里親家庭に来た最初の頃の戸惑いと緊張の記録。どう振る舞えばいいかわからない、全てが「正解」を探す日々だった経験を正直に残す。里子側からの「最初の頃」の記録は里親が子どもの心理を理解する上で最も価値ある情報になる。
里親家庭で育った人間が、育ててくれた人に似ていくことは、自然なことなのか
浩二と飲んだのは、木工をした翌週の金曜日だった。
中川浩二は三十五歳で、私と同い年だ。
吉田家の近所で育った幼馴染で、子どものころから私が里親家庭にいることを知っていた。
特別な話題にしたことはなかった。
ただ、知っている。
それだけで、私には十分だった。
待ち合わせた居酒屋は、会社から二駅の、こぢんまりした店だった。
浩二は先に来て、すでにビールを飲んでいた。
「遅い」と言いながら、笑っていた。
こういうやつだった。
最初は他愛のない話をした。
浩二の仕事のこと、共通の知人の近況、特に意味のない話。
二杯目が空いたころ、私は先週の松田の話をした。
「職場の同僚に、お母さんに似てるねって言われた」
「へえ」と浩二は言った。
「誰が来たの」
「わからない。受付に来て、すぐ帰ったらしい。幸子さんじゃなかった」
浩二は少し考えてから「実母かもな」と言った。
遠慮のない言い方だった。
でも浩二らしかった。
変に気を使われるより、こういう言い方のほうが楽だった。
「かもな」と私も言った。
「会いたいと思う?」
「わからない」
正直な答えだった。
会いたいとも、会いたくないとも、はっきり言えなかった。
三十五年間、その問いを保留にしてきた。
今日もまだ、保留のままだった。
浩二は「そっか」と言って、串焼きを一本取った。
それ以上聞いてこなかった。
三杯目に差し掛かったころ、私は松田の言葉がまだ引っかかっていることを話した。
似ているとはどういうことか。
血がつながっていない人に似ていくとはどういうことか。
うまくまとまらないまま話したが、浩二は黙って聞いていた。
「でもお前、康夫さんに雰囲気似てきたよな」
浩二が言った。
否定しようとした。
口を開いて、でも言葉が出なかった。
「鉋の角度の話じゃなくて」と浩二は続けた。
「なんか、静かな感じとか、あんまり余計なこと言わない感じとか。昔のお前はもっとうるさかったし」
「うるさかったは余計だろ」
「事実だろ」と浩二は笑った。
笑い返しながら、私は少し考えた。
康夫さんに似てきた、という言葉を、素直に受け取れなかった。
嬉しいのか、怖いのか、判断できなかった。
血がつながっていない人に似ていくことを、どう受け取ればいいのか。
里親家庭で育った人間が、育ててくれた人に似ていくことは、自然なことなのか。
誰かに教わったことがなかった。
「それって悪いことじゃないだろ」と浩二が言った。
「そうかもな」
「そうだよ」と浩二はあっさり言った。
「康夫さん、いい人だったじゃないか」
いい人だった、という言葉が、思いのほか胸に刺さった。
刺さった、というより、じんわりと染みた。
浩二は特別なことを言ったつもりはないだろう。
ただ事実を言っただけだ。
でも私には、その言葉が必要だった気がした。
康夫さんはいい人だった。
それは本当のことだった。
四杯目を頼みながら、私は窓の外の夜の街を見た。
里親として康夫さんが私にしてくれたことは、言葉より先に手で示すことだった。
木片を渡すこと、道具の使い方を隣で見せること、縁側で黙って座っていること。
そういう人だった。
その人に似てきたと言われることが、なぜ怖いのか。
怖い、という感情の正体を、その夜はまだうまく掴めなかった。
でも、怖いと感じていることだけは、初めて自分で認めた気がした。
店を出たのは、十一時過ぎだった。
浩二と駅で別れて、私は一人で帰り道を歩いた。
少し酔っていた。
夜風が冷たかった。
歩きながら、自分の手を見た。
街灯の下で、細くて傷のない、私の手だった。
この手が、康夫さんに似ているのかどうか、私にはわからない。
でも浩二には、何か見えているのかもしれない。
会いに行ったのは、十年で三回だった。 少ない、と自分でも思う。 でも、その三回がやっとだった
高校を卒業した春、私は村上家を出た。
里親委託の期間は、原則として十八歳までだと、担当者から説明を受けたのは中学のころだった。
でも清子さんは一度も、その話を私にしなかった。
期限のことも、その後のことも。
だから私は、自分から「出る」と言った。
清子さんは引き止めなかった。
「そう」とだけ言って、少し間を置いてから「元気でね」と言った。
それが正しい判断だったのか、今でもわからない。
アパートを借りて、アルバイトを掛け持ちして、専門学校に通った。
忙しくしていれば、考えずに済んだ。
清子さんのことも、実母のことも、自分がどこから来た人間なのかということも。
忙しさは、便利な蓋だった。
清子さんへの連絡は、年に一度か二度だった。
年賀状と、気が向いたときの短いメッセージ。
会いに行ったのは、十年で三回だった。
少ない、と自分でも思う。
でも、その三回がやっとだった。
会うたびに、何か重いものを渡されるような気がした。
清子さんは責めなかった。
連絡が途絶えても、訪ねてこなくても、何も言わなかった。
それがかえって、私には苦しかった。
責められれば怒れた。
でも清子さんは怒らなかった。
ただ、会うたびに「元気そうでよかった」と言った。
その言葉の重さを、私はうまく受け取れなかった。
去年の秋、清子さんが入院したと礼子さんから連絡があった。
「大事ではないと思うけど、一応お知らせしようと思って」
私は「ありがとうございます、落ち着いたら伺います」と返信した。
伺わなかった。
伺うつもりがなかったわけではない。
でも日常の忙しさの中で、「落ち着いたら」はいつまでも「落ち着いたら」のままだった。
十二月に、清子さんは亡くなった。
訃報を受け取ったとき、私が最初に感じたのは悲しみではなかった。
それが何だったのか、今でもうまく言えない。
後悔とも違う。
ただ、何かが終わったという感覚と、何かを取り逃がしたという感覚が、同時にあった。
里親と里子の関係は、制度としては十八歳で終わる。
書類の上では、私と清子さんの関係はあの春に終わっていた。
でも実際には、終わっていなかった。
終わらせることも、続けることも、私にはうまくできないまま、二十四年が経っていた。
葬儀の帰り道、夫の健一が「清子さん、どんな人だった?」と聞いた。
私は少し考えて、「よくわからない」と答えた。
健一は何も言わなかった。
よくわからない、というのは本当のことだった。
十年一緒に暮らした人のことを、よくわからないと言うのはおかしいかもしれない。
でも私には、清子さんのことが最後までよくわからなかった。
何を考えていたのか、私のことをどう思っていたのか、あの「冷めたら温め直すね」の言葉の奥に、何があったのか。
聞けばよかった。
その後悔は、じわじわとしたもので、波のように来ては引いた。
鋭くないぶん、長く続いた。