会いに行ったのは、十年で三回だった。 少ない、と自分でも思う。 でも、その三回がやっとだった

任務報告

高校を卒業した春、私は村上家を出た。

里親委託の期間は、原則として十八歳までだと、担当者から説明を受けたのは中学のころだった。

でも清子さんは一度も、その話を私にしなかった。

期限のことも、その後のことも。

だから私は、自分から「出る」と言った。

清子さんは引き止めなかった。

「そう」とだけ言って、少し間を置いてから「元気でね」と言った。

それが正しい判断だったのか、今でもわからない。

アパートを借りて、アルバイトを掛け持ちして、専門学校に通った。

忙しくしていれば、考えずに済んだ。

清子さんのことも、実母のことも、自分がどこから来た人間なのかということも。

忙しさは、便利な蓋だった。

清子さんへの連絡は、年に一度か二度だった。

年賀状と、気が向いたときの短いメッセージ。

会いに行ったのは、十年で三回だった。

少ない、と自分でも思う。

でも、その三回がやっとだった。

会うたびに、何か重いものを渡されるような気がした。

清子さんは責めなかった。

連絡が途絶えても、訪ねてこなくても、何も言わなかった。

それがかえって、私には苦しかった。

責められれば怒れた。

でも清子さんは怒らなかった。

ただ、会うたびに「元気そうでよかった」と言った。

その言葉の重さを、私はうまく受け取れなかった。

去年の秋、清子さんが入院したと礼子さんから連絡があった。

「大事ではないと思うけど、一応お知らせしようと思って」
私は「ありがとうございます、落ち着いたら伺います」と返信した。

伺わなかった。

伺うつもりがなかったわけではない。

でも日常の忙しさの中で、「落ち着いたら」はいつまでも「落ち着いたら」のままだった。

十二月に、清子さんは亡くなった。

訃報を受け取ったとき、私が最初に感じたのは悲しみではなかった。

それが何だったのか、今でもうまく言えない。

後悔とも違う。

ただ、何かが終わったという感覚と、何かを取り逃がしたという感覚が、同時にあった。

里親と里子の関係は、制度としては十八歳で終わる。

書類の上では、私と清子さんの関係はあの春に終わっていた。

でも実際には、終わっていなかった。

終わらせることも、続けることも、私にはうまくできないまま、二十四年が経っていた。

葬儀の帰り道、夫の健一が「清子さん、どんな人だった?」と聞いた。

私は少し考えて、「よくわからない」と答えた。

健一は何も言わなかった。

よくわからない、というのは本当のことだった。

十年一緒に暮らした人のことを、よくわからないと言うのはおかしいかもしれない。

でも私には、清子さんのことが最後までよくわからなかった。

何を考えていたのか、私のことをどう思っていたのか、あの「冷めたら温め直すね」の言葉の奥に、何があったのか。

聞けばよかった。

その後悔は、じわじわとしたもので、波のように来ては引いた。

鋭くないぶん、長く続いた。

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