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合言葉を失った

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里子出身#1-8 施設の経験者の声はたくさんある。でも里親家庭の経験者の声は少ない。

悠と三度目に会ったのは、本を読んでから十日後だった。

今回は悠が「飯でも食べよう」と言って、新宿から少し外れた定食屋を指定してきた。

カフェより気楽な場所だった。

向かい合って座って、注文をして、しばらくは他愛のない話をした。

悠の職場のこと、私の仕事のこと。

前回より、会話が自然だった。

食事が来てから、私は本の話をした。

「房子さんにもらった本、読みました」
「どうだった?」
「里親家庭出身の人が書いた文章があって」と私は言った。

「読んで、泣きました」
悠が少し驚いた顔をした。

「泣いたんだ」
「自分が言葉にできなかったことが、そこにあって」
悠は黙って聞いていた。

箸を置いて、私の話に向き合っていた。

その姿勢が、少し前回と違った。

カフェで話していたときより、受け取ろうとしている感じがした。

私は続けた。

どちらのコミュニティにも属せない感覚のこと。

怒りのない当事者として語れるのかどうかわからないでいたこと。

でもその文章を読んで、語ることへの怖さが少し変わったこと。

悠はしばらく黙っていた。

定食屋の中は、昼時の賑わいが少し落ち着いて、静かになっていた。

隣のテーブルの会話が、遠くで聞こえた。

「俺さ」と悠は言った。

「凛に『いいじゃん、家庭があって』って言ったじゃん」
「はい」
「あれ、俺の問題だったな」
思いがけない言葉だった。

責めていたわけではなかった。

でも悠が自分でそう言ったことが、意外だった。

「どういう意味ですか」と私は聞いた。

「俺が家庭を経験したことがないから、家庭があればよかったって思ってた。でもそれは俺の経験から来てる話であって、凛の経験を軽くしてたな、と思って」
私は何も言えなかった。

責めてほしかったわけではなかった。

謝ってほしかったわけでもなかった。

ただ、悠が自分でそう気づいて、言葉にしてくれたことが、思いのほか大きかった。

「ありがとうございます」と私は言った。

「謝られてないのにありがとうって言うな」と悠は笑った。

私も笑った。

自然に笑えた。

「でもさ」と悠は続けた。

「凛みたいな経験を語れる人も必要だと思うよ」
その言葉の意味を、私はすぐには受け取れなかった。

必要とされることへの戸惑いがあった。

自分の経験が誰かに必要とされるとは、考えたことがなかった。

怒りのない当事者の言葉が、誰かの役に立つとは思えなかった。

「どういう意味ですか」と私はもう一度聞いた。

「施設の経験者の声はたくさんある。でも里親家庭の経験者の声は少ない。俺も凛から話を聞くまで、里親家庭がどういうところか、ほとんど知らなかった。知らないまま『いいじゃん』って言ってた」
悠は一口、味噌汁を飲んだ。

「怒りがなくても、経験を語ることはできると思う。怒りがない経験の語り方が、あると思う」
怒りがない経験の語り方。

その言葉が、頭の中に残った。

怒りがなければ語れないと思っていた。

怒りがないことを、当事者としての資格がないことだと思っていた。

でも悠の言葉は、その前提を少しずらした。

怒りの代わりに、私が持っているものは何なのか。

まだわからなかった。

でも「ある」かもしれないとは、思えるようになっていた。

定食屋を出て、駅に向かう道を並んで歩いた。

「書いてみたらいいんじゃないの」と悠が言った。

「誰かに見せなくてもいいから、まず書いてみる、っていう」
「書いたことはないです」
「俺も最初はそうだった。書いてるうちに、言葉が出てきた」
改札の前で別れた。

帰りの電車の中で、私はずっと考えていた。

書く、ということ。

誰にも見せなくていい。

まず自分のために書く。

怒りがなくても、書けることがあるかもしれない。

里親家庭で育ったこととはどういうことか、まだ言葉にできていない部分を、まず自分に向けて書く。

できるかどうか、わからなかった。

でもやってみようと思った。

今夜、アパートに帰ったら、やってみようと思った。


隊士 お館様管理者

藤の里における鬼倒隊を統率している者。私が初めて鬼の存在を知ったのは、ボランティアの場でした。 里親制度への無知と誤解という鬼が、日本中に蔓延していること。そのせいで、家庭で暮らせずにいる子どもたちがいること。里親になりたくても、なれずにいる人たちがいること。 その現実が、忘れられませんでした。 それからも何度もボランティアを重ねるたびに、鬼の大きさを思い知らされました。 私自身は里親経験者ではありません。 剣を持って戦える立場にはない。 だからこそ、実際に戦ってきた方々の記録を集め、次の誰かへ届ける場所を作ることが、私にできる戦いだと思いました。 藤の里は、その使命のために生まれました。 あなたの戦いの記録を、ここに刻んでください。 その呼吸を、次の世代へつないでいきましょう。

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