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合言葉を失った

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翌朝、誠一を送り出したあとの家は、いつもより広く感じた。

玄関のドアが閉まる音がして、私は台所に戻った。

テーブルの上には、誠一が飲みかけのまま置いていったコーヒーカップがあった。

縁に口紅もついていない、ただの白いカップ。

私はそれを流しに運んで、お湯で軽く流した。

排水口に消えていくコーヒーの匂いが、朝の台所にしばらく残った。

洗濯機を回して、掃除機をかけて、昼前には座るものがなくなった。

ソファに腰を下ろして、スマホを手に取る。

特に見たいものがあったわけではない。

ただ手が先に動いた。

SNSのアプリを開くと、画面が自動的に流れ始めた。

知人の旅行写真、料理の動画、誰かが怒っている長い文章。

私は親指を動かし続けた。

何も引っかかってこない。

どのくらい経ったころだろう。

画面がふと、止まった。

正確には、私の親指が止まった。

知らない女性のアカウントだった。

アイコンは小さな花の絵。

投稿は写真もなく、文章だけだった。

「今日、初めて『おかえり』って言ってもらえた。

それだけで、今日はもういい」
短い文章の下に、里親として小学生の女の子を迎えて三ヶ月、とあった。

私は画面を拡大したわけでも、いいねを押したわけでもなく、ただその文章を何度か読み返した。

「おかえり」という言葉が、目の中で何度も光った。

翔太が中学生のころ、部活から帰ってくるたびに玄関で言っていた言葉と、同じだった。

泥のついたシューズを脱ぎ散らかして、返事もせずにそのまま二階へ上がっていく背中に、それでも私は毎日「おかえり」と言っていた。

あの言葉を、誰かが初めて受け取った日のことを、この人は書いている。

私はしばらくそのままでいた。

ソファの背もたれが、肩甲骨のあたりに当たっていた。

エアコンの風が足元をかすめた。

フォローボタンに指が近づいて、止まった。

なぜ止まったのか、うまく説明できない。

感動したのは本当だった。

でも同時に、どこかに薄い壁があった。

この人の話は、自分とは別の世界の話だという感覚。

里親というものが何なのか、私はよく知らない。

知らないまま、フォローだけするのが、なんとなく失礼な気がした。

私はアプリを閉じた。

スマホをテーブルに置いて、窓の外を見た。

洗濯物が風に揺れていた。

翔太のものは一枚もない、私と誠一の二人分だけの洗濯物が、秋の光の中で静かに揺れていた。

里親。

声には出さなかった。

でも頭の中で、その言葉を一度、ゆっくりとなぞった。

自分の口の形を確かめるみたいに。

知っているようで、何も知らない言葉だと気づいた。

洗濯機の終了を知らせるブザーが、台所の奥で鳴った。

私は立ち上がって、スマホをソファに残したまま、洗濯物を取りに行った。

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十月の夜は、台所が一番静かだった。

流しに残った水滴が、ステンレスをつたって排水口へ落ちる音。
それだけが聞こえた。
私はスポンジを絞り、いつもより丁寧に水切りかごを拭いた。
拭き終えても、布巾を置く気になれなかった。

リビングからテレビの音がする。
夫の誠一が見ているニュースの、アナウンサーの声。
内容は耳に入ってこない。
私は布巾を四つ折りにして、シンクの縁にかけた。

誠一は五十七歳で、二十八年前に職場で出会った。
口数の少ない人で、最初はとっつきにくいと思っていた。
でも、いつも少し遅れて笑う人だった。
誰かが冗談を言って、周りが笑って、一拍おいてから静かに笑う。
その笑い方が好きで、結婚を決めた。
今も変わらない。
変わらないことが、ありがたいと思う日と、少し遠く感じる日がある。

スマホは、テーブルの上に画面を伏せて置いてある。

手を伸ばして、裏返す。
息子の翔太のトーク画面を開く。
最後のメッセージは三週間前。
「今月忙しいから電話できないかも」。
私が「わかった、無理しないで」と返して、それきりだった。

翔太は二十四歳で、四月から東京のIT企業で働いている。
就職活動のとき、本人より私の方が緊張していた。
内定の電話が来た夜、翔太は「まあ、よかった」とだけ言って自分の部屋に戻った。
私はその夜、一人で台所でこっそり泣いた。
うれしくて泣いたのか、終わったと思って泣いたのか、今でもよくわからない。

電話をかけようとして、やめた。

時刻は夜の九時十五分。
忙しいと言っていた。
起きているかどうかもわからない。
私は画面を伏せて、椅子を引いて、テーブルについた。

窓の外は風が出てきていた。
ベランダの植木鉢が、かすかに揺れる音がする。
夏の終わりに翔太が帰省したとき、一緒に植えたミントだった。
今もまだ青くて、今夜みたいに風が吹くと、台所まで匂いが届くことがある。
私は鼻から息を吸った。
何も匂わなかった。

引き出しを開けて、飴を一粒取り出す。
口に入れると、甘さより先に冷たさが来た。

翔太が高校生のころ、夜中に勉強しているとよく台所へ降りてきた。
私が温めたコーンスープを両手で持って、一言も喋らずに飲んで、また二階へ上がっていく。
その背中を見送るのが、なんでもない日課だった。
コーンスープの缶は、今も戸棚の奥に二つある。
誰も飲まないまま、もう半年が過ぎた。

私は五十四歳になった。
特別なことは何もない年齢だと思っていた。
翔太を産んだのが三十歳で、それからの二十四年は子どもを中心に時間が回っていた。
PTAの役員、学校の送り迎え、受験の夜の夜食。
それが当たり前で、それ以外の自分をあまり考えてこなかった。
だから今、台所で一人でいる時間が、どこか借り物の部屋にいるような、妙な感じがする。

リビングのニュースが終わったのか、急に音量が下がった。
かと思うと、アナウンサーの声がひとつの話題で止まった。
里親の不足が全国的な課題になっている、という短いニュースだった。
私はそちらへ顔を向けたが、誠一がすぐにチャンネルを変えた。
砂漠を走る車のCMに切り替わり、画面が明るくなった。

「久美子、風呂先に入っていいか」
誠一の声がした。
私は「どうぞ」と返した。
自分の声が、少し遠くから聞こえるような気がした。

浴室のドアが閉まる音。
シャワーが落ちる音。

台所にまた静けさが戻ってきた。
私は飴を奥歯で割って、テーブルに両肘をついた。
さっきのニュースの言葉が、まだ耳の端に残っていた。
里親。
声に出したことのない言葉が、台所の空気にひとつ、浮いたような気がした。
スマホの画面は、伏せたままだった。

続きを読む

委託の朝、さおりは陽を早めに起こした。

いつもより三十分早かった。
理由はなかった。
ただ、今日は長く一緒にいたかった。
それだけだった。
陽を抱き上げると、陽が声を上げた。
眠そうな声だった。
さおりは「おはよう」と言った。
陽がまた声を上げた。
目が開いた。
天井を見た。
それからさおりの顔を見た。

笑った。

さおりにはわかった。
この子は今日も笑っている。
委託の朝も、笑っている。
何も知らない顔で、笑っている。
さおりは陽を胸に抱いたまま、しばらく動かなかった。
陽の体が温かかった。
薄いパジャマの下に、体の熱があった。
心臓の音が、さおりの胸に伝わってきた。

朝食を終えて、荷物を確認した。

着替え、医療的なケアに必要な道具、療法士からの引き継ぎ資料。
それから、小さなぬいぐるみを一つ。
白いうさぎだった。
陽が声を上げると体が動いて、よくこのぬいぐるみに触れた。
手が届くと、指が動いた。
このぬいぐるみだけは、持たせたかった。

光一が荷物を車に運んだ。

さおりは陽を抱いたまま、それを見ていた。
光一は黙って運んだ。
一往復、二往復。
靴音が廊下に響いた。
さおりは陽の耳元で、小さな声で話しかけた。
今日から新しいおうちに行くこと。
優しい人たちがいること。
さおりの声を聞いて、陽が体を動かした。
手が、少し上がった。

わかっているのかどうか、さおりにはわからなかった。

わかっていなくていい、と思った。
ただ声を聞いて、体を動かしてくれるだけで、十分だった。

車で四十分走った。

さおりは後部座席で陽を抱いていた。
光一が運転した。
ラジオをつけなかった。
無音だった。
信号で止まるたびに、エンジンの低い音だけがした。
陽が時々声を上げた。
さおりが応えた。
それだけが、車の中の会話だった。

光一が何も言わなかった。

さおりも何も言わなかった。
言葉を探さなかった。
今日は言葉のない朝でいい、とさおりは思った。
言葉を並べても、二人の間にあるものは変わらない。
変わらないものを、今日は動かさなくていい。

川沿いの道を走った。

水面が光っていた。
四月の朝の光が、川に落ちていた。
陽が窓の外を見た。
光の方を向いた。
目が、光を追っていた。
さおりはその横顔を見た。
この子の目は、光を見る。
どこにいても、光を見る。
その確信が、今朝のさおりには支えだった。

里親の家は、住宅街の奥にあった。

平屋の、庭のある家だった。
庭に木が一本あって、若い葉が出ていた。
四月の、薄い緑だった。
担当者がすでに来ていた。

里親の夫婦が玄関から出てきた。

五十代の、落ち着いた二人だった。
妻が先に来て、陽の顔を覗いた。
「会いたかったよ」と言った。
低い、穏やかな声だった。
陽が声を上げた。
体が動いた。
妻が「あら」と言って、微笑んだ。
「元気だね」と言った。

さおりはその声を聞いた。

温度があった。
陽に向けられた、確かな温度があった。
この人たちに預ける、という気持ちが、今朝初めてはっきりした。
気持ちが決まったのではなかった。
ただ、この人たちなら、陽の笑顔を見てくれる、とわかった。
陽が笑ったとき、一緒に笑ってくれる人たちだと、わかった。

玄関の前で、さおりは陽を抱いた。

最後に抱く、と決めていた。
荷物も渡した。
引き継ぎも終えた。
あとは渡すだけだった。
でもその前に、一度だけ、しっかり抱いた。

陽の耳元で、「行っておいで」と言った。

さおりの声を聞いて、陽の体が動いた。
手が上がった。
さおりの肩のあたりを、かすかに叩いた。
それから、笑った。
さおりにはわかった。
笑っていた。
今日も、この子は笑っていた。

さおりは陽を、里親の妻に渡した。

妻が陽を受け取った。
陽が声を上げた。
妻が「はいはい」と言った。
その言い方が、西村さんに似ていた。
温度のある言葉だった。
陽の体が、妻の腕の中で動いた。

光一が隣にいた。

黙っていた。
さおりは光一を見なかった。
陽だけを見ていた。
妻の腕の中で、陽が笑っていた。

玄関のドアが閉まった。

庭の木の葉が、風に揺れた。
薄い緑が、朝の光の中で透けていた。
さおりは庭を見た。
光一が隣にいた。
担当者が何か言った。
さおりは頷いた。
何を言われたか、よく聞こえなかった。

車に戻った。

さおりが助手席に座った。
光一が運転席に座った。
エンジンをかけた。
車が動き出した。

さおりは窓の外を見た。

里親の家が、後ろに遠ざかった。
庭の木が見えた。
葉が揺れていた。
見えなくなった。

光一が泣いていた。

さおりは気づいた。
運転しながら、光一が泣いていた。
声は出ていなかった。
ハンドルを握ったまま、前を向いたまま、泣いていた。
頬に涙が伝っていた。

さおりは光一を見た。

乾いていた目が、今日は濡れていた。
あの夜、許せなかった目が、今日は泣いていた。

許せた、とはならなかった。

でも光一も、愛していた。

愛し方が違っただけだった。
形が違っただけだった。
その理解が、許すこととは別の場所に、静かに落ちた。
胸の奥の、深いところに。
音もなく、落ちた。

さおりは光一の涙を、拭わなかった。

でも見ていた。
前を向いたまま泣く光一を、さおりはしばらく見ていた。
川が見えた。
水面が光っていた。
陽が光を追っていた横顔を、思った。
どこにいても、光を見る子だった。

その確信だけを、今日は持って帰った。

光一が涙を拭った。
袖で、一度だけ拭った。
それだけだった。
二人はまた、黙って走った。
川が続いていた。
光が続いていた。


登場人物

  • 村上 さおり(むらかみ さおり)
    女性・36歳 主人公。元幼稚園教諭。現在は専業主婦。感情を言葉にする力を持っているが、夫との間ではその力を使えなくなっている。
  • 村上 光一(むらかみ こういち)
    男性・39歳 夫。システムエンジニア。論理的に物事を処理する人。愛情がないわけではない。ただ、愛情の形が、さおりとは根本的に違う。
  • 村上 陽(むらかみ はる)
    3歳。生後8ヶ月のときに重度の脳性麻痺と診断された。よく笑う。さおりの声を聞くと、体が動く。

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西村さんが帰り際に言ったのは、三月の終わりだった。

リハビリを終えて、道具を片付けながら、西村さんが言った。
特別な場面ではなかった。
バッグのチャックを閉めながら、立ったまま、言った。

「さおりさん、陽ちゃんってね、専門的な環境に入ったら、もっと伸びる可能性があると思うんですよ」
さおりは陽を抱いたまま、西村さんを見た。

「どういう意味ですか」と言った。
声が、少し固くなった。

西村さんは立ったまま、さおりを見た。
目が、真剣だった。
「手放してほしいって言いたいんじゃないんです」と言った。
「ただ、陽ちゃんには可能性がある。
その可能性を、最大限に引き出せる場所がある、ってこと、知っていてほしくて」
さおりは何も言えなかった。

陽が声を上げた。
さおりは陽の背中を、手のひらで叩いた。
規則正しく、やわらかく叩いた。

西村さんが帰った後、さおりはリビングに座った。

陽をマットに寝かせた。
陽が天井を見ていた。
さおりは陽の隣に座って、膝を抱えた。

西村さんの言葉が、頭の中で光一の言葉と重なった。

専門的なケアが必要だ。
俺たちには限界がある。
光一の言葉だった。
専門的な環境に入ったら、もっと伸びる可能性がある。
西村さんの言葉だった。
意味は同じだった。
同じことを、二人が言った。

悔しかった。

光一と同じことを、西村さんが言った。
光一の論理が、西村さんの言葉で裏打ちされた。
それが悔しかった。
光一が正しかったことが悔しいのではなかった。
光一の言葉には届かなかったものが、西村さんの言葉には届いた。
その違いが、さおりには悔しかった。

陽が声を上げた。

さおりは「なに」と言った。
陽がまた声を上げた。
さおりは陽の顔を見た。
笑っていた。
さおりにはわかった。
この子は今日も笑っている。
何も知らずに、笑っている。

何も知らなくていい、とさおりは思った。

ただ笑っていてくれれば、それでいい。
どこにいても、笑っていてくれれば。
その気持ちが浮かんだとき、さおりは自分が少し動いたことを知った。

その夜、光一が帰ってきてから、さおりは言った。

「同意する」
夕飯の後だった。
陽が眠ってから言った。
光一がテーブルの向かいに座っていた。
さおりは光一の目を見ずに言った。
テーブルの木目を見ながら言った。

光一が少し黙った。

「ありがとう」と言った。

さおりはその言葉が嫌だった。

ありがとう、という言葉の中に、安堵があった。
さおりにはわかった。
光一が安堵している。
陽を手放すことに、安堵している。
その安堵が、さおりには許せなかった。
愛しているなら、安堵するな。
悲しめ。
泣け。
声を震わせろ。

でも言えなかった。

言葉が、また喉の手前で止まった。
この二年間、何度も止まってきた場所だった。
さおりはテーブルの木目を見たまま、「陽のためだから」と言った。
光一のためでも、自分のためでもなく、陽のために同意する。
そう言いたかった。
でも声に出すと、少し違った。
陽のため、という言葉が、言い訳に聞こえた。

誰に対する言い訳なのか、さおりにはわからなかった。

その夜も、さおりは陽の部屋で眠った。

陽の寝息が聞こえた。
規則正しい、深い音だった。
さおりはその音を聞きながら、同意した夜のことを確かめた。
後悔しているか。
していなかった。
許せているか。
していなかった。

許せないまま、従った。

それだけだった。
それだけのことだった。
人生にはそういう夜がある。
正しいかどうかより、動かなければならない夜が。
さおりには今夜がそうだった。

陽の手が、マットの上にあった。

小さな手だった。
昼間、さおりの指を握った手だった。
眠っている今は、力が抜けていた。
開いたまま、静かにあった。
さおりはその手に、自分の指を置いた。
今度は握らなかった。
ただ、置いた。

温かかった。

窓の外で、風が鳴った。
三月の終わりの風だった。
春の匂いが、微かに届いた。
さおりは目を閉じた。
陽の寝息が続いていた。
その音だけが、今夜のさおりには十分だった。


登場人物

  • 村上 さおり(むらかみ さおり)
    女性・36歳 主人公。元幼稚園教諭。現在は専業主婦。感情を言葉にする力を持っているが、夫との間ではその力を使えなくなっている。
  • 村上 光一(むらかみ こういち)
    男性・39歳 夫。システムエンジニア。論理的に物事を処理する人。愛情がないわけではない。ただ、愛情の形が、さおりとは根本的に違う。
  • 村上 陽(むらかみ はる)
    3歳。生後8ヶ月のときに重度の脳性麻痺と診断された。よく笑う。さおりの声を聞くと、体が動く。

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話し合いから、十四日が過ぎた。

光一とは、それ以来、陽のことを話していなかった。
話さないことで、何かが保たれていた。
何が保たれているのかは、さおりにもよくわからなかった。
ただ、話せば壊れる気がした。
壊れてはいけないものが、まだあった。

毎朝、リハビリを続けた。

陽の腕を動かした。
肘を曲げて、伸ばす。
膝を曲げて、伸ばす。
療法士に教わった順番通りに。
陽が声を上げるたびに、さおりが応えた。
応えると、また声が来た。
その繰り返しだった。
この繰り返しが、さおりには必要だった。
陽が応えてくれることが、この二年間の支えだった。

その朝は、光一が出勤してから三十分後だった。

さおりは陽の左腕を、ゆっくり持ち上げた。
肘を曲げた。
伸ばした。
また曲げた。
陽が声を上げた。
さおりが「そうだよ」と言った。
また声が来た。

指を動かす番になった。

さおりが陽の手のひらに、自分の人差し指を置いた。
陽の指が、少し動いた。
さおりはそのまま待った。
待つことを、療法士に教わっていた。
急かさないこと。
時間をかけること。
陽のペースがあること。

陽の指が、動いた。

さおりの指を、包むように。
弱かった。
かすかだった。
でも確かに、そこに力があった。
さおりの人差し指が、陽の手の中にあった。

さおりは声を上げそうになった。

堪えた。
声が出たら、陽の指が離れる気がした。
このままでいたかった。
もう少し、このままでいたかった。
陽の手のひらが、温かかった。
小さかった。
その小ささの中に、確かな力があった。

光一に電話をかけたかった。

反射的に、そう思った。
今すぐかけて、陽が指を握った、と伝えたかった。
でも手が動かなかった。
陽の指を握ったまま、さおりは動けなかった。

電話して、光一はなんと言うか。

「そうか」と言うか。
「よかったな」と言うか。
正しい言葉が返ってくる。
間違いなく、正しい言葉が返ってくる。
でも今は正しい言葉が欲しくなかった。
一緒に声を上げてくれる人が欲しかった。
信じられないね、と言って、電話口で泣いてくれる人が欲しかった。

光一は、そういう人ではなかった。

七年間、ずっとそうだった。
変わらなかった。
変わることを、もう期待していなかった。
期待しなくなったことが、諦めなのか、受け入れなのか、さおりにはまだ区別がつかなかった。

陽の指が、少し緩んだ。

さおりは陽の顔を見た。
陽が声を上げた。
笑っているように見えた。
さおりには、笑っているとわかった。
この子は笑う。
指を握る力がかすかでも、笑う力は確かにあった。

午後、療法士の西村さんが来た。

週に二回、訪問してくれる人だった。
四十代の、声の大きな女性だった。
陽のそばに座ると、陽が声を上げた。
西村さんはいつも「はいはい、来たよ」と言った。
その言い方が、さおりには好きだった。

リハビリの後、西村さんがさおりに言った。

「今日、指握りましたよ」とさおりは言った。

西村さんが「え」と言った。
「握った?」
「握りました。
人差し指を」
西村さんが「本当に」と言って、陽を見た。
「やるじゃない、陽ちゃん」と言った。
声が大きかった。
陽が反応した。
体が動いた。

さおりは西村さんの顔を見た。

西村さんの目が、潤んでいた。
さおりはそれを見て、初めて泣いた。
声は出なかった。
ただ涙が出た。
西村さんが「よかったね」と言った。
その「よかったね」は、正しい言葉だったが、温度があった。
温度のある正しい言葉だった。

光一の「よかったな」とは、違う言葉だった。

夜、光一が帰ってきた。

さおりは夕飯を出しながら、「今日、陽が指を握った」と言った。

光一が顔を上げた。
「そうか」と言った。
「よかったな」と言った。

さおりは「うん」と言った。

それだけだった。

夕飯の間、陽が声を上げた。
さおりが応えた。
光一は黙って食べた。
三人のテーブルに、箸の音がした。
外で風が鳴った。
アパートの窓が、微かに揺れた。

さおりは陽の顔を見た。

陽が笑っていた。
さおりにはわかった。
この孤独の中で、この子は笑う。
その笑顔が、今日のさおりには、委託への抵抗でもあり、委託への理解でもあった。
どちらでもある、ということが、さおりにはまだ整理できなかった。

整理できなくていい、と西村さんなら言うかもしれなかった。

光一は言わない。
でも西村さんなら、言うかもしれなかった。


登場人物

  • 村上 さおり(むらかみ さおり)
    女性・36歳 主人公。元幼稚園教諭。現在は専業主婦。感情を言葉にする力を持っているが、夫との間ではその力を使えなくなっている。
  • 村上 光一(むらかみ こういち)
    男性・39歳 夫。システムエンジニア。論理的に物事を処理する人。愛情がないわけではない。ただ、愛情の形が、さおりとは根本的に違う。
  • 村上 陽(むらかみ はる)
    3歳。生後8ヶ月のときに重度の脳性麻痺と診断された。よく笑う。さおりの声を聞くと、体が動く。

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