里親として私を育ててくれた吉田幸子さんは、現在七十歳だ。
営業先から会社に戻ったのは、夕方の五時過ぎだった。
私は木村誠司、三十五歳。
中堅メーカーの営業職をもう十年続けている。
特別好きな仕事ではないが、不満もない。
毎日それなりにこなして、それなりに帰る。
そういう日々だった。
デスクに鞄を置いて、報告書を開いたとき、隣の席の松田恵子が振り返った。
三十三歳で、同じ営業部に勤めている。
悪い人ではないが、思ったことをすぐ口に出すタイプだ。
「木村さん、今日お母さん来てたよ」
「え」
「お昼ごろ、受付に。木村誠司の母です、って。でもすぐ帰っちゃったみたいで。木村さんに連絡しようとしたんだけど、外回り中だったし」
「人違いじゃないですか」
「そうかなあ。
背格好、似てると思ったんだけど」
愛想笑いを返して、話を流した。
受付に確認すると、来客記録には残っていなかった。
誰かが来たのは事実らしいが、名前も連絡先も不明だった。
私は自席に戻って、少し考えた。
里親として私を育ててくれた吉田幸子さんは、現在七十歳だ。
今も月に一度くらい連絡を取り合っている。
幸子さんが突然会社に来るとは考えにくいが、念のため電話をかけた。
「行ってないわよ。どうかしたの?」
「いえ、何でもないです」
電話を切った。
では誰だったのか。
考えたくない方向に、思考が動いた。
実母かもしれない、という考えだった。
私の実母は、私が六歳のとき蒸発した。
今どこにいるのか、生きているのかさえ知らない。
会いたいと思ったことは、ほとんどない。
少なくとも、そう思ってきた。
松田が「似てる」と言った。
血のつながらない幸子さんには、私は似ていない。
幸子さん本人も笑いながらそう言っていた。
では自分は誰に似ているのか。
鏡で自分の顔を見るとき、私はいつもその問いを素通りしてきた。
目の形、鼻の高さ、口元の癖。
どこから来たのか、わからない顔。
松田は悪意があって言ったわけではない。
ただの世間話だった。
でも「似てる」という言葉が、夕方の静かなオフィスの中で、じわりと引っかかったまま消えなかった。
帰り支度をしながら、私は窓の外を見た。
もし本当に実母だったとしたら、何のために来たのか。
会いたかったのか。
それとも、ただ顔を見たかっただけなのか。
そして私は、会いたかったのか。
わからなかった。
わからないまま、鞄を持って席を立った。
松田が「お疲れ様です」と言った。
私も「お疲れ様です」と返した。
いつもと同じ言葉だった。
でも駅に向かう道を歩きながら、私はずっと、自分の顔のことを考えていた。
誰かに似ているとはどういうことか。
三十五年間、ちゃんと考えたことがなかった問いが、今日に限って頭から離れなかった。
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