任務報告

玉ねぎを炒める音だけが、部屋に満ちていた。

私は三十二歳になるまで、誰かのために夕食を作るとき、こんなに手が緊張したことはなかった。

隣の部屋では、ソウが九歳の女の子に話しかけている声がする。よく通る声だ。

初めて会う人間にも、ソウはああして笑えるのだと、十年近く隣にいても、少し羨ましいと思う。

「ハナちゃん、好きな食べ物とかある?」

「……べつに」

「そっかそっか。じゃあ嫌いなものは?」

返事が聞こえなかった。私は黙って火を弱めた。

三人で食卓を囲んだのは、七時を少し過ぎたころだった。

肉じゃがと、味噌汁と、白いご飯。ハナは椅子に浅く座って、最初の一口をゆっくり口に運んだ。

私はそれを、見ていないふりをして見ていた。小さな手が、箸を握っている。

ソウがよくしゃべった。学校のこと、近所のこと、自分が子どものころ好きだったテレビのこと。

三十一歳の男が、九歳の女の子に向かって一生懸命に話している。私は黙って味噌汁を飲んだ。

食事が終わると、ハナは「ごちそうさまでした」と小さく言って、自分の皿を台所に運んだ。

教えてもいないのに。私は「ありがとう」と言いそびれた。

ハナが布団に入ったあと、二人はソファに並んで座った。男どうしで十年、このソファに座ってきた。

今夜はその間に、九歳の子どもの気配がまだ残っていた。

「うまくいくかな」とソウが言った。

私は答えなかった。台所に目をやると、三枚の皿が重なって置いてあった。自分たちの二枚に、もう一枚。

それだけのことが、今夜はやけに重く見えた。

窓の外で、風が鳴った。

任務報告

不妊治療をやめると決めた日の夜、夫婦でテーブルを挟んで座っていた。

泣くわけでも、言い合うわけでもなかった。ただ静かだった。

窓の外から車の音が聞こえて、冷蔵庫がかすかに鳴っていた。

6年間通い続けたクリニックに、翌日電話をかけた。

担当の看護師さんが「お疲れさまでした」と言った。その言葉が、予想外に長く胸に残った。

治療をやめた後、しばらくの間、自分たちが何者なのか分からなかった。

「子どもを望んでいる夫婦」という役割が、6年間の自分たちを定義していた。

それがなくなったとき、代わりに何があるのかが見えなかった。

喪失の中で、里親という言葉に出会った。

治療をやめてから3ヶ月ほど経った頃、夫がある夜こう言った。

「里親って、調べたことある?」

自分は調べたことがなかった。その言葉を聞いたとき、正直な反応は「まだそういう話をする気持ちになれない」だった。

治療の疲れが、まだ体に残っていた。子どもに関わることすべてが、しばらくは遠く感じた。

それでも夫が調べてきた内容を、黙って聞いた。制度の仕組み、委託の流れ、登録までのステップ。

聞きながら、「これは私たちの話だ」という感覚と、「まだ私たちの話にしたくない」という感覚が、同時にあった。

その夜は結論を出さなかった。ただ、夫が調べてきてくれたことを、悪くないと思った。

「代替案」ではないと、はっきり思った瞬間。

里親について調べていく中で、一つのことが気になっていた。

自分たちは、子どもを持てなかったから里親を選ぼうとしているのか。

それは「本当に子どもを望んでいる」のではなく、「子どもがいる生活の代替を求めている」だけではないのか。その問いが、しばらく離れなかった。

答えが出たのは、説明会に参加した日だった。

担当者が「今、家庭を必要としている子どもが、この地域だけで何十人もいます」と言った。

数字として聞いていたはずが、そのとき急に、その子どもたちが具体的な重さを持って迫ってきた。

自分たちが子どもを必要としているのではなく、子どもが家庭を必要としている。

その順番の違いに気づいたとき、「代替案かどうか」という問いが、急に小さく見えた。

どういう動機で始めても、目の前の子どもにとっての現実は変わらない。

ならば、動機の純粋さにこだわって立ち止まっている場合ではないと思えた。

不妊治療の6年間が、思わぬ形で役に立った。

来たのは6歳の女の子だった。人懐っこいが、突然泣き出すことがあった。

理由が分からないまま泣いている子どもを前にして、最初は戸惑った。

しかしある日、気づいたことがあった。自分たちは6年間、「なぜうまくいかないのか分からない」という状況の中にいた。

説明のつかない結果を受け入れ続けた。答えが出ない問いと共存することに、どこかで慣れていた。

理由の分からない子どもの涙を、「解決しなければならない問題」として見なくなったのは、その経験があったからかもしれない。

ただそこにいて、泣き止むまで待つ。それでいいと思えた。

不妊治療の6年間が、こういう形で役に立つとは思っていなかった。

夫婦の間で起きた、静かな変化。

治療中、夫婦の会話はいつも治療のことが中心だった。

次の周期はどうするか、結果をどう受け止めるか、次のステップに進むか。それが6年間続いた。

里親になってからの会話は、違った。

「今日あの子がこんなことを言った」「昨日の夕食、よく食べてた」「最近、笑うことが増えた気がする」。

子どもの話ではあるが、治療中の会話とは質が違った。未来への不安ではなく、今日の出来事を話していた。

夫婦関係が、治療中より柔らかくなったと感じたのは、委託から半年ほど経った頃だった。

治療中は同じ目標に向かっていたが、どこか切迫していた。今は同じ日常を生きている、という感覚があった。

「お父さんのご飯、好き」。

関係の変化を感じたのは、夫への言葉だった。

ある夕食のとき、子どもが何気なく「お父さんのご飯、好き」と言った。

夫は料理が得意で、週末によく台所に立っていた。その一言を聞いたとき、夫が少し目を細めた。

その顔を見て、自分も胸が熱くなった。

6年間の治療中、夫がつらそうにしている場面を何度も見た。

男性は治療の当事者でありながら、周囲からは「奥さんを支える立場」として見られることが多い。

夫自身の悲しみや焦りは、どこかに置いておかなければならないような空気があった。

「お父さんのご飯、好き」という一言が、その6年間を少し癒したような気がした。

大げさかもしれない。しかしあの夜の夫の顔を、自分はずっと覚えていると思う。

治療を経て里親になろうとしている人へ。

不妊治療を経て里親を考えている人に、一つだけ伝えたいことがある。

治療中の自分と、里親になってからの自分は、違う人間になっている。

治療中に感じた「子どもが欲しい」という気持ちと、里親として目の前の子どもと向き合うときの気持ちは、似ているようで違う。

どちらが正しいとか、どちらが深いとかではない。ただ、違う。

その違いを怖れなくていいと思う。

治療をやめた日に「何者でもなくなった」と感じた自分たちが、今は「あの子の里親」という場所に立っている。

場所は、探しているうちに見つかるものではなく、気づいたらそこにいた、というものかもしれない。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、「治療をやめた日の静けさを、覚えておいて」と伝えたい。

あの静けさが、その後の出発点になったから。

任務報告

成人した里子から連絡が来たのは、委託が終わって11年後のことだった。

SNSのメッセージだった。「元気ですか。あのときのことを、最近よく思い出します」。

それだけだった。返信を打ちながら、手が少し震えた。70文字にも満たないメッセージを読み返すのに、何分かかったか分からない。

里親をしていた頃のことを、夫婦でほとんど話さなくなっていた時期だった。

話さないのは忘れたからではなく、話すと何かが溢れてきそうで、そっとしておいた。そういう11年だった。

委託が始まったのは、自分たちが50代の頃だった。実の子どもは既に独立していて、夫婦二人の生活になっていた。

「まだ何かできることがあるかもしれない」という、定年前の静かな焦りのようなものがあった。

8歳の男の子が来た。小柄で、目が大きく、何かを確かめるようにこちらをよく見る子だった。

口数は少なかったが、観察眼が鋭かった。こちらが機嫌の悪い日は、遠くからそれを察して静かにしていた。

こちらが笑っていると、少し安心したような顔をした。

子どもが大人の感情を読むことに長けているとき、それはたいてい、読まなければならない環境にいたということだ。

その子がそういう子だと分かったとき、胸の奥で何かが動いた。

若い頃の子育てとは、明らかに違った。

小学校の運動会で一日外にいると、翌日は体が重かった。夜中に子どもが起きても、すぐに体が動かない。

気力はあっても、体がついてこない場面が想定より多かった。

それを子どもに悟られたくないと思っていた。しかし子どもはとっくに気づいていた。

ある日、重い買い物袋を黙って持ってくれた。「重そうだったから」と言った。8歳が言う言葉ではなかった。

その気遣いが、うれしいよりも切なかった。子どもに気を遣わせている、という事実が、しばらく頭から離れなかった。

年齢を重ねてから里親をすることの難しさは、体力だけではない。

自分たちが先に老いていくという現実が、子どもの将来と交差する場面がある。

「この子が成人する頃、自分たちはどうなっているのか」という問いを、50代の里親は若い里親より早く突きつけられる。

3年間の委託は、実親の状況が安定したことで終わった。

終わりが近づいてきたとき、子どもに何を伝えるべきか分からなかった。「また会えるよ」と言うべきか。

「元気でいてね」と言うべきか。何を言っても嘘になるような気がして、最後の日、結局「ご飯、ちゃんと食べるんだよ」とだけ言った。

子どもは「うん」と言った。それだけだった。

車で送り届けて、帰り道、夫婦どちらも口を開かなかった。家に帰って、子どもが使っていた部屋を見た。

布団だけが残っていた。片付ける気になれなくて、その日は閉めておいた。翌日も、その次の日も、しばらくそのままにしていた。

委託が終わってから、あの子は今どこで何をしているだろうという問いが、定期的に浮かんだ。

誕生日が近づくと思い出した。進学の時期になると思い出した。ニュースで子どもに関わる話題が出ると思い出した。

夢に出てきたこともあった。夢の中では、いつも8歳のままだった。

里親と里子の関係は、委託が終われば法的には何もない。連絡先を交換していたわけでもなく、会いに行く手段もなかった。

ただ祈るように、どこかで元気にしていることを願い続けた。それが11年間だった。

メッセージが来た日の夜、夫婦で長い時間話した。久しぶりに、あの3年間のことを声に出して話した。

あの子が今、19歳になっていること。自分たちのことを思い出してくれていたこと。

それだけで、11年間の問いが少し報われた気がした。「会いたいね」と夫が言った。自分も、そう思った。

その後、数回メッセージのやり取りをした。会うことはまだできていない。それでも、つながっていることが分かっただけで十分だと思っている。

年齢を重ねてから里親をすることには、若い頃とは違う困難がある。

体力の問題、将来の問題、子どもに気を遣わせてしまうかもしれないという問題。それは正直に認めた方がいい。

ただ、50代・60代にしか提供できないものもある。焦らない関わり方、人生経験から来る落ち着き、すでに子育てを経験した安心感。

若い里親家庭では難しい、「おじいちゃんおばあちゃんのような存在」として子どもの居場所になれることもある。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、「終わっても、終わらない」と伝えたい。

委託が終われば関係も終わると思っていた。しかし実際には、終わってからも子どものことを思い続ける時間が続く。

それは喪失ではなく、続いている何かだと、今は思っている。

11年後にメッセージが来た日、それが証明された。

任務報告

最初から長く関わるつもりは、なかった。

短期の委託という形で、2週間だけ子どもを預かる。実親が入院中で、他に頼れる親族がいない。

その間だけ、家庭的な環境を提供してほしいという依頼だった。夫婦で話し合い、「2週間なら」と引き受けた。子どもはその時、4歳だった。

2週間が終わっても、実親の退院は延びた。延びた先にまた事情が重なった。

気づけば委託は続いており、4歳だった子どもが小学校に上がり、やがて9歳になっていた。

人生には、始める前に全貌が見えない縁というものがある。

あのとき「2週間だけ」と思わなければ、引き受けていなかった。引き受けなければ、この5年間はなかった。

短期委託の難しさは、「終わりがある」という前提で関係を始めることだ。

最初の数日、子どもに対して適切な距離を保とうとしていた。

深く関わりすぎると、終わったときに子どもが混乱する。そう考えて、必要以上に情を移さないよう、どこかで自分にブレーキをかけていた。

しかしそのブレーキは、子どもには関係がない。4歳の子どもは、目の前の大人を「一時的な保護者」として認識しない。

ただそこにいる大人として、少しずつ近づいてくる。朝起きると隣に来て座る。手を繋いで歩く。名前ではなく「ねえ」と呼んで袖を引っ張る。

2週間が経つ頃には、こちらのブレーキなど意味をなしていなかった。

最初の延長連絡が来たのは、委託13日目だった。「もう少し待ってほしい」という内容だった。

夫婦で顔を見合わせた。断る理由は特になかった。「もう少しなら」と答えた。そのやり取りが、その後何度繰り返されたか分からない。

短期委託が長期に移行するとき、制度上の手続きが変わる。

書類が増え、面談が増え、関わる人間も増えた。気づけば自分たちは「短期里親」ではなく、気持ちの上でも制度の上でも「この子の養育者」になっていた。

誰かに強制されたわけではない。気づいたらそうなっていた、という感覚だった。それが不思議と、重くはなかった。

委託から1年ほど経った頃、実親が回復して面会に来た。

子どもはその日、朝から落ち着かなかった。何かを察していたのだと思う。

面会の場には自分たちは同席しなかったが、終わった後の子どもの様子を見た。泣いていた。

どんな気持ちで泣いていたのか、聞けなかった。

その夜、子どもはなかなか眠れなかった。布団の中で何度も寝返りを打ち、夜中に起きて水を飲みに来た。

隣に座ってただ背中に手を当てていた。何も言わなかった。言葉では届かないものが、その夜の子どもの中にあった。

実親との面会が定期的に続くようになってからも、委託は継続された。

二つの「家」の間で、子どもは少しずつ自分の感情を整理していったのだと思う。

その整理を手伝うことが、自分たちの役割だと理解するようになった。

転機は、子どもが9歳になった夏だった。

実親のもとに週末を過ごしに行って戻ってきた日の夜、子どもがぽつりと言った。「帰りたくなかった」と。

その言葉の意味を、すぐには整理できなかった。実親のところから、ここに帰りたくなかったのか。

それともここから、どこかへ帰りたくなかったのか。どちらの意味かを確認する前に、子どもは布団に潜ってしまった。

翌朝、何事もなかったように朝食を食べた。こちらも何も聞かなかった。

ただその言葉は、5年間の中で最も重く、最も温かく、胸に残っている言葉になった。

短期委託という入り口は、里親への最もハードルの低い形の一つだ。

「長く関わる自信はないけれど、一時的なら」という気持ちで始められる。それは正直な出発点だと思う。

ただ、短期であっても子どもとの関係は始まる。始まった関係には、予想外の続きがあることがある。それを怖れる必要はないが、覚悟しておいてもいいと思う。

「2週間だけのつもりだった」という言葉は、後悔ではない。あの軽い入り口がなければ、この5年間は存在しなかった。

軽い気持ちで始めたことが、気づけば人生の一部になっていた。そういうことが、里親という経験には起きる。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、「2週間で終わらないかもしれないけど、それでいい」と伝えたい。

任務報告

妻が里親制度のことを話してくれたのは、不妊治療をやめようかという話をしていた夜だった。

自分はそのとき、どちらかといえば聞いている側だった。妻が調べてきた内容を聞いて、「いいんじゃないか」と言った。

今思えば、その軽さが後になって問題になった。

説明会にも研修にも、一緒に参加した。書類も二人で揃えた。形の上では、対等に進めていたつもりだった。

しかし子どもが来てから数ヶ月が経った頃、妻に言われた。「全部私がやっている気がする」と。

反論できなかった。仕事を理由に、細かい判断を妻に委ねていた。

学校への連絡も、児童相談所との面談の準備も、子どもの夜の不安定さへの対応も、気づけばほぼ妻が担っていた。

自分は「サポートしている」つもりでいたが、妻の目には「いるだけ」に映っていたのかもしれない。

正直に言えば、子どもへの関わり方が分からなかった。

来たのは10歳の男の子だった。施設での生活が長く、大人の男性に対して警戒心が強いと事前に聞いていた。

実際、最初の頃は自分が部屋に入るだけで子どもの表情が固まった。

無理に距離を縮めようとすれば逆効果だと思い、接触を控えた。しかしそれが「関わらない」ことと同じになっていた。

妻は毎日声をかけ、食事を作り、宿題を見ていた。

自分は仕事から帰って「おかえり」と言い、食卓に座り、テレビを見た。

子どもにとって、自分はその家に「いる大人」でしかなかったと思う。

限界が来たのは、委託から1年ほど経った頃だった。

子どもの試し行動が続いていた時期で、妻が精神的に追い詰められていた。その夜、妻がリビングで泣いていた。

声をかけると「もう分からない、どうしたらいいのか」と言った。

そのとき初めて、自分が何もしていなかったことを理解した。

「サポート」とは、妻が困ったときに話を聞くことではない。

日常の中で、最初から半分を担うことだ。それができていなかった。

翌日から、意識的に変えた。朝の支度を自分が担当した。週に一度は自分が夕食を作った。

児童相談所との連絡窓口を自分に切り替えた。小さなことだったが、妻の表情が少しずつ変わっていった。

関係が変わったのは、ある土曜日だった。妻が体調を崩して寝込み、子どもと二人きりになった。

どこかに連れて行かなければと思い、近所の公園に行くことにした。

公園でキャッチボールをした。子どもは最初、ぎこちなかった。自分もぎこちなかった。

それでも30分ほど続けていると、子どもが「もう一回」と言った。その言葉が、その日一番うれしかった。

帰り道、子どもが「またやろう」と言った。それだけだった。しかしそれまで自分に向けられたことのなかった言葉だった。

家に帰って妻に話すと、「よかった」と言って笑った。

里親を夫婦で始めようとしている男性に、一番伝えたいのはこれだ。「妻に任せない」ということ。

里親の実務は、放っておくと自然に女性側に集中する。

連絡、記録、面談、日常のケア、どれも「気づいた方がやる」では、気づく側に偏っていく。

意識して半分を取りに行かないと、いつの間にか妻だけが消耗している。

子どもとの関係も、待っていても始まらない。自分から動かなければ、「いるだけの大人」のまま時間が過ぎる。

不器用でもいい。キャッチボールでも、一緒に買い物に行くだけでも、何か一つ自分だけの接点を作ること。

それが、子どもにとっての「この家にいる男の人」から「この家の人」になる、最初の一歩だと思っている。

里親になる前の自分に言えるとしたら、「いいんじゃないか、じゃ足りない」と伝えたい。

任務報告

午前2時過ぎ、声で目が覚めた。

最初は夢の中の音だと思った。

でも目を開けると、廊下のほうから細い声が聞こえていた。

泣き声、だった。

くぐもっていて、抑えようとしているような、小さな泣き声。

私は布団を出た。

廊下は冷えていて、フローリングが足の裏に冷たかった。

パートナーはまだ眠っていた。

彼女の部屋のドアの前に立って、息を整えた。

ノックしようとして、やめた。

そっとドアを開けた。

豆電球だけがついていた。

彼女は布団の中で膝を抱えていた。

顔を膝に埋めて、肩が小さく震えていた。

部屋の中に、かすかに汗の匂いがした。

「大丈夫?」

声をかけると、震えが一瞬止まった。

顔は上げなかった。

私はそのまま、彼女の隣に座った。

布団の上に、そっと腰を下ろした。

しばらく何も言わなかった。

泣き声が少しずつ小さくなっていった。

部屋の外で、風の音がしていた。

どこか遠くを車が通る音も聞こえた。

私は膝の上に手を置いて、ただ座っていた。

それから彼女は顔を上げないまま、私の腕をつかんだ。

小さな手だった。

力は強かった。

爪が少し食い込むくらい、ぎゅっとつかんでいた。

私は動かなかった。

腕をつかまれたまま、そのままでいた。

どのくらい時間が経ったかわからない。

彼女の呼吸がゆっくりになって、手の力が少しずつ抜けていった。

眠ったのだと思った。

私はそっと腕を引いて、布団をかけ直した。

前髪が額に張り付いていたので、指でそっとよけた。

熱はなかった。

ただ、泣き疲れた顔だった。

朝まで、床に座っていた。

背中が痛かった。

でも立てなかった。

朝になった。

彼女はいつも通りに起きて、いつも通りにトーストを食べて、ランドセルを背負った。

私は台所でコーヒーを入れていた。

玄関で「行ってきます」と言う声が聞こえた。

ドアが開く音がした。

それから、少しだけ間があった。

振り返る気配がした。

ドアが閉まる音がした。

それだけだった。

ありがとうは、なかった。

説明もなかった。

夜のことには、何も触れなかった。

私はコーヒーカップを両手で包んで、温度を確かめるようにしばらく持っていた。

正直に書く。

あの夜、腕をつかまれた瞬間、里親になってよかったと思った。

LGBTのカップルでも、この子の「助けて」を受け取れた、と思った。

同性愛者である私たちのもとに来てくれたこの子が、暗闇の中で私の腕を選んでくれた、と思った。

でも翌朝の日記に、きれいなことだけを書くつもりはない。

私はまだ、ありがとうの一言がほしい。

看病したときも、お弁当を作ったときも、夜中に隣で座っていたときも。

言葉がほしかった。

たった一言でよかった。

それが本音で、それを恥ずかしいとは思わない。

感動した夜だった。

それも本当だ。

でも私はまだ、満たされていない。

その両方が、今夜の私の中にある。

コーヒーが、少しずつ冷めていった。

任務報告

離婚して3年が経った頃、ふとした夜に里親制度のことを調べ始めた。

子どもが欲しいという気持ちは以前からあったが、再婚を前提にしたくはなかった。

誰かと一緒でなければできないことと、一人でもできることの境界線を、その頃よく考えていた。

里親制度のページを開いたのは、そういう夜だった。

最初に気になったのは、単純な疑問だった。シングルでも里親になれるのか。

調べると、法律上は婚姻の有無は問わないと分かった。ただ、実際に一人で子どもを預かっている人の話がなかなか見つからなかった。

モデルケースが見えない中で、自分がその最初の一歩を踏み出せるのかどうか、しばらく迷った。

児童相談所に相談の電話を入れたのは、調べ始めてから半年後だった。

担当者は「シングルの方も里親登録されています」と当たり前のように言った。

その一言で、ずっと感じていた「例外的な申請をしているのかもしれない」という居心地の悪さが消えた。

周囲からは心配する声もあった。

「一人で大丈夫?」「何かあったときに頼れる人はいるの?」仕事をしながら、子どもの急な呼び出しにも対応できるのか。

体調を崩したときはどうするのか。確かにその不安は本物だった。

ただ、一人であることには別の側面もあった。夫婦間で方針が食い違うことがない。

誰かと合意を取らなくても、自分の判断で動ける。子どもへの接し方も、ルールの決め方も、全部自分で決められる。

その自由さが、むしろ子どもにとってシンプルで分かりやすい環境をつくれるのではないかと、次第に思えるようになった。

委託されたのは小学1年生の女の子だった。人見知りが強く、最初の一週間はほとんど声を出さなかった。

食事のときも、お風呂のときも、こちらの様子をじっと観察しているようだった。

二人きりの家は、静かだった。それが心地よい静けさなのか、張り詰めた静けさなのか、最初は判断できなかった。

仕事から帰って夕食を作り、二人で食べて、宿題を見て、寝かしつける。その繰り返しの中で、少しずつ会話が生まれていった。

一人であることが、むしろ良かった場面もあった。二人きりだからこそ、子どもの小さな変化に気づきやすかった。

今日は少し多くしゃべった、今日は自分から手を洗いに行った、今日は笑った。

そういう細かな変化を、誰かと共有しなくても自分の中で積み重ねていけた。

最もきつかったのは、子どもが高熱を出した夜だった。38度を超えて、夜中に何度も目が覚める。

氷枕を取り替えて、水を飲ませて、体温を測る。それを繰り返しながら、ふと「もし私が倒れたら」と考えた。

一人であることの孤独が、その夜だけ重くのしかかった。翌朝、熱が下がったとき、子どもが「ありがとう」と言った。

か細い声だったが、はっきり聞こえた。それまで「ありがとう」を自分から言ったことがなかった子だった。

しんどかった夜の分が、その一言で報われたような気がした。

委託から8ヶ月が経った頃、子どもが「お母さん」と呼んだ。

それまでは名前で呼んでいた。自分もそれを自然なことだと思っていたし、無理に呼ばせようとも思っていなかった。

その日は学校から帰ってきて、玄関で靴を脱ぎながら、何気なく「お母さん、ただいま」と言った。

子ども自身も、少し驚いたような顔をした。こちらも何も言えなかった。ただ「おかえり」と返した。それだけだった。

その夜、子どもが眠った後に一人で泣いた。誰かに報告する相手もいなかったが、それでよかった。あの瞬間は、二人だけのものだったから。

職場には、直属の上司にだけ里親であることを伝えた。

急な発熱や学校行事での早退があることを事前に話しておかないと、子どもに何かあったときに動けない。

上司は「分かった、できる範囲で調整しよう」と言ってくれた。それ以上でも以下でもなかったが、十分だった。

一番困ったのは、学童の問題だった。里親家庭であることを学童の担当者に伝えるかどうかで悩んだ。

結局、事情を説明した。対応は思っていたより丁寧で、子どもへの余計な詮索もなかった。

事前に伝えることへの恐れが、実際より大きかったと後から感じた。

一人で里親をすることは、想像より孤独ではなかった。もちろん誰かと話し合えたらと思う場面もあった。

しかし一人だからこそ、子どもと真正面から向き合う時間が持てたとも思う。

里親を考えているシングルの人に伝えたいのは、「パートナーがいないこと」は里親になれない理由にはならないということだ。

むしろ、二人でなくとも家庭はつくれる。大切なのは人数ではなく、その子どもの安心できる場所になれるかどうかだと、今は思っている。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、「一人でも、ちゃんとできるよ」と言いたい。

任務報告

土曜日の夕方、三人でスーパーに行った。

パートナーが「お菓子、一個だけ選んでいいよ」と言うと、彼女は少しだけ顔を上げた。

お菓子売り場の前で、二人が並んで棚を眺めていた。

彼女がグミを手に取って、パートナーに見せた。

パートナーが「それ美味しいよね」と言うと、彼女は小さく笑った。

私はカートを押しながら、その横顔を見ていた。

笑うんだ、と思った。

家に帰って、夕食の準備をしながらリビングを見ると、パートナーと彼女がソファで肩を並べてテレビを見ていた。

彼女がパートナーの腕に少しだけ寄りかかっていた。

パートナーは気づいていないのか、そのままバラエティ番組を笑って見ていた。

私はにんじんを切った。

まな板の音が、やけに大きく聞こえた。

夕食のあと、パートナーが洗い物をすると言った。

珍しかった。

「いいよ」と言ったら「たまにはやる」と笑って、蛇口をひねった。

彼女はもう自分の部屋に入っていた。

リビングに私一人が残された。

ソファに座って、さっき彼女が寄りかかっていた場所をぼんやり見た。

なぜパートナーには笑うのか。

なぜ私には笑わないのか。

毎日ごはんを作っているのは私だ。

送り迎えをしているのも、夜中に熱を測ったのも、お弁当を作ったのも。

里親としての実務を、ほとんど私が担っている。

パートナーは仕事が忙しいから、という理由で。

最初からそういう役割分担だったから、という理由で。

でも彼女が笑いかけるのは、パートナーのほうだ。

水の音がキッチンから聞こえていた。

皿が重なる音。

パートナーが鼻歌を歌っていた。

その音が、じわじわと耳の奥に入り込んできた。

「ねえ」と私は言った。

「ん?」

「なんで私には笑わないんだろう、あの子」

パートナーが振り返った。

泡のついた手のまま、少し考えるような顔をした。

「そう? 気のせいじゃない?」と言った。

気のせい。

また、その言葉だった。

「気のせいじゃないと思う」と私は言った。

声が少し硬くなった。

自分でもわかった。

「じゃあ、もっと一緒に遊んであげれば?」
その一言で、何かが切れた。

遊んであげれば。

私がやっていることは全部、家事と世話で、それは「遊び」じゃないから数に入らないということか。

LGBTのカップルが里親になるとき、支援員さんに「役割を決めすぎないように」と言われた言葉を、今さら思い出した。

同性愛のカップルには「どちらが母親か」という外からの問いが来ることがある、だから内側では対等でいてほしい、と。

対等。

今の私たちが、対等に見えるだろうか。

口論は長くなかった。

パートナーが「ごめん、言い方が悪かった」と言って、それで終わった。

私も「こっちこそ」と言った。

仲直りの形をした、終わり方だった。

夜、布団の中で目を開けたまま天井を見ていた。

怒りの本当の理由が、里子なのか、パートナーなのか、それとも里親になると決めた自分自身なのか、もうわからなかった。

ただ胸のあたりに、冷たくて重いものが、ずっと乗っかっていた。

隣でパートナーの寝息が聞こえた。

規則正しい、穏やかな音だった。

私はそれを聞きながら、まだ目を閉じられなかった。

任務報告

30代前半、不妊治療を続けていた時期に手にした自治体の広報誌に、里親制度の特集記事が載っていた。

そこで初めて、児童相談所を通じて家庭で子どもを預かる制度があることを知った。

読み終えた後、すぐに動こうとは思わなかった。ただ、その記事のことは、しばらく頭の片隅に残り続けた。

一番大きな不安は、自分たちがその子どもをきちんと受け止められるのかという点だった。

里親になる子どもは家庭の事情を抱えていることが多いと聞いていた。

専門的な知識もなく、経験もない自分たちに、本当に対応できるのか。その問いに答えを出せないまま、時間だけが過ぎた。

夫婦で自治体の里親説明会に参加したのは、そんな時期だった。実際に里親をしている人の話を聞いた。

きれいごとだけではない部分も、率直に語ってくれた。大変な話を聞いたからこそ、「それでもやってみよう」と思えた。

家庭で過ごす時間が子どもにとって大切だということ、完璧でなくてもできる範囲で関わることに意味があるということを、その場で初めて実感として受け取れた。

子どもが来てからの最初の頃は、家の中がひどく静かだった。

話しかけても短い返事だけが返ってくる。目を合わせることも少ない。食事もあまり進まない。

どう接するのが正解なのか分からないまま、戸惑う日が続いた。思っていた以上に距離があった。

「家族になる」などという感覚は遠く、「この場所に慣れてもらう」という段階に、まだ全然たどり着けていないような気がした。

良かれと思って話しかけすぎると、逆に重くなる気がした。

かといって距離を置きすぎると、この家が安心できる場所だと伝わらない。そのバランスが、しばらくの間まったくつかめなかった。

最もしんどかったのは夜の時間だった。

夜になると急に不安になるようで、寝る前になると落ち着かなくなった。

布団に入っても眠れず、何度も起きてきた。最初の数ヶ月は、ほとんど毎晩のようにそれが続いた。こちらも寝不足が蓄積していった。

何が不安なのか、聞いても言葉にはできない様子だった。

答えを求めることをやめて、ただそばにいることだけを続けた。夜中に起きてくるたびに、声をかけて、落ち着くまで待った。それを繰り返した。

今振り返ると、あの夜の時間が、じわじわと関係の土台を作っていたのかもしれないと思う。

劇的な場面ではなかった。何も解決しない夜が、ただ積み重なっていっただけだった。

しかしそれが、後になって意味を持っていた。

半年ほど経った頃のことだ。

学校から帰ってきた子どもが、玄関を入るなり「今日ね」と話し始めた。

それまでは、こちらから聞かなければ学校のことを話すことはなかった。その日は違った。自分から、今日あったことを話してくれた。

内容は何でもないことだった。しかし「今日ね」というその言葉の軽さが、その日だけ違う重さを持っていた。

この家を、少しだけ安心できる場所として感じてくれているのかもしれない。そう思えた瞬間だった。

関係というのは、こういうふうに変わっていくのだと思う。

大きな出来事ではなく、ある日の帰宅後の「今日ね」という一言。そこにすべてが凝縮されていた。

近所には詳しい事情まで話さず、親戚の子どもをしばらく預かっているという説明をすることが多かった。

子どもに余計な視線が向かないよう、情報の出し方を慎重にした。

職場には、上司にだけ里親であることを正直に伝えた。

急な対応が必要になる場面を想定して、最低限の理解を事前に得ておくことが、結果的に子どもとの生活を守ることにつながると判断した。

里親を考えている人に伝えたいのは、理想だけで考えない方がよいということだ。

子どもによって状況も性格もまったく違い、思い通りにいかないことの方が多い。

一人で完結しようとせず、児童相談所や周囲と相談しながら続けていく姿勢が、長く関わり続けるための条件になる。

里親になる前の自分に言えるとしたら、「不安に思う気持ちは自然なことだから、無理に自信を持とうとしなくていい」と伝えたい。

分からないことは周りに頼りながら進めばいい。最初から完璧にできなくて当然だ。

里親をしていると、子どもが少しずつ変わっていく姿を目にする。それは劇的な変化ではない。

夜中に何度も起きていた子が、ある夜だけぐっすり眠った。ほとんど食べなかった子が、今日は少し多めに手を伸ばした。

目が合わなかった子が、ふと視線をよこした。そういう、日常の中の小さな変化だ。

その積み重ねを見守る時間が、里親になってよかったと、しみじみと思わせてくれる。派手な感動はない。

しかしあの時間は確かに存在した。夜が明けるたびに、ほんの少しだけ近くなっていた。

そのことだけは、今も変わらない事実として残っている。

任務報告

ニュースやテレビの特集で、親と一緒に暮らせない子どもたちの現状を取り上げているのを見たことがきっかけだった。

それまで「里親」という言葉はなんとなく聞いたことがある程度だったが、実際には家庭的な環境を必要としている子どもが多くいることを初めて知った。

インターネットで調べ、自治体の情報を読むうちに、里親にはさまざまな形があり、子どもの生活と成長を支える制度なのだと理解するようになった。

関心を持ってからも、すぐには動けなかった。子どもの背景やこれまでの経験をしっかり受け止められるのか、責任の重さを感じていた。

家族の理解が得られるか、仕事との両立ができるか、現実的な不安もあった。

情報を集め、話を聞くうちに、少しずつ具体的に考えられるようになった。

家族とも話し合いを重ね、「できる範囲で子どもの成長を支えたい」という気持ちが言葉になっていった。

そして思い切って、一歩を踏み出した。

子どもが来た最初の頃、お互いに緊張していた。

子どもは環境の変化に戸惑っているようで、あまり言葉を発さず、距離を取っている様子があった。

こちらもどう接すれば安心してもらえるのか分からないまま、気を遣いながら様子を見る日々だった。

まずは安心して過ごせる場所だと感じてもらうことを意識した。生活のリズムやルールも少しずつ伝えながら、焦らずに時間をかけた。

時間が経つにつれて、少しずつ表情が出てきて、会話も増えていった。

最もしんどかったのは、子どもがなかなか気持ちを言葉にできず、どう接すればいいか分からなくなったときだった。

ある日、学校から帰ってきた後、急に機嫌が悪くなった。声をかけても部屋にこもってしまった。

何かあったのだとは分かる。しかし無理に聞くのがいいのか、そっとしておくべきなのか、判断できなかった。

子どものこれまでの経験を思うと、気持ちを簡単に話せないことも理解できる。

それでも、どう支えればいいのか分からないまま時間が過ぎていくことは、想像以上にこたえた。

答えは出なかった。ただ、焦らず待つことが、そのときできる唯一のことだった。

変化は静かにやってきた。

ある日、子どもの方から学校での出来事を話してくれた。今日あったことや、感じたことをぽつぽつと。

それまでは必要なこと以外あまり話さず、どこか距離があるように感じていただけに、その言葉が嬉しかった。

特別な出来事ではなかった。日常の中で自然に会話が生まれた、それだけのことだ。

しかしその瞬間に、少しずつ信頼関係ができてきたのだと実感した。

周囲への説明は、特にしなかった。それぞれの家庭の判断があっていい。

どこまで話すかは、子どものプライバシーを守ることを軸に考えることが一つの基準になると思う。

里親を考えている人に伝えたいのは、「完璧でなくても大丈夫」ということだ。

最初は不安や迷いが多く、本当に自分たちにできるのか悩んだ。

子どもの気持ちを理解することも、信頼関係を築くことも、簡単ではなかった。

それでも、特別なことをするというより、日々の生活の中で安心できる場所をつくり、少しずつ関係を育てていくことが大切だと感じている。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、「考えすぎなくて大丈夫!」と言いたい。

20代で里親になることへの迷いは、実際にやってみると杞憂だった部分も多かった。

年齢よりも、目の前の子どもと向き合う気持ちの方がずっと大事だと、今は思っている。

任務報告

30代後半の頃、自治体の広報や福祉関係の情報を見ている中で、里親制度という言葉が目に入った。最初は自分には縁のない話だと思った。

しかし読み進めるうちに、家庭で暮らせない子どもがいるという事実が、どこか頭に残り続けた。

子どもの居場所について、初めて真剣に考えるきっかけになった。

子どもの人生に関わるということの重さを考えると、軽い気持ちで決めてはいけないという思いが強かった。

自分に本当に務まるのか。その問いに答えが出ないまま、なかなか一歩が出なかった。

責任感が強いほど、足が止まりやすい。里親を検討する多くの人が経験する、その矛盾した状態がしばらく続いた。

動き出せたのは、視点が変わったことがきっかけだった。

「完璧な親でなくても、安心できる場所を作ることはできるかもしれない」と思えた瞬間があった。

必要としている子どもがいるなら、まず向き合ってみようと思えた。

完璧な準備が揃うのを待つより、できることから始めることへと、気持ちが切り替わった。

子どもが来た最初の頃、想像以上に距離があった。大人しくて感情をあまり表に出さない子だったので、こちらもどう接するのが正解か分からなかった。

無理に距離を縮めようとすると、逆に負担になる気がした。話しかけすぎても空気が重くなる。

かといって何もしなければ、この家に安心できていないのではないかと不安になる。

その加減がつかめないまま、日々が過ぎていった。打ち解けるまでにかかった時間は、当初の予想よりずっと長かった。

最もしんどかったのは、こちらが話しかけても反応が薄く、何を考えているのか分からない時期だった。

食事のときも、日常の声かけをするときも、子どもはどこか遠慮しているようだった。

この家で本当に安心できているのだろうか、という不安が頭から離れなかった。焦るほど言葉が空回りした。

反応が薄いと、次にどう声をかければいいかも分からなくなった。

何かしなければという焦りと、何をしても届いていないような無力感が、交互にやってくる時期だった。

正解を探そうとすればするほど、その正解が遠ざかっていくような感覚があった。

変化が訪れたのは、ある日のことだった。

こちらから聞いたわけでもないのに、子どもが自分から学校のことを少し話してくれた。本当に短い会話だった。

内容も特別なものではなかった。ただ、それまで必要なこと以外ほとんど言葉を発しなかった子が、自分から口を開いた。

うれしかった。

そしてその日を境に、少しずつ表情がやわらかくなっていった気がした。関係は劇的に変わったわけではない。

しかしあの日の短い会話が、その後の積み重ねの始まりになった。

近所には深く詮索されないよう、自然に接することを心がけた。

「家庭の事情で子どもを受け入れている」とだけ伝え、それ以上の説明はしなかった。

職場にも最低限の説明にとどめた。子どものプライバシーを守ることを、周囲への説明よりも優先した。

どこまで話すかの正解はない。ただ、「子どもが余計な目線にさらされないこと」を基準に判断することが、一つの軸になると思っている。

里親をやってみて一番感じたのは、特別なことをするより、毎日の小さな積み重ねの方が大切だということだった。

朝の挨拶、一緒に食べる食事、安心して過ごせる家の空気。大きな変化はすぐには見えない。

しかし気づいたときには、少しずつ何かが変わっていた。

関係というのは、劇的な瞬間によって生まれるのではなく、何でもない日々の連なりの先に自然と育っていくものなのだと、この経験を通じて実感した。

里親を考えている人に伝えたいのは、すぐに家族のようになれるとは限らないということだ。

良かれと思って距離を縮めようとしても、子どもによっては時間が必要だ。

焦らず、安心できる日常を積み重ねることが、遠回りに見えて一番の近道だと思う。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、「早く分かり合おうとしなくて大丈夫」と伝えたい。

関係づくりには時間がかかって当然だ。焦らず、目の前の子どもを見ていけばいい。

任務報告

40代の頃に見たテレビのドキュメンタリーが、最初のきっかけだった。

児童養護施設で暮らす子どもたちの特集で、その中で里親制度が紹介されていた。

言葉は聞いたことがあっても、具体的な仕組みは知らなかった。

番組を見た後、自治体のサイトやパンフレットを調べて、こういう形で子どもを受け入れている家庭が実際にあるのだと初めて実感した。

ただ、知ってすぐに動けたわけではなかった。

子育て経験があるとはいえ、事情を抱えた子どもを迎えることは普通の子育てとは違うと聞いていた。

自分たちに本当にできるのか。途中で自分が投げ出してしまったらどうなるのか。その怖さはなかなか消えなかった。

家族の生活が大きく変わることへの心配もあった。周囲にどう説明すればいいのかも分からなかった。

知っているだけで動けない、そういう時間がしばらく続いた。

動き出すきっかけになったのは、自治体の里親説明会への参加だった。

実際に里親をしている人の話を聞く機会があり、きれいな話ばかりではなく大変な面も率直に語ってくれた。

その正直さが、かえって気持ちを楽にした。「特別な人だけがやることではないのかもしれない」と思えた。

完璧でなくても関わることはできるのではないか。まずは研修を受けてみようと決めたのは、その帰り道のことだった。

子どもが来た最初の頃は、想像していたより距離があった。

来てすぐに打ち解けるような雰囲気ではなく、どこか警戒されている感じがあった。

食事を用意してもほとんど手をつけない。話しかけても短い返事だけが返ってくる。

どう接するのがいいのか分からず、戸惑う日が続いた。家の中に静かな空気が漂っていた。

自分のやり方が間違っているのではないかと考えることもあった。

最もしんどかったのは、夜になると不安定になる時期だった。布団に入ると急に泣き出す。

理由を聞いても、はっきり言葉にできない様子だった。こちらもどうしていいか分からず、ただそばに座って背中をさすることしかできなかった。

それが何日も続くと、正直気持ちが沈んでいった。夫婦でどう接するべきか話し合った夜も何度かあった。

答えは出なかった。ただ、その子のそばにいることだけを続けた。

変化は、小さな形でやってきた。

ある日、学校から帰ってきた子どもが、授業の出来事をぽつぽつと話してくれた。

それまで必要なこと以外ほとんど話さなかった。その変化に、少しだけ心の距離が縮まったのかもしれないと感じた。

大きな出来事ではなかった。ただその日を境に、少しずつ会話が増えていった。

関係というのは、劇的に変わるのではなく、こういう小さな日の積み重ねの先にあるのだと思う。

子どもが家を出た日は、感動的な場面にはならなかった。特別な言葉を交わすわけでもなく、少し照れたような様子で出ていった。こちらも、静かにそれを見送った。

帰った後に部屋を見たとき、急に空っぽに感じた。そこで初めて寂しさが込み上げてきた。

送り出した後の部屋の静けさというのは、なんとも言えないものがある。

振り返ると、よかったという気持ちと、簡単ではなかったという思いの両方がある。

もっと違う関わり方があったのではないかと考えることも今でもある。うまくできたことばかりではなかった。

それでも、あの時間が自分たちの生活の中にあったことは確かだ。無駄だったとは思っていない。

里親をしている間は、子どもの変化ばかり気にしていた。しかし後から振り返ると、自分の考え方もかなり変わっていた。

家庭の形は一つではないということ、人と距離を縮めるには時間が必要だということを、あの経験を通じて強く感じた。

里親を考えている人に伝えたいのは、里親は特別な人だけができるものではないということだ。

ただ、思っている以上に時間と気持ちを使うことは確かで、きれいな話だけを期待して始めると戸惑う場面も多い。

できるだけ多くの話を聞いてから考えてほしいと思う。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、「完璧にやろうとしなくても大丈夫」と言いたい。

最初は正しいやり方を探そうとしてばかりいたが、実際には迷いながら関わっていくしかなかった。

うまくいかない日があっても、それだけで失敗とは限らない。今ならそう思う。

任務報告

不妊治療を始める前から、里親という選択肢は頭の片隅にあった。

治療をやめる少し前から、インターネットでより具体的に調べるようになった。

治療と並行しながら、もう一つの道を静かに探り続けていた時期だった。

動き出すまでの最大のためらいは、将来への問いだった。

もし里子を迎えた後に、自分の子どもを授かることになったとしたら。そのとき、里子と実の子を同じ愛情で接することができるのか。

自分だけでなく、夫も無意識に実の子を贔屓してしまうのではないか。

その問いは、里親になりたいという気持ちとぶつかり続けた。答えが出ないまま、時間だけが経っていった。

背中を押したのは、夫の一言だった。「大丈夫だよ」。それだけだった。理屈でも、根拠でもなかった。それでも、その言葉が一番の後押しになった。

子どもが来て最初に感じたのは、拍子抜けするような戸惑いだった。

想像していたより、ずっと手がかからなかった。

子どもはもっとわがままを言うものだというイメージがあったから、その静かさが逆に不安を呼んだ。

本当に大丈夫なのかと思った。自分の気持ちをほとんど口にしない。感情が表に出てこない。

こちらが何を考えているのか分からず、どう接すればいいのか戸惑いが続いた。

「良い子すぎる」という状況は、一見問題がないように見えるが、別の難しさを抱えている。

感情を表に出すことを、何らかの理由で抑えてきた子どもに、どうやって安心して気持ちを出せる環境をつくるか。それが最初の課題になった。

一番しんどかったのは、感情を読み取れないまま「何をしていけばいいのか」が分からなくなったときだった。

夫に相談しても、「そのうちどうにかなる、時間の問題だよ」という答えが返ってきた。

楽観的すぎて、真剣に向き合ってもらえていないと感じた。友人には、この状況をうまく説明できなかったし、なんとなく相談しにくかった。

周りに同じような経験をしている人もいなかった。

孤独だった。子どものことで悩んでいるのに、その悩みを話せる相手がいない。この孤立感が、しんどさの核心にあった。

里親として困難な状況にあるとき、同じ経験を持つ里親仲間や支援機関の存在が助けになることがある。

しかしその存在を知っていても、疲れ切っているときにはなかなかたどり着けない。

「相談できる場所を先に確保しておく」ことの重要さを、この時期に身をもって感じた。

関係が変わったと感じたのは、外出先での出来事だった。

それまで、わがままを言ったり怒ったりというマイナスの感情をほとんど出さなかった子どもが、その日は帰りたくないと駄々をこねた。大きな声を出した。

普通に考えれば、困った場面だ。しかしそのとき、うれしいと思った。感情を出してくれた。

我慢しなくていいと思ってくれた。この場所で、自分の気持ちを出せるようになってきた。そう感じた瞬間だった。

近所への説明は、引っ越しという形で自然に解消した。新しい土地では、一般的な家庭として受け取られた。

詮索されることなく生活できたことで、子どもにとっても余計な視線のない環境が保てた。

職場には、話しておくべき人と、迷惑をかける可能性のある人にだけ伝えた。

全員に説明する必要はないと判断し、必要最小限の範囲で理解を得た。

里親を考えている人に、最も伝えたいことは時間軸の話だ。

子どもは小さいときだけではない。いつか自分と同じ年齢になり、それ以上に育つ。

その長い時間を、本当にイメージできているか。

今の気持ちだけでなく、10年後、20年後の自分と子どもの関係まで想像してから判断してほしい。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、「もう少し考えるのもありかな」と伝えたい。

前向きな気持ちは大切だ。しかし長い時間軸で自分に問いかける時間を、もう少し丁寧にとってもよかったかもしれないと、今は思う。

任務報告

友人の知人が養子縁組をしたという話を聞いたのは、不妊治療の辞め時を考え始めていた頃だった。

その話をきっかけに養子縁組や里親制度を詳しく調べ始め、制度の輪郭が見えてくるにつれて、自分たちにもできるかもしれないという気持ちが芽生えていった。

前向きになっていく自分とは対照的に、夫はなかなか踏み出せなかった。

血の繋がらない子どもを本当に愛せるのか、確信が持てないのだという。

家庭の平穏が崩れることへの恐れも正直に話してくれた。その気持ちは理解できた。

ただ、二人の気持ちが揃わない限り先に進めないという現実が、しばらく重くのしかかった。

夫婦間の温度差は、里親を検討する多くの家庭が経験するものだ。どちらかが引っ張り、どちらかが慎重になる。

そのバランスをどうとるか、どこで一致点を見つけるか。この時期の夫婦の対話が、その後の土台になる。

転機になったのは、児童相談所が開催した里親サロンへの参加だった。

そこで実際に子育てをしている里親から話を聞いた。

うまくいった話だけではなく、大変だったこと、思い通りにならなかったこと、それでも続けてきたこと、そういった率直な声が、不思議なほど心に届いた。

きれいな話だけを聞いていたら、逆に現実との落差に苦しんだかもしれない。

大変さを含めて聞いたからこそ、「それでもやろう」という覚悟が固まった。夫もその場にいた。

二人で同じ話を聞いたことで、ようやく気持ちが一致した。

子どもが家に来てから最初の頃、私たちは必死だった。気に入ってもらおうと、できる限りのことをしようとした。

しかし子どもの警戒心はなかなか解けなかった。目線がまったく合わない状態が続いた。

家の中の物が隠されることもあった。わざと壊されることもあった。どう対応すべきか分からなかった。

叱るべきなのか、見守るべきなのか、その判断ができないまま、毎日が緊張の連続だった。

子どもが物を隠したり壊したりするのは、不安や試し行動の表れであることが多い。

しかしその渦中にいるときは、そうした知識があっても気持ちが楽になるわけではない。

ただ一日一日をやり過ごすことで精一杯だった。

最もしんどかったのは、夜泣きが数時間続いた時期だ。

抱っこしようとしても、子どもは仰け反って拒絶した。何もできないまま、泣き声だけが続く。

寝不足と精神的な疲労が蓄積していき、夫とのあいだで「もう無理かもしれない」という言葉が何度も出た。

暗いリビングで二人で立ち尽くした夜があった。自分たちの無力さに打ちひしがれて、何も言えなかった。

今思い出しても、胸が締め付けられる。

あの夜を乗り越えられたのは、どちらかが強かったからではない。

二人とも限界に近かったが、それでもそこに一緒にいたことが、何とかつなぎとめてくれた気がする。

委託から半年ほど経ったある日、子どもが転んで膝を擦りむいた。

それまで、この子は痛みさえ我慢していた。弱みを見せることが、どこかで許されないと感じていたのかもしれない。

しかしその日は違った。泣きながら、自分から私の胸に飛び込んできて、「痛い」と言った。

壁が一つ崩れた、という手応えを確かに感じた。

言葉にするとそれだけのことだが、それまでの半年間を思えば、その一言と、真っ直ぐに向かってきたその体の重さは、何にも代えがたいものだった。

子どもがアパートへ引っ越した日、寂しさよりも「無事に送り出せた」という安堵感と誇らしい気持ちのほうが大きかった。

あの夜泣きの夜から、暗いリビングで立ち尽くした夜から、ここまで来た。それだけのことが、二人の間にあった。

血が繋がっていなくても、共に過ごした時間の積み重ねが、本当の絆を作る。その子が巣立っていく姿を見ながら、それを改めて実感した。

今振り返って、やってよかったと思う。きれいごとだけではない日々だった。

葛藤もあったし、限界を感じた夜もあった。自分自身の欠点と、何度も向き合わされた。

それでも、一人の人間の成長を間近で見守り、本当の意味での家族になれた経験は、自分の人生を豊かにしてくれた。

その過程で自分が変わったことも、確かだと思う。

里親を考えている人に伝えたいのは、完璧を目指さないでほしいということだ。

自分の心の余裕を保つことが、結果として子どもを守ることに繋がる。一人で抱え込まず、支援や仲間を頼ってほしい。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、こう言いたい。

「不安で震えているかもしれないけれど、信じて進めばいい。想像もできないような強さと深い愛を、その子が教えてくれるから」と。

任務報告

40歳を過ぎた頃、長く続けてきた不妊治療に区切りをつけた。

年齢的にも体力的にも限界を感じ、夫婦で「これからの人生をどう過ごすか」を話し合うようになった。

そのとき初めて、子どもを育てる方法は実子だけではないのかもしれないと思った。

養子縁組について調べ始めたのが最初だった。その流れで里親制度の存在を知った。

それまで「里親」という言葉は聞いたことがあっても、実際にどういう制度なのかはほとんど知らなかった。

自治体のホームページや体験談を読みながら、「こういう形で子どもを受け入れている家庭があるんだ」と、少しずつ興味を持つようになっていった。

調べれば調べるほど、やってみたいという気持ちが強くなっていった。しかし夫はかなり慎重だった。

子どもを受け入れることは、生活も働き方も大きく変わることを意味する。責任も重い。

「中途半端な気持ちで始めるべきではない」という夫の言葉は、反論できないものだった。

自分たちに本当に務まるのか、という不安もあった。愛情だけではどうにもならない場面もあるのではないか。

途中で疲れてしまったらどうするのか。しばらくは資料を読んだり説明会の情報を眺めたりするだけで、申し込みには踏み出せなかった。

「もしやるならどういう形なら続けられるか」を、夫婦で何度も話し合いながら少しずつ考えていった。

動き出すきっかけになったのは、自治体の説明会への参加だった。

担当職員の話を聞き、すでに里親をしているご夫婦の体験を聞くうちに、インターネットで調べていた頃とは違う感覚が生まれた。

特に印象に残ったのは、「最初から完璧にできる人はいない」という話だった。

困ったことがあれば一緒に考えていく仕組みがある。「自分たちだけで全部背負うわけではないんだ」と気持ちが少し軽くなった。

帰り道、夫とこんな話をした。「無理そうなら相談しながら考えればいいし、まずは一歩だけ踏み出してみようか」。

完璧な自信があったわけではない。ただ「やらないまま後悔するより、一度向き合ってみよう」と思えた。

それが動き出したきっかけだった。

子どもが来た最初の頃、どう接していいのか分からず戸惑うことが多かった。

もっと会話があったり、少しずつ距離が縮まっていくのかなと想像していたが、実際はかなり静かな時間が続いた。

必要なことには答えてくれるが、自分から話すことはほとんどない。こちらもどこまで踏み込んでいいのか迷ってしまった。

食事の時間一つとっても、何を出せばいいのか、どこまでこちらのルールを伝えていいのかが分からなかった。

夫婦で毎日のように「これでよかったのかな」と話した。相手にとっては初めての環境かもしれないと思うと、何をするにも慎重になった。

一番戸惑ったのは、「良かれと思ってしたこと」が必ずしも相手にとって良いとは限らないと感じたことだった。

距離を縮めようとして話しかけすぎてしまったり、気を遣いすぎてよそよそしくなってしまったり、そのバランスがつかめなかった。

最初の頃は「家族になる」というより、「同じ家で生活することにお互い慣れる」だけで精一杯だったと思う。

最もしんどかったのは、生活のルールをめぐって子どもと衝突したときだった。

学校から帰ってきたあと、約束していた時間になってもゲームをやめようとしない日があった。

「そろそろ終わりにしようか」と声をかけたが無視された。何度か言ううちに、子どもが急に強い口調で反発してきた。

そのとき言われた言葉が、「どうせまた別のところに行くんでしょ」だった。

こちらはゲームの時間の話をしているつもりだったのに、子どもにとってはもっと別の不安や不信感があった。

頭では分かっていても、実際にその言葉を向けられると、かなりこたえた。

その日の夜、夫婦であとから話したときも意見が食い違ってしまった。

「どこまで厳しくしていいのか」「普通の家庭と同じように叱っていいのか」。二人とも疲れていた。

今振り返ると、その子にとっては「また居場所が変わるかもしれない」という不安がずっとあったのだと思う。

ただそのときは余裕がなく、「どうすればよかったんだろう」と悩む時間が長く続いた。

変化は、小さな場面で訪れた。

夕食の準備をしていたある日、台所に子どもがやってきて「今日のご飯なに?」と聞いてきた。

それまで必要なこと以外ほとんど話しかけてこなかっただけに、その一言が意外だった。

そのあと「手伝おうか」と言って、テーブルにお皿を並べてくれた。

特別な会話があったわけでも、感動的な場面だったわけでもない。それでも「この家の生活の中に少し入ってきてくれたのかな」と感じた。

その頃から、学校の話をしてくれたり、テレビを見ながら感想を言ったりすることが少しずつ増えていった。

関係が一気に変わったわけではなく、こういう小さな出来事が積み重なって、距離が少しずつ近づいていったのだと思う。

近所にはこちらから積極的に説明することはしなかった。子どもが周囲から特別な目で見られることを避けたかった。

ただ、学校関係や自治会など関わりが出る場面では「里親として子どもを預かっています」とだけ伝えた。

それ以上深く聞かれることはほとんどなく、「何かあれば言ってください」と声をかけてもらうこともあり、思っていたより自然に受け入れてもらえた。

職場には上司とごく近い同僚にだけ話した。

「里親制度で子どもを受け入れることになりました」とシンプルに伝えると、否定的な反応はなく落ち着いて聞いてもらえた。

今振り返ると、思っていたほど特別な説明をする必要はなかったと感じている。

子どもが家を出た日は、大きな引っ越しという感じではなかった。

荷物もそれほど多くなく、思っていたよりあっさりした一日だった。

玄関で「元気でね」と送り出したあとも、実感があまり湧かず、しばらくは普段通りに家のことをしていた。

その日の夜、静かになった家の中で「ああ、もうこの家で一緒にご飯を食べることはないのかもしれないな」と思ったとき、寂しさが少し込み上げてきた。

泣くほどではなかったが、ぽっかりと空いたような感覚があった。

「この家で過ごした時間が、少しでもあの子の中に残ってくれていたらいいな」と思いながら、静かに一日を終えた。

今振り返ると、「よかった」と言い切れる部分と、「簡単ではなかった」と感じる部分の両方がある。

悩むことも多く、夫婦でぶつかることもあった。きれいな思い出ばかりではない。

それでも、あの時間が無意味だったとはまったく思わない。

子どもと一緒に生活した日々は、楽しいことも大変なことも含めて、自分たちの人生の中でとても濃い時間だった。

自分の考え方や人との向き合い方も、あの経験を通して少し変わった気がする。

「すべてが良かった」と美談のように言うつもりはない。でも「やらなければよかった」とも思っていない。

もしあのとき何もせずに終わっていたら、きっと今とは違う後悔をしていた。

そういう意味で、あの経験は自分たちにとって大切な時間だったと思っている。

里親を考えている人に一番伝えたいのは、「最初から理想の家族になろうとしなくてもいい」ということだ。

子どもとの距離がなかなか縮まらない時期もある。「自分は向いていないのでは」と悩むこともある。

最初からうまくいく家庭ばかりではないということは、あまり知られていない気がする。

完璧にできるかどうかを考えすぎて動けなくなるより、「できる範囲で向き合っていく」という考え方でもいいのではないかと思う。

一緒にご飯を食べる、学校の話を少し聞く、テレビを見ながら笑う。そういう何気ない時間が、あとから振り返ると一番印象に残っている。

特別な家庭じゃなくても続けていくことはできる。完璧ではなかったけれど、それでも一緒に過ごした時間は確かにあった。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、「全部をうまくやろうとしなくていい」と伝えたい。

目の前の一日を一緒に過ごしていくこと自体に、意味があるのだから。

任務報告

水曜日の朝、学校から電話が来た。

「お熱が38度4分あります。お迎えをお願いできますか」

受話器を置いて、時計を見た。

午後2時。

会議まであと1時間あった。

私はパソコンを閉じて、上着を取った。

学校の保健室に入ると、彼女はベッドの端に体育座りをしていた。

顔が赤く、目がとろんとしていた。

私を見ても、表情は動かなかった。

「帰ろう」と言うと、ゆっくり立ち上がって、黙って私の後ろをついてきた。

コンビニでスポーツドリンクを買った。

レジ袋がかさかさと鳴る音を聞きながら、私は「好きな味ある?」と聞いた。

彼女は少し考えて、「どれでもいい」と言った。

家に帰って、布団を敷いて、ドリンクをコップに注いで枕元に置いた。

彼女はそのまま横になって、すぐに目を閉じた。

寝息が小さく聞こえ始めるまで、5分もかからなかった。

夜中に2回、熱を測った。

1回目は38度9分。

額に手を当てると、じんわりとした熱が手のひらに伝わってきた。

濡れタオルを作って、そっと額に乗せた。

彼女は薄く目を開けて、また閉じた。

何も言わなかった。

2回目は午前3時。

37度2分。

少し下がっていた。

私はそっと布団をかけ直して、自分の部屋に戻った。

廊下が冷たかった。

翌朝、彼女はケロッとしていた。

トーストを半分食べて、ランドセルを背負って、「行ってきます」と言って玄関を出た。

ドアが閉まる音だけが残った。

ありがとう、は一言もなかった。

その3日後、お弁当を持たせた。

運動会の代休で給食がない日だった。

前夜から卵焼きを巻いて、ミニトマトを洗って、好きだと言っていたから唐揚げも入れた。

彼女は「うん」とだけ言って受け取った。

夕方、弁当箱が戻ってきた。

開けると、唐揚げが2個残っていた。

「なんで残したの」と聞くと、「お腹いっぱいだった」と彼女は言った。

それだけだった。

私はふたを閉めて、流しに持っていった。

お湯をかけながら、なんでこんなに傷ついているんだろうと思った。

残しただけだ。

子どもなんて残す。

わかってる。

でも正直に書く。

傷ついた。

夜、パートナーに話した。

「なんか最近しんどくて」と言うと、「気にしすぎじゃない?」と返ってきた。

笑いながら。

悪気はないとわかっていた。

それでも、その言葉がするりと胃の中に落ちて、冷たく沈んだ。

LGBTのカップルが里親になると決めたとき、二人でいれば大丈夫だと思っていた。

同性愛のパートナーがいるから、一人じゃないと。

でも今夜は、一人だった。

電気を消したあと、天井を見ていた。

暗闇の中で、唐揚げの匂いだけがまだ少し、手に残っていた気がした。

任務報告

不妊治療を断念したとき、次の選択肢として里親という道が視界に入ってきた。

妻が先に動いた。実際に里親経験のある人から話を聞く機会を得て、その話を自分も聞きに行った。

「やってみよう」と思ったのは、そのときだった。

血の繋がらない子どもを愛せるのか、という問いは最初からあった。自信があったわけではない。

ただ、話を聞いた後に残ったのは不安よりも、やってみなければ分からないという気持ちだった。

子どもが来て最初に戸惑ったのは、想定していなかったことだった。

男の子として迎えたはずなのに、仕草や雰囲気が女の子に近かった。

後から分かったことだが、施設にいた頃、周囲にいたのは女性ばかりだったという。

自然と女性的な振る舞いが身についていたのだろう。どう接すればいいのか、最初は戸惑った。

男の子として接するべきなのか、本人の自然な様子に合わせるべきなのか。答えを持たないまま、日々が始まった。

戸惑いはやがて、夫婦間の対立に発展した。

子どもの性別のあり方をどう受け止めるか。男性として見るのか、本人の自然な様子を女性的なものとして受け入れるのか。

二人の間で意見が合わなかった。どちらが正しいという話ではなかったが、同じ屋根の下で子どもに接する方針が一致しないことは、じわじわと家の中の空気を重くした。

正解が見えないまま、それでも毎日は続いた。

子どもが小学校に上がってから、性別のミスマッチを理由にいじめが始まった。

子どもの側から見れば、自分のあり方を否定されているような日々だったはずだ。

そしてその苦しさを里父である自分に打ち明けたとき、自分は「その部分では助けられない」と伝えた。

性別のあり方そのものを肯定することは、自分には難しかった。

ただ、いじめは別の問題だと考えていた。誰かを傷つける行為は許されない。それは明確だった。学校に対して問題として訴え、対応を求めた。

子どもはおそらく、混乱したと思う。自分のあり方は認めてもらえないのに、いじめには怒ってくれる。その両方が同じ人から来ていた。

しかし時間をかけて、お互いがある理解に至った。

「助けられることと、そうではないことがある」ということを、二人の間で共有できた気がした。

それが関係の変わり目だった。見放されたのではなく、できることとできないことがあると、子どもが受け取ってくれたのだと思っている。

里子の実家庭の環境が回復したとき、子どもは実の両親のもとへ戻ることを選んだ。本当の親に会いたいと言った。

止める権利はないと、最初から覚悟していた。里親とはそういうものだと分かっていた。

ここでいう覚悟とは、子どもが戻ってくることはないという意味での覚悟だ。

その日が来たとき、覚悟通りに受け入れた。ただ、覚悟していたからといって、何も感じなかったわけではない。

今振り返ったとき、やってよかったと言い切れるかどうか、正直分からない。

子どもがいなくなったときの空虚感は、予想以上のものだった。あの空虚感を知ってしまうと、やるべきではなかったとも思えてくる。

しかし同時に、子どもがいる家庭というものを経験できたことへの幸福感も確かにある。子どもを育てることに、使命のようなものを感じた時期もあった。

空虚感と満足感が、矛盾したまま同じ場所に存在している。それがこの経験の正直な後味だ。

里親を考えている人に伝えたいのは、責任についてだ。

血が繋がっていないからといって、責任がなくなるわけではない。

学校への関与も、日常の判断も、すべて里親として引き受けることになる。

その責任の重さを、事前に理解しておくことが大切だと思う。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、こう言いたい。

「何事も経験で、よい経験であれ悪い経験であれ、子どもを通して得た経験は忘れない経験になる」と。

任務報告

そらが生まれたのは、桜の花が散ったあとの、雨の多い春だった。

母親は当時二十三歳。父親については、出生届にも名前がなかった。

母は決して悪い人ではなかった、とそらは後にそう思うことになる。

ただ、誰かに頼る術を知らない人だった。自分のことで精一杯で、小さな命を抱えながらも、どうしていいか分からないまま日々をやり過ごしていた。

アパートの一室。カーテンが昼間も閉まっていることが多かった。

冷蔵庫にあるものを食べ、なければ食べなかった。

泣いてもすぐに抱き上げてもらえないことに、そらはいつしか慣れた。

泣くことをやめたのは、二歳になる前だったと、後に担当のケースワーカーが記録に残している。

四歳のとき、近所の住人からの通報をきっかけに、そらは一時保護された。

母親は施設への入所に同意したが、面会には一度も来なかった。

児童養護施設での生活は、悪いものではなかった。

ご飯は毎日あった。清潔な服を着ることができた。

職員の人たちは忙しそうだったけれど、そらのことを嫌いではなさそうだった。

ただ、ここも「自分の場所」だという感覚は、なかなか持てなかった。

部屋には自分のロッカーがあって、なかに小さなぬいぐるみをひとつだけ入れていた。

水色のクマで、名前はつけていなかった。名前をつけると、離れるときに悲しくなる気がしたから。

そらが里親家庭に移ったのは、小学二年生になった年の秋だった。

初日、玄関のドアを開けた瞬間、知らないにおいがした。

掃除の洗剤と、夕飯の匂いと、誰かの生活のにおい。

「いらっしゃい」と言われたとき、なんと返していいか分からなくて、そらはただ頷いた。

夜になると、怖かった。

暗さが怖いのではない。静かすぎることが、怖かった。

施設では誰かが必ずそこにいて、廊下から物音がした。

ここの夜は、しんとしている。その静けさのなかで、自分がどこにいるのか分からなくなる感覚があった。

布団の中で、水色のクマをぎゅっと握った。

泣かなかった。泣き方を、よく知らなかったから。

学校で、給食のおかわりじゃんけんに勝った日のことだった。

いつもなら黙って鞄を置いて、部屋に行くだけだったのに、そらはなぜかその話をしたくなった。

台所に立っているうしろ姿に向かって、「あのさ」と声をかけた。

「今日、じゃんけんで勝って、コロッケもう一個食べた」

振り向いた顔が、なんだかとても嬉しそうだった。

それが不思議だった。たったそれだけの話なのに、あんなに嬉しそうにするなんて、と。

その夜は、すこし早く眠れた気がした。

人の顔色を読む力が、人よりずっと早く育っていた。

大人が疲れているときや、困っているときが、表情を見ただけで分かった。

だから余計なことを言わないようにしていた。心配させないようにしていた。

それは身を守るために覚えたことだったけれど、

その家で過ごすうちに、すこしずつ、その必要がないときもあるのかもしれないと思い始めていた。

そらが家を出た朝、空は曇っていた。

玄関でちゃんとお礼を言おうと思っていたのに、いざとなると言葉が出てこなかった。

かわりに、「またご飯食べに来てもいいですか」とだけ聞いた。

「もちろん」という答えが返ってきた。

車に乗り込んでから、窓の外を一度だけ振り返った。

手を振る姿が見えた。そらも、小さく手を振った。

水色のクマは、リュックの中に入っていた。

旅立ちのとき初めて、そらはそのクマに名前をつけようと思った。

どんな名前にしようか、車の中でずっと考えていた。

そらはまだ、答えを出していない。それでいいと、思っている。

任務報告

市役所に別の用事で立ち寄ったとき、壁に貼られた一枚のポスターが目に入った。

「里親相談会」と書かれていた。それが、里親という選択肢を意識した最初の瞬間だった。

用事を済ませながらも、そのポスターのことが頭から離れなかった。

制度を知ってからも、すぐに動き出せたわけではなかった。

血の繋がらない子どもを我が子と同じ愛情で迎え入れられるのか。

その問いは、簡単には答えが出なかった。さらに重くのしかかったのは、責任の重さだった。

一時的に迎え入れることと、長い時間をともに過ごすことは違う。

生涯にわたって責任を持てるのか、正直自信がなかった。

「できる」と言い切れる自分がいない限り、踏み出してはいけないのではないかという思いが、しばらく足を止めさせていた。

動き出すきっかけになったのは、里親制度の研修への参加だった。

そこで聞いたさまざまな体験談が、頭で考えていた「里親像」を大きく変えた。

里親を必要としている子どもたちが実際にいること、その子たちにとって家庭という場所がどれほど大切なのかを、体験者の言葉を通じて初めて実感として受け取れた。

「力になれたら」という気持ちが、理屈ではなく素直に湧き上がってきた。

もう一つ大きかったのは、身内が納得してくれたことだ。自分一人の気持ちだけでは決められない。

家族が同じ方向を向いてくれたことが、最後の後押しになった。

子どもが来た最初の頃、家の中はどこかよそよそしかった。こちらも他人行儀になってしまい、変に気を遣いすぎた。

するとその緊張が子どもにも伝わって、今度は子どもの方がこちらに気を使うような状態になった。

気を使わせまいとして、かえって気を使わせてしまう。その悪循環から抜け出せないまま、しばらくの時間が過ぎた。

知らない家庭に入る子どもの気持ちを考えれば、すぐに打ち解けられないのは当然だと頭では分かっていた。

しかし実際にその状況に置かれると、どうすれば自然な雰囲気を作れるのかが分からず、考えていたよりずっと困難だと感じた。

最もしんどかったのは、コミュニケーションが続かない時期が長く続いたことだった。

夕方、休日、晩ご飯の時間。会話が生まれそうな場面をつくろうと、話題を考えて話しかけた。

しかし返ってくるのは一言か二言で、そこで会話が終わった。また話しかける。また一言で終わる。

それが何日も、何週間も続いた。

次第に「受け入れてもらえていないのかもしれない」という考えが頭を占めるようになった。

自分で自分を責め、気持ちが沈んでいく。半ば自暴自棄のような状態になった時期が、この経験を通じて最も精神的にきつかった。

里親として子どもに向き合いながら、同時に自分自身のメンタルが揺らいでいく。

そのことを誰かに話せる場所があれば、あの時期は少し違ったかもしれないと、今になって思う。

変化は、ある日突然やってきた。

こちらから話しかけたのではなく、子どもの方から話しかけてきた。些細な内容だった。

しかしそれまでの日々を思えば、その一言の重さは全然違った。

さらに少し経って、「何をしたい」「何を食べたい」と自分の意見を言ってくれるようになった。

それまでずっと他人行儀だった分、その変化がうれしかった。距離が縮まっているのだと、はっきりと感じた瞬間だった。

職場には、以前から里親について相談していたこともあり、迎え入れることを決めたと伝えると快く受け入れてもらえた。

事前に話していたことで、急な対応が必要になったときも動きやすかった。

近所については、こちらから改めて説明する必要はないと考えた。自分たちが納得していればそれでいい。

聞かれたときには「里親制度を利用した」とストレートに答えた。

説明の仕方に正解はないが、自分たちの軸がしっかりしていれば、周囲への説明は後からついてくるものだと感じた。

里親になってから気づいたことがある。子どもだけでなく、自分自身も成長しているということだ。

人が持つ愛情の強さを実感し、自分の存在価値を改めて感じる場面が増えた。それが今、生き甲斐になっている。

里親を考えている人に伝えたいのは、利用する前に思っていたほどハードルは高くないということだ。

事前に制度の仕組みをきちんと理解することは大切だが、完璧な準備が整うのを待つ必要はない。

難しく考えすぎず、自分に何ができるかだけを純粋に考えてみることが、最初の一歩になる。

任務報告

担当の職員さんから聞いた話は、断片的だった。それでも、つなぎ合わせていくうちに、一つの輪郭が見えてきた。

その子の父親は、仕事が長続きしない人だったらしい。悪意のある人ではなかったと聞いている。

ただ、思い通りにならないことがあると、感情の制御が利かなくなった。怒鳴り声が家の中に響くことが、日常だった。

母親は止めようとしていた。でも母親自身も、夫の顔色をうかがいながら生活していた。

子どもを守りたい気持ちはあっても、自分を守ることで精一杯だったのだと思う。

そういう家の中で、その子は「問題を起こさないこと」を覚えた。

泣かない。要求しない。怒らない。感情を出すことが、家の空気を壊すと知っていたから。

それは六年かけて体に染み込んだ習慣だった。

その話を聞いたとき、家に来た最初の頃のことを思い返した。

わがままを一切言わなかった理由が、ようやく分かった気がした。あれは「良い子」なのではなかった。感情を出すことが、ずっと許されてこなかったのだ。

静かすぎることを不思議に思っていた自分が、少し恥ずかしかった。

そして同時に、試し行動が始まったあの時期のことも、違って見えてきた。

大切なものを壊し、泣き叫んで暴れたあの数ヶ月。追い詰められて夫婦で泣いた夜もあった。

でも今は思う。あれはきっと、初めて感情を出せた時間だったのかもしれない、と。

怒っても、ここは壊れない。そう確かめていたのかもしれない。

そう考えると、あの苦しかった夜々の意味が、すこし変わって見える。