任務報告

きっかけは、テレビのドキュメンタリー番組だった。

家庭の事情で親と一緒に暮らせない子どもたちがいること、そしてそうした子どもたちを家庭で育てる里親という制度があることを、そこで初めて知った。

制度を知ってからも、すぐには動けなかった。

子どもの人生に関わることだから、中途半端な気持ちで踏み込んではいけないという思いが強かった。

実際の生活の中でどこまで受け入れられるのか、家族の理解と協力が得られるのか。自分一人では決められないことばかりだった。

家族と何度も話し合いを重ねながら、少しずつ気持ちを整理していった。

背中を押したのは、説明会で聞いた現役里親の言葉だった。悩みながらも子どもと向き合い続けているその姿に共感した。

「すべてを完璧にしてあげる必要はなく、安心できる居場所をつくることが大切」

この言葉が、それまで感じていた「自分に務まるのだろうか」という重さを、少し軽くしてくれた。

子どもが来た最初の頃、こちらが声をかけても小さくうなずく程度で、表情はどこか固かった。

食事のときも遠慮しているようで、「本当に食べていいの?」といった様子が見えた。

夜もなかなか寝付けない日があり、家の中では静かに過ごしながらこちらの顔色をうかがっているように感じる場面も多かった。

新しい環境への不安と戸惑いが、子どもの全身から伝わってきた。

最もきつかったのは、突然泣き出したり怒りをぶつけてきたりする場面への対応だった。

「自分の対応は正しいのか」「子どもを傷つけてしまうのではないか」

そのたびに不安が押し寄せ、精神的に疲弊する瞬間があった。

夜中に泣いて呼ばれることが続き、寝不足が重なって体力的にも限界に近い日もあった。

変化は、日常の小さなやり取りの中に現れた。

学校や遊びでの出来事を楽しそうに話してくれるようになり、一緒に笑える瞬間が少しずつ増えてきた。

最初の頃の緊張と距離感が解けていくのを、日々のやり取りの中で感じた。

信頼関係というものは、特別な出来事によって生まれるのではなく、何でもない日常の積み重ねの先にあるのだと実感した。

職場では、直属の上司とチームメンバーにだけ事前に相談した。

「家庭で新しい子どもを受け入れるので、最初のうちは時間に変動があるかもしれない」と率直に伝えたことで、勤務時間の調整や休暇取得に柔軟に対応してもらえた。

子どもに安心できる環境を保ちながら、自分たちの生活も守るために、職場への事前の相談は欠かせない準備だったと感じている。

里親を考えている人へ伝えたいのは、最初の緊張や戸惑いは誰にでもあるということだ。

完璧を目指す必要はなく、子どものそばにいて寄り添うことが出発点になる。

少しずつ信頼関係が築けたときの喜び、日常の中でふと見せてくれる笑顔。それは、どんな言葉でも言い表せないものだ。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、「迷わずまず一歩を踏み出してみなさい」と言いたい。

任務報告

担当の職員さんから少しずつ聞いた話を、私なりにつなぎ合わせると、こういうことだった。

この子の母親は、子どもをとても愛していた。それは本当のことだと思う。ただ、愛することと、育てることは、必ずしも同じではない。

母親自身が、幼いころに安定した家庭を持てなかった人だった。愛の受け取り方も、渡し方も、誰かに教えてもらえないまま大人になった。

だからこの子への愛情は本物でも、それがどういう形で子どもに届くのかは、日によって、気分によって、大きく違った。

機嫌のいい日は抱きしめてくれた。そうでない日は存在ごと無視された。どちらが来るかは、朝起きるまでわからなかった。

この子はそのうち、母親の表情を読むことを覚えた。ドアの開き方、台所から聞こえる音、廊下の足音のリズム。

それらを瞬時に分析して、今日の母親がどちらのモードなのかを判断した。

機嫌がいいと分かれば、愛想よく振る舞った。そうでないと分かれば、気配を消した。七年間で磨き上げられた、サバイバルの技術だった。

記録の中に、母親が残した言葉があった。

「この子には笑っていてほしい。それだけが、私の願いです」

その言葉を読んだとき、最初に感じたのは怒りではなかった。

胸が痛かった。母親もきっと、誰かにそう願ってもらえなかった人だったのだと思った。

そして同時に、この子が初日の玄関で見せたあの整いすぎた笑顔の意味を、ようやく理解した。

あの笑顔は、恐怖から身を守るために覚えたものだったかもしれない。でもそれはきっと、母親の願いに応えようとしてきた証でもあった。

どちらも本当のことだと思う。そしてどちらも、子どもが背負うには重すぎるものだった。

任務報告

みなとが生まれたのは、大阪の下町に近いアパートだった。

築三十年を超えた建物で、廊下の端に他の部屋の自転車が積み重なっていた。

母親は当時二十代の半ば。若くして産んだことを後悔している様子はなかったが、どこか生活に疲れているような顔をしていた、と後にみなとは思い返す。

正確には、「思い返そうとしても、顔があまり浮かばない」のだけれど。父親のことは知らない。名前も、どんな人かも。

それを「かわいそう」だと感じたのは、ずっと後のことだ。小さな頃は、それが当たり前だったから。

みなとは、物心ついたときから声を出すことが少なかった。

泣いても誰も来ないことが多かったし、笑っても誰かが一緒に笑ってくれるとは限らなかった。

だから声を出すことのコスト計算が、幼いながらに体に刷り込まれていた。声を出す。誰かが反応する。

その二つが結びつかないまま育ったこどもは、言葉を道具として使うことを覚える前に、沈黙を選ぶことを覚える。

みなとがそうだった。保育園の先生は「おとなしい子」と言った。

それは間違ってはいなかったが、正確でもなかった。おとなしいのではなく、ただ、言葉を出すべき場所がどこなのか、まだ見つけられていなかっただけだ。

小学校に入ってしばらく経ったころ、担任の先生が気づいた。

お弁当を持ってこない日が続いていること。冬なのに上着が薄いこと。授業中、昼を過ぎると集中できなくなること。

先生が声をかけると、みなとは「大丈夫です」と言った。その返事があまりにも整いすぎていて、先生はかえって心配になったという。

一時保護は、その年の初夏に行われた。

母親は抵抗しなかった。疲れていたのか、それとも別の事情があったのか、みなとには分からなかった。

「また迎えに来る」という言葉が最後だった。みなとはそれを信じることも、疑うことも、しばらくはできないでいた。

一時保護所から児童養護施設へ。みなとはそこで約一年を過ごした。

施設の生活は、思ったよりも規則正しかった。起きる時間、ご飯の時間、寝る時間。

それまでの生活にはなかったリズムが、最初は不思議で、やがて少し安心するものに変わっていった。

自分のロッカーがあった。鍵がついていた。それだけのことが、なぜかとても大事に感じた。

友達と呼べる子が一人できた。同じ年の女の子で、よく折り紙を一緒に折った。

会話は少なかったけれど、並んで折り紙をしている時間は嫌いじゃなかった。

その子がある日、別の家に移っていった。みなとは泣かなかった。泣くのが正しいのかどうか、分からなかった。

里親家庭への委託が決まったのは、小学二年生になった秋のことだった。

担当の人から「新しいおうちに行く」と説明を受けたとき、みなとは「どのくらい居るんですか」と聞いた。

大人は少し間を置いてから、「しばらくの予定です」と答えた。

その「しばらく」が何日なのか何年なのか、みなとには分からなかった。

でも聞き返さなかった。聞き返しても、きっと正確な答えは返ってこないと知っていたから。

新しい家の玄関に立ったとき、石鹸と夕飯の匂いがした。

知らない匂いだった。でも不快ではなかった。「いらっしゃい」と言われて、みなとは小さく頭を下げた。

なんと返すのが正しいのか分からなかったから、頭を下げることにした。

食事のとき、みなとはいつも少ししかよそわなかった。お腹が空いていないわけではなかった。

ただ、たくさん取ることで何かが変わってしまうような気がして、いつも控えめにしていた。

「もっと食べていいよ」と言われるたびに、どう反応すればいいか分からなかった。

「ありがとうございます」と言って、それでも少ししか取らなかった。里親の人たちは何も言わなくなった。

怒っているのかと思ったが、違った。ただ待っていてくれていた、と後になって気づく。

夜になると、眠れなかった。暗い天井を見ていると、いろいろなことを考えた。

母親のこと。施設のロッカーに置いてきたもの。折り紙をよく一緒に作っていた子が、今どこにいるのか。

「大丈夫?」と声をかけられると、みなとは「大丈夫です」と答えた。それ以外の答え方を知らなかったから。

ある夜、隣に座ってただ黙っていてくれる人がいた。何も聞かなかった。何も言わなかった。

ただ、そこにいた。

みなとはその夜も「大丈夫です」と言ったけれど、その言葉の意味が、少しだけ変わっていた気がした。

休み時間に、クラスの子たちと外で遊んだ。ドッジボールで、みなとは最後の一人まで残った。

それが嬉しかった。それだけのことだったけれど、帰り道ずっとそのことを考えていた。

夕食の準備をしている背中に向かって、みなとは声をかけた。「あのさ」と言ってから、少し間があった。

「今日、ドッジボールで最後まで残った」

振り向いた顔が、ぱっと明るくなった。「すごいじゃない!」という言葉が返ってきた。

それだけのことだった。でも、みなとはその夜、いつもより早く眠れた。

見た目よりずっと多くのことを、みなとは考えていた。誰かが疲れているとき、怒っているとき、悲しんでいるとき。

それが表情のわずかな変化から分かった。だから先回りして「大丈夫です」と言い、余計なことを話さないようにしてきた。

でも里親の家で過ごすうちに、少しずつ気づいていった。ここでは、自分が話したことで誰かが疲れるわけじゃないかもしれない。

「大丈夫じゃない」と言っても、消えてしまうわけじゃないかもしれない。

それはゆっくりと、気づくか気づかないかの速さで、みなとの中に積もっていった。

みなとが次の場所へ移る日、空は晴れていた。荷物をまとめるとき、折り紙で折った小さなツルが棚に残っているのに気づいた。

施設にいたころから折り方だけ覚えていて、この家でも何度か折った。置いていこうか迷ったけれど、やっぱり持っていくことにした。

玄関で、言おうと思っていた言葉がうまく出てこなかった。「お世話になりました」は言えた。

もう一つ言いたかった言葉は、のどの奥で止まった。車が走り出してから、みなとは窓の外を見た。

家が小さくなっていく。「また来てもいいですか」と聞けばよかった、と気づいたのは、もう曲がり角を過ぎたあとだった。

でも、聞けなかったことが悔しかったということは、つまりそういうことだと、みなとは思った。

雨の日には、あの家の石鹸の匂いを思い出す気がする。まだそこにいるのかどうか、みなとには分からない。

でも、あの匂いはきっと覚えていられると思っている。

任務報告

不妊治療がうまくいかず、落ち込んでいた私に夫が言った。「養子縁組、調べてみたんだけど」と。

インターネットで調べた夫が里親制度のことを教えてくれたのが、最初のきっかけだった。

里親の体験談というと、温かい再生の物語として語られることが多い。

しかし、そういうまとまりのいい話ではない。

ADHD、学校への行き渋り、家庭内暴力、万引き、あらゆるトラブルを経験し、里親自身が神経症になって病院に通い続け、それでも「結論が出ない」。

里親制度の内容を調べていくうちに、登録までの過程の長さが目についた。

研修に何度も通わなければならない。面接もある。「少し面倒だな」というのが正直な感想だった。

それでも動き出せたのは、インターネットで読んだ里親経験者の体験談がきっかけだった。

「迷わずに手を挙げてほしい」というその言葉が、背中を押してくれた。

完璧な準備が整ってからではなく、迷いがあっても一歩踏み出すことに意味がある、ということを、その言葉は伝えてくれた。

委託の前には、施設での交流期間がある。

この家庭でやっていけるかどうかを双方が確認する、およそ3ヶ月の期間だ。しかしその時期に、早くも「試し行動」が始まった。

試し行動とは、子どもが「この人たちは本当に自分を受け入れてくれるのか」を確かめるために起こす行動のことだ。

施設での交流中、子どもは面会に来た別の家庭のお母さんに近づき、膝の上に乗ったり、遊んでもらったりした。こちらを試すような行動だった。

その様子を見ていた別の家庭の夫から、こんな言葉をかけられた。「少し怒り過ぎじゃないですか」。
昭和に育った感覚では、悪いことをしたら「コラ」と言って当然だった。しかしそれが今の子育てとは違うと言われた。

確かに言うことを聞かないその都度注意はしていたが、他人からそう指摘されて相当落ち込んだ。

自信をなくしかけながらも、交流期間を終えて委託に進んだ。

子どもが家に来てからの最初の頃は、とにかく夜泣きが激しかった。

夜9時頃から延々と3時間以上泣き叫ぶ。近所から「虐待ではないか」と疑われるほどの声だった。

朝目が覚めた瞬間に「お散歩」と言い出し、「あとでね」と言っただけで癇癪を起こした。

木のおもちゃが飛んでくる。ふすまに穴が開く。体に当たって痛い。

「猛獣を育てているみたい」と感じるほどの恐怖感があったと、当時を振り返る。

一番しんどかったのは、外出先でのことだった。

遊びに連れて行けば帰りたがらない。自転車の後ろに乗せると左右に暴れて転びそうになる。

スーパーに連れて行くとひっくり返って泣き叫ぶ。

実の子どもの「イヤイヤ期」であれば、ある程度は割り切れる。

しかし里親と子どもの間では、まだ親子関係が十分に築かれていない時期がある。

その状態でどう注意するか、叱ってはいけないのか、どの程度まで許容すべきなのか。判断の基準が分からず、途方に暮れた。

里親家庭における「しつけ」の難しさは、多くの里親が直面する問題だ。

実の親子でも難しい子どもへの関わり方が、関係性が築かれる前の段階ではさらに難しくなる。

こうした局面では、担当の児童福祉司や里親支援専門相談員(里親支援ソーシャルワーカー)に相談することが助けになる場合が多い。

近所への説明については、他の里親家庭とは少し異なる状況があった。

この子どもは外国にルーツを持つハーフだった。顔を見れば分かる。

隠してもしょうがないと判断し、家に来てすぐに近所の人に正直に伝えた。

外国にルーツを持つ子どもの里親養育については、文化的背景、言語、アイデンティティの形成など、特有の課題が生じることがある。

ルーツへの理解や、必要に応じた文化的サポートも里親の役割の一部になる場合がある。

職場については、急な欠勤や呼び出しの可能性があることを考慮し、上司には状況を説明した。

関係が変わったと感じた瞬間は、地味なものだった。

悪いことをしたとき、子どもがぽつりと「ごめんなさい」と言った。ただそれだけだ。

しかしそれまでは、謝るという行動がなかった。その一言が出たとき、「あ、変わったな」と感じた。

関係性の変化は、大きな出来事ではなく小さな言動の中に現れる。

それを見逃さないためにも、日々の細かな変化に目を向け続けることが里親には求められる。

やがて、子どもの行動がエスカレートしていった。言うことを聞かない、トラブルが続く。

専門機関に相談し調べてもらったところ、ADHDの診断が下りた。

ADHDとは注意欠如・多動症のことで、注意力の持続が難しかったり衝動的な行動が出やすかったりする発達障害の一つだ。

適切な支援と環境の調整によって生活のしやすさは変わるが、それには時間と継続的な関わりが必要になる。

学校への行き渋りが始まった。家庭内での暴力があった。万引きなど、社会的なトラブルも起きた。

里親である自分自身が神経症になり、病院に通うようになった。

高校で寮に入るために家を出た日、別れ際にじんとした。

「このまま高校を卒業して一人暮らしを始めてお別れになるのかな」と思った。

しかし4ヶ月で中退して戻ってきた。

20歳になった今も、色々なことが続いている。

今振り返って、里親をやってよかったかと問われれば、「フクザツ」としか言いようがない。

大変だったことは間違いない。自分が病院に通うほど追い詰められた。それでも、楽しかった思い出もある。結論は出ない。

この「結論が出ない」という正直さは、里親という経験の複雑さをそのまま表している。

温かい再生の物語として完結しない経験を、それでも続けてきた。それ自体が、一つの事実だ。

里親を考えている人に最も伝えたいことは、「真実告知」の問題ではないという。

真実告知とは、里子や養子に対して自分の出自や里親家庭であることを伝えることだ。

多くの里親がその伝え方やタイミングに悩む。しかし、それよりも大切なことがある。

「ありのままの子どもを受け入れられるか」ということだ。

里子がみんな親孝行してくれるわけではない。期待した関係にならないこともある。

それでも受け入れる覚悟を持てるかどうか。そこが問われるのだと、この20年近い経験を経て言い切る。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら「大変だよ」。それが、この経験を通じて出てくる正直な言葉だ。

里親体験談の多くは、困難を乗り越えた後の温かい結末を描く。しかし現実には、結末のない話も、「フクザツ」としか言えない経験も存在する。

ADHD、家庭内暴力、里親自身のメンタルヘルスの悪化。

こうした現実を正直に語ることは、これから里親を考える人にとっても、今まさに困難の中にいる里親にとっても、重要な情報になる。

「自分だけが大変なわけではない」という感覚が、孤立を防ぐからだ。

里親制度に関心を持った方は、まず地域の児童相談所または里親支援機関に問い合わせることから始めてほしい。

説明会への参加だけなら、登録や申請の義務は一切ない。「話を聞くだけ」でいい。

また、現在里親として困難な状況にある方は、里親支援専門相談員(里親支援ソーシャルワーカー)や里親会への相談も選択肢の一つだ。

一人で抱え込まないことが、子どもを支え続けるための基盤になる。

任務報告

数年間続けた不妊治療が、結果を出せないまま終わりを迎えようとしていた。

夫婦で今後の人生をどう歩むかを話し合っていたある日、インターネットで養子縁組や里親制度に関する記事を偶然目にした。

それまで里親という言葉を知ってはいたが、自分たちの現実的な選択肢として考えたことは一度もなかった。その記事が、扉を開く最初のきっかけになった。

不妊治療と里親制度。この二つを結びつけて考える夫婦は、実は少なくない。

治療に区切りをつけた後、「子どもを育てるという経験を諦めたくない」という思いが里親という道へと向かわせることがある。

制度を知ってからも、すぐに行動に移すことはできなかった。ためらいの理由は一つではなかった。

まず、「血の繋がらない子どもを、本当の我が子のように愛せるのか」という根本的な問いが頭から離れなかった。

愛情というものは、育てる中で生まれるとも言われる。しかしそれが本当かどうかは、やってみるまで分からない。

もし愛せなかったとき、子どもを傷つけることになるのではないか。その恐れは、軽くあしらえるものではなかった。

もう一つは、思春期を迎えたときの接し方への不安だった。

乳幼児期や小学生の頃とは異なり、思春期には自我が強く出る。

里親と子どもという関係性の中で、その時期をどう乗り越えられるのか、想像するだけで不安になった。

そして三つ目が、親族からの目線という問題だ。

里親制度はまだ社会的な認知が十分に広まっているとは言えず、「なぜ他人の子を育てるのか」「何か事情があるのか」という反応が親族から返ってくることを恐れていた。

世間体というものは、決して軽視できる問題ではない。

動き出すきっかけになったのは、自治体が主催する里親制度の説明会への参加だった。

実際に里親として活動している人の話を直接聞く機会があり、その言葉がこれまでの視点を大きく変えた。

「完璧な親である必要はない。今、助けを必要としている子の居場所になるということだ」

この考え方に、救われたという。

それまでは「里親として立派な親にならなければならない」という重圧の中にいた。

しかし里親とは、完成された親子関係を最初から提供することではない。

居場所を作ること、一緒に時間を重ねること、それが出発点なのだということを、説明会で初めて実感として受け取れた。

夫婦で話し合い、一歩踏み出す決意をしたのはその直後だった。

里親説明会は、各都道府県・政令市の児童相談所や里親支援機関が定期的に開催している。

愛知県・名古屋市でも複数の窓口が案内を行っており、参加に際して申請や登録の義務は一切ない。

「話を聞くだけ」という気持ちで参加できる場として、検討の入り口として活用できる。

子どもが家に来た最初の頃、家の中は常に張り詰めた空気だった。お互いが緊張していた。

しかし最も戸惑わせたのは、子ども自身の行動だった。

子どもは非常に「良い子」を演じようとしていた。

わがままを一切言わず、自分の感情をまったく外に出さなかった。

一見すると問題がないように見えるが、それは逆に不自然だった。

子どもらしい自己主張がない、感情の揺れがない、その静けさが、心の距離の遠さを示していた。

どうすれば心の距離を縮められるのか分からず、暗中模索の状態が続いた。

「良い子」を演じる背景には、これまでの環境の中で「感情を出すことが危険だった」という経験が潜んでいることもある。

それを理解できたのは、後になってからだった。

最もきつかったのは、子どもの「試し行動」が始まった時期だった。

試し行動とは、子どもが「この人たちは本当に自分を受け入れてくれるのか」を確かめるために起こす問題行動のことだ。

大切なものをわざと壊す、激しく泣き叫んで暴れる。そういった行動が数ヶ月にわたって続いた。

精神的にも肉体的にも限界に近い状態で迎えたある夜中、夫婦でリビングに座り、泣きながら話し合った。

「私たちの選択は、間違っていたのではないか」。

その言葉を二人で交わした夜が、この経験を通じて最も過酷な場面だったという。

試し行動は、心理的に安全な環境に慣れてきたことのサインだとも言われる。

しかし渦中にいるときに、そうした知識は気持ちを楽にはしてくれない。

こうした局面を一人で抱え込まないためにも、里親支援機関や里親会への相談窓口を事前に把握しておくことが重要だ。

関係が変わったと感じた瞬間は、特別な出来事ではなかった。

ある朝の食卓で、子どもが何気なくこう言った。「明日のおやつは何がいいかな」。

ただそれだけの言葉だ。しかしその言葉の意味は、軽くなかった。

この家での生活を「一時的なもの」ではなく、続いていく日常として認識し始めているということ。

明日もここにいる、という感覚が子どもの中に芽生えていることを、その言葉は示していた。

張り詰めていた心の糸が、少しだけ解けた瞬間だった。

関係性というのは、ある日突然変わるのではない。

一緒に食事をする、眠れない夜を隣で過ごす、何気ない会話を積み重ねる。

そういう時間の蓄積の先に、ある朝ふと気づいたら景色が変わっている、そういうものだ。

周囲への説明は、慎重に進めた。

近所の人には「親戚の子を預かることになった」とだけ伝え、詳しい説明はしなかった。

子ども自身に余計な関心や詮索が向くことを避けるためだ。

職場には、急な体調不良などで早退や欠勤が発生する可能性があることを考慮し、上司にだけ里親制度を利用していることを伝え、理解と協力を求めた。同僚には特に話さなかった。

里親であることをどこまで開示するかは、非常に個人的な判断であり、正解はない。大切なのは、周囲の反応に自分が疲弊しないよう、情報の出し方を自分でコントロールすることだ。

子どもが実親のもとへ戻る日が決まったとき、心にぽっかりと大きな穴が空いたような喪失感があった。

玄関で見送り、空になった子ども部屋を見たとき、涙が止まらなかった。

しかし同時に、もう一つの感情も確かにあった。「この子が幸せに暮らせますように」という、祈るような清々しい気持ちだ。

悲しさと清々しさが、矛盾しながら共存していた。それが里親という経験の、正直な終わり方だったという。

子どもが家を出た後の喪失感は、里親経験者の多くが語る。

この感情は「里親としての失敗」ではなく、深く関わった証だ。

こうした感情を安心して話せる場として、里親経験者同士のコミュニティや、里親支援機関のカウンセリング窓口を活用することが助けになることがある。

正直に言えば、非常に複雑な経験だった。しかし、やってよかったと確信しているという。

子育ての大変さを通じて、自分自身の未熟さを知った。

血縁を超えた深い愛情の形があることを学んだ。それは人生において、何物にも代えがたい財産になったと感じている。

里親制度は、決して美談ばかりではない。

しかし、一人の子どもの人生に寄り添い、共に過ごした時間は、たとえ短い期間であっても、その子の心に確かな温もりを残せる。そう信じている。

里親を検討している人に最も伝えたいことは、「覚悟」よりも「一人で抱え込まないこと」だという。

自治体の担当者、里親支援機関のスタッフ、里親仲間、頼れる場所をあらかじめ見つけておくこと。

自分自身が心身ともに健康でいられる余裕を持つことが、子どもを支える力になる。

里親をしながら自分が壊れてしまっては、子どもを守ることはできない。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、こう言いたいという。

「そんなに肩肘を張らなくて大丈夫。子どもと一緒に、少しずつ親になっていけばいいんだから」

不妊治療の末に里親という道を選んだこの経験は、「血縁」や「理想の親」という概念を何度も問い直させてくれた。

完璧な親でなくていい。ただの同居人から始めてもいい。

子どもと一緒に、少しずつ親になっていく。その時間の積み重ねの中にこそ、里親という経験の本質があるのかもしれない。

里親制度に関心を持った方は、まず地域の児童相談所または里親支援機関に問い合わせることから始めてほしい。

説明会への参加だけなら、登録や申請の義務は一切ない。「話を聞くだけ」でいい。

任務報告

今日も「ありがとう」は、なかった。

夕方、玉ねぎを炒める音がキッチンに広がっていた。

油の弾ける音、醤油を入れた瞬間の甘い煙。

私はそれを聞きながら、リビングのほうを何度か確認した。

彼女はソファに座って、ランドセルも下ろさないまま、窓の外をぼんやり見ていた。

8歳の背中は小さくて、でも妙に遠かった。

「ごはん、できたよ」

返事はなかった。

少しして、ランドセルをどさっと床に置く音だけが聞こえた。

テーブルに並べた皿を、彼女はひとつひとつ確認するように見た。

嫌いなものが入っていないか、確かめるみたいに。

「いただきます」を言って、箸を持って、黙って食べ始めた。

パートナーが「おいしいね」と言うと、彼女は小さくうなずいた。

私のほうは見なかった。

食器を洗いながら、泡の立つ音を聞いていた。

別に、感謝してほしいわけじゃない。

そう思おうとした。

でも手の中のスポンジが、なんとなく重かった。

委託されて3ヶ月が経つ。

LGBTのカップルが里親になることへの周囲の視線は、想像していたよりずっとやわらかかった。

担当の支援員さんは丁寧だったし、児童相談所の対応も思っていたより温かかった。

同性愛のカップルだからといって、特別に冷たくされた記憶はない。

それでも私たちは、どこかで「ちゃんとしなければ」と思い続けていた。

里親として、LGBTとして、この子に何かを証明しなければならないような気がして。

だから余計に、頑張ってしまっているのかもしれない。

お風呂の準備をして「入れるよ」と声をかけると、彼女は無言で立ち上がってドアを閉めた。

シャワーの音が壁越しに聞こえてきた。

水音はしばらく続いて、それからぴたりと止まった。

廊下に、シャンプーの甘い匂いが漂ってきた。

「慣れてないだけだよ」
パートナーはそう言って、私の肩に手を置いた。

温かかった。

でもその温かさが、少しだけ的外れに感じた。

慣れの話じゃない、たぶん。

うまく言葉にできないまま、私は「そうだね」と返した。

夜、彼女が眠ったあと、リビングに一人で座った。

テーブルの上に、彼女が使ったコップが残っていた。

麦茶の輪染みが、白いテーブルクロスにうっすらついていた。

私はそれをじっと見ていた。

拭こうとして、やめた。

任務報告

「これ以上のステップアップは難しい」と医師から告げられたのは、不妊治療を始めて5年が経った頃のことだった。

夫婦でそれぞれの気持ちを話し合う中で、「血縁にこだわらず、子どもを育てるという経験を一緒にしたい」という思いが少しずつ言葉になっていった。

そのタイミングで手にした自治体の広報誌に、里親募集の記事が載っていた。

それが、里親という選択肢を現実として意識した最初の瞬間だった。

不妊治療と里親制度。一見別々のように見えるこの二つの選択肢は、子どもを持ちたいと願う多くの夫婦の間で、実は深く結びついている。

まず、里親制度の基本を整理しておきたい。

里親制度とは、何らかの事情により家庭で暮らすことができない子どもを、一定期間または長期にわたって家庭に迎え入れ、養育する制度だ。

日本では児童福祉法に基づき、国と都道府県が制度を運営している。

里親にはいくつかの種類がある。養育里親は、一時的または中長期的に子どもを預かる最も一般的な形態だ。

専門里親は、虐待を受けた経験のある子どもや非行傾向のある子どもなど、専門的なケアを必要とする子どもを対象とする。

養子縁組里親は、将来的な特別養子縁組を前提として子どもを迎える形で、法的な親子関係の成立を目指す。

親族里親は、両親が死亡や行方不明などの場合に祖父母や叔父叔母などの親族が子どもを育てる形態だ。

里親になるには、自治体への申請・審査・研修・登録というステップが必要で、委託後も児童相談所によるフォローアップが定期的に行われる。

制度を知ってからも、すぐに動き出すことはできなかった。夫は比較的前向きだったが、自分自身の中に大きな壁があった。

「血の繋がらない子どもを、本当に心から愛せるのか」

この問いは、単純な不安ではなかった。それは、自分自身の冷酷さや器の小ささを突きつけられるような怖さだった。

愛せなかったとき、自分はどうなるのか。子どもを傷つけてしまうのではないか。そう考えるたびに、研修に申し込むことすらためらってしまった。

もう一つの不安は、実家の両親のことだった。

保守的な考えを持つ両親が、里親という選択を理解してくれるかどうか分からなかった。

「絶縁状態になるかもしれない」という恐れは、決して大げさではなかった。

里親を検討する人が「動き出せない」背景には、このような内面的な葛藤が複雑に絡み合っていることが多い。制度の情報を集めるだけでは解決できない部分だ。

転機になったのは、地域で開かれた里親の体験発表会への参加だった。現役の里親が壇上でこう言った。

「子どもを愛そうと気負わなくていい。ただの同居人から始めてもいいんだよ」

この言葉を聞いたとき、長い間肩にのしかかっていた何かが、すっと下りていった。

里親になるためには、最初から立派な親でなければならないと思い込んでいた。

聖人君子でなければできないことだと。しかしその言葉は、そうした思い込みをそっと解いてくれた。

翌週、研修への申し込みを決めた。

里親体験発表会や里親説明会は、各都道府県・政令市の児童相談所や里親支援機関が定期的に開催している。

神奈川県内でも横浜市・川崎市・相模原市などで案内がされており、参加に際して特別な条件は必要ない。

「まず話を聞くだけ」という気持ちで参加できる場として、検討の第一歩として活用できる。

子どもが来た最初の数ヶ月は、正直に言えば、可愛いと感じる余裕などまったくなかった。

家の中には常に緊張感があった。他人が同じ空間にいる、あの張り詰めた空気。

子どもがこちらの顔色をうかがいながらニコニコしているのを見るたびに、その不自然さに胸が痛んだ。

どう接していいか分からず、笑顔を返すことしかできない自分にも戸惑った。

夜、子どもが眠ったあとに寝顔を眺めながら、何度もこう自問した。

「この子を預かったのは、私のエゴだったのではないか」。その問いに、答えを出せないまま朝を迎えた日も多かった。

こうした感覚は、里親を始めた多くの人が経験することだという。

子どもも大人も、お互いに「どんな人なのか」を探っている時期であり、関係性がまだ根を張る前の、不安定な時間だ。

最もきつかったのは、子どもの「試し行動」が始まった時期だった。

試し行動とは、子どもが「この人は本当に自分を受け入れてくれるのか」を確かめるために、わざと問題行動を起こすことだ。

心理的に安全な環境に慣れてきた頃に現れることが多く、むしろ関係が深まっているサインとも言われる。

しかしその渦中にいるときは、そのような解釈をする余裕はなかった。

わざとコップをひっくり返す。突然叩いてくる。それが何日も続いた、ある日の夜、ついに限界が来た。泣き崩れてしまった。

そのとき夫に相談すると、「子どもなんだから仕方ないだろう」と一蹴された。悪意のない言葉だったかもしれない。

しかし、自分が追い詰められているときに受け取るには、あまりにも遠い言葉だった。

育児に対する温度差を夫婦間で強く感じた、あの夜が、精神的に最も苦しい時間だった。

里親家庭において、こうしたパートナーとの温度差や孤立感は珍しくない。

里親支援機関や里親会への相談、あるいは同じ経験を持つ里親同士のつながりが、こうした局面では特に重要になってくる。

委託からおよそ1年が経った頃、子どもが外で派手に転んで怪我をした。泣きながら、真っ直ぐにこちらの胸に飛び込んできた。

それまでも泣くことはあった。しかし、いつもどこかに遠慮があった。泣きながらも少し距離を置くような、そういう泣き方だった。

あの日は違った。迷わず、真っ直ぐに来た。

「この子は私を、安全な場所だと認識してくれた」

そのとき初めて、肌でそれを感じた。ようやく親子になれた気がした、と後にこう振り返る。

関係性というものは、劇的な出来事によって変わるのではない。

毎日の食事を一緒に食べること、眠れない夜を隣で過ごすこと、そういう時間の積み重ねの先に、ある日突然、何かが変わる瞬間がある。

周囲への説明については、慎重にアプローチした。

近所の人には「親戚の子どもを預かることになりました」と最初は濁して伝えた。

子ども自身に余計な関心や詮索が向くことを避けたかったからだ。

職場には、急な呼び出しや学校行事での早退などを想定し、上司にだけ詳細を話した。同僚にはあえて詳しく伝えなかった。

「周囲の反応にこちらが疲弊しないよう、情報の出し方をコントロールしていた」という言葉は、多くの里親家庭に共通する実感だろう。

里親であることを開示するかどうかは、非常に個人的な判断であり、どちらが正解ということはない。大切なのは、自分と子どもの生活を守ることだ。

里親を検討している人に、最も伝えたいことはこれだ。

「立派な親にならなくていい」

理想の親子像を追い求めると、自分も子どもも苦しくなる。

まずは同じ屋根の下で、一緒にご飯を食べて、安全に眠れる場所を提供する。

それだけで十分に価値があることだ。自分に厳しくなりすぎず、まず「それだけ」から始めていいと、自分を許してほしい。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、こう伝えたい。

「想像以上にしんどいけれど、想像もできなかったほど深い感情を、その子から教えてもらえる」と。

「里親制度は、制度の整備も大切だけれど、私たち当事者がしんどいと言える場所がもっと増えてほしい」

里親支援は近年少しずつ充実してきているが、里親家庭が孤立しやすい構造はまだ残っている。

支援者だけでなく、同じ経験を持つ里親同士がつながり、「しんどい」と言い合える場があること。

それが里親制度の継続性を支える上で、これからさらに重要になると思う。

5年間の不妊治療の末に里親という道を選んだこの経験は、「血の繋がり」や「理想の親子像」への問いを何度も更新させてくれるものだった。

答えはまだ出ていないかもしれない。それでも、一緒にご飯を食べ、泣きながら胸に飛び込んできたあの日を、忘れることはないだろう。

里親制度に関心を持った方は、まず地域の児童相談所または里親支援機関に問い合わせることから始めてほしい。

説明会への参加だけなら、登録や申請の義務は一切ない。「話を聞くだけ」でいい。それが、最初の一歩になる。

任務報告

不妊治療を続けるかどうか、夫婦でまだ答えを出せずにいたある日、自治体の広報誌に里親制度の記事が載っていた。

それまで「里親」という言葉は知っていたが、実際に調べてみると、養育里親や将来の養子縁組を前提とした里親など、いくつかの種類があることを初めて知った。

そのとき初めて、里親という選択肢が現実のものとして見えてきた。

里親制度を知ってからも、すぐに動き出せたわけではない。

最大のためらいは「自分たちに本当にできるのか」という不安だった。

実の子どもでも子育ては大変だと聞く。

ましてや何らかの事情を抱えた子どもを受け入れるには、相応の覚悟が必要ではないかと思うと、簡単には踏み出せなかった。

周囲に里親経験者がいなかったことも大きかった。生活がどう変わるのか、具体的に想像できる手がかりがなかった。

転機になったのは、自治体が開いた里親説明会への参加だった。

そこで実際に里親をしている人の話を聞く機会があり、理想だけではなく、悩みながら続けている様子を率直に語ってくれた。

「完璧な家庭でなくても関われる形はある」という言葉を聞いたとき、肩の力が少し抜けた。

里親を検討している段階でまず参加できる説明会は、各都道府県・市区町村の児童相談所や里親支援機関が定期的に開催している。

大阪府内でも複数の窓口が案内を行っており、参加に際して特別な条件はない。

最初に委託されたのは小学校低学年の子どもだった。

思っていたよりずっと静かで、家の中でも遠慮している様子が強く、話しかけても短い返事しか返ってこなかった。

テレビを見ていても落ち着かない様子で、この家でどう過ごしていいか分からないように見えた。

食事のときも量を少ししか取らず、好き嫌いなのか遠慮しているのか判断できず戸惑った。

「何をしてあげるのが正しいのか」が分からないまま、毎日が手探りだった。

最もきつかったのは夜の時間だ。布団に入ってもなかなか眠れない日が続き、夜中に何度も起きることがあった。

理由を聞いても「大丈夫」としか言わない。どう声をかければいいのか分からないまま、ただ隣に座って様子を見ていることも多かった。

自分自身にも余裕がなく、夫婦で対応方針が合わないこともあった。

里親家庭において夜間の不安定さはよく見られることだと後から支援者に聞いたが、その渦中にいるときは、そうした知識があっても気持ちが楽になるわけではなかった。

変化は、ある夕食のときに訪れた。その日、子どもが学校であった出来事を自分から話してくれた。

「休み時間に友達と遊んだ」という、それだけの話だ。

でも、それまでこちらが聞いても「普通だった」と短く返すだけだったから、思わず驚いた。うれしかった。

その日を境に、学校のことや好きな遊びの話を少しずつしてくれるようになった。関係が変わったと実感できた瞬間だった。

近所には「親戚の子をしばらく預かっている」と伝える程度にとどめた。

子ども自身に余計な関心が向くのを避けたかったからだ。

職場には、急な学校行事などで休む可能性があるため上司にだけ事情を説明した。

同僚には特にこちらから話すことはせず、必要な範囲だけ伝えるようにした。
どこまで話すかの正解はなく、それぞれの状況に応じた判断になる。

子どもによって事情はまったく異なり、思うように関係が築けない時期も当然ある。

自分の対応がこれでよかったのか、迷う場面は何度もあった。

それでも、特別なことをしなくても、誰かと一緒に生活する時間が子どもにとって意味を持つことがある、と感じている。

里親になる前の自分に言えるとしたら、「最初から完璧にできなくて大丈夫」ということだ。

分からないことはそのたびに里親会や児童相談所に相談すればいい。もっと早い段階から頼っていれば、気持ちが楽だった場面もあったと思う。

制度の内容や受けられる支援をよく知ったうえで、自分たちの生活の中で無理なく続けられるかを考えること。

それが、里親を検討する際の最初の一歩になると思う。

任務報告

里親という制度を知ったのは、数年前に見たテレビの特集だった。

児童養護施設の子どもたちを取り上げた番組で、「里親」という言葉が画面に出たとき、名前だけは知っていても、実際に家庭で子どもを育てる制度だとは理解していなかった。

番組のあと、なんとなく気になってインターネットで調べた。それが始まりだった。

調べながらも、すぐに動き出せたわけではない。

子育て経験もなく、事情を抱えた子どもを受け入れることの責任の重さを考えると、軽い気持ちでは踏み出せなかった。

いつか子どもが家を離れる可能性があることも、正直怖かった。

夫婦で何度も話し合ったが、「中途半端な気持ちではできないよね」という結論になり、しばらくは調べるだけで終わっていた。

背中を押してくれたのは、自治体の説明会だった。

実際に里親をしている人の話を聞く機会があり、「最初から完璧にできる人はいない」という言葉が印象に残った。

特別な人だけがやるものではなく、悩みながら続けているという話を聞いて、少し気持ちが楽になった。まずは研修だけでも受けてみようと思ったのが、動き出したきっかけだ。

子どもが来た最初の頃、距離の遠さを感じた。

こちらは「家族として迎えた」という気持ちでいても、子どもにとっては知らない大人の家に来ただけだ。会話は少なく、目もあまり合わせてくれなかった。

どう接していいのか分からず、必要以上に気を遣ってしまい、家の中にはどこかぎこちない空気が漂っていた。

一番しんどかったのは、夜の時間だった。寝る前になると急に不安定になり、布団に入ってもなかなか寝付けず、何度も起きてしまう。

理由を聞いても答えてくれないことも多く、「どうしてあげればいいんだろう」と途方に暮れた夜もあった。

疲れが積み重なって、夫婦で小さな言い合いになったこともある。

転機は、ある日の夕方に訪れた。学校であった出来事を、子どもが自分から話してくれた。

特別な内容ではなかった。「今日こんなことがあった」という、ごく普通の話だ。

それまでほとんど自分から話すことがなかっただけに、そのとき感じたうれしさは今でも覚えている。

少しずつだけど、距離が縮んでいるのかもしれないと感じた瞬間だった。

子どもが家を出た日のことは、よく覚えている。ドラマのように泣くことはできなかった。

寂しさはもちろんあった。でも同時に、「無事にここまで来られてよかった」というほっとした気持ちもあった。

静かになった家に帰ってきたとき、実感がじわじわとわいてきた。

今振り返ったとき、「やってよかった」と言い切れるかといえば、正直そう単純ではない。

大変なことも多かったし、正解が分からないまま続けていた部分も多かった。

ただ、あの時間は自分たちにとって大事な経験だったと思っている。「やらなければよかった」と思ったことは、一度もない。

里親を考えている人に伝えたいのは、最初からうまくできる人はいないということだ。

子どもとの関係も、すぐに家族のようになるわけではない。時間がかかるし、戸惑うことも多い。

それでも、少しずつ積み重なっていく時間がある。それだけは確かだと思う。