恵子から「うちに来ない?」とメッセージが届いたのは、木曜日の昼だった。
「健太もいるけど、気にしないで。お茶でも飲もう」
私は少し迷った。
里親として迎えた子どもがいる家に、突然お邪魔していいのかわからなかった。
でも恵子が誘うなら大丈夫だろうと思って、「行くよ」と返した。
駅からバスで二十分ほどの、静かな住宅街だった。
恵子の家は以前にも何度か来たことがあった。
門の前に立つと、中から子どもが走り回るような音がした。
それから急に静かになった。
インターホンを押すと、恵子が出てきた。
「来て来て、寒かったでしょ」
玄関に入ると、靴が三足並んでいた。
大人の靴が二つと、小さな運動靴が一つ。
泥が少しついた、くたびれた運動靴だった。
私はそれを見て、目を逸らした。
台所からバターの匂いがした。
「さっきクッキー焼いたんだよ。健太が手伝ってくれて」
恵子がそう言いながら、奥へ案内した。
リビングに入ると、子どもの姿はなかった。
廊下の奥に、ドアが一つ閉まっていた。
「健太、来てるよ。洋子おばさんだよ、昔からの友達」
恵子が廊下に向かって声をかけた。
返事はなかった。
私たちはテーブルに向かい合って座った。
恵子がお茶を淹れて、クッキーを皿に並べた。
いびつな形のクッキーが、六枚あった。
端が少し焦げているものも混じっていた。
「健太が型を押したんだけど、力加減がわからなくて」
恵子が笑った。
私はクッキーを一枚手に取った。
ざくっとした食感で、バターの味がした。
おいしかった。
端の焦げた部分が、かえって香ばしかった。
しばらくして、廊下のドアが少し開いた。
隙間から、目だけが見えた。
黒くて、丸い目だった。
私はそちらを見ないようにしながら、恵子と話し続けた。
気づいていないふりをした。
しばらくして、ドアが少し広く開いた。
小さな男の子が、ドアの縁に手をかけて立っていた。
Tシャツにズボン、靴下が片方だけ脱げかかっていた。
髪が少し寝癖のままだった。
恵子が「おいで」と言った。
健太はゆっくりリビングへ入ってきて、恵子の隣に座った。
私から一番遠い椅子だった。
「こんにちは」
私は言った。
健太は小さく頷いた。
声は出なかった。
恵子がクッキーの皿を健太の前に寄せた。
健太は一枚取って、黙って食べた。
私も自分のお茶を飲んだ。
三人で、しばらく黙っていた。
沈黙が、思ったより重くなかった。
「おばさん、子どもいるの?」
突然、健太が言った。
テーブルの端を見たまま、私に向かって言っていた。
「いるよ。二人。もう大人だけど」
「ふうん」
健太はまたクッキーに手を伸ばした。
それだけだった。
それだけだったのに、帰り道ずっと、その「ふうん」が頭から離れなかった。
バスの窓に額を当てた。
外の景色が流れていった。
田んぼ、住宅、コンビニ、また田んぼ。
健太の黒くて丸い目を思い出した。
ドアの隙間から、こちらを見ていた目。
警戒しているようで、でも気になっている目。
もう大人だけど、と私は答えた。
その言葉が、今になって引っかかった。
二人いるよ、もう大人だけど。
まるで終わった話をするように言った。
子育ては終わった、だから今は何もない。
そういう意味に聞こえた気がした。
でも健太の「ふうん」は、そこで終わらない何かを持っていた。
バスが停留所に着いた。
私は立ち上がって、ドアから降りた。
夕方の風が顔に当たった。
冷たくて、頬が一瞬強張った。
恵子の台所に並んでいた、いびつなクッキーのことを考えた。
端が焦げていて、形がばらばらで、でも全部皿の上にあった。
一枚も捨てられていなかった。
私は歩き出した。
自分の子育ての経験が、誰かの役に立てるかもしれないという感覚が、初めてぼんやりと形を持った午後だった。
コメント
言の葉を届けるには入隊するか里に入る必要があります。