仲居さんが障子を閉めて、足音が廊下の奥へ消えていった。
部屋に、私たち二人だけが残った。
テーブルの上に料理が並んでいた。
小鉢が六つ、焼き魚、炊き合わせ、白い飯碗。
どれも丁寧に盛りつけられていて、湯気が細く立ち上っていた。
出汁の匂いが、畳の匂いと混ざって、鼻の奥に届いた。
「いただきます」
向かいに座った夫の哲也が手を合わせた。
哲也は六十四歳で、二年前に定年退職した。
この旅行は、哲也が退職したら二人でどこかへ行こうと、長い間話していたものだった。
温厚で口数が少なく、旅行の計画だけは人一倍丁寧に立てる人だ。
私も手を合わせた。
箸を取って、小鉢の一つを口に運んだ。
蟹の身が入った和え物だった。
冷たくて、甘くて、丁寧な味がした。
おいしかった。
おいしいとわかった。
でも箸が、次へ進むのを少し躊躇った。
哲也は黙って食べていた。
焼き魚をほぐして、飯を一口食べて、また魚に戻る。
いつもの食べ方だった。
私はその手元を見ながら、自分も箸を動かした。
窓の外に川が見えた。
夕暮れの光が水面に伸びて、橙色に揺れていた。
対岸に古い町並みが続いて、軒先に提灯が灯り始めていた。
来たかった景色だった。
何度も写真で見て、いつか哲也と来ようと思っていた景色だった。
「おいしいな」
哲也が言った。
「うん」
私は答えた。
それから、しばらく二人とも黙って食べた。
子どもたちがいたころの食卓は、いつも音があった。
娘の綾香が部活の話をして、息子の大輔が口を挟んで、哲也がたまに笑った。
私は台所と食卓を行き来しながら、全員分の食べ具合を目で追っていた。
誰かが「おかわり」と言えば立ち上がって、誰かが箸を止めれば「どうした、口に合わない?」と聞いた。
綾香は今年三十四歳で、三年前に結婚して横浜にいる。
大輔は三十一歳で、就職してから大阪を離れていない。
二人とも、もう私の食卓には戻ってこない。
今夜は、誰も「おかわり」と言わない。
私は六十二歳になった。
炊き合わせの里芋を箸で割った。
ほろりと崩れて、出汁が染み出した。
食事が終わって、仲居さんが膳を下げにきた。
お茶を二つ置いて、また障子の向こうへ消えた。
哲也が湯呑みを持って、窓の外を見た。
川沿いに灯りが増えていた。
どこかから三味線の音が、かすかに聞こえた。
私は膝の上で両手を重ねた。
「ねえ」
哲也が振り向いた。
「なんか、静かすぎない?」
哲也は少し考えるような間を置いて、「そうか?」と言った。
責めているわけでも、不満があるわけでもない声だった。
ただ、そうか、と。
私は「うん、そうか」と返して、お茶を一口飲んだ。
温かくて、少し苦かった。
川の灯りが、窓の外で揺れ続けていた。
コメント
言の葉を届けるには入隊するか里に入る必要があります。