施設で過ごした日々の孤独の記録。安全ではあっても「家」ではない場所での生活、周りとの関係、夜の気持ち。「孤独だった」「怖かった」という正直な感情を記録することで施設の子どもたちの現実が社会に伝わる。里親の必要性を最も直接的に伝える型。
里親家庭で育ったこと、血のつながった母親の顔を知らないことを話さなければならない
出社したのは、いつもより少し早かった。
眠れなかったわけではない。
でも朝、目が覚めた瞬間から昨夜のことが頭にあって、布団の中にいられなかった。
支度をして、いつもより一本早い電車に乗った。
車内は空いていた。
窓の外の景色を見ながら、昨夜の三つのアカウントを思い出していた。
校正部に着くと、藤原めぐみさんがすでに来ていた。
デスクに鞄を置いたとき、藤原さんが顔を上げた。
三十一歳の藤原さんは、いつも私より早く来ている。
今日は私の顔を見て、少し表情が変わった。
「ことはちゃん、昨日変なこと言ってごめんね」
「え」と私は言った。
「お母さんに似てるって言ったけど、会ったこともないのに失礼だったな、と思って。昨日の帰り道に気になって」
藤原さんは、昨日の言葉を気にしていたらしかった。
自分の言葉が誰かを傷つけたかもしれないと、一晩考えていたのだろう。
それが藤原さんらしかった。
「気にしていないです」と私は言った。
「そう?ならよかった」と藤原さんは言って、またパソコンに向き直った。
気にしていないです、は嘘だった。
一晩中、気にしていた。
でも藤原さんに「気にしています」とは言えなかった。
言えば、なぜ気にしているのかを説明しなければならない。
説明するためには、里親家庭で育ったこと、血のつながった母親の顔を知らないことを話さなければならない。
今日の朝、その準備がなかった。
午前中、原稿を読みながら、「似ている」という言葉について考えた。
似ている、とはどういうことか。
血がつながっていれば、顔が似る。
目の形、鼻の高さ、口元の癖。
そういうものが受け継がれる。
でも私は、血のつながった人の顔を知らない。
里親として育ててくれた長谷川照子さんと私は、血がつながっていない。
照子さんに似ているかどうかを、考えたことがなかった。
似ていない、とも思ったことがなかった。
ただ、似ているという前提が最初からなかった。
里子として長谷川家で育った七年間、「似ている」という言葉を受け取った記憶がなかった。
親戚がいなかったからかもしれない。
照子さんと武志さんの家に、私以外の子どもはいなかった。
「誰かに似ているね」と言われる機会が、そもそもなかった。
藤原さんの言葉が、なぜ一日中頭から離れなかったのか。
昼休みに一人でお弁当を食べながら、考えた。
似ている、という言葉は、どこかからつながっているという意味だった。
誰かから何かを受け継いでいるという意味だった。
その言葉を、私は受け取る準備ができていなかった。
自分の顔がどこから来たのか。
二十四年間、考えないようにしてきた問いが、昨日の一言で動き始めた。
昨夜、検索窓に実母の名前を打ち込んだのは、そのためだったのかもしれない。
似ているという言葉が、空白を照らした。
空白を照らされると、埋めたくなった。
埋める方法が、検索することしか思いつかなかった。
里親として照子さんが育ててくれた七年間は、温かかった。
それは本当だった。
でも温かかったことと、実母のことを考えないでいたこととは、別のことだった。
照子さんへの感謝と、実母への問いは、矛盾しない。
矛盾しないとわかっていても、実母を検索した夜のことを、照子さんに話せる気がしなかった。
午後の業務が始まって、原稿に向き直った。
校正の仕事は、言葉を正確に読む仕事だった。
誤字脱字を見つけて、文脈のずれを見つけて、正しい形に整える。
言葉に敏感でなければできない仕事だと思っていた。
でも今日は、「似ている」という言葉一つを、正確に読めていなかった。
藤原さんが言った意味と、私が受け取った意味は、違った。
藤原さんは軽い褒め言葉として言った。
私は自分の空白を照らす言葉として受け取った。
同じ言葉が、こんなに違う意味を持つことを、校正の仕事をしながら、今日初めて実感した。
退勤時刻になって、鞄を持った。
藤原さんが「お疲れ様」と言った。
私も「お疲れ様です」と言った。
エレベーターを待ちながら、スマートフォンを取り出した。
昨夜見た三つのアカウントが、まだそこにあるかどうか確認したかった。
でも会社の中では開けなかった。
電車に乗ってから、開こうと思った。
施設に入って、しばらくして里親制度で吉田家に引き取られた。
アパートに帰ったのは、夜の八時過ぎだった。
冷蔵庫から缶ビールを出して、ソファに座った。
テレビをつけたが、何も頭に入らなかった。
結局消して、暗い部屋で缶を傾けた。
こういう夜が、たまにある。
何かがあったわけではないのに、うまく切り替えられない夜が。
実母の顔を、私はほとんど覚えていない。
六歳のとき、実母が蒸発した。
朝起きたら、家に誰もいなかった。
近所の人が気づいて、児童相談所に連絡した。
施設に入って、しばらくして里親制度で吉田家に引き取られた。
その一連のことを、私は記憶の断片としてしか持っていない。
施設の廊下の蛍光灯の白さ。
担当者の女性が履いていた黒いパンプス。
それくらいだ。
実母の顔は、出てこない。
覚えていないことを、ずっと普通のことだと思ってきた。
六歳の記憶など、誰だって曖昧なものだ。
特別なことではない。
そう自分に言い聞かせてきた。
でも今日、松田に「似てる」と言われた瞬間、私は無意識に何かを探した。
覚えていないはずの顔を、頭の中で探していた。
見つからなかった。
当然だった。
吉田家に連れていかれた夜のことは、少し覚えている。
里親の吉田康夫さんは当時五十歳で、元大工だった。
三年前に六十八歳で他界している。
初めて会ったとき、康夫さんは玄関に立って、私を見下ろした。
大きな人だった。
無口で、表情が読めなかった。
正直、怖かった。
幸子さんは当時四十五歳で、康夫さんとは対照的によく笑う人だった。
「ご飯食べようね」と言って、台所に連れていってくれた。
夕食は肉と野菜の炒め物だった。
おいしかった記憶はあるが、食べたのか食べていないのか、はっきりしない。
康夫さんと初めてちゃんと向き合ったのは、吉田家に来て一週間ほど経ったころだった。
縁側で康夫さんが木を削っていた。
私はすることがなくて、ただそこに座った。
康夫さんは何も言わなかった。
私も何も言わなかった。
しばらくそうしていると、康夫さんが小さな木片を私の手のひらに置いた。
何の説明もなかった。
ただ、渡された。
木片は、不思議とあたたかかった。
削りたての木の、やわらかいにおいがした。
それが吉田家での最初の安心だった、と今なら言える。
あのとき六歳の私には、安心という言葉はなかった。
ただ、もう少しここにいてもいい気がした。
それだけだった。
缶ビールを飲み干して、もう一本取りに行く気にもなれなかった。
三十五歳の私が今さら考えていることを、六歳の私は何も考えていなかった。
血がつながるとはどういうことか。
似ているとはどういうことか。
里親家庭で育つとはどういうことか。
そんな問いを持つ言葉を、六歳の私はまだ持っていなかった。
持っていなくてよかったと思う。
あのころ余計なことを考えなかったから、縁側で康夫さんの隣に座れた。
木片を受け取れた。
そういうことだったかもしれない。
でも三十五歳の私は、今日から少し、考え始めてしまった気がした。
部屋の棚に、あの木片がある。
六歳のとき康夫さんからもらって、三十五歳の今も捨てられずにいる。
引っ越しのたびに持ち歩いてきた。
なぜ捨てられないのか、自分でもよくわからない。
ただ、手放す気になれなかった。
暗い部屋で、私は棚の方向をしばらく見ていた。
私が里親として清子さんのもとに預けられたのは、私が八歳のときだった
村上清子さんが亡くなって、三週間が経った。
享年七十四歳。
元小学校の教員で、定年後は地域の読み聞かせボランティアを続けていたと、葬儀のときに初めて知った。
私が里親として清子さんのもとに預けられたのは、私が八歳のときだった。
それから十年間、私は村上家で育った。
今の私は四十二歳になる。
四十四歳で、製造業の会社に勤めている夫の健一には「一人で行きたい」と伝えた。
理由はうまく説明できなかった。
ただ、誰かに見られながら整理できる気がしなかった。
最寄り駅から歩いて十二分。
その道を、体が覚えていた。
角を曲がるタイミング、坂の途中にある自動販売機、隣家の金木犀の木。
全部、変わっていなかった。
変わっていないことが、少し怖かった。
玄関の鍵は、清子さんの姪の、五十一歳で葬儀の際に挨拶を交わした佐藤礼子さんが持っていた。
礼子さんは「ゆっくりやってください」と言い残して、一時間後にまた来ると言った。
私は一人で、静かな家の中に立った。
においがした。
線香と、古い畳と、かすかに何か甘いものの混じった、村上家のにおいだった。
居間から始めて、台所、納戸と片付けていった。
処分するものと、残すものと、確認が必要なものに分けながら、機械的に手を動かした。
泣くかもしれないと思っていた。
でも、泣けなかった。
それが怖かった。
悲しくないのか、と自分に問いかけてみたが、答えが出なかった。
悲しくないわけではないと思う。
ただ、その感情がどこにあるのか、自分でも見つけられなかった。
押し入れの奥に、段ボール箱があった。
ガムテープで丁寧に封がされていて、側面にマジックで「さやかのこと」と書いてあった。
私の名前だった。
手が止まった。
開けるのに、少し時間がかかった。
中には、アルバムが四冊、几帳面に重ねて入っていた。
一冊目を開くと、私が委託されて最初の秋に行った遠足の写真があった。
私は写真の中で笑っていた。
その隣に、清子さんが立っていた。
次のページ。
誕生日ケーキの前で、私が目を閉じている写真。
次。
中学の入学式。
次。
高校の入学式。
自分でもほとんど覚えていない場面が、几帳面に並んでいた。
写真の中の私は、ほとんどの場面で笑っていた。
笑っていた理由を、私は何ひとつ思い出せなかった。
泣けない自分を、少し責めた。
清子さんは、私を一度も「娘」と呼ばなかった。
私も「お母さん」と呼んだことはなかった。
それが冷たい関係だったかといえば、そうじゃないと思う。
ただ、私たちの間にはずっと、名前のつかない距離があった。
悪い距離ではなかった。
でも、埋まることもなかった。
アルバムを静かに閉じた。
「さやかのこと」と書かれた文字を、もう一度見た。
清子さんの字だった。
几帳面で、少し右上がりの。
私は、その段ボール箱を持って帰ることにした。
なぜそうしたいのかは、自分でもわからなかった。
ただ、誰かに処分させたくなかった。
それだけはわかった。