里子として育った私には、実母についての空白がある。その空白は、今日も埋まっていない
照子さんの家から帰ったのは、夜の八時過ぎだった。
電車の中で、ぼんやりと窓の外を見ていた。
来るときに見た景色を、逆方向にたどっていった。
緑の多い景色から、少しずつ建物の密集した景色に戻っていった。
疲れていた。
泣いたからかもしれなかった。
話したからかもしれなかった。
でも疲れの種類が、ここ一週間の疲れとは違った。
何かを抱えたまま眠れない夜の疲れではなく、何かを下ろしてきた後の疲れだった。
アパートに帰ると、さおりがいた。
「おかえり」と言いながら、さおりが顔を見た。
「泣いた?」
「泣いた」と私は正直に言った。
「照子さんに、全部話せた?」
「全部話せた」
「よかった」とさおりは言った。
それだけだった。
それ以上聞いてこなかった。
いつものさおりだった。
夕食を食べて、お風呂に入って、部屋に戻った。
ベッドに座って、スマートフォンを手に取った。
今夜も開くだろう、と思っていた。
照子さんに全部話せても、アカウントへの気持ちがなくなったわけではなかった。
検索をやめると決めたわけでもなかった。
SNSのアプリを開いた。
検索履歴に、「山下恵」という文字があった。
一週間以上、そこにあり続けた文字だった。
三つのアカウントを、もう一度見た。
プロフィール写真のない鍵アカウント、「yuki_m_1980」。
中年女性らしき写真のアカウント。
明らかに別人の若い女性のアカウント。
今夜は、一時間ではなかった。
五分で、画面を閉じた。
閉じることができた。
閉じながら、なぜ閉じられたのかを考えた。
答えが出たからではなかった。
フォローするかどうかを決めたからでもなかった。
会いたいのかどうかも、まだわからなかった。
でも今夜は、閉じられた。
照子さんに話したことで、何かが変わった気がした。
「怖かったのね」という言葉が、一週間引きずってきたものに名前をつけてくれた。
怖い、という感情に名前がついたことで、少し扱えるようになった気がした。
スマートフォンを、枕元に置いた。
翌朝、目が覚めたとき、スマートフォンを手に取らなかった。
いつもなら、目が覚めた瞬間に手が伸びていた。
今日は伸びなかった。
支度をして、朝食を食べて、出勤する準備をした。
その間、検索しなかった。
意識してやめたわけではなかった。
ただ、今日は手が動かなかった。
職場に着いて、業務を始めた。
原稿を読みながら、今日一日検索しなかったことに、昼過ぎに気づいた。
気づいたとき、特別なことだとは思わなかった。
ただ、今日はそうだった、と思った。
退勤して、帰り道の電車に乗った。
スマートフォンを取り出した。
SNSを開いた。
でも「山下恵」とは検索しなかった。
タイムラインを少し見て、アプリを閉じた。
それだけだった。
アパートに帰って、さおりと夕食を食べた。
今日の職場の話をした。
さおりが笑った。
私も笑った。
いつもの夜だった。
夜、部屋に一人になってから、ノートを開いた。
先週カフェで書いた、実母について知っていることが書いてあるページを開いた。
三行しかなかったページだった。
その下に、今日の日付を書いた。
そして一行書いた。
「照子さんに、全部話した」
それだけ書いて、ノートを閉じた。
里子として育った私には、実母についての空白がある。
その空白は、今日も埋まっていない。
「yuki_m_1980」が実母かどうかも、わからないままだった。
フォローするかどうかも、決めていなかった。
会いたいのかどうかも、まだわからなかった。
でも今日、一つのことが変わった。
検索することと、しないことの間に、自分の意志が戻ってきた気がした。
引きずられて開くのではなく、開くかどうかを自分で決める。
今夜開かないのは、やめると決めたからではなかった。
今夜は開かない、と思ったから、開かなかった。
その違いが、今日の自分には大きかった。
里親として照子さんが育ててくれた七年間は、私の土台だった。
その土台の上に、実母への問いがある。
どちらかを選ばなくていい、と照子さんは言った。
その言葉が、今日も頭にあった。
土台があるから、問いを持てる。
問いを持つことで、土台の意味がわかる。
二つは、矛盾しなかった。
窓の外に、夜の住宅街が広がっていた。
どの家にも明かりがついていた。
それぞれの家に、それぞれの事情があった。
言えないことと、言えるようになったことが、あの明かりの数だけあった。
私の部屋にも、明かりがついていた。
スマートフォンを手に取った。
SNSを開かなかった。
代わりに、照子さんにメッセージを送った。
「今日も、ありがとうございました。また行きます」
すぐに返信が来た。
「待ってるわよ。ゆっくりおいで」
スマートフォンを置いた。
部屋の電気が、白く部屋を照らしていた。
実母のことは、まだわからない。
フォローするかどうかも、会いたいのかどうかも。
わからないことは、たくさんあった。
でも今夜は、わからないことをわからないまま抱えて、眠れる気がした。
それで十分だと思った。
電気を消した。
暗い部屋の中で、照子さんの「ゆっくりおいで」という言葉が、まだ温かかった。
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