その週の木曜日、私は図書館へ行った。
特に目的があったわけではない。
読みたい本があったわけでもない。
ただ、家にいると静かすぎて、でも誰かと話したいわけでもない、そういう午後だった。
自転車で十分ほどの距離を、落ち葉を踏みながら歩いた。
靴の裏で乾いた葉が潰れる音が、一歩ごとに鳴った。
図書館の自動ドアが開くと、暖かい空気と紙の匂いが一度に来た。
私は受付の横を通り過ぎて、奥の棚のあたりをゆっくり歩いた。
特定の棚を探していたわけではない。
でも気づいたら、社会福祉のコーナーの前に立っていた。
背表紙を一冊ずつ目で追った。
薄い冊子が一冊、棚の端に差してあった。
表紙に「里親制度のてびき」と書いてあった。
行政が作ったような、飾り気のない冊子だった。
私はそれを抜き取って、近くの閲覧席に座った。
借りようとは思わなかった。
ここで読もうと思った。
ページをめくった。
制度の概要、登録の流れ、子どもを迎えるまでの手順。
知っている内容もあった。
先週ネットで読んだことと重なる部分もあった。
でも、紙で読むのは少し違った。
画面より、言葉がゆっくり入ってくる気がした。
里親には、様々な形があると書いてあった。
養育里親、専門里親、養子縁組里親、親族里親。
一口に里親といっても、それぞれ役割も期間も違う。
私はそのページで少し時間をかけた。
制度の輪郭が、少しずつ実体を持ってきた。
閲覧席の窓から、駐車場が見えた。
若いお母さんが、チャイルドシートから子どもを抱き上げていた。
子どもは帽子を被っていて、お母さんの肩に顔を埋めていた。
私はしばらくそれを見ていた。
冊子を棚に戻して、図書館を出た。
来たときより風が強くなっていた。
マフラーを口元まで引き上げて、来た道を戻った。
落ち葉がアスファルトの上を、風に押されて転がっていった。
家に着いて、コートを脱いだ。
台所でお湯を沸かして、お茶を入れた。
湯気が顔にかかって、温かかった。
テーブルに座って、スマホを開いた。
あのアカウントを探した。
里親として小学生の女の子を迎えた、花のアイコンの人。
最後の投稿は三日前だった。
「今日、一緒にお弁当を作った。
卵焼きが不格好で、二人で笑った」と書いてあった。
私はその文章を読んで、もう一度読んだ。
不格好な卵焼きのことを考えた。
笑い声のことを考えた。
翔太が小学生のころ、運動会のお弁当に卵焼きを作った朝のことを、急に思い出した。
早起きして、焦って、端が少し焦げた。
翔太は何も言わずに食べた。
帰ってきたお弁当箱は、空だった。
フォローボタンを押した。
画面が切り替わって、フォロー中になった。
それだけのことだった。
でも、先週止まった指が今日は止まらなかった。
お茶を一口飲んだ。
少し冷めていた。
誠一に話してみようか、とまた思った。
今夜こそ。
夕食のあと、テレビを消して、里親制度という言葉を声に出してみようか。
どんな顔をするだろう。
興味を持つだろうか。
それとも「ふうん」と言ってチャンネルを変えるだろうか。
わからなかった。
でも、話してみたかった。
私はまだ何も決めていない。
里親になりたいと思っているわけでも、何かに申し込もうとしているわけでもない。
ただ、一週間前には知らなかったことを、今は知っている。
それだけのことが、思ったより重かった。
玄関の鍵が開く音がした。
「ただいま」
誠一の声がした。
私は台所から「おかえり」と返した。
自分の声が、いつもより少しだけ、はっきり聞こえた気がした。
コメント
言の葉を届けるには入隊するか里に入る必要があります。