私の茶碗を見て、静かに言った。

「冷めたら温め直すね」
それだけだった。

その言葉の意味を、八歳の私は正確には理解できなかった。

でも、責められなかったということだけはわかった。

それが怖かった。

責められたほうが、楽だったかもしれない。

責められることには慣れていた。

責められないことに、私は慣れていなかった。

アルバムの中に、その夜の写真はなかった。

当然だと思う。

あの夜を写真に残そうとする人間は、普通はいない。

でも私の中には、あの夜の台所の蛍光灯の白さと、肉じゃがの湯気と、清子さんの横顔が、じわりと滲むように残っていた。

思い出すのに、三十四年かかった。

正確には、思い出さないようにしていたのだと思う。

あの夜を思い出すことは、あの夜に感じたものを引き受けることだった。

怖さと、安堵と、自分でも名前のつけられない何かを。

八歳の私には重すぎた。

四十二歳の私には、ようやく、少しだけ受け取れる気がした。

段ボール箱を膝の上に置いたまま、私はしばらく動けなかった。

任務報告

40歳を過ぎた頃、長く続けてきた不妊治療に区切りをつけた。

年齢的にも体力的にも限界を感じ、夫婦で「これからの人生をどう過ごすか」を話し合うようになった。

そのとき初めて、子どもを育てる方法は実子だけではないのかもしれないと思った。

養子縁組について調べ始めたのが最初だった。その流れで里親制度の存在を知った。

それまで「里親」という言葉は聞いたことがあっても、実際にどういう制度なのかはほとんど知らなかった。

自治体のホームページや体験談を読みながら、「こういう形で子どもを受け入れている家庭があるんだ」と、少しずつ興味を持つようになっていった。

調べれば調べるほど、やってみたいという気持ちが強くなっていった。しかし夫はかなり慎重だった。

子どもを受け入れることは、生活も働き方も大きく変わることを意味する。責任も重い。

「中途半端な気持ちで始めるべきではない」という夫の言葉は、反論できないものだった。

自分たちに本当に務まるのか、という不安もあった。愛情だけではどうにもならない場面もあるのではないか。

途中で疲れてしまったらどうするのか。しばらくは資料を読んだり説明会の情報を眺めたりするだけで、申し込みには踏み出せなかった。

「もしやるならどういう形なら続けられるか」を、夫婦で何度も話し合いながら少しずつ考えていった。

動き出すきっかけになったのは、自治体の説明会への参加だった。

担当職員の話を聞き、すでに里親をしているご夫婦の体験を聞くうちに、インターネットで調べていた頃とは違う感覚が生まれた。

特に印象に残ったのは、「最初から完璧にできる人はいない」という話だった。

困ったことがあれば一緒に考えていく仕組みがある。「自分たちだけで全部背負うわけではないんだ」と気持ちが少し軽くなった。

帰り道、夫とこんな話をした。「無理そうなら相談しながら考えればいいし、まずは一歩だけ踏み出してみようか」。

完璧な自信があったわけではない。ただ「やらないまま後悔するより、一度向き合ってみよう」と思えた。

それが動き出したきっかけだった。

子どもが来た最初の頃、どう接していいのか分からず戸惑うことが多かった。

もっと会話があったり、少しずつ距離が縮まっていくのかなと想像していたが、実際はかなり静かな時間が続いた。

必要なことには答えてくれるが、自分から話すことはほとんどない。こちらもどこまで踏み込んでいいのか迷ってしまった。

食事の時間一つとっても、何を出せばいいのか、どこまでこちらのルールを伝えていいのかが分からなかった。

夫婦で毎日のように「これでよかったのかな」と話した。相手にとっては初めての環境かもしれないと思うと、何をするにも慎重になった。

一番戸惑ったのは、「良かれと思ってしたこと」が必ずしも相手にとって良いとは限らないと感じたことだった。

距離を縮めようとして話しかけすぎてしまったり、気を遣いすぎてよそよそしくなってしまったり、そのバランスがつかめなかった。

最初の頃は「家族になる」というより、「同じ家で生活することにお互い慣れる」だけで精一杯だったと思う。

最もしんどかったのは、生活のルールをめぐって子どもと衝突したときだった。

学校から帰ってきたあと、約束していた時間になってもゲームをやめようとしない日があった。

「そろそろ終わりにしようか」と声をかけたが無視された。何度か言ううちに、子どもが急に強い口調で反発してきた。

そのとき言われた言葉が、「どうせまた別のところに行くんでしょ」だった。

こちらはゲームの時間の話をしているつもりだったのに、子どもにとってはもっと別の不安や不信感があった。

頭では分かっていても、実際にその言葉を向けられると、かなりこたえた。

その日の夜、夫婦であとから話したときも意見が食い違ってしまった。

「どこまで厳しくしていいのか」「普通の家庭と同じように叱っていいのか」。二人とも疲れていた。

今振り返ると、その子にとっては「また居場所が変わるかもしれない」という不安がずっとあったのだと思う。

ただそのときは余裕がなく、「どうすればよかったんだろう」と悩む時間が長く続いた。

変化は、小さな場面で訪れた。

夕食の準備をしていたある日、台所に子どもがやってきて「今日のご飯なに?」と聞いてきた。

それまで必要なこと以外ほとんど話しかけてこなかっただけに、その一言が意外だった。

そのあと「手伝おうか」と言って、テーブルにお皿を並べてくれた。

特別な会話があったわけでも、感動的な場面だったわけでもない。それでも「この家の生活の中に少し入ってきてくれたのかな」と感じた。

その頃から、学校の話をしてくれたり、テレビを見ながら感想を言ったりすることが少しずつ増えていった。

関係が一気に変わったわけではなく、こういう小さな出来事が積み重なって、距離が少しずつ近づいていったのだと思う。

近所にはこちらから積極的に説明することはしなかった。子どもが周囲から特別な目で見られることを避けたかった。

ただ、学校関係や自治会など関わりが出る場面では「里親として子どもを預かっています」とだけ伝えた。

それ以上深く聞かれることはほとんどなく、「何かあれば言ってください」と声をかけてもらうこともあり、思っていたより自然に受け入れてもらえた。

職場には上司とごく近い同僚にだけ話した。

「里親制度で子どもを受け入れることになりました」とシンプルに伝えると、否定的な反応はなく落ち着いて聞いてもらえた。

今振り返ると、思っていたほど特別な説明をする必要はなかったと感じている。

子どもが家を出た日は、大きな引っ越しという感じではなかった。

荷物もそれほど多くなく、思っていたよりあっさりした一日だった。

玄関で「元気でね」と送り出したあとも、実感があまり湧かず、しばらくは普段通りに家のことをしていた。

その日の夜、静かになった家の中で「ああ、もうこの家で一緒にご飯を食べることはないのかもしれないな」と思ったとき、寂しさが少し込み上げてきた。

泣くほどではなかったが、ぽっかりと空いたような感覚があった。

「この家で過ごした時間が、少しでもあの子の中に残ってくれていたらいいな」と思いながら、静かに一日を終えた。

今振り返ると、「よかった」と言い切れる部分と、「簡単ではなかった」と感じる部分の両方がある。

悩むことも多く、夫婦でぶつかることもあった。きれいな思い出ばかりではない。

それでも、あの時間が無意味だったとはまったく思わない。

子どもと一緒に生活した日々は、楽しいことも大変なことも含めて、自分たちの人生の中でとても濃い時間だった。

自分の考え方や人との向き合い方も、あの経験を通して少し変わった気がする。

「すべてが良かった」と美談のように言うつもりはない。でも「やらなければよかった」とも思っていない。

もしあのとき何もせずに終わっていたら、きっと今とは違う後悔をしていた。

そういう意味で、あの経験は自分たちにとって大切な時間だったと思っている。

里親を考えている人に一番伝えたいのは、「最初から理想の家族になろうとしなくてもいい」ということだ。

子どもとの距離がなかなか縮まらない時期もある。「自分は向いていないのでは」と悩むこともある。

最初からうまくいく家庭ばかりではないということは、あまり知られていない気がする。

完璧にできるかどうかを考えすぎて動けなくなるより、「できる範囲で向き合っていく」という考え方でもいいのではないかと思う。

一緒にご飯を食べる、学校の話を少し聞く、テレビを見ながら笑う。そういう何気ない時間が、あとから振り返ると一番印象に残っている。

特別な家庭じゃなくても続けていくことはできる。完璧ではなかったけれど、それでも一緒に過ごした時間は確かにあった。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、「全部をうまくやろうとしなくていい」と伝えたい。

目の前の一日を一緒に過ごしていくこと自体に、意味があるのだから。

任務報告

電車に乗って、スマートフォンを開いた。

帰宅ラッシュの車内は混んでいた。

吊り革につかまりながら、SNSのアプリを立ち上げた。

昨夜の検索履歴が残っていた。

「山下恵」という文字が、そのままそこにあった。

もう一度、検索した。

三つのアカウントが、昨夜と同じ順番で並んだ。

変わっていなかった。

当たり前だった。

一日経ったからといって、何かが変わるわけではなかった。

プロフィール写真のない鍵アカウント、「yuki_m_1980」に、目が止まった。

昨夜と同じだった。

でも今日は、少し違う見方をしていた。

「yuki」という名前と、「m」というイニシャルと、「1980」という数字。

それだけが手がかりだった。

実母の名前は「山下恵」で、「恵」は「yuki」とも読める。

苗字の頭文字は「y」で、「m」は何のイニシャルかわからない。

でも、1980年生まれとすれば、今年で四十五歳か四十六歳になる。

実母が何年生まれかを、私は知らなかった。

知らないことが、これほど多いとは思っていなかった。

名前しか知らない人を、名前で検索して、それ以上何もわからない。

里子として育てられた私には、実母に関する情報がほとんどなかった。

児童相談所の記録には何かがあるかもしれないが、調べようとしたことはなかった。

フォローボタンを見た。

押せば、フォローリクエストが届く。

相手が承認すれば、鍵の中が見える。

承認しなければ、何も変わらない。

ただ、リクエストを送ったという事実だけが残る。

指が、ボタンの上で止まった。

押せなかった。

車内のアナウンスが聞こえた。

次の駅の名前だった。

乗り換えの駅ではなかった。

私はスマートフォンをポケットにしまって、窓の外を見た。

夜の景色が流れていった。

最寄り駅で降りて、アパートまでの道を歩いた。

歩きながら、長谷川照子さんのことを思い出した。

照子さんは現在六十一歳で、元保健師だ。

私が0歳から7歳まで、里親として育ててくれた。

今は電車で二時間ほどの町に住んでいて、年に数回会う。

最後に会ったのは、一年前の春だった。

里子だった七年間の記憶は、断片的だった。

0歳からの記憶は当然ない。

物心がついてからの記憶もまだらで、照子さんの台所の明るさとか、武志さんが庭で土を掘っている後ろ姿とか、そういうものだけが残っていた。

でも、安心していたことだけは覚えていた。

あの家が安全な場所だということを、子どもながらに知っていた。

照子さんのことを思い出したのは、なぜだろう。

実母のアカウントかもしれないものを見ながら、照子さんの顔が浮かんだ。

それが何を意味するのか、うまく考えられなかった。

里親への後ろめたさ、という言葉が頭に浮かんだ。

実母を検索することが、照子さんへの裏切りではないとわかっていた。

照子さんが「探してはいけない」と言ったことは一度もない。

実母について、肯定も否定も、照子さんはしなかった。

ただ、一度だけ「あなたはあなただから」と言ったことがある。

小学校に上がる前の、夕食のときだった。

なぜその話になったのか、覚えていない。

ただ、その言葉だけが残っていた。

あなたはあなただから。

その言葉が、今夜も頭に来た。

実母を検索した私は、あなたはあなただから、という言葉の内側にいるのか、外側にいるのか。

考えてもわからなかった。

アパートの前に着いた。

郵便受けを開けると、通販の封筒が入っていた。

さおりが注文したものだろう。

それを取り出しながら、私は今夜も検索するかもしれないと思った。

検索することをやめられないでいる、という感覚が、少し怖かった。

やめようと思えばやめられる。

でも今夜もスマートフォンを開く気がした。

それが意志なのか、衝動なのか、自分でも判断できなかった。

玄関のドアを開けると、さおりが「おかえり」と言った。

「ただいま」と私は言って、封筒を渡した。

「ありがとう」とさおりは言って、封筒を開け始めた。

私は部屋着に着替えながら、今夜照子さんに電話しようかと思った。

でも何を話すのか、まだ整理がついていなかった。

整理がつかないまま電話して、何かが変わるとも思えなかった。

今夜はもう少し、自分の中で抱えておこうと思った。

その判断が正しいのかどうかも、わからなかった。

任務報告

高校を卒業した春、私は村上家を出た。

里親委託の期間は、原則として十八歳までだと、担当者から説明を受けたのは中学のころだった。

でも清子さんは一度も、その話を私にしなかった。

期限のことも、その後のことも。

だから私は、自分から「出る」と言った。

清子さんは引き止めなかった。

「そう」とだけ言って、少し間を置いてから「元気でね」と言った。

それが正しい判断だったのか、今でもわからない。

アパートを借りて、アルバイトを掛け持ちして、専門学校に通った。

忙しくしていれば、考えずに済んだ。

清子さんのことも、実母のことも、自分がどこから来た人間なのかということも。

忙しさは、便利な蓋だった。

清子さんへの連絡は、年に一度か二度だった。

年賀状と、気が向いたときの短いメッセージ。

会いに行ったのは、十年で三回だった。

少ない、と自分でも思う。

でも、その三回がやっとだった。

会うたびに、何か重いものを渡されるような気がした。

清子さんは責めなかった。

連絡が途絶えても、訪ねてこなくても、何も言わなかった。

それがかえって、私には苦しかった。

責められれば怒れた。

でも清子さんは怒らなかった。

ただ、会うたびに「元気そうでよかった」と言った。

その言葉の重さを、私はうまく受け取れなかった。

去年の秋、清子さんが入院したと礼子さんから連絡があった。

「大事ではないと思うけど、一応お知らせしようと思って」
私は「ありがとうございます、落ち着いたら伺います」と返信した。

伺わなかった。

伺うつもりがなかったわけではない。

でも日常の忙しさの中で、「落ち着いたら」はいつまでも「落ち着いたら」のままだった。

十二月に、清子さんは亡くなった。

訃報を受け取ったとき、私が最初に感じたのは悲しみではなかった。

それが何だったのか、今でもうまく言えない。

後悔とも違う。

ただ、何かが終わったという感覚と、何かを取り逃がしたという感覚が、同時にあった。

里親と里子の関係は、制度としては十八歳で終わる。

書類の上では、私と清子さんの関係はあの春に終わっていた。

でも実際には、終わっていなかった。

終わらせることも、続けることも、私にはうまくできないまま、二十四年が経っていた。

葬儀の帰り道、夫の健一が「清子さん、どんな人だった?」と聞いた。

私は少し考えて、「よくわからない」と答えた。

健一は何も言わなかった。

よくわからない、というのは本当のことだった。

十年一緒に暮らした人のことを、よくわからないと言うのはおかしいかもしれない。

でも私には、清子さんのことが最後までよくわからなかった。

何を考えていたのか、私のことをどう思っていたのか、あの「冷めたら温め直すね」の言葉の奥に、何があったのか。

聞けばよかった。

その後悔は、じわじわとしたもので、波のように来ては引いた。

鋭くないぶん、長く続いた。

任務報告

さおりが「最近、何かあった?」と聞いてきたのは、夕食を食べ終えたあとだった。

宮本さおりは二十四歳で、大学一年のときに同じ講義で知り合った友人だ。

卒業後も一緒に住もうと言い出したのはさおりのほうで、私は迷いながら頷いた。

明るくて行動力があって、思ったことをすぐ口に出す。

私とは正反対の性格だったが、一緒にいると楽だった。

「何かあったって、どういう意味?」と私は聞いた。

「なんとなく、ぼーっとしてる気がして」とさおりは言った。

「ご飯食べてるときも、どこか遠いところにいる感じ」
さおりは気がつく人だった。

私が何も言わなくても、変化を察した。

それが助かるときと、少し怖いときがあった。

今日は、少し怖かった。

「ちょっと昔のことを考えてた」と私は言った。

「昔のこと?」
「うん」
それ以上、言葉が出なかった。

検索したことを、話せなかった。

話せばさおりはきっと否定しない。

でも口にすることで、何かが変わる気がした。

変わることへの躊躇があった。

さおりが少し間を置いてから、直接聞いてきた。

「実親のこと?」
私は驚いて、さおりを見た。

「なんで」と私は言った。

「前に少し話してくれたことがあったから」とさおりは言った。

「大学三年のとき、飲み会の帰り道に」
記憶がなかった。

大学三年の飲み会の帰り道。

その状況自体は思い出せる。

でも実親の話をした記憶がなかった。

里親家庭で育ったことを、さおりに話した記憶が、なかった。

「私、そんな話をしたの?」と私は聞いた。

「したよ」とさおりは言った。

「里親さんのところで育ったって。あんまり覚えてないけど、確かに言ってた。私はちゃんと覚えてる」
自分が話したことを、自分が覚えていない。

その事実が、少し怖かった。

それほど無意識に話せていたのか。

それとも、意識の外に追いやっていたのか。

里子として育ったという事実を、自分でも整理できていないまま、誰かに話していた。

「覚えてなかった」と私は正直に言った。

「そうか」とさおりは言った。

責める顔ではなかった。

ただ、受け取った顔だった。

しばらく二人で黙っていた。

さおりがお茶を淹れてきて、私の前に置いた。

何も言わなかった。

ただ、置いた。

その動作が、今夜は助かった。

「実親を検索した」と私は言った。

声に出してしまってから、少し驚いた。

話すつもりがなかった。

でも出てきた。

さおりのお茶が、何かを緩めたのかもしれなかった。

「どうだった?」とさおりが聞いた。

「同姓同名のアカウントが三つ出てきた。

でも本人かどうかわからない」
「フォローした?」
「できなかった」
さおりは黙って聞いていた。

うんうん、と相槌を打ちながら、お茶を飲んでいた。

余計なことを言わなかった。

「会いたいの?」とも聞かなかった。

ただ、聞いていた。

「里親さんに話せる?」とさおりが聞いた。

「照子さんに?」
「うん。話したら、少し楽になるんじゃないかなと思って」
照子さんに話すことを、ここ数日考えていた。

でも話せなかった理由がある、と私は言った。

「どういう理由?」
「照子さんが、傷つくかもしれないと思って」
言葉にしてみると、それが一番近かった。

里親として私を育ててくれた照子さんに、実母を検索したと言うことへの、名前のつかない後ろめたさ。

裏切りではないとわかっていた。

でも言えなかった。

「照子さん、そんな人じゃないんじゃないの?」とさおりが言った。

「そうかもしれない」と私は言った。

「でも言えない」
さおりは少し考えてから「じゃあ、今は言わなくていいんじゃない」と言った。

「言えるときに言えばいい」
その言葉が、少し楽にした。

今すぐ話さなくていい。

整理がついてから話せばいい。

さおりの言葉は単純だったが、単純だからこそ受け取れた。

「さおり、覚えてくれてたんだね」と私は言った。

「里親家庭で育ったこと」
「当たり前じゃん」とさおりは笑った。

「友達のことは覚えてるよ」
その笑い方が、いつものさおりだった。

特別なことのように扱わない、いつもの笑い方だった。

里子として育った自分の過去が、さおりの中でずっと普通に存在していた。

私が覚えていないあの夜から、ずっと。

それが今夜、少し温かかった。

任務報告

遺品整理を終えて駅に向かう途中、あかねから電話がかかってきた。

四十歳で、同じ会社の総務部に勤めている岩本あかねは、私が里親家庭で育ったことを知っている唯一の友人だ。

話したのは三年前、会社の飲み会の帰り道だった。

酔っていたわけでもなかった。

ただ、そのとき急に、誰かに話したくなった。

あかねは驚いた顔をしたが、何も言わなかった。

「そうだったんだね」とだけ言って、それ以上聞かなかった。

それが、私には楽だった。

「どうだった?」とあかねは聞いた。

「うまく説明できない」と私は答えた。

「無理に説明しなくていいよ」
それだけだった。

電話は三分も続かなかった。

でも、切ったあとに少し、息ができた気がした。

家に帰ったのは夜の八時過ぎだった。

健一は夕食を作って待っていた。

テーブルに並んだ料理を見たとき、ふいに涙が出そうになった。

泣かなかった。

でも、出そうになった。

それが遺品整理を終えて、初めての感情らしい感情だった。

食事をしながら、私はしばらく黙っていた。

健一も何も聞かなかった。

食器を片付けたあと、私はソファに座って、持ち帰った段ボール箱をもう一度開いた。

アルバムを一冊取り出して、最初のページを開いた。

遠足の写真。

笑っている私と、隣に立つ清子さん。

「清子さんに、ありがとうって言えなかった」
気がついたら、声に出していた。

健一に向けた言葉ではなかった。

ただ、声に出さずにいられなかった。

健一は黙って、私の隣に座った。

何も言わなかった。

それでよかった。

言葉をもらっても、たぶん受け取れなかった。

ただ隣にいてくれることが、そのときの私にはちょうどよかった。

里親として清子さんが私にしてくれたことは、数えればきりがない。

食事を作ること、学校の行事に来ること、体調を崩したときに看ること。

でも私が今、思い出すのはそういうことではなかった。

廊下ですれ違ったときの気配とか、テレビを見ながら笑っていた横顔とか、雨の日に傘を二本持って校門の前に立っていた姿とか。

言葉にならない、小さなことばかりだった。

「ありがとう」は、相手に届けるためだけにある言葉じゃないのかもしれない、と私は思った。

届けられなかった「ありがとう」は、消えたわけではない。

私の中のどこかに、ずっとあったのだと思う。

うまく取り出せないまま、形にならないまま、でも確かにそこにあった。

清子さんはもういない。

でも、その「ありがとう」は今も私の中にある。

それは本物だと思う。

届かなくても、本物だったと思う。

アルバムをもう一度閉じた。

健一が「お茶、飲む?」と聞いた。

私は「うん」と答えた。

台所でお湯を沸かす音がした。

それを聞きながら、私は段ボール箱の中に「さやかのこと」という文字を見つけた日のことを思った。

あの文字を書いたとき、清子さんは何を思っていたのだろう。

わからない。

たぶん、これからもわからない。

でも、わからないままでいい、と初めて思えた気がした。

任務報告

照子さんに電話したのは、土曜日の朝だった。

さおりはまだ寝ていた。

私は台所でコーヒーを淹れて、窓際に座った。

外は曇っていた。

雨になるかもしれない空だった。

電話をかけようと思ったのは、昨夜ではなかった。

昨夜は、さおりと話してから布団に入ったが、やはりなかなか眠れなかった。

スマートフォンを手に取っては置いて、取っては置いてを繰り返した。

検索はしなかった。

でも眠れなかった。

朝になって、コーヒーを飲みながら、今日かけようと思った。

今日かけなければ、また先延ばしにする気がした。

さおりに「言えるときに言えばいい」と言われたが、言えるときはいつまで待っても来ないかもしれない。

来ないまま、検索だけを続けるのは、もう嫌だった。

スマートフォンを取り出して、照子さんの番号を開いた。

発信ボタンを押す前に、少し考えた。

何を話すか。

全部話すか。

全部話せるか。

答えが出ないまま、押した。

三回コールして、照子さんが出た。

「ことは、珍しい。土曜日の朝に」
照子さんの声は、いつも通りだった。

穏やかで、少しゆっくりした話し方。

六十一歳になった今も、変わっていなかった。

その声を聞いた瞬間、少し息ができた気がした。

「おはようございます」と私は言った。

「急に電話してすみません」
「いいのよ、嬉しいわ。どうかした?」
どうかした、という問いに、すぐに答えられなかった。

「特に用事があるわけじゃないんですけど」と私は言った。

「声が聞きたくて」
「そう」と照子さんは言った。

嬉しそうな声だった。

しばらく、近況を話した。

仕事のこと、さおりとの共同生活のこと、最近読んだ本のこと。

照子さんは聞き上手で、相槌が自然だった。

話しやすかった。

話しながら、今日は全部話せるかもしれないと思った。

でも、話せなかった。

「実母を検索した」という言葉が、出てこなかった。

代わりに、少しだけ近い言葉を言った。

「最近、実親のことを考えることがあって」
照子さんが、少し間を置いた。

電話口の沈黙だった。

数秒だったと思う。

でも私には長く感じた。

「そうね」と照子さんは言った。

「考えることがあって当然よ」
当然よ、という言葉が、やさしかった。

責める言葉ではなかった。

否定する言葉でもなかった。

ただ、当然だと言った。

でも「当然」という言葉が、少し重く響いた。

当然のことを、二十四年間保留にしてきた。

里子として生きてきた二十四年間、実親のことを考えないようにしてきた。

当然考えていいことを、考えないようにしていた。

それを「当然よ」と言われると、なぜ今まで保留にしてきたのかという問いが、逆に来た。

「照子さんは、嫌じゃないですか」と私は言った。

「何が?」
「私が実親のことを考えることが」
照子さんがまた、少し間を置いた。

「嫌じゃないわよ」と照子さんは言った。

「あなたが実親のことを考えるのは、自然なことだから」
自然なこと、という言葉も、やさしかった。

でも私は、「検索した」とは言えなかった。

自然なことと、実際に検索して画面を一時間見ていたこととの間に、距離があった。

考えることと、行動することは、違う。

照子さんに「自然なこと」と言われたのは、考えることについてだった。

検索したことについてではなかった。

その違いが、今日は話せなかった理由だった。

しばらくして、照子さんが「武志さんが庭にいるから、呼んでくる?」と言った。

「大丈夫です」と私は言った。

「また電話します」
「いつでもかけてきてね」と照子さんは言った。

「嬉しいから」
電話を切った。

コーヒーが冷めていた。

一口飲んだ。

冷たかった。

里親として照子さんが育ててくれた七年間、私は安全だった。

その安全の上に、今の私が立っている。

それはわかっていた。

でも今日、検索したことを話せなかった。

話せなかったことへの後悔は、あった。

でも話せなかったことへの安心も、少しあった。

その二つが同時にあることが、自分でもよくわからなかった。

照子さんの「当然よ」という言葉は、本物のやさしさだった。

でもそのやさしさを、今日の私は全部受け取れなかった。

受け取れる日が来るかどうか、わからなかった。

窓の外が、少し明るくなっていた。

雨にはならなかったらしかった。

曇ったままだったが、光が差し始めていた。

さおりが起きてきた。

「おはよう」と言いながら、目をこすった。

「おはよう」と私は言った。

「電話してた?」
「照子さんに」
「話せた?」とさおりが聞いた。

「少しだけ」と私は答えた。

それが今日の正直な答えだった。

任務報告

あれから一週間が経った。

段ボール箱はリビングの隅に置いたままだった。

開けることも、片付けることもできなかった。

ただ、そこにあることが、今の私にはちょうどよかった。

ある夜、もう一度アルバムを開いた。

四冊を全部、最初から最後まで。

遠足の写真から始まって、中学の合唱コンクール、高校の文化祭、卒業式。

里親として清子さんが記録してくれた十年間が、几帳面に並んでいた。

写真の中の私は、ページを追うごとに少しずつ大人になっていった。

清子さんも、少しずつ年を取っていった。

最後のページに、一枚だけ、私の知らない写真があった。

高校の卒業式の翌日だと思う。

村上家の居間で、私が窓の外を見ている後ろ姿だった。

私は気づいていなかった。

清子さんがそっと撮ったのだろう。

後ろ姿の私は、何を見ていたのか覚えていない。

でも、その写真を撮った清子さんが何を思っていたのかは、少しだけわかる気がした。

引き止めなかった。

でも、見ていた。

私はその一枚を、額に入れることにした。

翌日、近所の雑貨店で小さな木製の額を買ってきて、寝室の棚に飾った。

健一は何も聞かなかった。

ただ、「いい写真だね」と言った。

後ろ姿しか映っていない写真を見て、そう言った。

私は「そうでしょ」と答えた。

なぜかそのとき、少しだけ笑えた。

その夜、夕食を作りながら、私は肉じゃがを作ることにした。

特に理由はなかった。

ただ、作りたかった。

里親だった清子さんが、あの夜私のために作ってくれたものを、三十四年越しに自分で作っていた。

レシピは清子さんから習ったわけではない。

けれど不思議と、手が迷わなかった。

じゃがいもを切りながら、あの夜のことを思った。

知らない家の、知らない食卓。

震える手で箸を持てなかった八歳の私。

「冷めたら温め直すね」と言った清子さんの横顔。

あの言葉の意味が、今ならわかる。

責めないということだった。

待つということだった。

あなたのペースでいい、ということだった。

八歳の私には重すぎた言葉が、四十二歳の私にはようやく、胃の腑に落ちた。

鍋の中で、じゃがいもがゆっくり煮えていった。

「ありがとう」は、結局言えなかった。

これからも言えない。

清子さんはもういないから。

でも、言えなかったことを、私はもう責めないことにした。

言えなかったのには理由があった。

感謝と、重さと、距離と、名前のつかない感情が全部ひとまとまりで、それが私の清子さんへの気持ちだったのだから。

泣けないままでいい、と思う。

泣けないことも、私の正直さだと思うから。

できあがった肉じゃがを、器に盛った。

健一を呼んで、二人で食卓についた。

一口食べて、おいしいと思った。

清子さんの味かどうかは、わからない。

比べる記憶が、私にはない。

でも、温かかった。

それだけは確かだった。

温かいものを、温かいうちに食べた。

それで十分だと、私は思った。

任務報告

その夜、また画面を開いた。

やめようと思っていた。

照子さんに電話して、少し気持ちが落ち着いた部分があった。

今夜は開かなくていいと思っていた。

でも寝る前に、気がついたら開いていた。

SNSの検索履歴に、「山下恵」という文字がまだあった。

消していなかった。

消せなかったというより、消すことを考えていなかった。

あの文字が残っていることを、毎日確認していた気がした。

三つのアカウントを、もう一度見た。

今日は、プロフィール写真のない鍵アカウントだけに絞って見た。

「yuki_m_1980」。

フォロワー数は表示されていなかった。

フォロー数も見えなかった。

鍵アカウントは、外からわかることが何もなかった。

名前と、数字だけがあった。

フォローボタンを、今日も見た。

昨日と同じボタンだった。

昨日押せなかったボタンだった。

今日も押せる気がしなかった。

でも今日は、なぜ押せないのかを、少し考えた。

押せば、何かが変わる。

変わることへの恐怖は、昨日も感じていた。

でも今日、もう少し具体的に考えた。

変わるとは、どういうことか。

もしこのアカウントが実母だったとして、フォローリクエストを送ったとする。

実母がリクエストを承認すれば、投稿が見える。

見えた先に、何があるのか。

実母の日常が見える。

実母が何を食べているか、どこに住んでいるか、誰と話しているか。

そういうものが見える。

見たいのか。

今夜、その問いを正面から考えた。

見たい、という気持ちはあった。

でも見たいのは、日常ではなかった。

私が知りたいのは、なぜ育てられなかったのか、ということだった。

でもSNSの投稿に、その答えがあるとは思えなかった。

もしこのアカウントが実母ではなかったとして、フォローリクエストを送ったとする。

知らない人にリクエストが届く。

怪訝に思われて、拒否される。

それで終わる。

その場合、何かが終わる気がした。

可能性が、終わる。

このアカウントが実母かもしれないという可能性が、拒否された瞬間に消える。

消えることへの恐怖が、押せない理由の一つだった。

里子として育った私には、実母に関する可能性が、ほとんどなかった。

顔も、声も、においも、知らない。

記憶もない。

0歳から里親家庭にいたので、実母との時間が存在しなかった。

でも名前だけは知っていた。

その名前でSNSを検索して、三つのアカウントを見つけた。

そのうちの一つが、実母かもしれない。

その「かもしれない」が、今の私には大事だった。

確認して、違った場合、「かもしれない」が消える。

消えたあと、また検索する気になれるかどうか、わからなかった。

一時間、画面を見ていた。

時計が十二時を過ぎた。

さおりはもう寝ていた。

アパートは静かだった。

結局、今夜もフォローボタンを押せなかった。

画面を閉じた。

閉じながら、里親として照子さんが私を育ててくれた理由を、今日初めて考えた。

照子さんは元保健師で、子どもたちの健康を支える仕事をしていた。

里親になったのは、そういう仕事の延長だったのか。

それとも、別の理由があったのか。

聞いたことがなかった。

実母がなぜ育てられなかったのかも、照子さんがなぜ育ててくれたのかも、私は知らなかった。

知らないことが、二つ並んだ。

実母は里親でも里子でもない人で、私の人生の外にいる。

照子さんは里親として私の人生の中にいる。

その二人のことを、今夜同時に考えた。

矛盾しない、と思った。

実母のことを知りたいと思うことと、照子さんへの感謝は、矛盾しない。

頭ではわかっていた。

でも今夜、考えながら、少し体でもわかった気がした。

天井を見た。

暗い天井だった。

フォローボタンを押せなかったことを、後悔はしていなかった。

今夜の私には、押せなかった。

それだけのことだった。

明日も押せないかもしれない。

来週も押せないかもしれない。

でも今夜、一時間画面を見ていたことは、昨夜と同じようで、少し違った。

昨夜は、引きずられていた。

今夜は、考えていた。

その違いが、小さいようで、自分には大きかった。

スマートフォンを枕元に置いた。

画面は暗くなっていた。

「yuki_m_1980」という文字は、もう見えなかった。

でも頭の中にはまだあった。

あのアカウントの向こうに、誰がいるのか。

わからないまま、目を閉じた。

任務報告

営業先から会社に戻ったのは、夕方の五時過ぎだった。

私は木村誠司、三十五歳。

中堅メーカーの営業職をもう十年続けている。

特別好きな仕事ではないが、不満もない。

毎日それなりにこなして、それなりに帰る。

そういう日々だった。

デスクに鞄を置いて、報告書を開いたとき、隣の席の松田恵子が振り返った。

三十三歳で、同じ営業部に勤めている。

悪い人ではないが、思ったことをすぐ口に出すタイプだ。

「木村さん、今日お母さん来てたよ」
「え」
「お昼ごろ、受付に。木村誠司の母です、って。でもすぐ帰っちゃったみたいで。木村さんに連絡しようとしたんだけど、外回り中だったし」
「人違いじゃないですか」
「そうかなあ。

背格好、似てると思ったんだけど」
愛想笑いを返して、話を流した。

受付に確認すると、来客記録には残っていなかった。

誰かが来たのは事実らしいが、名前も連絡先も不明だった。

私は自席に戻って、少し考えた。

里親として私を育ててくれた吉田幸子さんは、現在七十歳だ。

今も月に一度くらい連絡を取り合っている。

幸子さんが突然会社に来るとは考えにくいが、念のため電話をかけた。

「行ってないわよ。どうかしたの?」

「いえ、何でもないです」

電話を切った。

では誰だったのか。

考えたくない方向に、思考が動いた。

実母かもしれない、という考えだった。

私の実母は、私が六歳のとき蒸発した。

今どこにいるのか、生きているのかさえ知らない。

会いたいと思ったことは、ほとんどない。

少なくとも、そう思ってきた。

松田が「似てる」と言った。

血のつながらない幸子さんには、私は似ていない。

幸子さん本人も笑いながらそう言っていた。

では自分は誰に似ているのか。

鏡で自分の顔を見るとき、私はいつもその問いを素通りしてきた。

目の形、鼻の高さ、口元の癖。

どこから来たのか、わからない顔。

松田は悪意があって言ったわけではない。

ただの世間話だった。

でも「似てる」という言葉が、夕方の静かなオフィスの中で、じわりと引っかかったまま消えなかった。

帰り支度をしながら、私は窓の外を見た。

もし本当に実母だったとしたら、何のために来たのか。

会いたかったのか。

それとも、ただ顔を見たかっただけなのか。

そして私は、会いたかったのか。

わからなかった。

わからないまま、鞄を持って席を立った。

松田が「お疲れ様です」と言った。

私も「お疲れ様です」と返した。

いつもと同じ言葉だった。

でも駅に向かう道を歩きながら、私はずっと、自分の顔のことを考えていた。

誰かに似ているとはどういうことか。

三十五年間、ちゃんと考えたことがなかった問いが、今日に限って頭から離れなかった。

任務報告

休日の午後、一人でカフェに行った。

さおりは友人と出かけていた。

私は特に行く場所もなかったが、アパートにいると検索してしまう気がした。

場所を変えることで、何かが変わるかもしれないと思った。

駅の近くの、小さなカフェだった。

窓際の席に座って、コーヒーを注文した。

鞄からノートを取り出した。

仕事で使う校正用のノートではなく、普段から持ち歩いている、何でも書く用のノートだった。

今日は、実母について知っていることを書いてみようと思った。

昨夜、一時間画面を見ながら考えたことの続きだった。

知らないことが多すぎる、と気づいた夜の続きだった。

知っていることと、知らないことを、整理したかった。

ペンを持って、最初の一行を書いた。

「山下恵、という名前」
それだけ書いて、止まった。

次に何を書けるか、考えた。

生年月日は知らない。

出身地は知らない。

どんな顔をしているか、知らない。

身長も、声も、何も知らない。

「育児放棄があったこと」と書いた。

それも止まった。

育児放棄があった、という事実しか知らなかった。

なぜそうなったのか、どういう状況だったのか、知らなかった。

「私が0歳のとき、親権を失ったこと」と書いた。

三行書いて、止まった。

それ以上、出てこなかった。

コーヒーを一口飲んだ。

ノートに書いた三行を見た。

山下恵という名前、育児放棄があったこと、0歳のとき親権を失ったこと。

これが、二十四年間で私が実母について知っていることの全部だった。

里子として二十四年間生きてきて、実母について知っていることが三行しかなかった。

少し、呆然とした。

呆然とした、というのは正確ではないかもしれない。

予想していなかった、という感じだった。

もう少し何かを知っているつもりだった。

でも書き出してみると、三行だった。

ページをめくって、今度は別のことを書いた。

「長谷川照子さんについて知っていること」
里親の照子さんについては、たくさん書けた。

元保健師だったこと、穏やかで観察力が鋭いこと、家の台所が明るかったこと、お茶を淹れるのが上手だったこと、「あなたはあなただから」と言ってくれたこと、私が熱を出したとき額に手を当ててくれたこと、好きな本を聞いてくれたこと。

書きながら、止まらなかった。

一ページでは足りなくて、ページをまたいで書いた。

武志さんについても書いた。

無口だったこと、庭で土を掘っていたこと、里子だった私に一度も余計なことを言わなかったこと、庭で収穫した野菜を黙って食卓に並べたこと。

二人について書いたことが、実母について書いたことの十倍以上になった。

その差を、しばらく見ていた。

知っている量の差は、一緒にいた時間の差だった。

当たり前のことだった。

でも書き出して並べてみると、当たり前のことが、初めて実感として来た。

実母については、何も知らない。

里親については、たくさん知っている。

その差が、今の自分だった。

この差の中に、二十四年間が入っていた。

窓の外で、人が歩いていた。

親子連れが通った。

子どもが何かを言って、親が笑った。

その一瞬を見ながら、私は自分の0歳から7歳を想像しようとした。

できなかった。

0歳の記憶は誰にもない。

でも私には、それ以前の話として、実母との時間が存在していなかった。

里親家庭に来た瞬間から、私の記憶は始まっていた。

里子としての私の最初の記憶は、照子さんの台所だった。

明るくて、温かくて、何かの匂いがした。

何の匂いだったか、思い出せない。

でも温かかったことだけは、体の中に残っていた。

ノートに、もう一行書いた。

「実母について知らないことを、知りたいのかどうか、まだわからない」
書いてから、少し考えた。

知りたい、という気持ちはある。

でも知ってどうするのか、わからない。

SNSのアカウントを見つけて、フォローして、投稿を見たとして、そこに何があるのか。

実母の日常を知ることと、なぜ育てられなかったのかを知ることは、別のことだった。

知りたいのは、日常ではなかった。

理由が知りたかった。

なぜ育てられなかったのかという理由が。

でもその理由は、SNSには書いていない。

書いていたとしても、私に届く形では書いていない。

コーヒーが冷めていた。

ノートを閉じた。

知っていることと、知らないことを整理しようとして、知らないことのほうが圧倒的に多いとわかった。

整理にならなかった。

でも書いてみたことは、無駄ではなかった気がした。

整理できなくても、書くことで、少し輪郭が見えた。

知らないことの輪郭が、見えた。

里子として育った私には、実母についての空白がある。

その空白の大きさを、今日初めて目で確認した。

空白は怖かった。

でも空白があることは、わかった。

わかったことで、少し違う気がした。

カフェを出て、駅に向かって歩いた。

今夜は検索しないでいられるかもしれない、と思った。

できるかどうかは、夜になってみないとわからなかった。

でも今日は、そう思えた。