鬼倒隊に入隊する( 会員登録 )

里に入る( ログイン )

合言葉を失った

Lost your password? Please enter your email address. You will receive a link and will create a new password via email.

旅行から帰って四日後、スマホに恵子からメッセージが届いた。

恵子は六十一歳で、子どもたちが小学生のころからのPTA仲間だ。

二十年以上の付き合いになる。

気さくで、誰に対しても分け隔てがなく、集まりの場では必ず輪の中心にいた。

子育てが一段落してからも、月に一度は近所のカフェで会っていた。

「久しぶりにゆっくり話したいな。来週どう?」
私は「いいよ、いつもの場所で」と返した。

水曜日の昼前、駅前のカフェに入った。

窓際の席に恵子がすでに座っていた。

コートを脱いで椅子にかけて、向かいに座った。

店内にコーヒーの匂いが満ちていた。

外は曇っていて、窓ガラスが少し白く曇っていた。

「久しぶり、元気だった?」
恵子が言った。

「まあね。京都行ってきた」
「いいじゃない、どうだった?」
「きれいだったよ」
それだけ答えて、メニューを開いた。

きれいだった、という言葉が、少し空洞に聞こえた。

嘘ではない。

でも全部でもなかった。

コーヒーを二つ頼んで、しばらく近況を話した。

恵子の夫の話、共通の知人の話、近所にできた新しいスーパーの話。

他愛のない言葉が続いて、コーヒーが半分になったころ、恵子が少し姿勢を正した。

「実はね、話したいことがあって」
「うん」
「一年前から、里親をしてるんだ」
私は、カップを持ったまま止まった。

「里親?」
「そう。小学二年生の男の子。健太っていうんだけど」
恵子は静かに、でもはっきりと言った。

驚かせようとしているわけでも、自慢しているわけでもない声だった。

ただ、話したかったことを話している、という顔だった。

「なんで急に」
「急じゃないよ」
恵子は少し笑った。

「ずっと考えてた。子どもたちが独立してから、何かしたいとは思ってたんだけど、なかなか踏み出せなくて。
夫と二人でいろいろ調べて、説明会に行って、登録して。気づいたら一年経ってた」
私はコーヒーを一口飲んだ。

苦さが舌に残った。

健太の話を、恵子はぽつぽつと話した。

最初の一週間は緊張して、食事中も目を合わせなかったこと。

ある朝、恵子が台所で朝食を作っていると、健太が黙って隣に立っていたこと。

何も言わずに、ただ立っていたこと。

「その背中が、小さくてね」
恵子が言った。

窓の外を一度見て、また私を見た。

「なんか、もう、それだけでよかったって思った」
私は恵子の顔を見ていた。

二十年来の友人の顔が、知っている顔のはずなのに、少し違って見えた。

PTAのころも、子育ての愚痴を言い合っていたころも、ずっと元気な人だった。

でも今日の顔は、元気というより、落ち着いていた。

重心が下にある、というか。

自分の居場所を知っている人の顔だった。

コーヒーが冷めていた。

カフェを出て、駅前で恵子と別れた。

曇り空の下を、一人で歩いた。

商店街の軒先から、焼き鳥の煙が流れてきた。

信号が赤になって、私は立ち止まった。

里親。

恵子の声が、頭の中で繰り返した。

一年前から、ずっと考えてた。

信号が青になった。

私は歩き出した。

足元の白線を踏みながら、里親という言葉を、自分がなぜ一度も考えたことがなかったのかを、ぼんやりと思っていた。

続きを読む

仲居さんが障子を閉めて、足音が廊下の奥へ消えていった。

部屋に、私たち二人だけが残った。

テーブルの上に料理が並んでいた。

小鉢が六つ、焼き魚、炊き合わせ、白い飯碗。

どれも丁寧に盛りつけられていて、湯気が細く立ち上っていた。

出汁の匂いが、畳の匂いと混ざって、鼻の奥に届いた。

「いただきます」
向かいに座った夫の哲也が手を合わせた。

哲也は六十四歳で、二年前に定年退職した。

この旅行は、哲也が退職したら二人でどこかへ行こうと、長い間話していたものだった。

温厚で口数が少なく、旅行の計画だけは人一倍丁寧に立てる人だ。

私も手を合わせた。

箸を取って、小鉢の一つを口に運んだ。

蟹の身が入った和え物だった。

冷たくて、甘くて、丁寧な味がした。

おいしかった。

おいしいとわかった。

でも箸が、次へ進むのを少し躊躇った。

哲也は黙って食べていた。

焼き魚をほぐして、飯を一口食べて、また魚に戻る。

いつもの食べ方だった。

私はその手元を見ながら、自分も箸を動かした。

窓の外に川が見えた。

夕暮れの光が水面に伸びて、橙色に揺れていた。

対岸に古い町並みが続いて、軒先に提灯が灯り始めていた。

来たかった景色だった。

何度も写真で見て、いつか哲也と来ようと思っていた景色だった。

「おいしいな」
哲也が言った。

「うん」
私は答えた。

それから、しばらく二人とも黙って食べた。

子どもたちがいたころの食卓は、いつも音があった。

娘の綾香が部活の話をして、息子の大輔が口を挟んで、哲也がたまに笑った。

私は台所と食卓を行き来しながら、全員分の食べ具合を目で追っていた。

誰かが「おかわり」と言えば立ち上がって、誰かが箸を止めれば「どうした、口に合わない?」と聞いた。

綾香は今年三十四歳で、三年前に結婚して横浜にいる。

大輔は三十一歳で、就職してから大阪を離れていない。

二人とも、もう私の食卓には戻ってこない。

今夜は、誰も「おかわり」と言わない。

私は六十二歳になった。

炊き合わせの里芋を箸で割った。

ほろりと崩れて、出汁が染み出した。

食事が終わって、仲居さんが膳を下げにきた。

お茶を二つ置いて、また障子の向こうへ消えた。

哲也が湯呑みを持って、窓の外を見た。

川沿いに灯りが増えていた。

どこかから三味線の音が、かすかに聞こえた。

私は膝の上で両手を重ねた。

「ねえ」
哲也が振り向いた。

「なんか、静かすぎない?」
哲也は少し考えるような間を置いて、「そうか?」と言った。

責めているわけでも、不満があるわけでもない声だった。

ただ、そうか、と。

私は「うん、そうか」と返して、お茶を一口飲んだ。

温かくて、少し苦かった。

川の灯りが、窓の外で揺れ続けていた。

続きを読む

その週の木曜日、私は図書館へ行った。

特に目的があったわけではない。

読みたい本があったわけでもない。

ただ、家にいると静かすぎて、でも誰かと話したいわけでもない、そういう午後だった。

自転車で十分ほどの距離を、落ち葉を踏みながら歩いた。

靴の裏で乾いた葉が潰れる音が、一歩ごとに鳴った。

図書館の自動ドアが開くと、暖かい空気と紙の匂いが一度に来た。

私は受付の横を通り過ぎて、奥の棚のあたりをゆっくり歩いた。

特定の棚を探していたわけではない。

でも気づいたら、社会福祉のコーナーの前に立っていた。

背表紙を一冊ずつ目で追った。

薄い冊子が一冊、棚の端に差してあった。

表紙に「里親制度のてびき」と書いてあった。

行政が作ったような、飾り気のない冊子だった。

私はそれを抜き取って、近くの閲覧席に座った。

借りようとは思わなかった。

ここで読もうと思った。

ページをめくった。

制度の概要、登録の流れ、子どもを迎えるまでの手順。

知っている内容もあった。

先週ネットで読んだことと重なる部分もあった。

でも、紙で読むのは少し違った。

画面より、言葉がゆっくり入ってくる気がした。

里親には、様々な形があると書いてあった。

養育里親、専門里親、養子縁組里親、親族里親。

一口に里親といっても、それぞれ役割も期間も違う。

私はそのページで少し時間をかけた。

制度の輪郭が、少しずつ実体を持ってきた。

閲覧席の窓から、駐車場が見えた。

若いお母さんが、チャイルドシートから子どもを抱き上げていた。

子どもは帽子を被っていて、お母さんの肩に顔を埋めていた。

私はしばらくそれを見ていた。

冊子を棚に戻して、図書館を出た。

来たときより風が強くなっていた。

マフラーを口元まで引き上げて、来た道を戻った。

落ち葉がアスファルトの上を、風に押されて転がっていった。

家に着いて、コートを脱いだ。

台所でお湯を沸かして、お茶を入れた。

湯気が顔にかかって、温かかった。

テーブルに座って、スマホを開いた。

あのアカウントを探した。

里親として小学生の女の子を迎えた、花のアイコンの人。

最後の投稿は三日前だった。

「今日、一緒にお弁当を作った。

卵焼きが不格好で、二人で笑った」と書いてあった。

私はその文章を読んで、もう一度読んだ。

不格好な卵焼きのことを考えた。

笑い声のことを考えた。

翔太が小学生のころ、運動会のお弁当に卵焼きを作った朝のことを、急に思い出した。

早起きして、焦って、端が少し焦げた。

翔太は何も言わずに食べた。

帰ってきたお弁当箱は、空だった。

フォローボタンを押した。

画面が切り替わって、フォロー中になった。

それだけのことだった。

でも、先週止まった指が今日は止まらなかった。

お茶を一口飲んだ。

少し冷めていた。

誠一に話してみようか、とまた思った。

今夜こそ。

夕食のあと、テレビを消して、里親制度という言葉を声に出してみようか。

どんな顔をするだろう。

興味を持つだろうか。

それとも「ふうん」と言ってチャンネルを変えるだろうか。

わからなかった。

でも、話してみたかった。

私はまだ何も決めていない。

里親になりたいと思っているわけでも、何かに申し込もうとしているわけでもない。

ただ、一週間前には知らなかったことを、今は知っている。

それだけのことが、思ったより重かった。

玄関の鍵が開く音がした。

「ただいま」
誠一の声がした。

私は台所から「おかえり」と返した。

自分の声が、いつもより少しだけ、はっきり聞こえた気がした。

続きを読む

週末の夜、翔太から電話がかかってきた。

着信音が鳴ったとき、私は風呂上がりで髪を乾かしていた。

ドライヤーを止めて、タオルを肩にかけたまま画面を見た。

「翔太」という文字が光っていた。

三週間ぶりだった。

「もしもし」
「あ、出た。

元気?」
翔太の声は、少し低くなっていた。

東京に出てからそうなった。

実家にいたころの声より、どこか遠い場所から届くような気がした。

「元気よ。

そっちは?」
「まあまあ。

忙しかったけど、今週ちょっと落ち着いた」
それから三十分ほど、他愛のない話が続いた。

職場の先輩がどうとか、最近よく行く定食屋の話とか、東京は朝晩冷えるようになったとか。

私は相槌を打ちながら、翔太の声の奥にある生活の音を聞いていた。

食器が当たるような音、外を走る車の音。

知らない部屋の、知らない夜の音だった。

「じゃあ、また」
「うん、また電話して」
「はーい」
電話が切れた。

私はドライヤーをテーブルに置いて、ベッドの端に腰を下ろした。

タオルがまだ肩にかかっていた。

泣かなかった。

以前は違った。

翔太と電話をするたびに、切ったあとで決まって目が熱くなった。

声が聞けたうれしさと、遠さの寂しさが一度に来て、うまく処理できなかった。

でも今夜は、ただ静かだった。

泣けなかったのではなく、泣く必要がなかった。

何が変わったのだろう、と思った。

ふと、今週読んだ体験談の一節が頭に浮かんだ。

里親家庭で育った子どもが、大人になってから書いた文章だった。

「あの家を出るとき、また帰りたいと思った。

帰れる場所があると思った。

それだけで、ずいぶん遠くまで行けた」という一文だった。

私は翔太に「また電話して」と言った。

翔太は「はーい」と言った。

そのやりとりが、今夜初めて違う形に見えた。

帰れる場所を確かめる声だったのかもしれない、と思った。

翔太にとっても、私にとっても。

タオルを手に取って、髪の毛をもう一度拭いた。

誠一はもう寝室にいた。

リビングの電気だけがついていた。

私はソファに座って、スマホを開いた。

今週読んだページをもう一度探した。

あの一文が、もう一度読みたかった。

見つけて、読んだ。

二回読んだ。

それから画面を閉じて、天井を見た。

エアコンが静かに動いていた。

風が顔にかかった。

翔太を育てた二十四年間が、今夜初めて「社会とつながっている何か」として見えた気がした。

うまく言葉にできない。

でも、そういう感触だった。

里親という制度があることを、私はなぜ今まで知らなかったのだろう。

知らなかったのではなく、知ろうとしていなかったのだと思った。

自分の子育てで手一杯で、それ以外の子どものことを考える隙間が、どこにもなかった。

それは仕方のないことだったかもしれない。

でも今は、その隙間が目の前にある。

翔太の「はーい」という声が、まだ耳に残っていた。

私はスマホをテーブルに置いて、リビングの電気を消した。

暗くなった部屋の中で、窓の外の街灯だけが白く光っていた。

どこかの家の窓にも、明かりがついていた。

あの明かりの下に、今夜どんな人が座っているのだろう、とぼんやり思った。

続きを読む

翌朝、誠一を送り出してから、私はいつものように洗い物をした。

それから洗濯機を回して、濡れた衣類をベランダに干した。

一枚ずつ伸ばして、シワを伸ばして、ピンチで留める。

その間ずっと、昨日のあの投稿の言葉が頭の中に残っていた。

「今日、初めて『おかえり』って言ってもらえた」
台所に戻って、テーブルの前に座った。

スマホを手に取って、検索画面を開いた。

少し迷ってから、「里親制度」と打ち込んだ。

最初に出てきたのは行政のページだった。

文字が小さく、図表が多く、読み進めるうちに目が滑った。

次に開いたNPOのサイトは、写真が多くて読みやすかった。

里親にはいくつかの種類があること、養子縁組とは違うこと、子どもが家庭に戻ることを前提としているケースが多いこと。

私はそれを、メモも取らずにただ読んだ。

知らないことばかりだった。

施設で暮らしている子どもが、今この国に約四万人いるという数字が出てきた。

私は一度画面から目を離して、窓の外を見た。

近所の公園で、小学生が二人、鉄棒で遊んでいた。

四万という数字が、うまく実感できなかった。

読み続けた。

里親登録をしている家庭の数が足りていないこと。

登録しても実際に子どもを迎えるまでに時間がかかること。

子どもが里親家庭に慣れるまでの難しさを、経験者が率直に書いているブログを見つけた。

うまくいかない日のことも、包み隠さず書いてあった。

私はそのページをゆっくり読んだ。

きれいな話ではなかった。

でも、だからこそ途中でやめられなかった。

気づいたら、二時間が過ぎていた。

台所の窓から入る日差しが、テーブルの端まで伸びていた。

お腹が空いているのに、立ち上がるのが惜しかった。

昼過ぎに誠一から「今夜は少し遅くなる」とメッセージが来た。

私は「わかった」と返した。

それからまたスマホの画面に戻った。

今度は体験談を読んでいた。

里親として子どもを迎えた四十代の夫婦の話。

最初の一週間、子どもが一言も喋らなかったこと。

ある朝、黙ったまま隣に座ってきたこと。

その重さが、嬉しかったと書いてあった。

私は画面を閉じて、冷蔵庫を開けた。

昨日の残りのご飯で、簡単に昼食を済ませた。

食べながら、さっき読んだ夫婦のことを考えていた。

夕方、誠一が帰ってきた。

「今日何してた?」
コートを脱ぎながら、誠一が聞いた。

いつもの、特に答えを求めていない声だった。

「特に何も」
私は答えた。

嘘をついたわけではない。

家事をして、座っていただけだ。

でも、その「何も」の中に、今日読んだすべてが入っていた。

里親制度のこと、四万人という数字のこと、隣に座ってきた子どものこと。

それを誠一に話す言葉が、まだ自分の中に見つからなかった。

夕食の支度をしながら、玉ねぎを切った。

目が滲んだ。

玉ねぎのせいだった。

それだけのことなのに、私はしばらく包丁を止めて、換気扇の音を聞いていた。

続きを読む