うつ病の母親から里親委託へ1 起きられないなら起きなくていい、という気遣いが、その距離にあった。 八歳の気遣いだった。

任務報告

五月の朝、目が覚めたとき、体が軽かった。

軽い、というのは、正確ではないかもしれない。
ただ、重くなかった。
重くない朝が、私には「いい日」だった。
布団から出られる。
台所に立てる。
朝陽の顔を見られる。
それだけのことが、できる朝だった。

カーテンを開けた。

光が入った。
五月の光は、柔らかかった。
眩しすぎなかった。
「だめな日」の光は眩しすぎる。
同じ光なのに、体の状態によって違って届く。
今日の光は、ちょうどよかった。
それだけで、今日がいい日だとわかった。

台所に立って、朝食を作った。

卵を二個、割った。
フライパンに落とした。
白身が広がった。
黄身が、真ん中に収まった。
塩を少し振った。
パチパチと、油が跳ねた。
その音が、今朝は心地よかった。
「だめな日」はこの音が怖い。
音が、体に刺さる。
今日は刺さらなかった。

朝陽を起こした。

「朝陽、ご飯だよ」と言った。
朝陽が「んー」と言った。
しばらくして、起き上がった。
台所に来た。
目玉焼きを見て、「いい匂い」と言った。
椅子に座った。

二人で食べた。

朝陽が学校のことを話した。
昨日の体育で、ドッジボールをしたこと。
当たらなかったこと。
でも一回だけ、ボールを取れたこと。
私はそれを聞きながら、頷いた。
声が届いた。
朝陽の声が、今朝は届いた。

「行ってきます」と朝陽が言った。

「行ってらっしゃい」と私は言った。

ドアが閉まった。
私は一人になった。
今日はいい日だ、と思った。
このまま続けばいい、と思った。
続くかどうかは、わからなかった。

午後、仕事をした。

データ入力の仕事だった。
画面を見て、数字を打った。
集中できた。
「いい日」は集中できる。
「だめな日」は画面の文字が、意味を持たない記号に見える。
今日は意味があった。
数字が数字として見えた。

三時間、働いた。

疲れた。
でも働いた疲れだった。
「だめな日」の疲れとは、種類が違った。
働いた疲れは、少し気持ちよかった。

夕方、四時を過ぎたころだった。

急に、重くなった。

予告はなかった。
いつもそうだった。
「だめな日」は予告なく来る。
さっきまで軽かった体が、急に鉛になった。
画面の文字が、滲んだ。
椅子から立てなくなった。

布団に入った。

カーテンを閉めた。
部屋が暗くなった。
天井を見た。
白い天井が、遠かった。
体が沈んでいく感覚があった。
沈んでいく、というより、溶けていく感覚だった。

朝陽が帰ってくる時間が、頭にあった。

五時半。
もうすぐだった。
夕飯を作らなければならなかった。
でも動けなかった。
動けないことへの罪悪感が来た。
罪悪感が来ると、もっと動けなくなった。
そのことを、主治医に話したことがあった。
主治医が「罪悪感は症状の一つです」と言った。
症状だとわかっていても、罪悪感は来た。

玄関のドアが開く音がした。

「ただいま」と朝陽が言った。
「お母さん?」と言った。

「大丈夫」と私は言った。
布団の中から言った。
声が、かすれた。

朝陽が台所に行く音がした。

引き出しを開ける音がした。
冷蔵庫を開ける音がした。
何かを切る音がした。
包丁の音だった。
フライパンが火にかかる音がした。
油が温まる音がした。

私は布団の中で、その音を聞いていた。

朝陽が台所で、夕飯を作っていた。
八歳が、包丁を使っていた。
どこで覚えたのか、わからなかった。
いつから作れるようになったのか、正確にわからなかった。
気づいたら、そうなっていた。
気づかなかった自分が、布団の中で、重かった。

「ご飯できたよ」と朝陽が言った。

廊下から言った。
部屋のドアを開けずに言った。
起きられないなら起きなくていい、という気遣いが、その距離にあった。
八歳の気遣いだった。

嬉しかった。
悲しかった。
申し訳なかった。
全部が同時に来た。

どれが本当かは、わからなかった。
全部、本当だった。

言の葉( コメント )を届ける