文章を書いてから、三週間が経った。
ファイルは保存したまま、開いていなかった。
開く気になれなかったというより、開かなくてもいいと思っていた。
書いたという事実が、どこかにあれば十分だった。
少なくとも、最初の数日はそう思っていた。
でも一週間ほど経ったころから、少しずつ気になり始めた。
あの夜書いた言葉が、今の自分にはどう見えるのか。
時間が経った分、少し外から見られるかもしれない。
そう思いながら、でも開けなかった。
開けば、何かを決めなければならない気がした。
決めたくなかった。
そのまま三週間が過ぎた。
ある夜、悠からLINEが来た。
「最近どう?あの文章、書いた?」
「書きました」と返した。
「読んでみた?」
「まだ」
少し間があって「読んでみたら」と返ってきた。
それだけだった。
背中を押す言葉でも、急かす言葉でもなかった。
ただ、そう言った。
翌日の夜、パソコンを開いた。
ファイルを開く前に、少し深呼吸した。
深呼吸するほどのことでもない、と思いながら、した。
読み始めた。
最初の数行で、少し恥ずかしくなった。
整理されていない文章だった。
感情が先走っている部分もあった。
でも読み続けると、恥ずかしさより先に、別の感覚が来た。
これは、本当のことだ、という感覚だった。
うまくない。
でも本当のことが書いてある。
二千字の中に、二十六年間言葉にできなかったことが、不格好ながらも形になっていた。
読み終えて、悠にファイルを送った。
深く考えずに、送った。
考えれば躊躇したと思う。
だから考えずに送った。
送ってから、少し後悔した。
でも取り消さなかった。
三十分ほどして、悠から返信が来た。
「読んだ。これ、どこかに出してみたら」
どこかに出す、という言葉が、すぐには受け取れなかった。
誰かに読んでもらうことへの怖さが、また来た。
でも悠が「出してみたら」と言ったという事実は、そこにあった。
翌週の土曜日、房子さんの家を訪ねた。
前回と同じ道を歩いて、同じチャイムを押した。
房子さんが出てきて、同じように「痩せた?」と聞いた。
私は「痩せてないです」と答えた。
それがいつものやりとりになっていた。
台所でお茶を飲みながら、文章を書いたことを話した。
「読んでもらえますか」と言って、印刷してきた紙を渡した。
房子さんは老眼鏡をかけて、丁寧に読んだ。
私はお茶を飲みながら、庭を見ていた。
哲夫さんが植えた小さな木が、風に揺れていた。
読み終えた房子さんが、眼鏡を外した。
「あなたの言葉ね」と言った。
前回も同じような言葉を聞いた。
あのときは、孤立を肯定されているように感じた。
でも今日は、違って聞こえた。
今日の「あなたの言葉」は、これはあなたにしか書けない、という意味に聞こえた。
「ありがとうございます」と私は言った。
「出すの?」と房子さんが聞いた。
「まだ決めていません」と私は答えた。
「決めなくていいのよ」と房子さんは言った。
「書けたことが大事なんだから」
その言葉が、今日は素直に受け取れた。
帰り道、駅までの坂を下りながら、私はどこかに出すかどうかを考えた。
怖さは、まだあった。
自分の経験を外に出すことへの怖さ。
「里親家庭育ちの当事者」として受け取られることへの怖さ。
語ることで、経験が固定されることへの怖さ。
でも、もう一つの感覚もあった。
あの本の中で「どこにも属せなかった、ということ」を書いた三十二歳の女性の文章が、二十六歳の私に届いた。
それは本物のことだった。
誰かの言葉が、誰かに届く。
それが起きた。
私の言葉が、誰かに届くことも、あるかもしれない。
アパートに帰って、パソコンを開いた。
ファイルを開いて、最初から読み直した。
読みながら、少し直した。
整理されていない部分を、少し整えた。
でも感情が先走っている部分は、そのままにした。
そこが本当のところだったから。
タイトルを入れた。
「どちらでもない、私の経験について」
完璧なタイトルではなかった。
でも今の自分には、これが一番正直だった。
投稿するかどうかは、まだ決めなかった。
でも、決めなくていいと思えた。
以前は、決められないことへの焦りがあった。
どちらにも属せないことへの不安があった。
でも今夜は、決めなくていいという感覚が、焦りではなく落ち着きとして来た。
どちらのコミュニティにも完全には属せないまま、でもそれでいい気がしてきた。
施設出身でも、実家育ちでもない。
怒りを持った当事者でも、感謝だけを語る経験者でもない。
里親家庭で育った私の経験は、そのどれでもなくて、でもそのどれかに似ていて、最終的には私にしか語れないものだった。
語ることへの怖さは、まだある。
でも語らないことへの後ろめたさが、今夜は薄かった。
どちらでもない場所に、自分の立つ場所があるのかもしれない。
まだわからない。
でも探す気になっている。
それが三週間前とは、確かに違うことだった。
ファイルを保存して、画面を閉じた。
部屋の電気が、白く部屋を照らしていた。
窓の外に、夜の住宅街が広がっていた。
どの家にも明かりがついていた。