「清子さんに、ありがとうって言えなかった」 気がついたら、声に出していた
遺品整理を終えて駅に向かう途中、あかねから電話がかかってきた。
四十歳で、同じ会社の総務部に勤めている岩本あかねは、私が里親家庭で育ったことを知っている唯一の友人だ。
話したのは三年前、会社の飲み会の帰り道だった。
酔っていたわけでもなかった。
ただ、そのとき急に、誰かに話したくなった。
あかねは驚いた顔をしたが、何も言わなかった。
「そうだったんだね」とだけ言って、それ以上聞かなかった。
それが、私には楽だった。
「どうだった?」とあかねは聞いた。
「うまく説明できない」と私は答えた。
「無理に説明しなくていいよ」
それだけだった。
電話は三分も続かなかった。
でも、切ったあとに少し、息ができた気がした。
家に帰ったのは夜の八時過ぎだった。
健一は夕食を作って待っていた。
テーブルに並んだ料理を見たとき、ふいに涙が出そうになった。
泣かなかった。
でも、出そうになった。
それが遺品整理を終えて、初めての感情らしい感情だった。
食事をしながら、私はしばらく黙っていた。
健一も何も聞かなかった。
食器を片付けたあと、私はソファに座って、持ち帰った段ボール箱をもう一度開いた。
アルバムを一冊取り出して、最初のページを開いた。
遠足の写真。
笑っている私と、隣に立つ清子さん。
「清子さんに、ありがとうって言えなかった」
気がついたら、声に出していた。
健一に向けた言葉ではなかった。
ただ、声に出さずにいられなかった。
健一は黙って、私の隣に座った。
何も言わなかった。
それでよかった。
言葉をもらっても、たぶん受け取れなかった。
ただ隣にいてくれることが、そのときの私にはちょうどよかった。
里親として清子さんが私にしてくれたことは、数えればきりがない。
食事を作ること、学校の行事に来ること、体調を崩したときに看ること。
でも私が今、思い出すのはそういうことではなかった。
廊下ですれ違ったときの気配とか、テレビを見ながら笑っていた横顔とか、雨の日に傘を二本持って校門の前に立っていた姿とか。
言葉にならない、小さなことばかりだった。
「ありがとう」は、相手に届けるためだけにある言葉じゃないのかもしれない、と私は思った。
届けられなかった「ありがとう」は、消えたわけではない。
私の中のどこかに、ずっとあったのだと思う。
うまく取り出せないまま、形にならないまま、でも確かにそこにあった。
清子さんはもういない。
でも、その「ありがとう」は今も私の中にある。
それは本物だと思う。
届かなくても、本物だったと思う。
アルバムをもう一度閉じた。
健一が「お茶、飲む?」と聞いた。
私は「うん」と答えた。
台所でお湯を沸かす音がした。
それを聞きながら、私は段ボール箱の中に「さやかのこと」という文字を見つけた日のことを思った。
あの文字を書いたとき、清子さんは何を思っていたのだろう。
わからない。
たぶん、これからもわからない。
でも、わからないままでいい、と初めて思えた気がした。
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