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合言葉を失った

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文章を書いてから、三週間が経った。

ファイルは保存したまま、開いていなかった。

開く気になれなかったというより、開かなくてもいいと思っていた。

書いたという事実が、どこかにあれば十分だった。

少なくとも、最初の数日はそう思っていた。

でも一週間ほど経ったころから、少しずつ気になり始めた。

あの夜書いた言葉が、今の自分にはどう見えるのか。

時間が経った分、少し外から見られるかもしれない。

そう思いながら、でも開けなかった。

開けば、何かを決めなければならない気がした。

決めたくなかった。

そのまま三週間が過ぎた。

ある夜、悠からLINEが来た。

「最近どう?あの文章、書いた?」
「書きました」と返した。

「読んでみた?」
「まだ」
少し間があって「読んでみたら」と返ってきた。

それだけだった。

背中を押す言葉でも、急かす言葉でもなかった。

ただ、そう言った。

翌日の夜、パソコンを開いた。

ファイルを開く前に、少し深呼吸した。

深呼吸するほどのことでもない、と思いながら、した。

読み始めた。

最初の数行で、少し恥ずかしくなった。

整理されていない文章だった。

感情が先走っている部分もあった。

でも読み続けると、恥ずかしさより先に、別の感覚が来た。

これは、本当のことだ、という感覚だった。

うまくない。

でも本当のことが書いてある。

二千字の中に、二十六年間言葉にできなかったことが、不格好ながらも形になっていた。

読み終えて、悠にファイルを送った。

深く考えずに、送った。

考えれば躊躇したと思う。

だから考えずに送った。

送ってから、少し後悔した。

でも取り消さなかった。

三十分ほどして、悠から返信が来た。

「読んだ。これ、どこかに出してみたら」
どこかに出す、という言葉が、すぐには受け取れなかった。

誰かに読んでもらうことへの怖さが、また来た。

でも悠が「出してみたら」と言ったという事実は、そこにあった。

翌週の土曜日、房子さんの家を訪ねた。

前回と同じ道を歩いて、同じチャイムを押した。

房子さんが出てきて、同じように「痩せた?」と聞いた。

私は「痩せてないです」と答えた。

それがいつものやりとりになっていた。

台所でお茶を飲みながら、文章を書いたことを話した。

「読んでもらえますか」と言って、印刷してきた紙を渡した。

房子さんは老眼鏡をかけて、丁寧に読んだ。

私はお茶を飲みながら、庭を見ていた。

哲夫さんが植えた小さな木が、風に揺れていた。

読み終えた房子さんが、眼鏡を外した。

「あなたの言葉ね」と言った。

前回も同じような言葉を聞いた。

あのときは、孤立を肯定されているように感じた。

でも今日は、違って聞こえた。

今日の「あなたの言葉」は、これはあなたにしか書けない、という意味に聞こえた。

「ありがとうございます」と私は言った。

「出すの?」と房子さんが聞いた。

「まだ決めていません」と私は答えた。

「決めなくていいのよ」と房子さんは言った。

「書けたことが大事なんだから」
その言葉が、今日は素直に受け取れた。

帰り道、駅までの坂を下りながら、私はどこかに出すかどうかを考えた。

怖さは、まだあった。

自分の経験を外に出すことへの怖さ。

「里親家庭育ちの当事者」として受け取られることへの怖さ。

語ることで、経験が固定されることへの怖さ。

でも、もう一つの感覚もあった。

あの本の中で「どこにも属せなかった、ということ」を書いた三十二歳の女性の文章が、二十六歳の私に届いた。

それは本物のことだった。

誰かの言葉が、誰かに届く。

それが起きた。

私の言葉が、誰かに届くことも、あるかもしれない。

アパートに帰って、パソコンを開いた。

ファイルを開いて、最初から読み直した。

読みながら、少し直した。

整理されていない部分を、少し整えた。

でも感情が先走っている部分は、そのままにした。

そこが本当のところだったから。

タイトルを入れた。

「どちらでもない、私の経験について」
完璧なタイトルではなかった。

でも今の自分には、これが一番正直だった。

投稿するかどうかは、まだ決めなかった。

でも、決めなくていいと思えた。

以前は、決められないことへの焦りがあった。

どちらにも属せないことへの不安があった。

でも今夜は、決めなくていいという感覚が、焦りではなく落ち着きとして来た。

どちらのコミュニティにも完全には属せないまま、でもそれでいい気がしてきた。

施設出身でも、実家育ちでもない。

怒りを持った当事者でも、感謝だけを語る経験者でもない。

里親家庭で育った私の経験は、そのどれでもなくて、でもそのどれかに似ていて、最終的には私にしか語れないものだった。

語ることへの怖さは、まだある。

でも語らないことへの後ろめたさが、今夜は薄かった。

どちらでもない場所に、自分の立つ場所があるのかもしれない。

まだわからない。

でも探す気になっている。

それが三週間前とは、確かに違うことだった。

ファイルを保存して、画面を閉じた。

部屋の電気が、白く部屋を照らしていた。

窓の外に、夜の住宅街が広がっていた。

どの家にも明かりがついていた。

アパートに帰ったのは、夜の九時過ぎだった。

鞄を置いて、手を洗って、いつも通りの動作をした。

でもその日は、夕食を作る気になれなかった。

コンビニで買ってきたおにぎりを食べながら、パソコンを開いた。

新しいドキュメントを作った。

タイトルを入れようとして、止まった。

タイトルなんてなくていい、と思って、本文から書き始めることにした。

最初の一文が、なかなか出てこなかった。

悠に「書いてみたらいい」と言われたとき、帰り道ではできる気がしていた。

でもいざ画面の前に座ると、何から書けばいいかわからなかった。

里親家庭で育ったこと、と書こうとして、その続きが出てこなかった。

しばらく画面を見ていた。

それから、タイトルのことは忘れて、今日思ったことをそのまま書き始めた。

悠に「いいじゃん、家庭があって」と言われたとき、私は黙った。

なぜ黙ったのか、ずっとわからなかった。

怒ったわけではなかった。

悲しかったわけでもなかった。

ただ、何かが引っかかって、言葉が出なかった。

書きながら、その引っかかりの正体を探した。

「いいじゃん」という言葉は、私の経験を「良かったこと」として処理した。

良かった部分は確かにあった。

でも良かっただけではなかった。

名前のつかないものが、たくさんあった。

それを「いいじゃん」の一言で着地させることへの抵抗が、あの沈黙だったのかもしれない。

書きながら、七歳のころのことを書いた。

中村家の本棚のこと。

「好きな本を選んでいいよ」と言った房子さんのこと。

それが最初の安心だったこと。

でも同時に、学校で「家族は何人?」と聞かれたときに詰まったこと。

運動会で「あの人たちは誰?」と聞かれて「親戚」と答えたこと。

書いているうちに、言葉が出てきた。

悠が言った通りだった。

書き始めると、止まらなくなった。

里親家庭での十一年間が、断片的に言葉になっていった。

穏やかだったこと。

でも穏やかさの中に、いくつもの一拍の間があったこと。

血がつながっていないことを意識する瞬間が、日常の中に散らばっていたこと。

哲夫さんのこと。

几帳面で、真面目で、私に勉強を教えてくれた人。

でも一度も「父親らしいこと」をしようとしなかった人。

それが冷たかったのか、そうじゃなかったのか、今でもわからない。

わからないまま、書いた。

オンラインイベントで場の外にいた感覚のことも書いた。

施設出身者の言葉に重なれなかったこと。

でも重なれないことへの後ろめたさがあったこと。

里親家庭で育ったことが「恵まれていた」と思われることへの、うまく言葉にできない違和感。

書きながら、涙が出た。

泣くつもりはなかった。

でも書いているうちに、言葉が感情を引き出した。

感情が先にあって言葉にするのではなく、言葉を書くことで感情が出てきた。

そういうことが起きるとは、知らなかった。

どのくらい書いたか、わからなかった。

気づいたら、時計が十二時を過ぎていた。

画面を見ると、二千字を超えていた。

読み返した。

うまい文章ではなかった。

整理されていない部分も、言いたいことが伝わらない部分も、たくさんあった。

でも、自分が書いた言葉だった。

誰かに向けた言葉ではなく、自分に向けた言葉だった。

それが、今夜の全部だった。

ファイルを保存した。

タイトルは、最後まで入れなかった。

入れなくていいと思った。

誰かに見せるためではなかったから。

画面を閉じた。

部屋が静かだった。

おにぎりの袋がテーブルの上にあった。

電気をつけたまま、私はソファに座った。

書いたという事実が、何かを変えた気がした。

何が変わったのか、言葉にできなかった。

でも変わった気がした。

経験を固定したとは思わなかった。

むしろ、流動的なままで、でも輪郭が少し見えた感じがした。

語ることと、語らないことの間に、書くことがある。

それを、今夜初めて知った気がした。

誰にも届かなくていい。

まず自分のために書いた。

それだけで、今夜は十分だった。

窓の外は静かだった。

夜の住宅街の、どこかで犬が一声吠えて、また静かになった。

パソコンをもう一度開こうとして、やめた。

今夜はここまでにしようと思った。

続きは、また書けばいい。

そう思えた。

続きがあると、思えた。

それが今夜の一番の収穫だったかもしれない。

続きを読む

悠と三度目に会ったのは、本を読んでから十日後だった。

今回は悠が「飯でも食べよう」と言って、新宿から少し外れた定食屋を指定してきた。

カフェより気楽な場所だった。

向かい合って座って、注文をして、しばらくは他愛のない話をした。

悠の職場のこと、私の仕事のこと。

前回より、会話が自然だった。

食事が来てから、私は本の話をした。

「房子さんにもらった本、読みました」
「どうだった?」
「里親家庭出身の人が書いた文章があって」と私は言った。

「読んで、泣きました」
悠が少し驚いた顔をした。

「泣いたんだ」
「自分が言葉にできなかったことが、そこにあって」
悠は黙って聞いていた。

箸を置いて、私の話に向き合っていた。

その姿勢が、少し前回と違った。

カフェで話していたときより、受け取ろうとしている感じがした。

私は続けた。

どちらのコミュニティにも属せない感覚のこと。

怒りのない当事者として語れるのかどうかわからないでいたこと。

でもその文章を読んで、語ることへの怖さが少し変わったこと。

悠はしばらく黙っていた。

定食屋の中は、昼時の賑わいが少し落ち着いて、静かになっていた。

隣のテーブルの会話が、遠くで聞こえた。

「俺さ」と悠は言った。

「凛に『いいじゃん、家庭があって』って言ったじゃん」
「はい」
「あれ、俺の問題だったな」
思いがけない言葉だった。

責めていたわけではなかった。

でも悠が自分でそう言ったことが、意外だった。

「どういう意味ですか」と私は聞いた。

「俺が家庭を経験したことがないから、家庭があればよかったって思ってた。でもそれは俺の経験から来てる話であって、凛の経験を軽くしてたな、と思って」
私は何も言えなかった。

責めてほしかったわけではなかった。

謝ってほしかったわけでもなかった。

ただ、悠が自分でそう気づいて、言葉にしてくれたことが、思いのほか大きかった。

「ありがとうございます」と私は言った。

「謝られてないのにありがとうって言うな」と悠は笑った。

私も笑った。

自然に笑えた。

「でもさ」と悠は続けた。

「凛みたいな経験を語れる人も必要だと思うよ」
その言葉の意味を、私はすぐには受け取れなかった。

必要とされることへの戸惑いがあった。

自分の経験が誰かに必要とされるとは、考えたことがなかった。

怒りのない当事者の言葉が、誰かの役に立つとは思えなかった。

「どういう意味ですか」と私はもう一度聞いた。

「施設の経験者の声はたくさんある。でも里親家庭の経験者の声は少ない。俺も凛から話を聞くまで、里親家庭がどういうところか、ほとんど知らなかった。知らないまま『いいじゃん』って言ってた」
悠は一口、味噌汁を飲んだ。

「怒りがなくても、経験を語ることはできると思う。怒りがない経験の語り方が、あると思う」
怒りがない経験の語り方。

その言葉が、頭の中に残った。

怒りがなければ語れないと思っていた。

怒りがないことを、当事者としての資格がないことだと思っていた。

でも悠の言葉は、その前提を少しずらした。

怒りの代わりに、私が持っているものは何なのか。

まだわからなかった。

でも「ある」かもしれないとは、思えるようになっていた。

定食屋を出て、駅に向かう道を並んで歩いた。

「書いてみたらいいんじゃないの」と悠が言った。

「誰かに見せなくてもいいから、まず書いてみる、っていう」
「書いたことはないです」
「俺も最初はそうだった。書いてるうちに、言葉が出てきた」
改札の前で別れた。

帰りの電車の中で、私はずっと考えていた。

書く、ということ。

誰にも見せなくていい。

まず自分のために書く。

怒りがなくても、書けることがあるかもしれない。

里親家庭で育ったこととはどういうことか、まだ言葉にできていない部分を、まず自分に向けて書く。

できるかどうか、わからなかった。

でもやってみようと思った。

今夜、アパートに帰ったら、やってみようと思った。

続きを読む

本を読み始めたのは、悠と会った翌日の夜だった。

房子さんにもらった当事者手記は、二百ページほどの薄い本だった。

社会的養護のもとで育った十数人が、それぞれの経験を書いた文章が収められていた。

編集者のまえがきには「多様な経験を持つ当事者の声を、そのままの形で届けたい」と書いてあった。

最初のページから順番に読んでいった。

施設出身者の文章が多かった。

内容は、オンラインイベントで聞いた話と重なる部分があった。

集団生活の息苦しさ、職員との関係、十八歳での自立の難しさ。

読みながら、やはり自分の経験とは違うと思った。

重なれない、という感覚が、また来た。

半分ほど読んだところで、一編の文章に目が止まった。

タイトルは「どこにも属せなかった、ということ」。

書いた人は三十二歳の女性で、里親家庭の出身だった。

読み始めた瞬間、手が止まった。

里親家庭で育ったことを、施設出身者のコミュニティで話すと空気が変わった、と書いてあった。

「恵まれていたんだね」と言われることへの違和感。

怒りの対象が見つからない自分が当事者として語っていいのかわからない、という迷い。

どちらのコミュニティにも完全には属せない感覚。

私が言葉にできずにいたことが、そこにあった。

読みながら、体の中で何かが動いた。

泣くとは思っていなかった。

でも目が熱くなった。

こらえながら、続きを読んだ。

その人は、里親家庭での経験を「穏やかだったが、名前のつかないものがたくさんあった」と書いていた。

里親を「お父さん」「お母さん」と呼べなかったこと。

学校で「家族は何人?」と聞かれたときの一拍の間。

血がつながっていないことを意識する瞬間が、日常の中にいくつもあったこと。

全部、知っていた。

全部、経験していた。

でも言葉にしたことがなかった。

その人が言葉にした経験を読みながら、私は自分の経験がそこに輪郭を持って現れた気がした。

文章の最後にこう書いてあった。

里親家庭で育ったことは、施設で育つことよりも恵まれていたのかもしれない。

でもそれは、苦しくなかったということではない。

苦しさの質が違うだけで、言葉にならないものが積み重なっていたことは、同じだったと思う。

その言葉にならないものを、誰かに渡せる形にしたくて、この文章を書いた。

本を閉じた。

しばらく、そのまま動けなかった。

似た経験をした人がいる、という発見が、思いのほか大きかった。

孤独ではなかったかもしれない、という感覚が、初めて来た。

オンラインイベントで場の外にいた感覚とも、悠に「いいじゃん」と言われたときの感覚とも、違った。

この人の言葉は、私の経験と重なった。

スマートフォンを手に取った。

この文章をSNSにシェアしようとして、指が止まった。

シェアすることで「自分もこうだ」と表明することになる。

それへの躊躇があった。

まだ整理がついていない。

自分の経験をどこかに固定してしまうことへの怖さが、まだそこにあった。

シェアせずに、スマートフォンを置いた。

でも、シェアしなかったことへの後悔はなかった。

今夜は、自分のために読んだ。

それで十分だった。

部屋の電気が、白く部屋を照らしていた。

本をテーブルに置いたまま、私はしばらく天井を見ていた。

語ることは、経験を固定することだと思っていた。

でもこの人の文章を読んで、少し違うかもしれないと思い始めた。

語ることは、経験を固定するのではなく、経験に輪郭を与えることなのかもしれない。

輪郭があれば、渡せる。

渡せれば、誰かの手に届く。

まだ確信はなかった。

でも今夜、その人の文章が私の手に届いた。

三十二歳の女性が書いた言葉が、二十六歳の私に届いた。

それは本物のことだった。

里親家庭で育ったことを、自分の言葉で語れる日が来るかもしれない。

まだ来ていない。

でも来ないとも、もう思えなくなっていた。

窓の外が、静かだった。

本の表紙を見た。

「どこにも属せなかった、ということ」というタイトルが、電灯の下で白く光っていた。

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悠と二度目に会ったのは、房子さんの家を訪ねた翌週だった。

前回と同じカフェを悠が指定してきた。

席に着くと、悠はすでにコーヒーを飲んでいた。

「お疲れ」と言って、軽く手を上げた。

前回より少しリラックスした雰囲気だった。

私も少し、楽だった。

「最近どう?」と悠が聞いた。

「オンラインイベント、参加してみました」と私は答えた。

「どうだった?」
「うまく入れなかった、ってLINEで言った通りです」
悠は少し笑って「だよな」と言った。

それから「俺もああいう場、最初は慣れなかった」と言った。

施設出身の悠でも、そうだったのかと少し意外だった。

しばらく話すうちに、悠が最近SNSでの発信を増やしていることを教えてくれた。

スマートフォンを見せてもらうと、児童養護施設の制度的な問題についての投稿が並んでいた。

施設の人員不足、アフターケアの不備、十八歳での措置解除の問題。

具体的な数字や制度の問題点を挙げながら、変えるべきだという言葉で締めくくられていた。

「反響、結構あって」と悠は言った。

「同じことを感じてた人が、たくさんいるんだなと思って」
「すごいですね」と私は言った。

本心だった。

悠の発信は、明確だった。

問題がどこにあるか、何を変えるべきか、はっきりしていた。

その明確さが、私には眩しかった。

「凛は、発信しようとは思わないの?」
「思ったことはあります。でも、何を書けばいいかわからなくて」
「里親家庭のこと、書けばいいじゃん」
「でも」と私は言って、少し止まった。

「私、制度への怒りがないんです」
悠が少し首を傾けた。

「里親さんが悪い人だったわけじゃないし、制度に傷つけられたという感覚もあまりなくて。怒りがないのに当事者として語っていいのかって、わからなくて」
悠はしばらく黙っていた。

コーヒーカップを両手で持って、テーブルを見ていた。

何かを考えている顔だった。

私は続ける言葉を探しながら、窓の外を見た。

「怒りがないと語れない、ってことはないと思うけど」と悠はゆっくり言った。

「でも、何を語ればいいかわからない」
「わからないまま語ることもできるんじゃないの」
その言葉を、私はすぐには受け取れなかった。

わからないまま語る、ということが、どういうことなのか想像できなかった。

語るためには、整理が必要だと思っていた。

整理できていないことを外に出すことへの怖さが、ずっとあった。

カフェを出て、駅に向かう道を並んで歩いた。

「制度を変えたいっていう怒りがなくても」と悠が言った。

「里親家庭で育ったってことが、どういうことか、知りたい人はいると思う」
「そうかな」
「そうだよ」と悠はあっさり言った。

「俺、里親家庭のこと、正直よく知らないから。凛の話を聞いて、初めて知ったことがいくつもあった」
その言葉が、少し引っかかった。

悠が「いいじゃん、家庭があって」と言ったとき、私は黙った。

でも悠にとっては、里親家庭の経験は「いいもの」として想像していただけで、実際に知っていたわけではなかった。

知らなかったから、そう言った。

知ってもらうことが、語ることの意味になるのかもしれない。

でもそのためには、まず自分で整理する必要があった。

里親制度への怒りがない当事者として、何を語れるのか。

怒りの代わりに、私が持っているものは何なのか。

駅の改札の前で、悠と別れた。

帰りの電車の中で、鞄の中の本のことを思い出した。

房子さんにもらった当事者手記。

まだ読んでいなかった。

今夜、読んでみようと思った。

怒りがなくても、語れることがあるかもしれない。

まだ確信はなかった。

でもその夜初めて、語ることへの怖さが、少しだけ小さくなった気がした。

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房子さんの家を訪ねたのは、オンラインイベントから一週間後の土曜日だった。

事前に電話をすると、房子さんは「来てくれるの、嬉しい」と言った。

その声が、いつも通りの声だった。

穏やかで、少しゆっくりした話し方。

六十五歳になった今も、中村家に初めて来た夜に聞いた声と変わっていなかった。

電車を乗り継いで、一時間半。

最寄り駅を降りると、見覚えのある景色が広がった。

商店街の八百屋、角の薬局、緩やかな坂。

十八歳で出てから八年経つが、道は体が覚えていた。

変わったところと、変わっていないところが混在していた。

変わっていないものを見るたびに、中学のころの自分がどこかから覗いている気がした。

玄関のチャイムを押すと、すぐに房子さんが出てきた。

「凛ちゃん、痩せた?」
「痩せてないと思います」
「そう?」と言いながら、房子さんは笑った。

しゃがまなくなった分、七歳のころとは違う笑い方だったが、目尻の皺は同じだった。

居間に通された。

壁一面の本棚は、相変わらずそこにあった。

新しい本が増えていた。

哲夫さんは外出中で、今日は二人だった。

台所でお茶を淹れながら、房子さんが「仕事はどう?」と聞いた。

「少し慣れてきました」と私は答えた。

テーブルに向かい合って座って、しばらく近況を話した。

仕事のこと、アパートのこと、最近読んだ本のこと。

房子さんは聞き上手だった。

相槌が自然で、話しやすかった。

こういう時間が、私は好きだった。

しばらくして、私は悠のことを話した。

施設出身の友人ができたこと、先週オンラインイベントに参加したこと。

どちらのコミュニティにも馴染めなかったこと。

里親家庭で育った経験を、うまく語れないでいること。

房子さんは黙って聞いていた。

お茶を一口飲んで、少し間を置いてから言った。

「あなたはあなたの経験を持っているのよ」
私は「そうですね」と答えた。

その言葉は正しいと思った。

正しいとわかっていた。

でも、正しいとわかった瞬間に、何かが少し遠くなった気がした。

「あなたはあなた」という言葉は、孤立を肯定しているようにも聞こえた。

誰かと経験を共有したい、という気持ちが、その言葉でどこかへ行ってしまった感じがした。

房子さんを責めたいわけではなかった。

房子さんは、いつも私のことを思って言葉を選んでくれる人だった。

今日の言葉も、そうだったと思う。

でも里親として育ててくれた人に「あなたはあなた」と言われることの、微妙な距離を感じた。

房子さんは私の経験の外にいる。

外にいる人が「あなたはあなた」と言うことと、同じ場所にいる人が言うことは、違う気がした。

帰り際、房子さんが本棚から一冊取り出して渡してくれた。

「これ、読んでみて」
社会的養護に関する当事者手記だった。

様々な経験を持つ人たちの文章が、一冊にまとめられていた。

受け取りながら、私は「ありがとうございます」と言った。

「無理に読まなくていいのよ」と房子さんは言った。

「ただ、あなたの言葉を探す手がかりになるかもしれないと思って」
あなたの言葉を探す手がかり、という言葉が、胸に残った。

「あなたはあなた」とも言われた。

「あなたの言葉を探す」とも言われた。

矛盾しているようで、矛盾していないのかもしれなかった。

でもその日の私には、二つの言葉をうまくつなげられなかった。

帰り道、本を鞄に入れて歩いた。

商店街を抜けながら、私は里親家庭で育ったことを「自分の言葉で語る」とはどういうことか、考えた。

語れる言葉が、まだなかった。

でも房子さんが「手がかりになるかもしれない」と言った本が、鞄の中にあった。

それを読んでみようと思った。

読んで、何かが変わるかどうかはわからなかった。

でも読まないよりは、何かが動くかもしれない。

そう思いながら、駅への坂道を下った。

空は曇っていたが、雨にはならなかった。

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オンラインイベントに参加したのは、悠と会ってから二週間後だった。

名刺をもらったNPOが主催する「社会的養護経験者の集い」で、月に一度開かれているオンライン交流会だった。

参加は無料で、申し込みフォームに名前とメールアドレスを入れるだけでよかった。

送信ボタンを押すのに、三日かかった。

当日、時間になってZoomを開いた。

画面に、十二人の顔が並んだ。

主催者の男性が簡単な説明をして、自己紹介の時間になった。

一人ずつ、名前と出身を話していった。

施設の名前を言う人、県の名前だけ言う人、「施設出身です」とだけ言う人。

私の番が来た。

「橘凛です。二十六歳です。里親家庭の出身で、今はWebデザインの仕事をしています」
「ありがとうございます」と主催者が言って、次の人に移った。

それだけだった。

話題は自然と、施設での経験に移っていった。

門限の話、担当職員との関係、アフターケアの充実度。

みんな、具体的に話した。

経験を共有する言葉を、すでに持っている人たちだった。

私は聞いていた。

頷きながら、相槌を打ちながら、でも話の輪に入れなかった。

施設の話は、私の経験とは重ならなかった。

集団生活をしたことがない。

担当職員という存在を知らない。

十八歳で突然外に出されることへの恐怖も、経験していなかった。

「里親家庭の方、今日いらっしゃるんですね」
途中で、参加者の一人が言った。

三十代の女性だった。

画面越しに、私の顔を見ていた。

「はい」と私は答えた。

「里親家庭って、どんな感じなんですか?やっぱり施設より家庭的な感じですか?」
悪意のない質問だった。

純粋に知りたいと思っているのが伝わった。

でも「施設より家庭的」という比較の枠が、私にはうまく答えられなかった。

「そうですね、家庭的ではあったと思います」と私は言った。

それ以上、言葉が出なかった。

イベントが終わって、Zoomを閉じた。

部屋が急に静かになった。

画面の明かりだけが、暗い部屋を照らしていた。

スマートフォンに、悠からLINEが来ていた。

「どうだった?」
しばらく考えてから「なんか、うまく入れなかった」と返した。

少し間があって、悠から返信が来た。

「わかる気がする」
わかる気がする、という言葉が、少し意外だった。

施設出身の悠が、なぜわかるのか。

でも理由を聞く気にはなれなかった。

ただ「そっか」と返して、スマートフォンを置いた。

天井を見た。

施設出身者のコミュニティで、私は場の外にいた。

里親家庭にいたことを言うと、少し空気が変わった気がした。

特別扱いされた、というわけではない。

ただ、話題の中心から少しずれたところに、自分がいた。

かといって、里親家庭出身者だけが集まるコミュニティは、見当たらなかった。

社会的養護経験者というカテゴリの中に、こんなに多様な経験があるとは、参加するまで考えていなかった。

施設にも種類がある。

里親にも種類がある。

一時保護だけの人もいる。

ファミリーホームで育った人もいる。

同じ言葉の傘の下に、全然違う経験が集まっていた。

それは当然のことだったかもしれない。

でも当然のことを、今日初めて実感した。

里親家庭で育った私の経験は、施設で育った人の経験とは違う。

それは優劣の話ではない。

ただ、違う。

その違いを、誰かと共有したことがなかった。

共有する相手を、まだ見つけていなかった。

窓の外に、夜の街の明かりが見えた。

どこかに、同じ場所に立っている人がいるだろうか。

里親家庭で育って、施設出身者のコミュニティにも馴染めなくて、でも自分の経験を誰かと共有したいと思っている人が。

いるかもしれない、と思った。

いないかもしれない、とも思った。

どちらかわからないまま、その夜も、なかなか眠れなかった。

続きを読む

悠と会った夜は、なかなか眠れなかった。

布団の中で天井を見ながら、「いいじゃん」という言葉を何度も反芻した。

悠を責めたいわけではなかった。

ただ、あの言葉がきっかけで、中村家に来た日のことを思い出し始めていた。

思い出したくて思い出しているわけではなかった。

ただ、止められなかった。

実母は、私が三歳のときに他界した。

病気だったと、後から聞いた。

記憶にない。

顔も、声も、においも、何も残っていない。

三歳の記憶など誰にもないのかもしれないが、私には実母に関する記憶が本当に何もなかった。

空白というより、最初からそこには何もなかった、という感じだった。

実父は、私が七歳のときに蒸発した。

ある朝、起きたら家に誰もいなかった。

実母を亡くしてから四年間、二人で暮らしていた。

父のことは、少し覚えている。

背が高くて、タバコのにおいがした。

笑うと目が細くなった。

でもそれだけだった。

どんな人だったか、と聞かれると、答えられない。

児童相談所の待合室は、明るかった。

担当者の女性が優しくしてくれたが、私はほとんど黙っていた。

里親制度という言葉を、そのとき初めて聞いた。

よくわからなかった。

ただ、「新しい家で暮らすことになる」と説明されて、新しい家が怖いとも、安心とも思えなかった。

ただ、そういうことになるのだと、受け取った。

中村家に連れていかれたのは、夕方だった。

玄関を開けた房子さんは、当時五十四歳だった。

今より髪が黒くて、少し若かったはずだが、私の記憶の中の房子さんはいつも今の顔をしている。

しゃがんで目線を合わせてくれた。

「凛ちゃんね。私は房子。よろしくね」と言った。

哲夫さんは当時五十七歳で、玄関の奥に立っていた。

背が高くて、眼鏡をかけていた。

「いらっしゃい」と言った。

その声が低くて、少し怖かった。

でも後から思えば、怖い人ではなかった。

ただ、緊張していたのだと思う。

哲夫さんも、私も。

居間に通されたとき、本棚が目に入った。

壁一面の本棚だった。

こんなにたくさんの本を、一度に見たことがなかった。

七歳の私は、その本棚をしばらく見ていた。

房子さんが「好きな本を選んでいいよ」と言った。

それが、中村家での最初の安心だった。

選んでいい、という言葉だった。

どれでも、という言葉だった。

何かを制限されるのではなく、広げてもらった感じがした。

七歳の私には、そこまで言葉にする力はなかった。

ただ、本棚の前に立って、背表紙を一冊ずつ指でなぞった。

里親家庭での生活は、その夜から始まった。

悠に「いいじゃん」と言われたとき、中村家の穏やかさは本物だったと思う。

房子さんも哲夫さんも、私を傷つけるような人ではなかった。

ご飯は毎日あった。

学校にも行けた。

本をいくらでも読めた。

でも布団の中で、私は別のことも思い出していた。

中学のころ、クラスの子に「家族って何人?」と聞かれたとき、答えに詰まったこと。

運動会の家族参観で、房子さんと哲夫さんが来てくれたとき、友達に「あの人たち誰?」と聞かれて「親戚」と答えたこと。

嘘をついた理由が、自分でもよくわからなかった。

里親家庭で育ったことを、誰かに説明する言葉を、私はずっと持てないでいた。

施設出身者が語る苦しさとは、質が違う。

でも苦しくなかったわけでもない。

その違いを、悠に言えなかった。

言う言葉がなかった。

天井を見ながら、私は七歳の自分を思った。

本棚の前に立って、背表紙を指でなぞっていた子どもを。

あの子は、自分がどこに向かうのか、何も知らなかった。

里親家庭で育つとはどういうことか、二十六歳になっても、まだ言葉にできずにいる。

窓の外が、少しずつ明るくなり始めていた。

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悠とSNSで知り合ったのは、半年前だった。

佐藤悠、二十七歳。

児童養護施設の出身で、現在は物流会社に勤めている。

社会的養護に関する発信をしているアカウントで、私がコメントをしたことがきっかけだった。

短いやりとりが続いて、DMになって、「一度会いませんか」という流れになった。

待ち合わせは、新宿のカフェだった。

写真で見ていた通りの人だった。

背が高くて、短い髪で、少し日焼けしていた。

「はじめまして」と言って、向かい合って座った。

お互いに緊張していたと思う。

でも悠は最初から話すのが上手で、すぐに場が和んだ。

「施設、どこだったんですか」と悠が聞いた。

「施設じゃなくて、里親家庭で育ったんです」と私は答えた。

「ああ、そうなんだ」と悠は言った。

少し間があった。

「里親って、どんな感じなの?」
私は中村家のことを話した。

房子さんと哲夫さんのこと、本の多い家だったこと、十八歳まで同じ場所で暮らしたこと。

話しながら、自分の経験がずいぶん穏やかに聞こえることに気づいた。

悠は黙って聞いていた。

それから自分の話をした。

施設での集団生活、担当職員が二年ごとに変わったこと、高校を卒業すると同時に施設を出なければならなかったこと。

淡々とした口調だったが、内容は淡々としていなかった。

聞きながら、私は自分の経験との距離を感じた。

重なる部分と、重ならない部分が、はっきりしていた。

「いいじゃん、家庭があって」
話の途中で、悠がそう言った。

責めているわけではない、という口調だった。

むしろ羨ましそうな、軽い感じの言い方だった。

悠に悪意がないことはわかった。

でもその一言が、私の中に小さな引っかかりを残した。

いいじゃん、家庭があって。

その言葉を、私はうまく受け取れなかった。

里親家庭にいたことが、施設より恵まれていたのかもしれない。

そうかもしれない、と思う部分はある。

でも「いいじゃん」と言われることで、私の経験が「良かったこと」としてまとめて処理される感じがした。

良かったことだけではなかった。

うまく言葉にできないことが、いくつもあった。

でもその場では、何も言えなかった。

「そうかもしれないですね」と私は言った。

笑いながら言った。

その笑いが少し嘘だったが、他にどう答えればいいかわからなかった。

カフェを出て、駅で別れた。

悠は「また会いましょう」と言って、改札に消えた。

帰りの電車の中で、私は窓の外を見ていた。

「いいじゃん」という言葉が、まだそこにあった。

悠を責める気はなかった。

悠の言葉は、悠の経験から来ている。

施設で育った人間が里親家庭を羨ましいと思うのは、自然なことかもしれない。

でも私は、自分の経験を「いい経験」として受け取ることを、どこかでずっと保留にしてきた。

里親家庭での十一年間に、苦しかったことがなかったわけではない。

房子さんや哲夫さんを嫌いだったわけではない。

でも「家族」と言い切れるかといえば、わからなかった。

血がつながっていない。

制度の上でつながっていた。

その事実が、私の中でずっと宙に浮いていた。

それを「いいじゃん」の一言で着地させることが、できなかった。

アパートに帰って、部屋の電気をつけた。

テーブルの上に、先日もらった名刺がまだ置いてあった。

社会的養護経験者の集い。

施設出身者の言葉にも、完全には重なれない。

でも悠に「いいじゃん」と言われることにも、収まれない。

私は、どこにいるのだろう。

名刺を手に取って、しばらく見てから、また置いた。

答えは出なかった。

出ないまま、その夜は眠れなかった。

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就職して、三ヶ月が経った。

私は橘凛、二十六歳。

Webデザインの会社に勤め始めて、まだ何もかもが新しい。

フリーターをしながら独学でデザインを学んで、ようやく拾ってもらえた会社だった。

毎日それなりに緊張して、それなりに疲れて帰る。

そういう日々が続いていた。

その日は、職場の先輩に誘われて、社外の交流イベントに参加した。

木下朋子さんは三十一歳で、私が入社したときから面倒を見てくれている先輩だ。

「いろんな人と繋がっておくといいよ」と言って、デザイン系の若手が集まる交流会に連れていってくれた。

会場は渋谷の小さなイベントスペースで、二十人ほどが集まっていた。

名刺を交換して、飲み物を持って、知らない人と当たり障りのない話をする。

そういう場が、私はあまり得意ではない。

朋子さんはすぐに誰かと話し込んでいて、私は端のほうで名刺を眺めていた。

そのとき、一人の男性が話しかけてきた。

三十代半ばくらいで、穏やかな笑顔の人だった。

NPOで働いていると言って、名刺を渡してくれた。

名刺には「社会的養護経験者支援」という文字があった。

「よかったら、うちのコミュニティに来てください。社会的養護経験者の集い、っていうんですけど」
私は名刺を受け取りながら、一瞬だけ迷った。

社会的養護経験者、という言葉に、自分が含まれるかどうか、という迷いだった。

含まれる、と頭ではわかっている。

私は七歳から十八歳まで、里親家庭で育った。

里親制度は社会的養護の一つだ。

それは知っている。

でも「経験者」という言葉が、何かを前提にしている気がした。

「ぜひ」と私は言って、名刺をポケットにしまった。

帰り道、電車の中でスマートフォンを開いた。

「社会的養護経験者」と検索すると、大量の発信が出てきた。

ほとんどが、児童養護施設の出身者によるものだった。

集団生活の息苦しさ、担当職員が変わるたびに関係が切れる経験、十八歳で施設を出なければならない孤独。

読みながら、私は自分の経験と照らし合わせた。

重ならない部分が、多かった。

集団生活をしたことがない。

担当職員という存在がいなかった。

十八歳まで、同じ家に同じ人たちと暮らした。

里親である中村房子さんは六十五歳で、元図書館司書だ。

夫の中村哲夫さんは六十八歳で、元高校教師。

穏やかで、本の多い家だった。

私が七歳から十八歳まで育ててくれた二人は、今も健在で、月に一度くらい連絡を取り合っている。

「里親家庭出身者」の発信を探してみた。

ほとんど、出てこなかった。

施設出身者の発信が何百とある中で、里親家庭出身者の声はほんの数件しか見当たらなかった。

その数件も、「里親さんに感謝しています」という内容が多かった。

それが間違いだとは思わない。

でも、それだけではない気もした。

自分と似た経験を持つ人の言葉を、私はまだ見つけられていなかった。

最寄り駅で降りて、アパートまでの道を歩いた。

夜の住宅街は静かだった。

ポケットの中の名刺が、少し気になった。

行くべきかどうか、わからなかった。

でも、捨てる気にもなれなかった。

部屋に帰って、名刺をテーブルの上に置いた。

社会的養護経験者。

その言葉の中に、私はいるのかいないのか。

いる、と思う。

でも、すんなりとそこに入れない自分も、確かにいた。

里親家庭で育ったことは、私の経験だ。

それは本物だ。

でもその経験が、どこに属するのか。

誰と共有できるのか。

二十六歳になった今も、その問いに答えを出せずにいる。

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